2025年10月13日月曜日

プログレスの新月2025/10/03

新しい30年のはじまりの朝
2025/10/03


2025/10/02(木)

今日という日は単なる10月の始まりのとある平日ではなくて、私にとっては約30年周期のプログレスの月と呼ばれる、30年かけて個人の大きな流れのサイクルを終わらせる、そんなタイミングの日だった。



2025/10/03(金)


書きたいことはいくつかあって、なんならタイトルだけはもう決まっていてあとは書けばいいというものをもう何ヶ月も持ち越していて、そうしたらすっかり暦の上では秋になってしまった。



2025/10/05(日)


“決めたとか選んだとかじゃない

自然に残った生き方

真実しか残らない”


某YouTubeから流れてきた音声



2025/10/13(月・祝)


行きの道で555のナンバープレートの車を見た。


今見ても「ブログ書こう!」なんていう決心にはならず、今普通にこうして書いてはいるけれど、例えば2017年に戻ってあの時に夕方だけど夜と呼んでもいい暗さの中で見た555ナンバーの車を見た時みたいに「ブログ書かなきゃ」と奮起するのだろうかと思うとよくわからない。


年に何回か見かけるけれど、あの時が最初で最後だったと思う、あんなにも思い詰めたように「ブログ書かなきゃ」なんて思ったのは。







行き先はガストだった。


友達Sさんにゲイの友人ノムの初めての本を届けるために、1週間ほど前に3連休都合がつくならどこかで会いたいと連絡したら、土日は長野に登山に行くから月曜日が良いと言われた。


登山後の日に休まなくて大丈夫かと聞いて別の週でも良いと伝えたけれど、月曜日で良いとのこと。


本を届けることは言わずに時間を気にせずおしゃべりできるガストにしようと私から提案してガストになった。


ノムの本はざっくり説明すると、ごく最近ノムはとある個人書店で個展を開催していた。


会期の折り返し地点の時に連絡が来て急遽電話することになって、そこで紆余曲折あったけれど今回自費で本を作ったと教えてもらった。


私は話を聞いてノムに本を買いたいと言ったらぶっしーには献本したいから近いうちに送るねと言ってもらえたけれど、本ができるまでの過程を聞いたらそして記念すべき初めての本なわけでこれは買いたい、でも2冊も要らないからどうしたものかと思って咄嗟に思いついたのがノムの絵や文章を私が撮った写真越しに見たことのある友達Sさんが思い浮かんで、そうだ、Sさんならこれプレゼントしたのなら喜んで受け取ってくれるだけじゃなく大事に末長く手元で愛でてくれるだろうと思って、それでノムに1冊は買うから2冊送って欲しいとお願いした。


さらには個展で買ってくれた人たちにはそこにカード使ってメッセージを書き下ろしていると聞いたから私とSさんの分もお願いして、それをまだまだ個展は後半戦があるのにノムはその

個展の合間にそれらをして私に送ってくれた。


その本を持ってガストに行った。


Sさんは本当に泣きながら喜んでくれてとても嬉しかったけれど(まだノムに報告していないけれど、先にブログを今の書けるうちに書かないとまた書かないだろうことが想像できるから先にこれを書いてる)、Sさんの話を聞いたら驚くべきタイミングでその本を渡すことになったと知った。


少し前、それこそ今月に入ってからの話。


Sさんは映画を一緒に見る異性の同士みたいな、恋仲とかは一切なくて、お互いに結婚とかそんなのは絶対になく、とにかく年に何回か映画を相手Aさんとしよう、Aさんの自宅で見るというそういう不思議な間柄の相手がいた。


とあるオフィシャルな飲み会の時に席が隣りだったかになって映画の話で盛り上がり、その時に盛り上がった映画がなんと『かもめ食堂』で、私も初めてその話を聞いた時は超食い気味に喰らい付いた。


男子とかもめ食堂の話で盛り上がれるって何!?、そんなピンポイントでその映画の良さを共有できるってどんな男子ですか?と超羨ましくもあり、そもそも映画を見る習慣のない私が(年間ゼロと言ってもいいくらい見ない)数少ない見たことのある映画でなんだかすごく良かったと記憶に残るその映画、そんな映画の感想で盛り上がれるなんて超素敵!と絶賛と嫉妬が少し混ざったみたいな感じで興奮しながら感想を言ったこともよく覚えている。


かもめ食堂の人なんだけど…、とSさんが今回切り出した時に私は「何か進展あった!?」と良い報告なのかと勝手に超一瞬だけ盛り上がったけれど、次の言葉は「つい最近亡くなった」だった。


頭の中は全く何も追いついていかなかった。


少しばかり年上だとは聞いていたけれど改めて聞くと50代前半だった。


しかもしっかりと何歳と知っているわけじゃないから「多分52歳かな?うちらより5個年上だと思うから」と後からいくつか質問して聞いてまだまだ若いと知った。


突然の死で自死だった。


共通の知人が連絡をくれて知って、そして葬儀の前に顔を出せる機会を得て最後会ってきたとあったことをひとつひとつかいつまんで教えてくれた。


私が連絡したのは、2人でLINEのやりとりの日付を見て、それがAさんに最後会いに行ってきたその日の直後だったと知った。


Sさんは登山も決まっていたけれど、そして普段なら普通に次の週に変えて欲しいと言ったと思うけれど、今回はこうしたすったもんだがあってそのタイミングで私から連絡が来て「日にちをずらすんじゃなくて今回なんだ」と思ったとそれで今日になったことを教えてもらった。


普段から会う時直前にしか連絡しないから年に1回ないし2回程度しかお互いに連絡を取り合わない、それも互いに誕生日が3月だから通年なら春先、それが何もない10月なわけでSさんも何か違うけれどこれはすぐに会うのが良いと思ったと、まさかそんなタイミングで連絡していたとはゆめゆめ思わなかった。


さらに驚いたことに、その葬儀場というのが昔むかし、私が小学校2年生の時まで住んでいた町にあるものでそこは私の登校班の集合場所だった。


亡くなったAさんはその近くにお住まいとのことで、そんなまさかのことまで今回判明して本当に驚いた。


SさんがAさんの訃報を聞いて色んなことが走馬灯のように出てきてその中で最初に出てきたシーンがとある映画を見た時の風景だった。


映画のタイトルはわからないけれど、映画の中で付き合っている2人のうちの彼女の方がなかなか波乱万丈な人生だったようでそれで彼氏の方がそれに対して大変だったねだったか辛かったねだったかまぁそのような類いの言葉をかけると彼女は「そんな人生だけど、私嫌いんじゃないんだよね」みたいなセリフを言ったらしい。


けっこうウルっとくる場面ではあったらしいけれど、そのシーンでAさんは号泣していたらしい。


そのシーンがすごく印象的でそれが最初に出てきたAさんとの思い出だったと教えてくれた。







ずっと書こうとしていたブログのタイトルは、『もどかしい、あきらめ、それから』だった。


こちらは本当はここで書きたかったけれど、この通り書いていない。


ざっくりと概要を言うと、もどかしいは単純にブログを見てくれていると確信している、それも毎日毎日確信している、なのに連絡は一切来ない、その状態がもどかしい、もどかしくてもどかしくてどうしようもない、それだった。


あきらめは、もう連絡なんてこない、本当に連絡を取りたければこの何年もの時間の中で来てるでしょ、来ないのは連絡しませんの意思表示の何ものでもないでしょというあきらめの気持ち。


もどかしいとあきらめとあきらめたくないとそれらが常に日々変動しながらここまできた。


「それから」というのは私の着地点はわからないけれど、それ以外の気持ちの着地点が見つかるだろうというか何かしら気持ちの落とし所が出てくるんじゃないかという自分の中の期待みたいなもの。


それが何かなんてわからないけれど、何かしらは出てくるという想像と期待。


それらをもっと丁寧に書きたかったけれど、ここ数ヶ月本当に書くのが面倒に感じたり(5年日記も数ヶ月休止している)、いつ書けるかもわからない、反応がないとわかって書くことに対して前みたいにがむしゃらに書けていた時のような熱量はなくてそうなると行動はなかなか形になってくれない、これだけとりあえず書けばわかる人にはわかると信じて書いている。


順番がめちゃくちゃだけど、この8年特にこの数ヶ月は何度も自分の中で思った、いつ死ぬのかもわからない、絶対に生きて会えるという保証がないのに連絡を取らないっていうのは連絡を取る価値を感じてもらえないからだと。


年齢相応の不調はあっても病気とかはなくて、でもいつまで生き長らえるかなんて自分でもわからないわけで、絶対に死なないなんていうことは誰にもなくて、自分も相手もいつかはこの世から去るのが決まっていて、もちろんそんなこと普段感じることはなくても無意識に生を意識することは日々あって、生きてなきゃ会えないというのは耳にタコがたくさんできるくらいに念仏のように唱えているけれど、その反対に会えなくても困らないとか寂しくないとかとにかくそうした感情であればそりゃ面倒でしかない私への連絡などするわけがないと思っている。


今回Aさんの死を聞いて、今ならまだ会えるのになと思った。


これから100歳まで生きるかもしれない。


それはわからない。


だけどあと少し、それも数ヶ月とか数週間とかいう時間かもしれない。


それは私だけじゃなくて相手も同じ。


死に対して誰しもがコントロール不能の結末に対して自分で時期は基本的に選べない。


この人とはどうしても会っておかなきゃと思えば会う。


でもそうでなければ会わない選択肢はしごく自然なこと。


Aさんの死を聞いて、私の人生で望んでいることはどうなのかとまたいつもの自問自答を始めた。


いつもの自問自答だけれど少し違うのはまさかの死を聞くことになって、普段は遠いところにある死というものが今日はリアルな感じにパワーアップして、そうした究極の状態を想像した時に私は選ばれていない、連絡したいと選ばれていない人なんだという現実。


やるせなさがあるけれど、現実は現実。







さてはて、プログレスの新月を迎えてその前から超意識しまくったことが1つある。


これまでの30年の中で完了したもの、終わった関係、色々あるけれども、今もってブログを見ている=この節目を越えても繋がれている何かがあることの至福感というのか感無量感というかそのようなものが私の中にあった。


これは相手の気持ちや考えなどガン無視で私の見えている私側の風景を言語化すると、節目を越えて繋がっているというのは稀有なことで奇跡だなと。


想像するに私に連絡するというのはバンジージャンプを100回やる方がまだやれるかもしれないくらいにハードルが高く空なんか突き抜けちゃうくらいのことなのかもしれない。


私が相手と同じ行為をした側ならいくら連絡を取りたくても取る勇気がない。


それは想像できる。


でも1つ言えることは、私は何今さら連絡してくんの?みたいな否定的なことを言うなんてないしそれを思うこともない。


連絡をくれるなら一言ありがとうだと思う。


その部分だけは私はとっても寛容で人間できてると思う(←自分で言っていてもちろん痛々しい)。


とにかくいつ死ぬのかもお互いわからないんだから、連絡する意志があるのならどうか孤高のバンジージャンプを飛んでくださいと思ってる。


幸いにして物理的に離れているから突撃されることも襲われることもないから大丈夫だし、危ないと身や心の危険を感じたら私をブロックすればいい。


どうやってこれを終わらせようかと思いつつもはやそんなこと考えても妙案などないからこのままアップすると思う。


どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m


そうだ、YouTubeの言葉「決めたとか選んだとかじゃない、自然に残った生き方、真実しか残らない」、これは私が超良い風に解釈した心情と同じだなと、それで印象に残ってメモしたもの。

2025年7月29日火曜日

フランス語独学事前準備

フランス語独学用に買ったノート、最初の2冊
左がメモ書き用、右が単語帳用

単語帳の中身はこんな風
上にページ番号があって良さそう

ページ番号を使って目次を付けられる!
楽しそう♪と想像はいくらでも膨らんだ

フランス語の本やノートを見るためにわざわざ新潟市の駅近ビルまで行った
真っ青な空の晴天の日
2025/07/20

入道雲が出ていた

帰り道の夕日
を撮るためにコンビニに寄った

入道雲も夕日に染まった


独学で始めるフランス語の諸々のよもやま話。

独学しようと決めてからまずは日本人のフランス語学習者の方々のブログやサイトをいくつか読んでみた。


本気の1人スタートだから何から始めたらいいのかわからず、まずは手当たり次第ヒットしたブログやサイトを読んで、準備するものや参考書、辞書の情報を調べた。


色んなレベルの人がそれぞれのやり方で進めていて、読んでいて色々面白かった。


これは英語やスペイン語の時にはしなかったことでそれさえも新鮮だった。


英語やスペイン語の時は待ったなしで速攻でやらないといけなかったから、やり方とか調べてる時間もなく英語は自分がわからないところまでレベルをとことん下げて自分のやり方を編み出してやっていたし、スペイン語は先生から渡されたテキストをひたすら予習と復習の繰り返しで何が何だかわからないまま進めていた。


だからやり方が合う合わないなんてのは今もってわからないし、英語について言えば今みたいにインターネットが普及してるわけでもない当時(ポケベルが当時の高校生の最新連絡手段)本当に自分のわからないを掘り下げて自分が「わかる」となることを目指したに過ぎず、なんなら最初は英語の何がわからないのかもわからないまま始めたから今となればよくぞそのやり方を編み出したなと思う。







ジュンク堂と紀伊國屋書店と新潟の二大大型書店に行ってみて本当に良かった!


今はAmazonでサンプルが見れたり色んな人たちが情報発信してくれてるからそこそこ情報は家にいても手に入れられるけれど、百聞は一見にしかずをもろに体験できる、そしてどこにも出てこなかった「これは絶対に必要!」な本を1冊見つけただけでも御の字だった。


本のタイトルは『英語ができればフランス語はここに極まる!』。


この本の1つ前の本で英語とフランス語を比較した本もあって、そちらはAmazonで良い評価と悪い評価に分かれていて、自分も実際に手に取ってみてどちらの言い分もわかるなというものだった。


これをもし持っているとするなら、良いところと悪いところとたしかに両方を私も感じて、さらには英語があまり表現としていただけないものもあってそうした変なところに引っかかるかも…と思った。(1つすごく印象に残った例文が「私は友達がとても少ない」だったか「私は友達がほとんどいない」だったかで、何でそんな日常会話にも出てこなさそうな例文なのかとツッコミどころが色々ありすぎた。)


ただこの1つ前の本にすごく興味を持ったのは、ある方のレビューで“「一人称複数の命令形」が英語でいう「let's」にあたる”みたいな説明があってとてもわかりやすいというところだった。


いくつか仕事の帰り道にわざわざ近隣の大型書店2店舗に別々の日に立ち寄ってみてわかったこととして、フランス語を学ぼうと思ったら必ず文法も必要なこと、そして文法を理解するのに日本語の理解が必要なことはなんとなくわかった。


時制の名称やら名詞節や◯◯節みたいなものとか、日本語がアウトすぎる言葉のオンパレードで、それにつまずいて放置する自分の姿がありありと浮かび、そこを放置しないやり方をなんとか見つけないといけないと薄ぼんやり思っていて、そんな折にAmazonのレビューを読んで「これだ!」と思った。


日本語の文法名でつまずくのは必須でも英語で書かれていれば感覚的にわかるからそれを利用しない手はないなと思った。


それでAmazonで見つけた本を先に本棚で見つけたもののやっぱりちょっと引っかかり、そのすぐ隣りに似たような名前の本『英語ができればフランス語はここに極まる!』を見つけて、それは他の本たちと共に座れるベンチみたいなところに持って行って見てみた。


その本は本当によくできていて、まさに英語のSVOだのSVOCだのもわからない私にとってそうした基礎の基礎から未来完了(という名前があるかもわからないけれど、例えていうなら今週の金曜日までにこの資料を終わらせるよみたいな文)とかwhereを使った関係代名詞とか誰それから英訳してもらった手紙を持っているみたいな文とか、ありとあらゆる英語の文法とそれらに対比するフランス語の文法と文例を見開きページに配置してあって、まさに私みたいな人にこの上なくピッタリな文法解説書だった。


さらには1つ前の本には索引機能がないとかで探すのに苦労したとかそんなレビューもたしかあって、でも私が見つけた本にはそれもバッチリあった。


なかなかな分厚い別の文法書も持ってきていたから、ためしに適当なページを数ページめくってそこにある文法名を牽引ページで探すと出てくる出てくる、感動レベルものだった。


よってこれは絶対に使えるというよりも私みたいな日本語の文法名が全くわからない人にはこれ以上ない必須本とわかった。


いつか大学院で博士課程まで取った友達から英語を聞かれて、SVOが…とか言われて私はそういう説明は全くできないから自分がわかる内容を自分がわかる言葉で説明してもいいかを聞いてから説明して、それを何回かした記憶があるけれど、その友達に感覚でそれを全部やってのけてるのが本当にすごいと言われたことがあった。


何を褒められてるのかも全然わからなかったけれど、昨日その本を見てわかった。


たしかに一通りの文法は体感的に習得していて、友達がそんなのできないと言っていた意味がよくわかった。


だから私は内容理解と専門的文法名が不一致というか文法名は幼稚園以下みたいなレベルだから、内容については難なくいけるならあとは日本語の補完ができたら良いと思った。


中には英語のフランス語文法書を薦めている人もいたけれど、ただでさえ専門の文法名がわからないわけだから、そんなわからないものだらけのところに英語なんて入れたら余計にわからないことだけが増すから、文法書は日本語で書かれたものが良いだろうと思っていた。


AIに相談した時も(自分のこれまでの語学習得の歴史や覚え方を詳細に書いてその上でどんな方法が良いかを尋ねた、仕事中に仕事放棄して←えっ?)、曖昧な部分を無くすことを1つの軸にすると良いとあって、それならどう考えても日本語一択だなと思った。


そんな折に英語と併記している文法書があると知って、これは自分の英語力を使わない手はないと思った。


あと、スペイン語のテキストもこれまで一度も見返したことがないけれど←宝の持ち腐れ、どうやら文法がスペイン語とも似てるようだからそれを出して見るのもいいかなと思ってる。


先生がこだわってわかりやすいように体系的にまとめてくれた、世界中どこを探してもない唯一無二のテキストで(先生お手製だから、10数クラスある中で私たちのクラスだけが他のクラスとは違うテキストを使っていた)、これも使い勝手が良い気がする。


スペイン語もある程度はカバーしたから、とりあえずテキスト見たらそういえばこれやったなと思い出せると思う←希望的観測。


で、あれこれ書いたけれど1つ困ったことというかどうしようかというものがある。


フランス語は本当に何も知らない。


だからこそ基礎の本が必要だと感じるけれど、その英語と併記の本はあくまでも基礎を積み上げるのに併用するもので基礎を学ぶ本とは違う。


1冊この文法書いいなというのはあったしそれで進めたら良いなと思えた本があったけれど、そこそこの厚みがあって、高校とかで使うような英和辞典の半分はあるもので、それをマスターできるのかというと途中で飽きて投げ出す心配もかなりある。


本気でやる気になったら考えなくもないけれど、フランス語関連のものは極力本は最低限でいきたい。


当初は1冊の本と辞書程度で終わらせる気でいたから、まさかの英語との併記本とかまで買うなんて全く考えていなかった。


これは色んな人たちが言っていたけれど、本当に1からならさらりと触れられるもの、1週間とか1ヶ月でそこそこ全体像が掴めるものを最初にやってあとはその後自分が必要と思われるものをやるのが良いと言っていた。


これはかなりその通りだと思う。


気に入った文法書は1年とかかけてやるような感じだから、そういう意味で不向きな感じなのとそもそも私そんなにやるのかという自分への疑問が止まらない。


占星術、オラクルカード、リバティ(布)、刺繍とここ数年で手にしたものたちを見ても、飽きたわけじゃないけれど余力がないと見向きもしなくなるから、フランス語で物だけ揃えてあとは放置なんていう結末は超絶避けたい。


先に挙げた4つは飽きてるわけじゃなくて単に時間や体力気力が回らないだけの話だからこれから生きてる限り何回でもいつでも戻れると思っているけれど、フランス語は残念ながらそのようなことはあまり期待できない。


だからやたらと慎重になっている。


あと、占星術の時にこれも最初独学したわけだけれど、今思うと本当に偏りまくりな学びで、私はあの後基礎講座も取ったけれど、マニアックな自分にまつわるものは覚えたもののそうではない基礎の基礎はかなり抜け落ちてる。(占星術の基礎は、学校の勉強で言うなら数学の公式とか化学の元素記号とかを覚えるのに近しいものがあると私は感じているタイプ。)


占星術はそれでも困りはしないし本当に情報が必要なら先生にまた個人鑑定を申し込んで読み解いてもらえたらいいし、自分なりの二の策三の策みたいなのがあるけれど、フランス語はそういうものとは違う。


お勉強的なところがやはり尻込みしそうな所以かもしれない。







フランス語については1つすごく良いなと思ったことがある。


それは46歳、同級生の中にはもう47歳になった人たちもいる年齢で、真新しいこれまでにしたことのない挑戦をするのがとても嬉しいのとそれができるというのが1つの自分への信頼になるなと感じている。


別に成功する必要なんてなくて、巷でよく言われる「何歳からでも始められる」を経験できるって、これから先の人生における自信になるなと思う。


私より10個年上の方が趣味がないという話をしていたのを聞いて、少し残念な気持ちともったいないなと思った。(ちなみにその方は本人は趣味と思ってないけれど色々されてるから趣味がなくても自分時間の充実した方だと思う。)


視力とか聴力とか年齢的な不具合も感じなくもない、あとは記憶力とか習得スピードも、そんな中での新言語だなんて、自分に対する最高のプレゼントだと思う。


要は色んなマイナス要素ありの中でそれらも必要な新しいことを始めるってそれを始めるだけでもすごい価値があるって私は思う。


話は少し変わるけれど、昨日(7/20)さくらももこ展も行こうとしたら、何かしらのイベントとぶつかっていたらしく2,000台近い収容が可能な駐車場が全部満車でどこにも入れずまず諦めて、時間を置いて夕方間際に行ったら駐車場どころかその2キロくらい前から大渋滞で、私はちょうどそちら方面と並行しているような橋の上にいて、橋から車も歩行者も大渋滞していたのが見えたから諦めて、さくらももこ展は結局後日平日に有休でも取って行こうと決めた。


ペンジュラムが1番にさくらももこ展に行くことを薦めていたのに無視して他の用事を入れて後回しにしたらこの結果だった( ̄∀ ̄;)。


何事も経験だと自分を慰めつつ(笑)、そして物から入る私は早速ノートを2冊購入してこちらもすでに可笑しな流れを自ら作り出しているけれど、これだけでも十分楽しい時間を過ごしていて趣味のパワーたるやすごいなと思う。


あとフランス語コーナーもとても興味深かった。


これは日本特有な気がしなくもないけれど、4店舗見て回ってわかったことの1つに、どの書店もフランス語検定なるものの書籍がフランス語コーナーの半分くらいを占めていた。


とあるフランス語学習者でフランスにも住んだことがある人いわく、日本でフランス語に関わる仕事というのはとてつもなく少ないらしく、その方はそこそこ専門的な経歴を持っていても今は年に一度くらい不定期でフランス語の仕事の依頼があるくらいと言っていた。


だからそのフランス語検定なるものは、どういう人たちがどういう目的で受けるのかわからないけれど、日本にいてのその需要というか認知度はとても限られているのかなと思う。


これはTOEICとTOEFL、他にも英語関係の検定試験を受けて思うことだけれど、言語の習得と検定試験の対策とは全く別物と思った方が良いと思う。


だからこそ検定向けの書籍が多数取り揃えられているのかもしれないけれど、もし言語を純粋に学びたいなら言語を習得することに重きを置くことが良いし、さらには例えば今大ブームの韓流ドラマやコンサートのための渡韓を目的に言語学びます、とかいう方が言語習得にはとても良い刺激とモチベーションになってくれると思っている。


例えば検定試験のために単語をたくさん覚える必要があるなら、試験のためだけだと頑張れないけれど(私の例)、生活や実益のある分野の言葉を知るために覚えたのなら、例えば「何時に起きて何時までに出発してバスと電車を乗り継いで空港に行かなきゃ」みたいな文章なら数字も時間の言い回しも交通手段も空港もその動詞も知らないと文章にならないから、おのずと色々知らないといけなくなるから、そうなると語彙を増やさざるを得ない。


生きた言語を取り入れる方が意味がその時はわからなくても後々に大きな単語力を備えそうだなと思ったりする。


ちなみに、フランス語はとにかく単語帳なるものが大事なようでやたらとみなさん単語帳をお手製で作られていた。


私はそこにもかなり興味を持って「単語帳作りたい!」となり、そのためのノートを昨日買ったほど←常に本末転倒。


検定試験がダメだなんて言わないし日本はとにかく資格重視の国だからそれについてしのごの言ってもダメだけれど、資格のない私は自分と資格の有る他人を比較した時に英語について言えば「言葉の受け取り方、受け止め方」が良いのだと感じている(おこがましすぎる)。


ちなみに今頭の中で比べた人は、相手は有資格者。


言葉の奥にあるものや文章の背景、文章の中に行為が含まれているとするならそれの実際の体の動きなんかを見る癖がある。


仕事でよくあるのが「先端にはめ込む」みたいな表現。


「何」を「何の先端」にそして「何」ではめ込むの?の全ての「何」もだし、さらに「はめ込む」も押して入れるのか回してはめられるのかはたまた特定の道具を使って特定の手順で対応するのかで全く表現が変わってくる。


英語は日本語と違って察する文化じゃないから、そうしたことを1から10まで説明しないと通じない。


かと思えば、同じ表現を繰り返すことを嫌う言語でもあるから、同じ単語をリピートする書き方は多くの場合できない。


そうした微妙なニュアンスは検定試験には当然出てこないと思うけれども、そうした小さなことをたくさん知っている方が語彙力も語学力も断然上がると思う。


資格試験は総合的な語学力を判断するのには良いものだとは思うけれど、それがイコール語学力とは限らないと思っている。


個人的にフランス語も検定試験には全く興味ないけれど、自分の世界や感覚が広がることにはすごく興味があるし、そしてそれを全く知らない言語でやれるのも楽しみで醍醐味だなと思う。