2024年8月25日日曜日

感じてるー沈黙の向こう側

隣りの休耕田が今年はひまわり畑に

家から見える花火
2024/08/25


家の外に出たらもっと綺麗に全体が見える


≫もちろん、いまの社会の流れのなかで、「ありがとう」と言うことは、もっと広がるだろう。

ただね、感謝の気持ちをぜんぶことばに出すだけでなく、「沈黙」の大海のなかにゆらゆらさせている人も、いてもいいんだよ、と、思ってもらえるといいなぁ。

これは、「ありがとう」ばかりのことじゃない。「愛してる」だとか、「悲しい」「うれしい」でも、ことばにして言うだけじゃなく、感じてる人がいるんだ。


引用:『抱きしめられたい。』糸井重里







久しぶりにエッセイというか本を読んだ。


上の文章を読んで『感じる人』とかいうタイトルでブログを書こうかなと思って今書き始めている。


正しくは、タイトルの方が後で、読んでる最中に「実は感じ続けてくれていたのかも…」と思って、そのように思った私の心の中を書きたいと思った。


今年の私はここ数年の中で一番ブログをはじめ色んなものを書いていない。


5年日記はまとめて数日分書くことが増えつつあるけれど、とりあえず2年目も半分弱になる今も続けている。


でもたいしてどうしてたくさんは書けないから、それは単にスペースの問題で、あまり深い内容はそこには書いていない。


日記帳も長らく開いていない。


たくさんのノートたちは休眠中。


そしてブログもなかなか書けずにいる。


書きたいよりも単純に体や心を休めたいの方が勝って、そうなるとどんどんブログが遠ざかる。


そんなこんなでとにかく今年は書かない時間がこの数年の中で圧倒的に多い。


こんなにもアップしていないブログではあるけれど、過去の記事たちがあれこれチェックされている。


チェックされているとわかるのは、ブログの管理ページにそうした統計が出てくるから。


ブログはいいからさぁ、連絡くれないかしらねぇなどと思うのは常日頃だとしても、とりあえずのらりくらりしている。


自分も気が向いたら過去に書いたものたちをちょこちょこ読んだりするけれど、はっきりとわかるのはもう同じ熱量で同じことたちを書くことはできないということ。


書いた当時、その時々の気持ちはもちろん覚えているだけじゃなく今も気持ちそのものはそんなに変わらない。


だけど、書こう!という衝動みたいなのと書くための体力とでも言えばいいんだろうか、その辺りが書いた当時と今とを比べると全く違っていて、思うように書けていない。


ちなみに書くことに限らず、部屋の整理整頓も物の整理も何ならこの夏はとうとう衣替えせずにひと夏を通過していて、手芸も読書も色々本当にしていないできない日々が続いている。


週末も家にこもれる時は、小さな昼寝を何回も繰り返して合間にネットサーフィンして、あとは最小限の家事なんかをして終わる。


そんな風だからとにかく書けない。


とかいう数ヶ月を通過してみて、改めて書ける時に書いといて本当に良かったと思っているし、あの書けたことたちが今の状態を生み出してくれたように感じていて、過去の自分に本気で感謝している。


私がブログを再開した2017年の秋、何の見込みも可能性もなく、とにかく書かないことには可能性0%だし、書けば書かないのと同じくらい0%でも絶対の0%ではなく「まさか」が起こるかもしれない、そのまさかに本気で賭けて書いたのが最初で、その後はとりあえず思いつくままに書いて書いて書きまくって、そして今に至る。





どのように受け止めているかはさておき、文字を読むことで感じるものはあると思う。


無機質な文章じゃない。


明らかに自分に向けられたもので自分もその場やその時に居合わせていたわけで、どこの誰かもわからない人じゃなく少なくとも名前と顔くらいは一致した人から言葉を向けられるわけで、言葉にしないからと言って沈黙を保ち続けているからと言って、何も感じていないわけじゃない。


むしろ何かしら感じ続けているからこそのブログ参りなんじゃないかと思う。


2024/08/18







一番直近でアップしたブログの中に

「この後、ここに書いたことと最近のこととを経て私なりに思っていることを書きたいなと思う。(いつも書く書く詐欺みたいになっているから今回書けるか心配しているけれど、書きたい気持ちはモリモリある。)」

と書いて締めてて、それで書こうとしていた意識があったことを思い出した。


お盆明けも相変わらずかっ飛ばし過ぎなくらいに忙しく、今は25日の日曜日、明日からまた残業デーが続くとわかって仕事に行くことへの意識の低さよ。


やる気はいつの時もマイナススタート。


ゼロになる前にその日が終わって次の日を迎える。


何のために仕事をしているのかわからないこと数ヶ月、その中でますます強くなっている内面の世界。


その内面の世界について綴ろうと思う。


私が今の職場で担当している数々のことは、必要としている人たちが必ずいることはわかっているし、極力少しでも良い状態で次の人たちにバトンタッチして渡したいと思ってやっている。


やればやった分、職務上の知識やスキルは身につくし、ものによっては先の人生のどこかで役に立ってくれるものもあると思う。


なんだけど、本当に自分の中は全く満たされないし、「何のためにこんなことしてるんだろう?」といつもいつも思う。


そしてその思考とほぼほぼ毎回セットで「この今使っている熱量をイケメン上司との関係構築に向けて使えないものか」と思う。


仕事と人間関係は使うエネルギーの種類も心に響くものも全く別物であるけれども、単純に「エネルギーを向ける」という意味でのエネルギーを本気でイケメン上司との関係に注ぎたいと超真剣に思う。


2017年を皮切りに通算8回目の夏なわけで(もうすぐ秋になっちゃうけれど)、そして最近読まれた過去のブログを読んで他者から伝えられたイケメン上司の存在や意味みたいなもの、その他諸々を含めて考えると、そうそう何よりも自分の内側に広がる世界を見ると、イケメン上司という人は私の人生において超絶ぶっ飛んでいる存在の人なんだと改めて認識した。


だって夏は8回目だよ、今年。


2017年の夏に生まれた赤ちゃんは今小学1年生になっちゃってるよ。


そんだけの時間を毎日毎日、しかも目の前にいた時間なんて数えたら100日ちょっとしかなかったわけで、しかもとても濃い会話を交わしたとかならわかるけれど会話は皆無に近く、その時間よりも数年単位で会っていない時間の方が圧倒的に長くて、普通なら速攻で記憶から消えてしまうし、名前さえ思い出せないとか普通だし、顔や声も薄れることは十二分にありうるし、そういうスタンダードコースがあるとするならイケメン上司の存在はありとあらゆる常識や定例、定説を覆しまくりでありえないことがあまりにも多すぎてそちらがスタンダードになるというおかしな展開になっている。


さらにはイケメン上司のことを全く知らない人たちからイケメン上司についてあれこれ情報をもらうだなんて、もらった数年前の当時も変だとは思ったけれど、今一般企業にいるからこそ本当にとてつもなくぶっ飛んでいてありえなさすぎることだったんだなとしみじみと感じる。


イケメン上司に聞いてみたいことはたくさんあるけれど、例えば「ねぇねぇ何であの時冷たくしたの?」とかさ、「ねぇねぇ何であの時あんな素敵なイケメン行為をしてくれたの?」とかさ、怒りとか責めるとかそういう気持ちはなくて(それが無いのがイケメン上司からしたらやりにくいのかもだけど)、とにかくコミュニケーションを取ってみたい、本当に生きているうちに意思疎通的な何かを図りたいとは思うけれど、本当にそんな気持ちを7年間維持して、維持と言うよりも気付いたら7年経って8年目を迎えたわけだけど、ここにきて(8回目の夏を迎えて)もしかしてそれって私だけじゃなくイケメン上司も私とはだいぶ違うけれども「ちょっとやりとりしてみたい」とか思っていたりして…とか思ってみたり。


やりとりなんか始めたら私が鬱陶しくなるかもだし、そもそも日常生活やら内面やらにイレギュラーなものが入って落ち着かないどころか「やっぱり何もない方が自分の人生にとってプラス」という結論に至って早々と決別するかもだし、メリットを述べよなどと言われたら私は本気で困るけれども(今ひらめいた!星読みでも進呈したらどうだろう…←浅はか)、イケメン上司も実は私と何かやりとりをしたいと思っているのかな…などと思う。


過去のブログにイケメン上司に一度も会ったことも私から話を聞いたこともない霊視ができるヒーラーOさんが、突然私にOさんが視えているイケメン上司についてとうとうと話し出した時のことが書いてあった。


そこには詳細があって、Oさんいわくイケメン上司側も何が何だか理解できないと思います、みたいなことを当時説明されたことが書かれてあった。


理解されなくていいし、理論的なことなど何もわからないままでいいと今でも思っている。


それよりも連絡してみたい気持ちが1ミリでもあるなら、連絡してくれることが何よりだと思っている。


唐突すぎるけれど、何のために目の前の仕事をしているのかわからなくなる時に「何のために生きているんだろう?」と究極の質問に行き着く時が時々?かなり?ある。


これが今の時間とか今日1日だけのことなら折り合いがつく。


でもある程度の人生の中のまとまった時間として見た時にそれはもう完全に「やる意味が見出せないもの」になる。


そんなこんなの思考回路に陥る時、これがイケメン上司と生活とかなったらこんなこと思わずに真っ直ぐにエネルギーを注げそう…とかいう思考回路が走り出す。←仕事中に


何のために生きるとか考える余地さえないくらい、とりあえず目の前の現実に超絶感謝しながら日々生きていられそうなどと思ってしまう。


イケメン上司側のメリット?


ナンデスカソレ?状態なことは否めない。


人間はメリットがあるかもしくは危険が迫っているかということがないと新しい行動は好まないようになっていると思う。


メリットとは言えないけれど、私にイケメン上司が連絡してくれたのなら、それは人生最大の貢献に値すると思う。


自分を進呈するだけで誰かに貢献できるなんてなかなかできることじゃないから、それがメリットかしら…←えっ?


ゴロゴロ布団に転がりながら時々休憩という名の寝落ちをしながら書くと、当初意図していたことの半分も書けてないように思うけれど、とにかく言いたいことの1つは「人生を賭けてエネルギーを注ぎたいポイント」がイケメン上司だということ。







ここに書いたことを最初から読み返した。


そうだった、最初は「感じる」ことを書くんだったと思い出した。


イケメン上司もこの文字の向こう側でただただ読んでるだけじゃなく何かしら感じたり感情が動いたりしてるんじゃないかと冒頭の糸井重里さんのエッセイの文章を読んだ時に思ったんだった。


それとは別に、今日の昼間、ネットの記事で姉妹2人ともが障害児のお母さんが発信していることをニュースに取り上げられているものを読んだ。(1人目の子は、2人目の子の障害が生まれた直後にわかって色々検査してもらった際に、お母さん側が1人目の子の体の具合でずっとずっと気になっていたことを病院にお願いして検査してもらったら難病だったことが判明した。近所のクリニックに行っても問題ないとされてたものがいきなりの難病だった。)


そのお母さんはショックでごはんが喉を通らないくらいでそんな時に夫は普通にごはんを食べててどんな神経をしてるのかと思ってたら、夫の方は家族を守るためには自分が倒れるわけにいかないから味を感じなくても食べた気がしなくても無理してでもごはんを食べて仕事して家族を養わなきゃいけない、そういう気持ちでいたことがわかったと記事にあった。


言葉が全てじゃないということが糸井重里さんのエッセイにもそのニュース記事のお父さんにも共通しているけれど、イケメン上司も感じない人どころかめちゃくちゃ感じる人だと思う。


8回も夏がやってきて、目の前にいないのはお互い様で、本気でどうでもいい人だとするなら私のこの起承転結のないダラダラと長いブログなんか見ないと思う。


感じる何かがあるからこその無意識なのか意識してなのかブログを見るんじゃないのかな…と最近はそんな風に思うようになった。


もし何かを感じていてくれるとするなら、私は本気でそれを自分だけでおしまいにせずにそれを私に伝えて欲しいと本気で願っている。


時間の経過と共に、イケメン上司の存在が本気の魂の領域の人なんだというのはひしひしと感じるようになった。


魂と言ったのは、魂が何かなんて上手く説明できないけれども、感覚として他の誰にもないタイプの存在だということだけはものすごくよくわかった。


感覚として別格すぎる。


そしてイケメン上司のことを全く知らない第三者複数名からイケメン上司について情報が伝えられるなんてありえなさすぎる。


人生の中で後にも先にもそんな人他にいないと思う。


とにかく色んなことが普通じゃなさすぎて、そんな人なのにもう話ができないとか会えないってどういうこと!?と思う。


それはそうと、もちろん無理強いはさせられないしそんなこと私ができるわけもないけれど、せっかくコミュニケーションツールがこの世の文明のおかげで今あるのにそれを使わずにずっと交わらずにいつか死んじゃうのはすごく悔しい。


生きているうちに交わせるものは交わしたい。


感じていることがあるならそれが何かをイケメン上司の口から聞きたい。


自分の願いがそこだから、だからこそ日々何をしていても「何してるんだろう…」のグルグル思考になるのかなと思っている。


2024/08/25