明日、3月最後の土曜日は、またもやビジネスホテルに泊まりに行く。
父のいとこが亡くなった後の遺品整理のために、甥っ子たちが県外から今週末も来るとのこと。
色々どうなるか見えないから、父からホテルに泊まったらどうかと水曜日の夕ごはんの時に言われて、それですぐホテルを探して、前回とは別のビジネスホテルの予約を取った。
翌日木曜日は、仕事が終わるといつものごとくチャイムと同時に席を立って、そしてホテルで飲むためのスパークリングワインを買いに行った。
買いに行った店は大きな酒屋さんで、店内をウロウロしていたら、なんとメキシコ産のビールを見つけてそれも買った。
メキシコに一人旅に約3週間行った時、ほぼ毎日ビールを飲んだ。
メキシコは国土が広いから、その町によって取り扱いのビールも様々で、そうと知ってからはより一層その土地でしかなさそうなビールをあえて選んで飲んでいた。
メキシコのビールはハズレがなくて、私は基本的にどれもこれもおいしいと思った。
今回買ったビールは、メキシコでも飲んだように思う。
味は覚えてないけれど、当時を彷彿させてくれるところが気に入ってかごに入れた。
イタリア産のサラミも買って、おつまみOK!と思った。
前回失敗したことの1つに、甘いものを用意し忘れたことが挙げられる。
明日は、カードリーディングもやる予定でいるから、ティータイム的なこともホテルでできるようにケーキとかちょっとしたスイーツも持っていこうと計画している。
イケメン上司の苗字が入った店名の洋菓子屋さんに立ち寄ろうかと思っている。
他の反省点として、お風呂や美容関係のグッズが足りなかったから、今回はシャンプーとリンス、パック、鼻パック、入浴剤、顔に塗る諸々の基礎化粧品のサンプルなんかをすでに用意した。
ホテルに行くと普段の10倍くらい肌の手入れやら美容活動に精を出すとわかって、そういうことも1つの娯楽だと知った。
家では相変わらず適当だけど、ホテルはやることがかなり限られていることも手伝って、そういうことにも興味を向けられる。
またとない機会だから、今回はさらに色々用意してみた。
当日何で飲むかはまだ決めかねていて、明日の具合を見て適当に買って全て持ち込み状態でホテルに乗り込む予定。
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ここ最近、毎日夜にタロットカードをやっている。
仕事中にせっせと集めたタロットの読み解き方の情報に沿ってカードを引いている。
正しくは、ペンジュラムからカードを選んでもらっている。
メンタルケアだの自分の振り返りだのとあれこれ楽しくやっている。
書いてしまえばそれだけのことでしかないけれど、やってることの中身はとても奥が深い。
カードを通じて自分にヒントが渡される。
たった1枚のカードから自分の何かわからないものがわかるようになったり、客観的に見てこういうことなんだと知ったり、とにかくとても面白い。
ちょうど直近でやったカードから去年1年がどんな風であったのか、全体像をカードから教えてもらった。
出てきたのが「ソードの8」というカードで、通常のタロットの絵柄としては女の人が目隠しされて体は包帯のようなものでグルグルと巻かれて、その周りには8本の剣が地に刺さっているという、けっこう怖い絵柄だったりする。
見た瞬間、「これが私の42歳1年なの!?嫌だなー」と思った。
でもまずそこで「そのカード=良くないカード」と思っている自分自身に気付いた。
もっと別の意味がきちんとあるように思って、掘り下げた。
今度はタロットカードではなくて別のオラクルカードを使って、そのカードをもう少し深く違う視点で理解できるようにすることにした。
それが大当たりで、タロットカードが示してきた意味がわかった。
不慣れな状況の中で何かしらの決断をする時というのは、理性や思考よりも自分の直感で選ぶことになる、というようなことが書かれていた。
まさに!な感じで、たしかに理論的に物事を分析して判断するよりも、自分の感覚に頼って決断せざるを得ないことが多かったなと思った。
さらには、自分を責めたり傷つきやすいと思ったりすることはネガティブなこととして捉えがちだけれど、その回路が全てじゃないというようなことも書かれてあった。
その意味も私にはわかった。
例えば2月にとてつもなく腹が毎日立ちまくりだったけれど、そうしたことも自分を癒すための必要なヒントや機会が与えられたりすることに繋がっていて、結局のところ全てが全てネガティブなことではなかった。
そんな風にして、カードは見えていないことをきちんと見せてくれるし、被害者意識を暴走させず必要なことを示して私が理解できるように手助けしてくれる。
そんなことがとにかく楽しすぎてやめられない。
だから毎日仕事の後でも夜になるとカードとノートを広げてのんびりダラダラしながらカードと戯れている。
(それゆえに、ブログの時間が縮小されてきた感は否めない…)
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突然気になって、父と母に今年の年賀状はどうする予定なのかを聞いた。
普通は親兄弟が亡くなったのなら年賀欠礼のハガキを出すけれど、今回は父のいとこなわけで、続柄からするととても遠い。
私は関係ないという感もあるし、そもそも年賀状も出さない方にここ数年落ち着いているから、単に興味関心があって聞いたに過ぎなかった。
そうしたら、「今年は欠礼のハガキを出すかな…」と父の答え。
「たしかにいとこだけれど、意味合いが違う」と言った。
「何て書くの?」と聞いた。
しばらく父は考えて「そうだな、『本家当主』が亡くなりというような感じかな…」と言った。
ここからは私の心の中だけれど、それを聞いて私はワクワクした。
そんな言葉、私にしても生涯で一度しか使わない言葉で、その機会は今年に限られている。
ボールペンでひたすら文章しか書かない年賀状でも何ひとつ文句を言わずに受け取ってくれる友達が3人4人(3枚4枚)といるから、今年は私も年賀欠礼のハガキを出したい!と思った。
不謹慎な反応かもわからないけれど、私もその言葉を使ってみたいというかなり社会的に考えたら非常識な理由でハガキを出したくなった。
ちょっとだけいいように言うと(もちろん良い言い方をしても私の失礼さは変わらない)、出す人たちというのは私が生きることそのものについて話ができる人たちになる。
いつかは誰しもが終わりを迎える。
その当たり前のことと今日も生きている当たり前のように見えて当たり前ではないことを、真面目に茶化さずに話せる人たち、そういう友達に向けて何か言葉を添えて年賀欠礼を出すのはありだなと思った。
ちなみにそんな先のことよりも、友達にメッセージを届けると約束した方の手紙を書くのと、大学時代の教授からのクリスマスカードの返信を書く方が先にやらないといけないことだったりする( ̄∀ ̄;)。
特に教授側の方は80歳を超えていて、カードにはガンになって今は快方して穏やかに過ごしているみたいな話が書かれていて、それこそ真面目に返事をしないとと思ってグリーティングカードを買ったところまできている。
本当に早く出そう。
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来週月曜日から父と母は金沢の妹のところに行って、1年生になる姪っ子の孫守りにしばらく行く。
3月中はギリギリ最後まで保育園に行って、4月からはなんとうちの父が登下校の付き添いをすることになっている。
ちなみに私たち三姉妹が子どもの頃、父が登下校の付き添いやら保育園の送り迎えなど一度もしたことがない。
まさに企業戦士なんて言葉を地でいくような父だったわけで、そんな父がまさか孫の保育園の送迎だの小学校の登下校の付き添いなどをするとは思ってもみなかった。
ということで私は一人暮らしのようにまたしばらくはなる。
そして、4月からの1年は町内の自分の家も含めた町内班の班長の当番があって、回覧板を回したり町内会費の回収に一軒一軒伺ったりと、これまで一度もしたことのないことをしないとで、そちらも面倒この上ないけれど、ずっとやらなきゃいけないわけじゃないから「今だけ」と「いつかは終わる」と念じながらやろうと思う。
3月中にもう1つ書きたい文章があるけれど、それは書けたらアップすることにしようと決めている。
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