2019年7月8日月曜日

eat LOVE ⑼ 愛を食べる

 もりもり芽ひじきサラダ【ミッチーのレシピ】

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)

(↑ノムとミッチーの日常)















「愛を食べる」

愛って食べれるんだなぁと、体感レベルで思っている。

性愛的に体を貪るとかそういう意味ではなくて、本当に「愛」を食べることができる。

その最たる形が食卓だと思う。




これを書くにあたり、自分の記憶を25〜30年ぐらいさかのぼって、色々ひっくり返してみた。

「食べる」ことにおいては、これから毎日特殊な食事シーンを1日1記事ずつ書いてくださいと言われたのなら、私は本気で365日分毎日書けるぐらいにネタを持っている。

自分が作ったものの時もあれば、誰かに作ってもらったものの時もある。

本当に色んな場面を思い出したけれども、やっぱり今回みたいなケースは初めてだと思う。

「はじめまして」と出逢ってすぐにごはんを作ってもらって一緒に食べるのは、本当にミッチーとレイさんが人生で初めての人たちになる。

もちろん、誰との食事でも、必ず「はじめて」が存在する。

だいたい初めての食事は、外で食べる場合が圧倒的に多い。

それは省く。

初めての食事が家の中の食卓で…となると、途端に数は半分どころか3分の1以下になるんじゃないかと思う。

私は自分も家に色々人を呼んだし、反対に自分も呼ばれて行った。

なんだけど、はじめましてのその3時間後ぐらいにごはんを作ってもらって一緒に食べるなんて、今回が初めてじゃないかと思う。

家に呼ぶ呼ばれるまでには、それ相応の関係を作ってからになる。

いきなり今日出会って今日うちでごはん食べようか…なんて普通ならない。

もちろん今回は、『ミッチーとレイさん:私』の間にはノムがいてくれる。

だから、ノムのおかげでそんなウルトラスーパー超超超レアケースが生まれたのは間違いない。

けれども、ノムだけで成り立つわけもなく、ミッチーとレイさんの気持ちももちろん必要だし、私も私でそこに乗り込む勢いというか、まぁ「図々しさ」というか野太さも必要だったりする。

この図々しさもここまでくると、天からの授かりものの気さえしてくる 笑。←超ポジティブ




新潟のテレビは「テレビ東京」がなくて本当に残念過ぎたけれど、今期のドラマで話題になった『きのう何食べた?』みたいな世界がノムとミッチーの日常でも繰り広げられている。

ゲイカップルの日常をテーマにした話で、その中で何度も食卓シーンや食べるシーンが出てくる。

私は新潟に帰ってきて見つけた美容院にそのマンガが置いてあって、それで3年ぐらい前に知った。
(美容院もどこがいいかわからなくて、ホットペッパーの美容院一覧にペンジュラムをかざしたら、1軒のみ口コミない店がヒットして、行ってみたら大当たりだった!)

ノムにそのマンガ知ってるかを聞いたら知っていて、僕たちもあれに近いものがあるよね〜と言っていた。

ノムから『eat LOVE』のサイトを教えてもらってすぐのこと。

その頃はまだ私をeat LOVE邸には誘ってなくて、私もそんな時が来るとは思っていなかった。

そんな折にノムがくれたメール。

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去年から、写真家の人に、カレの料理を撮ってもらっていてさ。
(注釈:写真家の人=ノムとミッチーの知人、カレ=ミッチー)
もともとは「料理」が主だったのだけど、あっという間に、
ぼくとカレと猫たちとの「生活」の記録になっていって、
eat LOVEというプロジェクトなんだけど、これはそのまま「愛を食べる」ってことで。

最初に書いた、”ホーム”が、なによりもぼくには大切で、
そして、ぼくだけではなく、「みなさん、ホームって大事じゃない?」
「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」ってなことを、伝えてみたいとか思う気持ちがあって。

さらにというか、
世の中のゲイのイメージは、おそらく「オネエ」みたいなことや「マッチョ」とか、
どこか、異形な、特殊なものを抱く人が多いのではないかと思うのだけど、
そういう人ももちろんいるけど、そうじゃない、
ぜんぜん”ふつうっぽい”人はたくさんいて、むしろそういう人の方が多い。

で、ぼくらもそうだけど、男同士だからって、SEXだけでつながっているわけでもないし、
結婚ができないことが不幸でもないし、
なんというのだろう、ただパートナーが同性ってだけ(いや、それだけじゃないだろうけど)。

というか、そもそもゲイ、LGBTなどいつの時代にもいただろうし、
いるのだから、「認める」とか「受け入れる」とか、そういうことじゃないんじゃない?って思う。
「いるよ」ってこと。それだけ。

(中略)

たとえばカレの料理をなぜ撮影してほしかったか、というと、
カレの料理にはエゴがない、って思うからなんだけど、
そういうことを本人は自覚がないし、自分にとってあたりまえなこととしてやっていて。
それについて(料理なり刺繍なり)ぼくは、

いやね、あなたのしていることというのはね、こうなんだと思うよ。

などと、エネルギーの言語化?をしているの。

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ノムのこのメールで私はますますノムとミッチーの2人の日常をのぞいてみたくなったし、そしてミッチーの料理にもますます惹かれた。

上のノムのメールはまた今度ノムとミッチーのことを書く時に引用して、そこに私の感じたことも書き足して説明したいと思っているけれど、とりあえず今回はノムが言った

・eat LOVEというプロジェクトなんだけど、これはそのまま「愛を食べる」ってことで。

・「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」

この2つに特化して、夕ごはんの話を進めたい。




ノムは私がeat LOVE邸に行くと返事した後、わりかし早い段階でレイさんに一緒にごはんどうですか?と誘ってくれたんじゃないかと思う。

しかも細かいことはわからないけれど、ノムたちのアトリエではなく母屋に泊めてくれたのもレイさんのご厚意だと思う。

細かなやりとりはわからないけれど、すべてのことが本当に一番良い形に収まって時間が流れたのがeat LOVE聖地での全容だった。

母屋でまずみんなで私が持参したもなかを食べていた時に、夜は何が食べたいかをミッチーとレイさんから聞かれた。(もしかしたら、ノムが2人の代弁をして聞いてくれてたかも)

どこかにも書いたけれど、まさかその質問がくるとは思わず、私は何にも考えていなかった。

これは日常的にごはんを作る人は皆口を揃えて言うけれど、他の人が作ってくれるごはんこそ一番のご馳走だから、作ってもらえるなら正直なんでもいい。

しかも私は「本当に食べれない」ものがものすごく少ない。

「食べれないものある?」と聞かれて、とっさに答えられないレベルなぐらい好き嫌いは少ないと思う。

今も一生懸命考えてダメなのは、ピータンとココナッツミルクと食用バナナの蒸したもの。

ココナッツミルクも、タイカレーとかは大好きで、あのリアルココナッツから直接飲むミルクがダメなだけ。

とにかく普通には出てこないものばかりだから、大丈夫。

食べれないことはないけれど、地味に味が変なものはダメで、昔は土の味がするサトイモがダメだった。

けれど、今のサトイモは品種改良されたのか、よほどでなければ土味のサトイモには当たらなくなった。

逆においしいサトイモはとてもおいしいから、大好きになった。

すでに書いた『ミッチーのトースト』に出てきたちりめんじゃこの中の山椒の実だって、普段なら苦手なのにミッチー手作りのちりめんじゃこの山椒はすごくおいしくて、これは単においしい食べ方を知らなかっただけなんだと知った。

とにかく予習の足らなさを感じながらも、すべてミッチーとレイさんにお任せすることになった。

唯一思い出したのは、「芽ひじきのサラダ」で、それは食べたいとリクエストした。

ホロスコープの宿題はしなくても、ミッチーのごはんの予習はかなり念入りにしたのに、こんな時に何も思いつけなかったのはとっても悔しかった(苦笑)。

普段は予習とか準備が苦手なのに、私は次いつになるかもわからないeat LOVE邸に行く時の食べ物リクエストはすでに決まった。

ミッチーとレイさんそれぞれにリクエストする品があるv( ̄∀ ̄)v。




ノムは体内時計でもあるのか、母屋から徒歩10歩強のアトリエにいた時に私に言った。

「そろそろ夕ごはんだと思うから向こうに行こうか!」

ノムは腕時計してなかったと思うし、アトリエにも時計があったのかどうかはわからないけれど、少なくとも時計を見て言ってはなかった。

ノムの時間の見立ては大当たりで、母屋のみんなでもなかを食べたテーブルの上には、見るからにおいしそうなおかずが並んでいた。

芽ひじきのサラダとコロッケと思しき揚げ物と私が持ってきた特大油揚げ薬味のせが目に入ってきた。

どれもこれも超おいしそうで、心は高鳴りしまくりだった。

三つ葉と大根の味噌汁とごはんもよそってもらって、みんなでいただきますをした。

何から手をつけたか忘れたけれど、どれから手をつけようか迷ったことはよく覚えている。

自分の席に近いものから取ったと想定すると、最初に食べただろう油揚げの薬味にはめちゃくちゃ感動した。

大根おろしにミョウガ、青じそ、ねぎ、しょうがだったと思う。

そこにだし醤油をかけた。

これはミッチー作だけど、薬味をきちんと丁寧に使っていて、本当に1つ1つの作業がきれいだった。

きれいに見せようとしていないのに、ものすごくきれいな切り目と盛り付けで、普段食べ慣れている油揚げが10割増でおいしくなっていた!

味噌汁はどちらが作ったのかは聞かなかったけれど、本当においしいお出汁にほっこりとやさしい味の味噌汁だった。

味噌汁も色んなところでごちそうになったけれど、私が人生で食べた中で1位と並ぶおいしい味噌汁だった。

↑ちょうどこのことを書いていたら、ノムから連絡が来て、そのまま電話することになった。

なんと6時間!(←本題に入るまで3時間ぐらいホロスコープの新発見話を中心に盛り上がり過ぎた!)

ミッチーもいたから味噌汁のことを確認すると、多分ミッチーが作ったとのこと。

すっごいおいしかったから、だしや味噌はどうしたのかを聞いた。

ミッチーいわく、特別なことはしていなくて、具材が何だったかを聞かれたから、三つ葉と大根だったと思うと言ったら、「三つ葉が良かったんじゃないかな…」とは言っていた。

けれど、三つ葉だけであの味が出るとは思えないやさしい味で、私は味噌とかだしに秘密があるのかと思ってそれも聞いた。

「母屋でごはん作る時は、基本母屋にあるレイさんの調味料を使わせてもらうんだよね。だしは顆粒だしでコープとかのものだったと思うし、味噌はタニタのこうじ味噌とかだったと思うよ。別に特別なものは使ってないよ」

何であんなにもおいしい味噌汁なのか…。

ミッチーが作ると何もかもがオクターブ増しでおいしくなる。
(「オクターブ増しでおいしくなる」という言葉が降ってきた時に、あまりにミッチーの料理にピッタリの言葉で1人で狂喜乱舞した。)

謎すぎて仕方なかったけれど、今度いつかeat LOVE邸に来る時は、ぶっしーもミッチーと一緒に料理したらいいんだよ♪とノムに提案された。

ミッチーとレイさんに混じって、料理の現場に次回は潜入したいと思う。

リクエストしていた芽ひじきのサラダは、何がまず素敵かと言えば、盛り付けがとっても素敵だった。

デパ地下で量り売りされているお惣菜みたいな盛り方で、味とか以前の前に目で楽しませてくれる。

食べるとこれまた目新しい和風テイストで、素材も味付けも最大限に生かされる和え方になっていた。

しみじみとおいしいなぁと感じた。

これだけアップで写真を撮ったのは、このきれいな切り方に感動したから。

アップにしすぎてわかりにくいけれど、人参とひじきの太さを比較して欲しい。

人参が本当に細くて、ミッチーは普通に包丁で千切りしたと言っていたけれど、超細くて切り口が整った切り方をしていた。

レイさんと2人で絶賛した。

そして、自分の普段のドバッとガサツに盛り付けしていることがやたらと思い出されて、盛り付け1つでもずいぶんと性格が出るなぁ…と思った( ̄∀ ̄;)。

そして、メインのコロッケ!!!

レイさんもこれ性格なんだろうなぁと思うけれど、どうしたら同じ大きさで同じ形のコロッケに仕上げることができるんだろう…。

手作りなはずなのに、お店で成型されたものを買ってきたの?というような形できれいに並んでいた。

過去に片手で数えるくらいの回数、手作りコロッケを作ったけれど、私が作ると同じように分けても1つ1つの大きさがずいぶんと違う風に仕上がっていた。

ハンバーグとか成型するものは、基本みんな大きさがバラバラになる。

それよりも、超絶面倒くさい、コロッケを作ってくれたことに超超超感動した。

これは男の人に言った言葉だけど、もし付き合う前に家に呼ばれてコロッケを作ってもらったなら、相手は超本気だと思った方がいい。

コロッケほど手間暇かかるものもない(粉ふきいもとかマッシュポテトとかポテサラなんていう選択肢を全て無視して、茹でて潰して、別鍋で炒めた具材と一緒にして、さらに成型して、小麦粉・卵・パン粉付けて、油で揚げるーーザ・手間!!!)

しかも、コロッケだけ出すわけにいかない。

副菜も必要で、コロッケで力尽きそうなのに、さらに別のおかずまでいる。

超気合のいる料理だと私は思っている。

私は男の人にコロッケを作ったことはないし、今後もそんなシチュエーションになっても、コロッケは最初から却下する。

ちなみに昔、モテ男が私に「なんか『コロッケ好き』って一度言ったら、どこの家でもコロッケが出てくるようになったんだよね」と言ったから、相手はそれ本気だよと言った。

そうしたら「えー、単なる友達だと思うけど」と言うから、「コロッケ以外にもおかず出たでしょ?」と聞くと、「そうだね。グラタンも一緒に出てきたことがあった」と普通に言っていたことがあった。

っていうか、どうしてコロッケとグラタンが同時に出てきても「相手は友達だから」と普通に言うモテ男の神経の方が、私にはにわかに信じがたいものがあった。

きちんと教えてあげた、「それ相手本気だから!」と。

そういう地味な感じなのにやたらと手順が多くて、そしてそれとは別に副菜がいるというコロッケは、私はほとんど作らない。

手作りコロッケはすっごいおいしいことは知っていても、食べる係はいいけれど作る係はしたくないという私の理由で、ほとんど食べたことがない。

だから、そうしたことも相まって、揚げ物が手作りコロッケと聞いて、超テンションが上がった。

さらに、保冷剤代わりのおからも混ぜて使ったということで、もっと驚いた。

その油揚げ屋さんには、県外からのお客さんも絶えないから、常におからを凍らせた保冷剤の用意がある。

溶けた後は、普通におからとして使える。

そのおからも混ぜたとレイさんは言う。

おから入りならおから味のコロッケかと想像しながら口に入れたら、超ーーー旨い!!!

おから味は全くしなくて、なんなら言わないとおからが入っていることすらわからなくて、本当においしかった。

しかも、おから特有のパサパサ感もなくて、いも共々しっとりとしていた。

さらに、よくよく聞いたら、じゃがいもはレイさん夫婦なのか旦那さんなのかが畑を借りていて、その畑で作ったじゃがいもだと言う。

どこまでも手作りで、そして味は超一流で、見た目からいくと私も確実に3つペロリと食べた。

ノムが「ソースなしでもこのコロッケおいしいよ!」と教えてくれたから、私もそうした。

一度そうしたらソースが邪魔になるぐらい、コロッケの中身の味が超超超おいしかった!

レイさんにレシピを聞くと、中身は玉ねぎのみじん切りとひき肉を炒めたもので、塩・こしょうで味付けをしたと言っていた。

ナツメグも入れたんだったかな…。

ナツメグも入れたと言ったか、なかったから入れなかったと言ったか忘れたけれど、本当に超絶品手作りコロッケだった。

本当においしくて、レイさんに「コロッケ屋さんをしたらいい」と大真面目に言ったほどおいしかった。




私はこのコロッケのエピソードが実はすごく好きで、それを今回は一番盛り込ませたかった。

何せ「何が食べたい?」と聞かれても、芽ひじきのサラダ以外は何も言えなかった私を前に、レイさんとミッチーは1から献立を立てることになった。

コロッケになった理由を聞いて、私は泣きたくなった。

「コーヘイさん(ノム)が好きだからコロッケにしたの。コロッケはコーヘイさんの大好物だから」

聞けば、どうやらレイさんは時々コロッケをふるまっているらしい。

献立は本当に何でも良かったと思う。

あの感じだと、3人もそんなに好き嫌いなさそうだから、何がおかずでも誰も何も文句を言わないのは見ていてわかる。

そんな中、決定理由が「好物だから」ってすごく素敵なフレーズだった。

その言葉には、ノムに対しての愛も入っていれば、それを知るだけの年月と食卓回数を積み重ねてきたんだとわかる。

ただのごはんじゃなくて、人に想われてのごはんだとわかった。

日々のごはんは義務化すればするほど、私は作ることにテンションが上がらない。

私は過去に一度として、「好物だから」という理由で何かを作ったことがないと思う。

もし残りの人生で結婚できたり、結婚しなくても3人みたいな食卓を囲む近しい誰かと知り合えたなら、その時は私も「〇〇の好物だから」という理由でごはんを作ってみたい。

それってまちがいなく、すごくしあわせなことだ。

誰かを想ってごはんを作れるって、実はすごくしあわせなことなんだとレイさんの話を聞いて思った。




食べながらベジタリアンの話になった時があった。

私の中でこの手の話は、宗教・政治並みにご法度な話題だと感じていて、まずその話をしたこと自体、何年ぶりとかだと思う。

今は周りにそういうこだわりの人は誰もいないけれど、例えば有機野菜推進とか添加物反対とか、ベジタリアンじゃなくても色んなこだわりを持っている人たちは少なからずいる。

私は基本的に何がダメとかもなければ、ジャンクフードLOVEみたいなところもまだあるから、基本何が出てきてもおいしくいただけるこの許容範囲広めな嗜好にずい分と救われてるところが多いと思う。

そして、私がそうしたことにこだわらない理由の1つに、友達で農業従事者がいて、その現場を何箇所か見せてもらったことがあって、そんなの見てたら消費者に徹してる私なんかが何か上っ面なことを言うなんか絶対にできなかった。

生き物、それが食物(しょくもつ)でも動物(食用)でも、それらを日々育ててお世話している人たちは本当にすごくて、そちらを中心に生活を営んでいる。

人間中心主義の時代に、人間が中心ではない、別の生き物のリズムに合わせて生きている人たちを見ると、言葉がない。

そんなこんなもあって、そして自分の主義主張を誰かに押し付けるのも好まないから、この手の話を誰かとすることは私は基本的にしない。

あとそれ以上に、私からして面倒なこだわりのある人と話すのは、本当に骨が折れるから、そういう危険なにおいのする話をあえてしないのもある。

なんだけど、どういうきっかけか4人でその話をすることになった。

ノムとミッチーは、ある時知人夫婦の家に呼ばれて、崎陽軒のシュウマイを手土産にしてごはんを食べに行ったそう。

自分たちは良かれと思って持って行ったら、なんとその夫婦はいつのまにか菜食主義になっていて、すごいこだわりのごはんスタイルになっていたそう。

「それがわかってたら、自分たちも食べたかった崎陽軒のシュウマイなんて持って行かなかったのに…」とミッチーは言った。

ミッチーのその感想いいなぁと思った。

2人は、お金に余裕があった頃は、調味料とか原材料にも色々こだわった時期もあったらしいけれど、そうしたことにお金がかけられなくなって、それで今はそういうこだわりではなくて、自分たちの今現在のスタイルに落ち着いていると話していた。

ミッチーが電話で
【ワンクッション置いて、意識を向ける】
と言っていた。

何でもかんでも良いものということではなくて、食べる物に関してワンクッション置いて、だけどきちんと意識を向ける、と。

メモからだと私の解釈が怪しいけれど、私には「(何か材料とかにこだわるんじゃなくて)おいしくなるように意識を向けている」という風に聞こえた。

それは2回限りのミッチーのごはんでも、ミッチーがおいしくなるように意識を向けているのは、十分に伝わってきた。

レイさんは、自分は特にこだわりとかはないみたいだけど、子どもの1人なのか2人共なのか、とにかく本人の味覚で添加物系が一切ダメらしい。

加工食品がダメな子がいると聞いたことはあったけれど、私にとってレイさんが初めて、本人には直接会っていなくてもそのお母さんだという人だった。

ベーコンやウインナーなんてのはダメで受け付けられないらしく、最近はレイさんお手製の鶏ハムが本人の嗜好に合って、それをかなり気に入って食べているとのこと。

子どもの方がそうしたことに敏感だから、アレルギーとは違うけれども、色々配慮が必要なのは大変でも致し方ないという感じだった。

レイさんのすごいところは、もうそういうものだと受け入れて、できることを淡々と日々こなしていることだった。

私から見て、農業従事者の人たちに感じた気持ちと近いものをレイさんに感じた。

自分の主義主張を通すんじゃなくて、子どもが少しでも健やかに育つなら、「何でも食べなきゃダメよ!」ではなくて、何だったら確実に食べるのか、それを1つ1つ日々確認しながらごはんを用意しているという風に私には聞こえた。

それはわがままとかではなくて、私からすると「体質」に近いものを感じた。

そして、レイさんはそのことを否定したり自分の意見を押し付けたりせずに、自分ができることをとにかくやるという姿勢でいることが本当に凄かった。

そんな4人でベジタリアンの話になった。

私はその辺り若干ズルイから、自分の主張をまっすぐ言わずに、人の主張を使わせてもらって言葉を発した。

もう亡くなられたけれど、佐藤初女さんというおばあちゃんが東北の方にいて(たしか青森)、その方が握るおにぎりを求めて全国各地から人が集まるみたいな、その人が本に書いていたことを私は口にした。

ちなみに初女さんのおにぎりを食べると、人は涙が出るらしい。

すっごい気を張っていたところに、そのおにぎりを一口食べるだけで心が緩む、そういうものを提供している人だった。

だから精神病んだ人とか死にたくて仕方ない人とかも数多く初女さんのおにぎりやごはんを求めてそこに行くようだった。

本の中で初女さんは、ベジタリアンやマクロビオティックの人たちに対して警笛を鳴らしていた。

体質とか宗教とかが関わっての食事制限ではなく、本人の希望でそれをした場合、こだわればこだわるほど人の話が聞けなくなってしまう、それは色んなことに心を閉ざして心がトゲトゲしくなるみたいなことを言っていた。
(ご本人のそうした方達と接してみての感想のように言われていたと思う)

その話を私は3人にした。

私はなんとなく「この話をしても差し支えない気がする」とその時とても自然に思えた。

それはそう思おうとして思ったのではなく、感覚的に「大丈夫」っていうのが先に来て、それをあえて言葉にするなら、「この話をしても差し支えない気がする」になる。

自然とそう思えて、そして実際にそれを喋っている自分がいた。

私の予感通りで、3人もそれぞれの感想をそれぞれ口にしていた。

何が言葉として出てきたかはもう忘れたけれど、3人と話しているといつも感じる。

相手を否定せずに自分の言葉を言える方法があるんだよ、って。

特にこんなに主義主張が100人いたら100通りあるみたいな話なら、往々にして戦争のような会話になりかねない。

誰かが誰かを否定して、そしてまた他の誰かが否定した誰かを別の角度から否定する。

3人はそれを一切しない人たちで、そしてそのまま淡々と各自が自分の言葉を発したり、そういう気分でないとするなら話さないとか、とにかく本当にビックリするぐらいに穏やかな空気の中で会話ができる。

1つ前の記事の中に書いたけれど、私のホロスコープのテーマの1つに「夕食のために用意されたテーブル」というのがある。

「深い事情を聞かないから誰でも来ていいよというような、ちょっと居場所がないからちょっと寄ってお茶でも飲める同胞が集まる場所」という意味のもので、3人が作り上げたスペースは、まさにそういうものだった。

事情は何でも良くて、それよりも私が私でいること、各自が各自でいることを、ただただその場では求められている気がした。

それぞれに合わせる必要はなくて、自分でいていいんだよ、そんなメッセージが聞こえてきそうな場所だった。




最後に、コロッケ1つと油揚げ1つがお皿に残っていた。

ノムとミッチーではんぶんこしよう!ってノムがたしか言って、それでミッチーが実に上手くはんぶんこにしていた。

油揚げは箸で2つに割るというのはものすごく難しいことを私は知っていたから「箸だと難しいかも」と口出しをしたけれど、ミッチーはさすがで、多少時間をかけてもきれいに2つに切り分けていた。

ミッチーは何杯ごはんを食べるのかと思ったくらいにごはんをおかわりしていた。

ミッチーの体型からは想像できない食欲で、ミッチーもノムもその体のどこにそんなに収容できるスペースがあるの?と言わんばかりに、よく食べていた。

途中でミッチーは、「これおいしい塩なんだよね」と言って、台所の自分のトートバッグからだと思うけれど、塩を持ってきた。

それ見てたら私も食べてみたくて、レイさんから少しごはんをよそってもらった。

ミッチーがおいしいと言うなら、絶対においしいのがわかるから。

かけて食べてみると、塩以外にもだし的なものが入っていて、超おいしかった!

ミッチーたちもどこかの家で出されて食べてきて、それで知った塩とのことだった。

その場にいた時に、私は不思議な気分になった。

今日、それもまだ出会って4時間ぐらいでしかないのに、まるでそこにいるのが自然な感じで、とても知り合って4時間の仲だとは思えなかった。

ホーム感に近いものがあった。

これどこかで知っている感覚だ…と思って今振り返ったら思い出した。

亡くなってもう12年経ったけれど、母方の祖母ばばちゃんに会いに行っていた時の感覚に似ている。

私は20代の頃、120キロほど離れたばばちゃんのところへ、年に何回か1人で通っていた。

何をするわけでもなく、本当にばばちゃんに会いに行くだけだった。

ばばちゃんだけが唯一、私のことを丸っとそのまま受け入れてくれる人だった。

うちの母親は、とてもじゃないけれど、ばばちゃんの娘だとはとても思えないぐらい、親だから仕方ないのかもしれないけれど、どうしたらこんなにも否定だらけなんだ?と思う。
(ちなみに、母からして孫にあたる姪っ子のことは、何をしていてもかわいいみたいで、妹たちとも自分たちの母親とは思えないぐらい心広くまるっと存在ごと受け入れているよねと言っている。)

これはこの1年のどこかで、母の妹にあたるおばから聞いたことだったけれど、ばばちゃんはおばには私がドミニカに行くことを反対していたことをポロッと言ったらしい。

普段から誰かを否定することのないばばちゃんが「何で史子をそんな遠くまでやるんだ?なんかあったらどうするんだ?」と言っていて、おばもビックリしたと言っていた。

それ聞いて、胸にグッと迫るものがあった。

ばばちゃんは私にはそんなこと一言も言わず、気をつけて行ってきなせぇと言って送り出してくれた。

私が載っていたとある日の新聞を出してきて、それを私に見せながら、嬉しそうにばばちゃんは話していたから、まさか私の知らないところでそんなことを言っていたなんて、つい最近まで知らなかった。

そして、それがばばちゃんに会った最期になった。

次に会った時は、もうばばちゃんは肉体すらなくて、骨となって骨箱の中に小さく入っていた。

もうばばちゃんには会いたくても会えない。

それは、あのすべてを包み込んでもらうような空気に触れることもない、私からしたら永遠の喪失みたいなものだった。

もう死ぬ時までその時の空気の再現は無理だとずっと思っていたし、そもそもそんな空気が奇跡なんだと早々と悟っていた私は、人生とはそういうものだと思い続けていた。

そんな夢みたいなことを夢見ていても仕方ないから、あきらめることは容易(たやす)くて、あきらめたことさえ普段は忘れて生活している。

私が3人から感じた空気は、あのばばちゃんといる時に感じていた空気ととても似ていた。

40になった今、ますます人生お一人様プランが濃厚で、もう誰かと何かそういう空気を一瞬でも共有するなんて、夢物語というかドラマか映画の世界の話になっていた。

この1年ぐらいで、心苦しい人間関係の変化(良き人たちと自分自ら離れたこと)を経て、ますます自分の人生の向かう先が暗澹たるものになっていった。

ちなみに離れた理由は、離れた人間関係の人たちといると、自分がどうしても傷つくのがわかって、それで離れた。

私からしたら予期せぬ方向から暴投がやってくるから、それを受け止められる自分じゃないし、そこでずっと悶々としなきゃいけないのは何か違う気がした。

すっごい好きだったりお世話になった人たちでも、その言葉にならない傷となる出来事があると、私はそれに対して耐え続けるより離れたいんだとわかった。

だから離れていった。

自分の面倒くささもわかっているから、余計と人間関係に対して非常に臆病で前向きに考えられないところがあった。

しかも、ホロスコープの巨匠2人からお墨付きの「読めない人間関係」が人生の中でどうしても繰り返されることも知っている。
(言われたからそう思ったのではなく、そういう特徴があるのは気付いていたけれど気のせい…と思い込もうとしたら、反対にそうですよと質問しなくても言われたから、あぁそうなんだと確信した。)

そんな色んな諸事情満載の私に、この夕ごはんタイムは想像以上の癒しをもたらした。

星トリオの3人に会うことやミッチーのごはんを食べることは行く前から楽しみにしていたけれど、行ってみてもちろんその楽しみも想像以上に満たしてもらうんだけど、それ以外の想像できない部分の良きことがあまりにも多くてビックリした。

3人はそれこそ精神世界で言われる鉄板の言葉「無償の愛」を体現して日々生きている人たちだと思う。

それは聖人的な態度とかいうことではなくて、3人の在り方そのものが「愛」って感じだった。

ノムはそれを口にできても、レイさん、そしてミッチーなんかは絶対に口にしないと思うけれど、言葉にしなくても伝わってくる。

「愛がすべてです」って、本人は意識してるのか無意識なのかわからないけれど、ノムもレイさんもミッチーも愛に溢れている。

そしてばばちゃんが発していた「なんでもいいんだよ、生きてくれているだけで御の字だよ」というような空気を3人は無意識に放ってる。

そういうことにだけは異常なほど敏感だからわかる。

仮に3人から「ぶっしー違うよ」と否定されても、私にはわかる。

「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」

ノムが言っていた言葉を私はあそこで体験してきた。

自分が好きな人たちと大切だと会った時から感じてた人たちとごはんを一緒に食べれるしあわせを私は体験してきた。

「愛を食べる」ー本当に現実レベルで可能なんだと知る。

eat LOVEの言葉に相応しく、私は愛を食べてきた。




これを書いた夜、少し早めに寝たら真夜中の1時半に目が覚めた。

夢の中で私は、eat LOVE聖地の母屋にいて、夕ごはんをこれからいただくみたいな時間だった。

レイさんとミッチーが決めた献立があって、その日も何か揚げ物のようだったけれど、これが何だかすごい自然で、遊びに行ったというより私の日常みたいな感じに仕上がってた。

あの行った日ではない別の日というのは、なぜかはっきりとわかっていた。

リアルっぽい夢をいくつも見て眠りが若干浅めで、いつもなら真夜中に目覚める時の夢は決して見て良かった!なんてならない。

でも今日は、見れた内容に私はすごい静かにしあわせを感じていて、起きた時も胸のあたりがほんわかしている感覚だった。

日中6時間も話したことの内容が思い起こされた。

5時間半近くはノムonlyで、最後の30分くらいにミッチーも参加しての時間だった。

私は終わってから自分のマヌケぶりに気付いたけれど、もしミッチーが参加してくれなければ、私は事の重大さに気付けなかった。

ノムが電話で話したいと言うほどなのに、それは単に私がその前にノムにホロスコープの新発見した特定の見方を試して結果を教えて欲しいとお願いしたことをメールで説明するには大変だから代わりに電話したいと言ったのかと思った( ̄∀ ̄;)。
(実際に前半3時間は、主にそれの時間だった)

ちょっと内容をほのめかす事は言っていたけれど、それはノムが個展を開いている今は、その個展にまつわるものと同等の話なのかと勝手に思っていた。

ノムがミッチーも同じくらいすごい悩んでると言っていて、でもそれも小骨が引っかかっているみたいなことがずっと続いているのかと勝手に解釈した。

日常を脅かすものではなく、日常にあるとどうしても引っかかってしまうもの…、そういうレベルの話なのかと私は思いっきり勘違いしていた。

思い出した。

話の方向が一気に変わったのは、私が食い意地が張っての質問をした時だった。

食い意地が役立つなんて、もうこの時だけだと思う(苦笑)。

今日の朝ないし昼は何食べたの?何のトーストだったの?みたいなことを聞いて(←本気で知りたかった)、それが今作っている土手煮が第1食目だと始まり、えー!?じゃあおなか空いたねー!みたいな、本当にひたすら自分の食い意地レベルに合わせた返答をしたら、実はそのノムが話してくれたことにミッチーも超悩んでいて、最近食欲がない、よく眠れない、僕はそういうことがあるとすぐに食べることや寝ることに影響が出てしまう…みたいな返事が返ってきた。

っていうか、そんなに重篤なことだったんだと、私はその時初めて理解した。

これ書きながら、ノムごめーん!と大真面目に思ったけれど、eat LOVEのそもそものコンセプトにある「愛を食べる」の「食べる」ことができなくなるぐらいに影響が出ていたことだと、私もようやくその事の深刻さを知った。

っていうか、どうしてノムが最初に「話を聞いて欲しいことがある」と言ってきた時に気付かなかったんだろう…と思った。

ノムと話してた5時間半でさえも、私はノムの感じからそんな深刻なことだと全く理解していなかった。

それがミッチーの食べれない眠りにつけない発言で、ようやくそのレベルなんだとわかった。

ダメージ100がマックスなら、ダメージいくつぐらいの話なの?と聞くと、「ダメージ100」とのことだった。

私は勝手に10とか20の話だと勘違いして、ノムに超ごめんと今書きながら思っている。←そう聞いた時は驚きすぎて、頭がそこまで回らなかった。

ノムとミッチーにとってすごく大切にしているeat LOVEの世界が、要は愛ある日常が脅かされるレベルのことに2人が今直面しているということ。

ノムとミッチーで織りなす作品が、そのままにしておけなくなる、それは私がこのブログを書けなくなる、「生きるを綴る」このブログが書けなくなるのと同じくらいのことなんだと、今の今やっと理解できた。

私は電話の向こうで2人の日常が営まれていることを知って、安心した。

とりあえず外側はしばらく落ち着かないかもしれないけれど、2人の日常が、eat LOVEがきちんと今日は今日で営まれることに本気で今頃安堵した。

外側はどうしても、自分たちだけの力では何とかできるものばかりじゃない。

そうした時に、日常を脅かすみたいなことに直面した時に、それでも最後愛あるところに戻ってこれるというのはとても大きい。

愛ある普段の食卓の威力を今日は垣間見た気がした。

愛ある食卓の場所に2人は数時間前の夜、心も帰省したんじゃないかと、そうであって欲しいと思っている。

土手煮の材料は、遠く離れたミッチーのお母さんが送ってくれたものとのことだった。

愛ある食卓の上には、今日はミッチーのお母さんの愛ものっていた。

それって普通のことじゃなくて、限りなく日常でも、それは毎日毎日が奇跡の連続なんだと私も写真越しに改めて知る。

ノムが言っていた
【”ホーム”が、なによりもぼくには大切で、
そして、ぼくだけではなく、「みなさん、ホームって大事じゃない?」
「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」ってなことを、伝えてみたいとか思う気持ちがあって。】
これが、「愛」とか「奇跡」なんだと知る。

今から24時間前、私は今回の話を書くために、『eat LOVE』のサイトをもう一度見てきた。

心に残った部分をいくつか抜粋したんだけど、まさにノムとミッチーが今守ろうとしていることがこの抜き出したものと同じなんだと思う。

(私の書き方で誤解を与えると悪いから言うと、2人が真剣に向き合っていることは、2人の関係がどうなるとかいうことでは一切なくて←今日も2人は変わらずな感じだった、もちろんレイさんとどうだということでもなく、2人のこの『eat LOVE』に含まれる活動部分に関して向き合っている。)

ーー7/8の真夜中に目が覚めた時


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DAY14
ぼくはチーズトーストの日は必ず写真を撮っている。
見返してもふーんって感じだし、見返すこともほとんどないけれど、撮っている。


DAY12
やがて触れ合えなくなるのだから、なでられる今を、
かわいいねって直接伝えられる今日を大切にしよう。

あ、それってぼく自身についても同じだ。
この身体、この細長い肉体に細長い顔に濃い眉毛にたくさんのホクロのこの人、
今日のぼくは、今日しか会えない。
明日別れることになるのかもしれないのだから、出会えたことに感謝をしよう。

ありがとう、すてきな私。
ひとつも否定せずまるごとそのまま愛そう。
わたしはわたしを愛しています。ありがとう。

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2019/07/07のeat LOVEの食卓の風景

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