昨日から書き始めた振り返りの文章。
常に2つの気持ちの中でせめぎ合いが起こっている。
「せめぎ」を漢字にすると「鬩ぎ」になるらしい。
字の様子が、まさにどちらも相容れないまま、中で葛藤している様子がよく現れている。
私は時々自分がストーカーとは違うけれど、すごく重たくて相手に迷惑となっている気がしてならない時がある。
(距離とか状況とか関係なく)
会えない人を想い続けて、先が見えないのにあきらめようともせず、ものすごく痛い人だと思われても仕方ない。
自分でも突っ込みどころ満載すぎる。
もう1つは、「死んだら全部チャラになるから、生きているうちに伝えよう」という気持ち。
今指を動かして自分の中のことをこうして文章に起こしている。
これ死んだ後はさすがにできない。
そしていつも過去の文章を見て思う、あぁその時にしか書けなかったなぁと。
例えば今書いてる文章は今だから書ける。
これ時間が変わると、書けなくなる。
言葉がすっと出てくる時というのがいつもある。
でもその時はいつもということではなくて、その時その時で、そして時間が過ぎた時にはもう書けなくなる。
このブログを最初に再開しようと決めた時、「えっ?ブログを書くの?ブログで発信するの?」と思った。
正直、戸惑った。
だってそんなの相手の目に触れる確率なんてゼロに等しいじゃん!って。
でも当時再開して良かった。
今はあの時のことはあの時と同じ気持ちではもう書けないから。
そして当たり前だけれど、今(未来)のことはあの時には書けないから。
私は目立つことも好きではないし、なるべくこじんまりと気の合う人たちとだけつるんでいたいと思う。
そして、人からどう思われるのか気にしいだから、気にしいと言うより、変だとかズレてるとか思われるのも、理解されないのも嫌だから、極力自分のことは少ししか話さない。
いっぱい話してる風でも自分のことは相当ふるいにかけて話してる。
相手も選べば話す内容も精査している。
ところが、このブログを通じて書いてることだけは違う。
近くにいた時、直接コミュニケーションを取ろうと思えば取れなくもなかった時、あまりにも伝える手段も量も内容も限られていた。
当初私は相手のことを知りたいだけだったけれど、なぜだろう、それとは違う気持ちも出てきた。
私のことを知って欲しい、私が何を思って何を感じているのか、それを知って欲しいと思うようになった。
それは近くにいた時には一度も思わなかったことだった。
自分を出すことは本気で怖いことだった。
嫌われたくなかったし、ドン引きされるのも嫌だったから。
今は違っていて、嫌われてもドン引きされてもいいから(良くはないけれど)、知ってて欲しい、そういう気持ちに変わった。
だから、こんな重たいことを書くのはどうかと思う気持ちと、知ってて欲しいと思う気持ちと、半々でいる。
もちろん読まれてるという確証は本当のところはない。
それでも、多分目に入っていると思っている。
さすがにここでは理由を明かさないけれど、妄想とかではなく、そう思うに至る理由がある。
先の心配なんかしても仕方ないけれど、私は今回1年後の自分を想像して書こうと決めたのもある。
仮にこれからの1年も今と同じような気持ちで過ごしたとして、次の1年後にこうして自分が書けるか?と言ったら書けない気がした。
2年もしてまだそこに気持ちがあるの?というようなものを外に出したくない。
かっこ悪いとか恥ずかしいとかいう理由もあるし、それこそ自分でも受け入れ難い気がしたから。
今もそうだけれど、2年もしたら色んな状況が変わってもおかしくない。
結婚してパパになってるかもしれないし、他の土地に引っ越してるかもしれない。
それはわからないけれど、そんな風なことを少しでも想像したら何も書けないなと思った。
今だってその可能性がゼロではないと思う。
それでも、今ならまだ私がそうしたことを気にせずに書ける。
でも1年後、要は2年後は無理だなと思った。
気持ちが変わらなくても、もう言葉にすることはしない可能性がある。
だから2017年から見て1年後にあたる今しか書けないんだと思った。
言いたいことも伝えたいこともたくさんあった。
知りたいことも重ねたいこともたくさんあった。
だけど、それらは出すところを見出せないままその人はいなくなってしまった。
このブログはそのためにそもそも開設したわけじゃないけれど、今は今の使い方で活用している。
私は小さく、でも心は大きく賭けてみた。
もし本当に魂の繋がりがある人なら届くはず、って。
魂の繋がりにこだわっているのではない。
そんなのは証明のしようもなければ、ものすごく主観的な感覚でしか説明できないから、とりあえず言葉として使っている感覚に過ぎない。
便宜上そう言ってるだけで、それが「特別な縁」でも「変わった縁」でも「イレギュラーな関係」でも「一方的な思い込み」でも何でもいい。
何なら、その人からは「非常に迷惑なものを押し付けてきた人」として認識されてたって構わない。
縁とか関係などという括りにして欲しくないかもしれないから、その辺りの言葉は何だっていい。
だけど、その人だけは本当に感覚全てがこれまでにないもので、ものすごく普通ではないことだけはわかった。
真面目にその人に感じたような気持ちは、もう一生のうちで最初で最後かもしれないとさえ思っている。
そして、お互いに生きているからこそ出逢えて、生きているからこそ伝えられるということも。
私は自分の人生を振り返った時に、人との出会い方が若干不思議な感じになっていることは自覚している。
出会い方だけなら、私はいくらでもドラマや映画のネタとして提供できるぐらいに色々ある。
それは異性に限ったことではなく、友達も仕事も趣味も学びも、とにかくありとあらゆる場面で、本当に縁のある人たちとはあり得ない確率をくぐり抜けて出逢う。
1つだけ言えること。
そうやって本当の縁で出逢った人たちは、1人の例外もなく、出逢おうとして出逢わなかったということ。
すごい網の中をくぐって最後は出逢うようになっていた。
反対に「出会う」ことを目的とした場で出会った人たちとは誰1人関係が繋がっていくことはなかった。
そういうことをたくさん積み重ねていたから、だから私は小さくでも心は大きく賭けた。
その人は明らかに出逢おうと思って出逢った人ではなかったから。
そしてどれだけ否定して打ち消そうとしてもその倍の力でその人の存在そのものを見せられていたから。
そしてもう1つ。
2ヶ月ぐらい前に、占星術講座で知り合ったゲイの方の話をこのブログで書いた。
その時にその方の個展の案内をもらって、そこからその方のブログも知った。
これ本気でビックリしたことだけれど、なんとその方のブログを私はその人と実際に講座で出会う前に知っていて、ブックマークしていた!
そして、その案内をもらわなければ、その繋がりにも気付かずにいた。
1億人以上いる日本の中で、出会う前にその人の書く文章に先に出会うってどれだけの確率だろうと思う。
ちなみに私は、私に出逢う前に私のブログやあるサイトに寄稿した文章を読んだという人に2人会ったことがある。
そういうことも体験しているから、だからどこで何が繋がってもおかしくないと思ってる。
話が飛ぶけれど、このブログを再開しようと決めた日、あの時はいっぱいいっぱいだったから細かく客観的に分析もしなかったけれど、よく考えたらあの日の自分の感覚も起こったことも異質だった。
私の中でそれは「磁場が動く」感じと勝手に命名している。
言葉だけでは到底説明できないようなことが重なる。
私にしてみたら全ては「たまたま」に過ぎなかった。
たまたまその道を通った。
たまたま降り続いていた雨が止んでいた。
たまたま曇り空から月が顔をのぞかせていた。
たまたま目の前にその人の名前入りの洋菓子屋さんの車が止まっていた。
たまたまあるお店の前を通った。
たまたまその人と同じ車が目の前にいた。
でも、例えば今日、全く同じことを再現しようとしても再現できない。
そのうちの1つか2つを重ね合わせたものを見ることはできても、全く同じことを全て引き起こすことはできない。
そしてそれら全てを目にすることで、私はブログを再開しようと決めた。
再開する理由は1つだけだった。
伝えられなかったことを伝えたかった。
ただそれだけだった。
今の振り返りは、1年前に書けなかったこと、又は書いたけれどまたもう一度書きたいことを中心に書いている。
今当時の記録を読むと、「えっ?」ってなることがいくつもある。
例えば、Sさんという人がいる。
そのSさんが本当に色々と私にその人の個人的な顔の一部をあれこれ教えてくれてた。
私は自分の思ってることがバレたくなくて、自分からその人の話を振ることはほとんどなかった。
だけれど、お願いしなくても、Sさんはちょいちょい事あるごとに教えてくれた。
そしてそれというのが、ちょうどその人がいなくなった辺りから始まった。
私は仕事を辞める直前にSさんには本当のことを話した。
Sさんには「全く気付かなかった」と言われた。
それぐらい私はいつもすっとぼけて話を聞いていた。
SさんもSさんで、何で私に色々話してくれたのかはわからない。
わからないけれど、私は何回か「あっ、これ誰にも言わないでくださいね〜」と口止めされた。
誰かに話せるほど仲の良い人は他に誰もいなかったから口止めの必要は全くなかったけれど、それでもSさんにしてみてもとても個人的な話だったんだと思う。
そんな超個人的な話を何でSさんが私に普通にベラベラしてたのか、その理由はよくわからなかった。
たしかに私たちは何でもかんでも色んなことを話したけれど、その人の話だけは私からは振らなかった。
Sさんに告白した日、Sさんは言った。
「私仲介役の役目があったんですかね?」
仲介役は仲を取り持つという意味ではなくて、見えないものを見えるように取り繋ぐ、水面下のものたちを引き上げる、そういう意味での仲介役だったのかもしれないと思う。
Sさんとその人は共通の趣味で繋がっていた。
だけど、Sさんはその人が異動してきた当初、同じ趣味は持っていなかったとのこと。
ある時熱が再燃して、それでまた趣味が復活して、それをきっかけにその人と個人的に仲良くなったとのこと。
Sさんは言った。
もし共通の趣味がなければ今みたいにそうやって繋がらなかった気がします、と。
当たり前だけれど、2人の趣味もSさんの趣味の再燃のスイッチも私が介入できることは1つもない。
だけどそこはそこで繋がって、そして後に私もそのおかげで色々知ることができた。
そういうことも含めて、磁場が動くような何かがあった。
もちろん見過ごそうと思えば見過ごせる。
だけど、あの時確実に何かが動いていたし、そしていよいよ本格的に不思議現象たちがどんどん現れた。
その人にはその人の人生がある。
それを邪魔したいとは思っていない。
関わり合いになりたいけれど、なれなければそれは仕方ないとも思っている。
だけど、伝えたいことだけは伝えきってしまいたい。
私のこんな一方的なやり方であったとしても伝えたい。
私は普段自分が普通にできてることに対して特段思うことはない。
だけど、その人に向けてこうして書く時だけは、私はまるでどこかの仙人のようなものすごい崇高な境地になる。
目が見えて、指が自由に動いて、心で感じて、頭で過去を振り返って、浮かんだことを言葉に変えて、携帯を持って、ブログというツールを使えて、自由に発信する場が持てて、それら全てが同時進行できることの凄さを感じる。
そしてその人も私も同じ時代の同じ国に生きている。
同じ言語を使う。
年齢も近くて、そしてたまたま同じところで働いていた。
この間、職場の別の人にバッタリとドラックストアで会った。
1ヶ月以内のことだったと思う。
その時に、1人の人はすでに異動したし、もう1人もその週末ぐらいに異動するって教えてもらった。
だから私が働いていた時にいた人で今もいるのは、今の長しかいないと知った。
内情はよく知らないけれど、とにかく結構な速さで異動があることはわかった。
ということは、本当にその人がそこにいたタイミングの時に私もそこに行けたというのは、限りなくゼロに近いぐらいのものすごく低い確率で起こったことなんだと改めて思った。
まさかそんな人にそこで出逢うなんて全く想像さえしていなかった。
でも、出逢う予定の人だったんだと思う。
私にとっては、人生で必ず逢う予定になっていた人だった。
だからせめて私側のストーリーや私側から見えてるものだけは伝えたい、そう思った。
いつか死ぬんだから、自己満足でも勘違いでも何でもいい。
生きている時に、「出逢えた」ということを伝える、「出逢えて良かった」ということを伝える、それが今の私にできる全てだと思っている。
正直なところ、何がそんなにその人をいいと思うのか、その理由は知らない。
私がその人のことで知ってることはものすごく少ない。
もはやSさんからもたらされた情報の方が多いんじゃないかというぐらいに少ない。
それでも、もう何が何だかわからないぐらいに気になって仕方ない人だった。
そして、大真面目に生きてる奇跡に毎日毎瞬心から感謝した。
その人に引き合わせてもらえた全てに感謝した。
だから知らないのに何でそんなにいちいち全てが大袈裟なのか自分でもわからなかった。
ちなみにSさんは、Sさんが知ってることはものすごく限られたことだけで、個人的なことはほとんど何も知らないと言っていた。
Sさんが知らないなら、私はもっともっと何も知らない。
それでも強力な引力が働いて、その人から目が離せなかった。
その人の顔とか体とか雰囲気とかそういうのを見てたのとも違ってた。
そもそも顔は真正面からガン見なんてできなかった。
自分でも何を見てたのかきちんと説明できないけれど、その人の何かに強烈に惹かれてたのは間違いない。
きっかけはちょっとしたことだった。
でもきっかけも今となれば、「俺ここにいるよ」と気付かない私に気付かせるために起こったことじゃないかと思っている。
その人がアピールしたというよりも、人生で私が大切な人に出逢っているのにも関わらずスルーしそうになっていたから、ここにいるよ、と私が気付くためにもたらされた出来事だったのかなと思う。
そんなあれこれを含めて、今伝えたいこと、今だから書けることを書こうと思って書き始めた。
節目の日にアップする予定でいる。
余談だけれど、書きながら思い出したことがあった。
私はSさんとその人の関係にめちゃくちゃ嫉妬した時があった。
まだその人がいた頃、Sさんの席の近くで2人で立って何かしらの作業をしてた。
今考えたら、私明らかに何でそんなのを見ていたんだろう?と思う。
それを見るには私は体の向きか、体は変えなくても顔の位置は変えないと見えない。
だけど、どちらかを調整してまで私は無意識に見てた。
SさんはSさんのままだから何も思わなかったけれど、普段ポーカーフェイスのその人がめちゃくちゃ笑顔で居心地良さそうにSさんと喋っていたのがめちゃくちゃ羨ましかった。
しかも私そんなに遠くを見渡せるほど視力が良くない。
でも、はっきりとその人の穏やかな顔と表情はよく見えてた(横顔)。
しかもその人はきちんとSさんの方を見ながら話してた。
それもものすごーく羨ましかった。
だからSさんから話を聞く前から2人が仲良しなのは気付いてた。
まさかそれらが後に色んなことに繋がっていくだなんて、そのシーンを見た時には想像もしていなかった。
もっとも私自身もその時はまだ自分の気持ちもわかってなかったから、全力で否定と打ち消しをしていた。
今思い出して書いてたら、そもそもの体勢に無理があるのにそれを突破して普通に見てた自分の方に驚いた。
今さらだけれど、すごく恥ずかしくなった。
これも後日談だけれど、私は本当に一体何を見てたんだろう?と思うけれど、Sさんとその人の話になった時、いくつか私個人の勝手な見解を言ったことがあった。
Sさんは気付かなくて私だけ気付いたことや、私が気付いたことを言ったことでSさんも「言われてみればそれ当たってる!」と言ってもらったこともいくつかあった。
多分私が気付いたことは、合っていると思う。
さんざん現場で鍛え上げられた、その人その人の良さやユニークなところ(ユニーク=唯一無二)を発見する力で見てる部分だから、おそらく合っている。
私だけが気付いたと思うとちょっとだけ優越感に浸れた。
Sさんに対して優越感ではなく、その人のその良さを自分だけが気付けた!という優越感だった。
書いてて思った。
私もう一度その人に会いたいんだなぁって。
その人の良いところもそうじゃないところも目の前で全部見たいんだなぁって。
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