2018年8月18日土曜日

去年の夏と今年の夏と

1年前の夏と今年の夏は180度違っている。

異次元と呼んでもいいぐらい。

同じ体で同じ自分でそれぞれの夏を体験したとは思えない。

それぐらいに全く違う風景の中にいる。

突然、去年の夏がものすごく遠いものになった。

プツッと張り詰めていた糸が切れたのか緩んだのか、これまでの位置と同じような場所にありながらも何だか遠くなってしまった。

あの時だけがすごく特別で、夢の中や想像の中の出来事だったんじゃないかと疑ったほどだった。

あまりにも色々あるから、私は毎年今ぐらいの時期に何をしていたのか、夜寝る前にノートに書き出してみた。

2009年の就活に始まり、とにかく毎年毎年違う言葉が揃った。

去年だけ異色だった。

ずっとずっと近くにあった。

いつでもどこでもずっと自分の中に内臓されていて、それが近さの理由だった。

近いも何も常にあるから、それに目を向けるかどうかだけの差でしかなかった。

それがどういうわけかこの数日で質が変わった。

膜が張ったような、とにかく遠くの存在に代わった。

「これが最後じゃない」

その人を最後に見た時に私が感じたことだった。

その思いは本当にいつまでも残った。

そう思いたくなかった私の気持ちだけなのか、そうではなく本当に予感のような感じでそう思ったのか、そこはよくわからない。

よくわからないけれど、その思いはこれまで大なり小なりあった。

花火を見た日、過去の日記を書き続けた日、それらを経た後、今みたいな膜が張ったような、遠くに行ってしまったような感覚が生まれた。

色褪せたのとも違うし、否定してるのとも違う。

確かにあったことなのに、突然遠くに行ってしまった。

関係ないけれど、花火の日、なんと車を止めた場所と同じ駐車場の同じ階に見覚えのある車が止まっていて、見間違いかと思って近くに寄って見たら多分そうで、それは3月まで働いてたところに勤めてる人の車だった。

週に2、3回はすぐ隣りに止めてたし、まぁ週5並みに毎日同じ場所に止めてたからそうだと思う。

県外ナンバーで数字も特徴ある数字で車種も色も同じ。

多分間違いない。

ひたすらすれ違いませんように…と祈った。

会ったら挨拶はできるけれど、決してばったり会いたいとは言えない。

すれ違わずに済んだけれど、こういうシンクロも多いなぁと思った。

だって全国的に有名なその花火大会の日、駐車場は通常よりも数が増える。

あちらこちらに無数の駐車場があって、しかもそこは立体駐車場で何百台と止められるはず。

なのに何でそんなピンポイントで同じ駐車場の同じ階に止めるんだろう?と思う。

余談だけれど、私はまず誰か職場の人にプライベートでどこかでバッタリ出くわすことはない。

花火の日は車だけだったけれど、私はあんなに少ししかいなかった職場なのに、勤めてまだ3ヶ月目に入った頃、某スーパーでその当時の職場の人にバッタリと出くわした。

向こうが「武士俣さん!」と声をかけてきて、それがその人も私もどちらも生活圏内では全くないところで出くわしたから度肝を抜かれた。

「武士俣さんこんなところまで買物に来るんですか?」と聞かれたほどだった。

私も同じ質問を返した記憶がある。

その人だけは唯一普通に話せる人だったから、後日奥さんきれいですね、ということまで言えたぐらい(奥さんではなく奥さんの妹だったらしい)。

確実に普段起こらないようなことがバンバンと起こり始めた時期だった。

それは今も変わらないし、年初めから春先にかけてはもっともっと色んなことが重なりまくった。

話がそれた。

お盆に入る直前ぐらいから、あんなに近くに感じられたものが突然様相を変えた。

膜がかかったみたいな感じとしか言えない。

そのことと関係あるのかはわからないけれど、この間ある記事を読んだ時に、そうだったのかな…と思ったことがあった。

それは人生が生まれてくる前に計画されたものか、それとも自分の自由意思で選んで生きていくものなのか、という話だった。

その方の解釈はとても面白くて、それは両方だと思うという説を唱えていた。

どこから人生を眺めているのかで見え方が変わるという話で、天国じゃないけれど天空から地上を眺めた時には人生は決められた通りに展開していて、でも地上で見ると本人が選んだ先にその日常が展開しているように見える、みたいな言い方をされてた。

人と人とが出会うことは決まっていて、生きている自分たちからしたら今出会えたみたいに感じるけれど、上空から見るともう予めこのタイミングのこの場所で出会うと決まっていて、計画通りだね、となる。

歩いて角を曲がったらその人に偶然出くわした!みたいに生きている私たちは感じるけれど、人生の計画からしたら上空からAさんとBさんがそれぞれの道を歩いていて、その角のところで会うようになっていることが丸見えで予定通りだねとなっている。

そんな風に書かれていた。

あくまで書いた人の考え方ではあったけれど、私には妙にしっくりきた。

私はそれを読んだ時に去年の夏のことを中心に色んなことが心の中を駆け巡った。

30代のこの10年ぐらいのカオスな人生を見ていてわかる。

生きている私からすると、多くのことが計画外で何で自分の人生はこんな風なんだろう?と思うことはかなりある。

ただ、人との出会いに関して言えば、かなり綿密に計画されたものだと感じるようになった。

しかも出会う順番も狂うことがない。

本当に計画にのっとって登場してくれてるとしか思えないぐらいに。

色々ある中で、私の場合は、何かしらの理由で疎遠になっていくタイミングがある。

それは物理的な引越しの場合もあれば、役目を終えると徐々に疎遠になるのか今は全く会うことがないという人もいる。

好き嫌いとかではなく、本当に感情ではない理由で人間関係が推移していく。

もちろんそれでも繋がり続ける人たちもいる。

前置きが長くなったけれど…。

去年の夏のことは、もう最初からあの短い時間だけ登場する予定の人だったんじゃないかと思った。

私からしたら突然現れた人だったけれど、それこそ生まれる前に「38歳の夏、地元にて働いていて、そこで○○という男性に出逢う」と計画がされていたのかもしれない。

時間にしたら短いけれど、影響はすごく大きかった。

何年もかけて私は自分の心のケアをしたり内面を見つめることをした。

ガッツリとやっていた時期は足がけ4〜5年になると思う。

その4〜5年で積み重ねたものは今の私の状態になるための基礎的な部分で、おかげで心の土台は相当しっかりとしたものになった(自分比)。

そうした積み重ねで起きた変化よりも、もっと大きな影響を与えてくれたのが、去年の夏だけいた人だった。

「磁場が動いた」と言ってもいい。

私の中で想像もしていなかった形で自分の中も外もたくさんの変化が起こった。

起こそうと思って起こせる変化ではなかった。

気付いたらそうなっていたし、私が今生必要とする力のスイッチがその人の登場によってオンになった感じだった。

そもそも最初は1通の手紙から始まる。

手紙がブログになり、ブログと書くことがリンクし、それが自分の名前に繋がり、自分の中に刻まれているものに興味が出てホロスコープに行き着き、さらには言葉で説明しても怪しいだけの目には見えない力に気付き、ヒーリングに本格的に興味の方向が流れた。

手紙を必死で書いてた時にそんな展開なんて想像さえしていなかった。

大きいものだけ挙げたけれど、他にも細かいことはたくさんあった。

私の場合、発芽した感じだった。

その人の登場により硬く閉じられた蓋がカパッと勝手に開いて、そしてどんどん広がるようになった。

もちろんそれら全てを体験しているのは私だし、じゃあその人が何をしたかと言えば何かをしたんじゃない。

その人はただいるだけだった。

ただそこに存在するだけでそれだけの影響を引き出すなんて、普通に考えてありえない。

だけど疑いの余地もないぐらいにそうなっていて、その人が登場しない人生だったら今は全く別の人生になってたんじゃないかと思うぐらいに。

だからすごい影響力なのは間違いなかった。

間違いなく、私の人生計画に含まれていた人物だったと思う。

色んな種類のセラピーだのコーチングだのを受けて、本物の力を持ってる人に当たるとありえないほどの変化が起こることも知っている。

自分が体感したからわかる。

ところがその人は何もしなかった。

指一本私に触れてないし、何なら無視みたいなことまでされたこともあって受け入れ難いものもあった。

なのに、その実力者たちの知恵や技術を借りて変化したことよりも遥かにたくさんの変化がその人がいるだけで起こったわけで、今冷静に考えるとありえないことがわかる。

もし、その人がそういう役目の人であるなら、今は人生が交わらない理由もなんとなくわかる。

こんなこと認めたくないけれど、人生の中で自分ではどうにもならないことがある。

他の人は知らないけれど、私の場合、それが相当顕著に出る。

それは自分が望む望まないは関係ない。

望まなくても、人生においての役割が終わると絶対的な別れが訪れる。

それは止められない。

その人とは付き合ったわけでもなんでもないから「別れる」という表現自体もおかしいけれど、もう人生の中に登場しないということはそういうことなんだろう。

スイッチをオンにしてくれるところと私の頑なに閉じていた気持ちを開くこと、そこの部分は十二分に満たしてもらったから、終わりなのかな…と思った。

だからということではないと思うけれど、本当に突然膜がかかったみたいな感じになって、しばらくは去年の夏のことが幻のように感じた。

いきなり遠くになってしまった。

もしかしたら防衛反応なのかもしれないし、単に認めたくなくてあがいてるだけなのかもしれない。

でもこれまでと距離感というか質みたいなのが異なってる。

その人の名前は相変わらずあちらこちらで見聞きするし、完全に存在がなくなったのとも違う。

だけど、何かが少しずつ変わってきた。

私はこの文章を本当にアップするのかどうかを迷った。

もっと言うと、最初は数行しか書いてないまましばらく放置してた。

9月に入ると今度はいよいよ色んな記録たちが残されているから、何かしら開けば当時のことが鮮明に思い出せる仕組みになっている。

もちろん開かない可能性もある。

開いても開かなくても9月には9月の風が吹く。

その時に今の気持ちはもう書けない。

もしかしたら今の膜がもっと強固になってしまうことだってあるし、そんなことはなかったかのようになってる可能性もある。

または何かがガラリと変わることももちろんゼロじゃない。

だから残そうと思った。

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