ホロスコープで自分調べをする理由を考えてみた。
このお盆はメンタル的にかなり重たいものになった。
その前に2週間ほど心の毒出しをしていたことも関係している。
家族や親戚間で思わぬ事態がいくつか出てきた。
どれ1つを取っても、本当に何てことないことばかりだった。
誰かが大きな問題を抱えるわけでも、お互いに傷付け合うようなことをしたわけでもない。
ごくごく普通の生活の中のちょっとした場面の連続でしかなかった。
だけど、私はちょっとした場面に身を置いて、自分のメンタルはもう限界だった。
泣けるものならその場で泣きたかったぐらいに。
だけど泣かなかった。
そしてその繰り返しをした中でやっと繋がった。
私がどうして家の中で居場所がないように感じたり、周りの人たちの無意識の部分を読み込んでしまうクセがあったりする、その大元のところ。
塾に勤めていた時に、私はある時1つとても褒められたことがある。
褒めてくれたのは外部の人だったけれど、その人も教育に携わっている人だったから、そう言ってもらって嬉しかった。
褒められたことはこうだった。
私は子どもの電話越しの声や、教室に入ってくる時の声や空気で、何となくその子の状態がわかるところがあった。
それは本人の顔が見えない状態で、それ以外からの情報で私は感じていた。
「今日何か変」っていうのは、本人が隠そうとしてもわかってしまうところがあった。
ストレートに突っ込める子にはストレートに聞いていたし、そのタイプではない子には様子を見てどうするかはその都度考えてた。
しれっと関係のなさそうなことを話しかけてみたり、もしくは後日直接聞いたり、又は具合悪い?と聞いたり、まぁ色々だった。
その察知する力や判別できる力について褒められた。
この能力、どこから身に付けたのかずい分とわかっていなかったけれど、この度家族や親戚一同の中に身を置いてわかった。
子どもの頃からの癖で、黙っていればいるほど物事はよく見えていて、その自分なりの理解の上で変に先回りして動いたり反対に気付かなかったフリして普通にしてたり、そんなことばっかりしてたんだなと気付いた。
でもそれと自分の気持ちとは別物で、私は自分の気持ちを奥に追いやってでもその場の平和を維持するために行動を選択するクセがある。
だから自分の気持ちは殺されたような状態になる。
当然本当は苦しかったり悲しかったり寂しかったりする。
それを私は毎回奥に追いやっていた。
そして気付くと、人に気を使ったり、自分だけは大丈夫と毅然に振る舞ったり、まぁ自分を無視するという意味では私はかなりなやり方を自分自身に強いていた。
自分で気付くようになっただけでも私にとって大進歩だった。
ホロスコープで自分調べをする理由。
それは自分を客観的に知ること、そしてその自分に合った生き方や価値観に繋がるヒントが欲しいからだと思う。
例えば、
・自分を好きになる
・自信を持つ
・どんな自分も受け入れる
・自分のしあわせを見つける
・自分軸で生きる
とかいうことをよく自己啓発でもスピリチュアルでも謳われている。
悪いことじゃない。
そしてそういう本や講座が人気なのもわかる。
だけど、私はそういうことを求めてるわけじゃないとわかってきた。
>自分を好きになる、なんて相当ハードル高い。
むしろ、自分のこと嫌いでもいいから嫌いなまま生きる術を知りたいと思ってる。
>自信を持つ。
これもまた難しい。
私という人は、自分が取り組む分野においてはどこまでも自信のないタイプの人。
これはホロスコープにも出ている。
自分に厳しいし、アホみたいに高いレベルのものを自分に要求する。
今は気をつけているけれども、それでも本来のクセはそちらだから、いくらやれてももしくは結果を出しても自信はなかなか持てない。
でもそのぐらいがちょうどいいのかもしれない。
>どんな自分も受け入れたいと切に願っている。
これは拒否したい自分が少なければ少ないほど生きやすくなると思っているから。
だけど、これ難しいとわかる。
特に私は人間関係が発生すると、変な気遣いをしてどっと疲れるか、もしくは近しいとある日突然怒りに火がついてしまって相手は関係ないのに不機嫌になってしまったり。
そういう自分は仕方ないと思うけれども、受け入れ難い気持ちはそんなに変わらない。
>自分のしあわせを見つける。
これはハードルの低いものと高いものがある。
子どもの頃からの不遇な時代のおかげで、私のしあわせバロメーターはかなり低いし、一般的な人たちよりもしあわせを感じる力は相当強いと思う。
だけど、そのしあわせを感じる力や強さがすべてを良くしてくれるわけではないと最近わかってきた。
そして人生で本当に叶えたかったことが叶わなかった時、それでも私は自分がしあわせに生きているなんて言えなかったし全く思えなかった。
今時間薬が効いて、そして自分を色んな形で癒して、ようやくその現実を10年近くかけて受け入れ出した。
しあわせ?と聞かれたら私は「心から笑える瞬間が出てきた」としか答えられない。
そして「今ここがすべてで、しあわせは感じるもの」だとよく言われるけれど、私はそんな綺麗事だけを言い並べるよりも自分の気持ちの通りに気持ちを感じる方が自分は楽になれることがわかってきた。
>自分軸で生きる。
というのはあるところでは大切だし、だけどそうできない時、できてないと自分で自分を思う時、そんな時の自分との向き合い方の方が大事だと今は思っている。
だから、自分が色々ひねくれているのもわかるけれど、もうこういう自分でいるから仕方ないところもある。
私が自分調べをするのは、そういうひねくれていると思う自分でも、ダメだと感じる自分でも、人と交わり出すと自分が二の次になりやすい自分でも、今ここでしあわせなんて感じられないと反発する自分でも、もうその自分で生きていく覚悟のようなものが欲しくて調べてる、そんな気が今回した。
ホロスコープは調べれば調べるほど、私という人がどんな特性を持っているのかを教えてくれる(正しくは、突き付けてくれる(汗))。
例えば「自信を持つ」こと。
一般的には自信を持つことは良いことだとされる。
私もそれに反論するつもりはない。
だけど、そもそも自信を持ちにくい、自分で自分に完璧主義を求める傾向がある、となったら、「自信を持つ」ことを求めること自体、余計な負担を自分に強いることになりかねない。
それは「アレルギー体質を完治させて健康になろう!」と言ってるようなものだと思う。
例えば卵アレルギーだったとして、卵を食べないことでそれを防ぐことはできても、アレルギー体質から非アレルギー体質になるというのは、相当難しいと思う。
卵アレルギーを持ったまま、その人はその人のやり方で自分の健康を作っていく、というのが本来のやり方だと思う。
で、これが体のことだとそういう対応になるにも関わらず、心や性格的なことになると、日本という国の中ではまだまだ「自分を好きになろう!」「自分を受け入れよう!」「自分に自信を持とう!」みたいな凶暴なやり方がまかり通るところがある。
そんなわけない、と思う。
みんながみんな、良いとされるものを受け入れて生きていけるわけじゃない。
ものすごい卑しい例を出す。
私は世界共通の英語のテストTOEICで世界で上位3パーセントの中に入る成績を残した。(←今は無理)
私は何の前情報もなく受けたから、その成績が世間一般ではどう凄いのか、後から知った。
私はわかってないから「世界共通の英語のテストを受けた」に過ぎなくても、周りの人たちからやたらと評価されるという変な感じになっていた。
そうなった時、私がどこを見るかと言えば、自分より下の人ではなく、自分よりできる人たちを見て「自分はまだまだ」だと思う。
これは本気でそう思ってる。
そして、小難しい英語の何かを人から頼まれると、例えば東大受験の子の英作文の添削とか、医療系大学院の論文の添削とか、そういうものをする時に私は大丈夫かな…と相当心配になる。
引き受ける前には当たり前だけれど、「私が間違う可能性もたくさんあるから、それを承知の上じゃないと引き受けられない」と言う。
誰もそんな完璧なものを求めていないのもわかるし、私も自分を見て自分がバカじゃないかと思うこともある。
ましてや完全なるボランティアでしてたから、それでお金をもらうわけでもなかった。
なのに変な責任感を感じたり、やるならやるできちんとやらなきゃいけないと思っている。
基本、相手のあることだと適当にできない(自分のことは適当にできるのに)。
私の場合、そうしたものを特性として持っている。
ある程度極めても、私にとって極めた分と自信を持つこととはイコールにならない。
すんごい嫌味みたいに周りから映ったとしても、私は自信がないことや完璧主義は生涯付き合っていく自分の性格だと思ってる。
私の場合で言えば、「自信を持つ」ことは難しくても「完璧主義なところを緩める」ことはまだ手が届きそうな気がする。
だからそのやたらときっちりとしなきゃという自分に気付く努力はするようにしている。
自分に変なプレッシャーを与えていないかも見るようにはしている。
だけど、そういうのをさっと自然に引き受けてサラサラっとやる人たちのようには多分私はならない。
そうするには私は相当な自己改革が必要で、そんなことしてまで自分を何とかしたいと思っていない。
なら自分はそういう自分です、とさらけ出せる方が楽だなぁとここ最近は特に感じる。
今はそうやって自分を見れるようになってきた。
そしてそもそも持ってない資質を持とうと努力するのはアホらしいと気付いた。
持ってない資質を無理に作ろうとするよりも、持っている資質を活かすなりもう少し自分の扱いやすいように付き合い方を考える方が自分のためになる。
それは教科書通りの考え方では何とかならない。
たくさんの素晴らしい教えに触れるよりも、自分のホロスコープを見てそこから知り得たことを自分に活かす方が有意義にさえ感じる。
そうしたクセを見るにもホロスコープはものすごく役立つ。
冒頭の居場所のなさだの人の非言語の部分のコミュニケーションの読み取り能力なんていうのは、もうそういうものとして付き合う術を見つけることが私の場合は生きやすくなる。
自分は自分でしかないから、と言うよりもそういう不完全な自分で完全体だとも思っているから、そういう自分といかに上手くやっていけるかだと思う。
それを教えてくれるツールがホロスコープになっている。
ちなみに占星術家いわく、ホロスコープで自分の苦手分野を知ったからと言って、そしてそれを良くしていくヒントを知って実行に移したからと言って、得意になるのとは違うと言ってた。
人によって違うけれど、その良くしていくヒントは、ものによってあったりなかったりする。
ないというのは手段としてないという意味ではなくて、基本的にはこういう分野においては相当キツイ体験をしますというのが誰にでもあって、それに対して緩和してくれる役割の星があるかないかの差。
私の中では、傘を持っているかどうかの差だと思う。
雨が降れば誰でも濡れるわけで、傘があれば雨を止められなくても雨に濡れない手立てを立てられる。
雨にあまり濡れずに対応できるというか。
反対に、緩和してくれる星がないというのは、土砂降りの中、傘なしで進むような感じ。
濡れ方も半端ないし、防御のしようがない。
私の場合も、星たちがフォローする配置になってる部分もあれば、フォローなしで傷が剥き出し、傷口に塩を塗るみたいなところもある。
どの人が言っていたか忘れたけれど、それいいなと思ったことは覚えている。
例にあったのは、自己表現が苦手な星の配置を持ってる人だった。
その自己表現が苦手で、例えば実際の仕事の場面でもプレゼンテーションとかがとにかく苦手という人がいたとする。
ホロスコープの配置にもその苦手だということが出ていて、そしてそれをカバーすべくヒントを手にしたとする。
その人がそういう自分を何とかしようと努力したとして、超一流の話し手みたいになるわけではない。
そうじゃなくて、苦手は苦手でも本人の中で「前は人前で話すことが苦手だった」ものが、今は工夫をすることで苦手でもできる部分が増えた、みたいな感じらしい。
苦手を克服するというよりも、自分の人生の中にそうしたテーマがあると気付くことや、テーマが苦手でも苦手のままそれとどう向き合うのか、それを教えてくれるのがホロスコープとあった。
私の場合も、色々と勝手に起こりやすい人生の流れや心の拠り所のなさ、人間関係の中で生まれる痛みなんかもきれいにホロスコープに出ている。
それは巷に溢れている作られた価値観よりも、ずっとずっと自分の気持ちに寄り添えるヒントになってくれる。
だから迷った時、ホロスコープを使って自分を調べる。
調べていくうちに、自分に響く言葉と出合う。
そして自分の向かうところや今ある場所のヒント、過去の癒されなかった傷への薬がわかったりする。
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