雨の日とアイスコーヒー。
ちびっ子ギャング襲来の日に限って雨。
しかも本降りの雨。
テンションの上がらない天気を前に、車の中でアイスコーヒーを飲みながら行こうと決めた。
朝支度をしながらある冬の日の光景を思い出していた。
多分去年の年末ではないかと思う。
1年の垢落としのために日帰り温泉に行った。
1年の終わりに天然温泉に行くのはいいと聞いて、それで近隣ではなくちょっとだけ遠くの温泉に行った。
最後化粧水やクリームを付けるために鏡の前に座った。
その時の光景が今朝出てきた。
その女性は、多分年の頃40代半ばかな…と感じた。
実際の年齢は知らない。
若くて私と同じ、私より年下ということは絶対になさそうだった。
じっと見るわけにいかないからじっとは見なかったけれど、鏡越しや横目で見てる限り、すごい化粧品関係のラインナップを取り揃えていた。
例えば肩から手の爪のところまで。
せいぜい、ボディーローションとハンドクリームぐらいならわかる。
だけどその人は数種類のものを駆使していて、手だけでも爪周り、指先、手の甲と手全体と数種類、肘も別、上腕と下腕も別のもの…という感じで、まぁ見方によっては女子力高い風になる。
当然それは手をはじめ顔を含む全身に及んでいて、次から次へと新しいクリーム類がポーチから取り出されていた。
足の爪にもペディキュアを施していて、冬だから靴下を履く時間の方が圧倒的に多そうだけれど、すごいなぁと思って見ていた。
でも、私はその女の人が発してる雰囲気からは一切のキラキラ感を感じられなかった。
老いに対してのアンチエイジングという風でもなかった。
当たってるか外れてるかはわからないけれど、多分旦那さんか彼氏がいて、この人はめちゃくちゃ頑張っているけれど、そのパートナーからそういう風に見てもらえてない・扱ってもらえてない、そんな感じを感じてしまった。
20代の頃の自分が見ていた目線と妙に重なって、見ていると胸が苦しくなる感じだった。
そこまで徹底しているから、本人のこだわりなんだとは思う。
だけど、明らかにオーラが変だった。
それこそ日帰り温泉なんて色んな人たちが入れ替わり立ち替わりやってくる。
みんなそれぞれのやり方で自分を手入れする。
その手入れの仕方は、少なくとも私が見た中では一番頑張っていて一番丁寧ではあったけれど、その割に本人から発せられる空気の中に明るいものは一切なかった。
むしろ変な切実感や丁寧なのに心はめちゃくちゃ痛んでるみたいなのをひしひしと感じてしまった。
私が20代の頃、色々上手くいかなかった関係の最後の時を彷彿させた。
あの光景はまざまざと残っている。
私は当時の人と一緒にある大きなショッピングモールにいた。
ここはアメリカか?と思うような大きな場所だった。
店内には色んな人たちが溢れ返っていた。
異常なほど広い通路と高い天井のおかげで、混んではいたけれど人混みという感じはしなかった。
周りの人たちを眺めていても、適度に距離があるし、みんな思い思いに楽しんでいる風で、私の視線なんて全く届いてない風だった。
だから私は目に入ってくる人たちを次々に見ていた。
私が見ていたのは、自分と同世代のカップルや、小さな赤ちゃんと呼べる子ども1人しかいないような若夫婦ばかりだった。
当時のカウントダウン的な最後を心の奥で感じながらも、それを素直に受け入れられる状況ではまだなかった。
カップルや夫婦の会話なんて聞こえてこないし、今目にしている姿が全てとは絶対に言えないことも知っていた。
だけど、私はそのカップルや夫婦の中で、1組として私が今自分に置かれてるような状態の人たちはいないように見えた。
当時、手が繋げないほどの目には見えない亀裂が入っていた。
だから私はその人たちの身体的距離感とか、手や腕をどんな風に繋いでいるかとか、そんなことばかり見ていた。
それは無意識の距離感だから、ある意味嘘がないように見えた。
あんなにたくさんのカップルがいて、自分たち以外にそんな亀裂が入りまくってるカップルはその中に1組として見つけられなかった。
私が見たものすごい丁寧にお手入れしていた女性に、その当時の自分の心の中にあったものと重なった。
完全に私の勘違いかもしれない。
だけど、その女の人から出ている空気にそうした時の複雑な入り組んだ気持ちみたいなのが見え隠れしているようだった。
少なくとも私はそんな女子力高いことはしなかったけれど、その女の人の必死の手入れの感じは、自分さえも今の自分を受け入れられないぐらいに拒絶しているみたいな、当時の私を見ているようだった。
言い方がおかしいけれど、目に入る丁寧さからその人が自分自身を同じくらい大切に扱ってる風には見えなかった。
その辺のもっと適当に手入れをしている、なんなら施設に置かれている付属の化粧水やクリームをパッと手に取って使っている、とりあえず塗っておけばいいか、みたいな人たちからの方がなぜか明るい印象を受けた。
それぐらいにその徹底したお手入れの女性は、自分の隙を見せれる余裕がなかった。
隙を作れなくて、自分をそのままさらけ出せなくて、見ていて痛々しささえ私は感じていた。
そんな光景がなぜかちびっ子ギャング襲来の前に自分の中に突如浮かんだ。
ちびっ子ギャングを駅の改札前で待った。
初めて自らの足で歩いてやってきた。
小さな体は自分の背より高い改札をくぐり抜け、その後ちびっ子ギャングと目線を合わせるためにしゃがんでいた私の胸に飛び込んできた。
「ギュー」って言いながら抱きついてきて、「歩く?抱っこする?」と聞いたら「だっこ」と返ってきた。
もう「だっこっこ」と言わなくなった。
代わりにもっと色んな言葉をベラベラと喋り、保育園で習ってる歌をたくさん聞かせてくれた。
朝方の5時過ぎ、ギャングは夢の中でうなされたのかエンエンと泣き始めた。
私のすぐ隣りにいたから、私がとりあえず抱っこしてトントンしてそして隣りで添い寝した。
あまりに泣き止まなくて、途中で妹も交代して抱っこしていたけれど、しばらく泣きは続いていた。
私と妹の間をゴロゴロ転がりながら泣いて、近くに来ればトントンした。
そのうち泣き声は寝息に変わった。
ちびっ子ギャングはたとえ寝ぼけていても肌の感触や声で自分が安心安全だと確認しているみたいだった。
自分のいる世界は、自分のままで愛されてることに何の疑問も抱かず真っ直ぐにその世界に自分を立たせている。
昨日の夜寝る前なんかは、お父さん(義弟)に電話して、1分もしないうちに「おとうしゃんとでんわしたくない」「おとうしゃんとでんわ、やだやど」と言い出して、本当に話すのをやめてしまった。
そんな風に大人に言葉の刃を向けてもそれでも尚自分は自分のままで大丈夫なことを知っている。
ちびっ子ギャングは相変わらず生きていく上で一番大切な教えを体現して見せてくれる先生みたいになっている。
日帰り温泉の女子力高い人もちびっ子ギャングも、どちらも大切なものを教えてくれてる。
そしてその2つを見た私は今、自分が何を選びたいのかの答えをちびっ子ギャングからもらっている。
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