菜の花が満開を迎えている。
・桜
・ひまわり
・あじさい
・菜の花
今パッと思いついた花たちは、毎年目にする度に過去のある場面や出来事、特定の人を思い出す。
菜の花はこれまであまり気付いていなかったけれど、新潟では4月にならないと目にしない花だから、それで思い出した。
私の思い出の中の菜の花は2月。
前の携帯を充電して写真を見たら、2010年1月26日と判明した。
場所は名古屋市内のとある地区。
ギリギリ市内という感じで、昔からの家と最近の家とが混在している地域だった。
私はそこで何をしてたかというと、会社の事業(学習塾)のチラシをひたすらポスティングしてた。
そのポスティングも全世帯じゃなくて、お客さんになりそうな家庭に絞って(何ならこの対象世帯を絞る作業も自分たちの足で稼ぐ=調べる)、そして間違えても現顧客の家には配らないように、とにかくピンポイントで配る仕事もあった。
週に3回、午前中その仕事があった正社員時代。
私はその仕事も大嫌いだった。
名ばかりの正社員は、本当にありとあらゆる仕事をした。
ポスティングもすれば、講師もする。
営業もすればカウンセリング的なこともする。
しかもカウンセリング的なことも、これは私がたまたまだったのか、個人やその家族の人生を大きく左右するような相談まで含まれてた。
掃除もすれば外に立てる旗の設営もする。
強みやできるようになったことを手書きで書く仕事もあれば、外に向けた広告を自ら作ったりもする。
伝票の細かな金額を調べて書くこともあれば、月あたりの売上計算もする。
格好はスーツだから、下はスーツのズボンで、靴はポスティングの時はスニーカー、ポスティングが終わったらローヒールの靴に履き替える。
上はどうしてたか覚えてないけれど、夏なら上は着替え持参で動いてたような気がする。
冬は別にそのままのスーツ+コートで配り歩いてたと思う。
ホワイトカラーなのかブルーカラーなのか区別のつかない仕事ばかりを毎日してた。
それでそのポスティングの最中に菜の花を見つけた。
雪国新潟は1月2月は大地が雪に覆われているから、まず外で花を見ることがない。
当たり前だけど、一面真っ白+濃い灰色の空という、もう見てるだけでテンションダダ下がりな風景。
片や太平洋側は、たとえ寒くても青空に冬の太陽に冬の花まであって風景はカラフルだった。
季節は冬なのに春の花を見たのはその時が初めてだった。
その菜の花を見て、心は全然元気じゃなかったけれど、一瞬だけ癒された。
すでにその頃から退職届を出していて、辞めさせてもらえないどころか絶対に辞められないような名ばかりの「長」の役職というか担当まで渡され、本当にお先真っ暗だった。
その頃はまだコーチングにも出会ってなくて、自分の先々の人生には絶望しか見えなかった。
何のために生きてるのか、何のために自分がそこにいるのか、逃げたくても逃げられない状況まで固められ、四方八方塞がりだった。
百歩譲って結婚できなかったことは仕方ない。
だけど、自分の人生なのに自分で選べないような状況を前に、もう私はどうしていいのかわからなかった。
逃げたらいいとかボイコットしたらいい、そんなに辛いならそこに留まるのがおかしいということも色んな人たちから言われた。
私は今もっても、それは解決法ではなかったと思ってる。
そこに人が絡んでなければ私は普通に逃げた。
変な正義感だけれど、関わる人たち個人にとって大切な決断の時期で、そんな最中私の勝手な都合で辞めて、その人たちに余計なストレスを与えるのは違うと思った。
私より優秀な人たちはいくらでもいるし、何も私でなくても本気でいいと思う。
それは今でもそう思ってる。
仕事はいくらでも代わりがきく。
私じゃなくていい。
でも私が辞める=新しい人が配置される=また1から人間関係を作る。
相手が子どもだったから、さすがにそれはできなかった。
ただでさえ自分のことに進路に忙しいと言うのに、そこに私が辞めて新しい人間関係を作るストレスを与えるのはいかがなものかと思った。
私は自分が1から何百人という人間関係を作ったからわかってた。
本当に新しい人間関係を作るのはストレスがかかるし、当然お互いの癖もあるから、しかもその時はガチで人間関係を作るものだったから、対大人みたいに「なんとなく」やり過ごすという選択肢はなかった。
ガチの人間関係になればなるほど、人間関係を作る最初にかかるストレスは半端ない。
そこにプラスして子どもの先には当然保護者がいた。
保護者との関係はさらに神経がすり減りそうなものだったけれど 苦笑、それでもやっぱりすごく大切なものではあった。
私はその仕事に就くまで(そもそも色んな勘違いでその職に就いて、まさか私は自分が学習塾の仕事をするとは思わなかった)、塾というのは習い事の延長で、学校や家みたいに子どもの時間の大部分を占めるわけじゃないから、ある意味オマケ的な位置なのかと思ってた。
それが完全なる勘違いだと、塾の仕事をしてすぐに気付いた。
その家でも学校でもない立ち位置というのは、子どもや保護者にとってある意味本音を吐き出せる守られた場のような感じで、それ故にヘビーな相談や出来事もたくさんあった。
生活の中のオマケどころか、やたらと幅をきかせた位置に成り上がっていた。
ある時、あるお母さんが懇談でこんなことを言った。
「私があの子にしてあげられることは、あの子が学校でも部活でも塾でもそれぞれのことに集中できるように、その地盤を整えてあげることだけです。私にできることはそれしかないので、多少のことは目をつぶって、あとは家で少しでも本人がリラックスして休めるようにと思ってます」
親たちを見て思ったのは、その小さな体で抱えてるストレスをいかに少なくするか、いかに健やかに子どもを日々育てられるかということだった。
それがわかっていたから、だから何の準備もなく勝手にボイコットとかフェイドアウトはできなかった。
辞めるなら辞めるできちんと引き継ぎをしないと、私はそれで良くても相手は必ず困る。
いくら私が抜けてても能力的にかなりポンコツでも、一度私が入ったポジションはある程度責任を持たなきゃダメなんだとわかった。
だから私はボイコットする代わりに、会社には再三再四退職願を出して、とにかく辞められる体制を整えてくれるようにひたすら懇願した。
だけどそれが叶わずで、そして無限のネガティブループにどっぷりと浸かっていた。
そんな最中に見つけた菜の花で、私はそれを見つけた時だけ何とも言えない癒しをもらってた。
この春見た菜の花は、全く違う風景の中に自分がいることに気付かせてくれた。
8年前からは想像もつかないところにいる。
ずっと先が見えなくて不安しかなかった私に、その後転機が訪れた。
コーチングに出会い、そこから劇的に色んなことが変化した。
ずっと辞められなかった仕事も辞められた。
しかも自分が望んだベストな形で辞められた。
辞めた後、さらに一層混乱への道へと突入することになるとは想像さえしていなかったけれど、その後起こった全てのことは今ここに至るまでにすべて必要なことだった。
今年の冬の1月は過去に前例がないぐらいの大寒波の連発で、大きな雪壁を見ては本当に春か来るのだろうかと思った。
菜の花どころか桜さえも想像できなかった冬だった。
でもきちんと冬は超えて春が巡ってきた。
私の人生はようやく長すぎる冬が終わりそうな予感がしている。
10年近くに渡る冬の間、私は去年とびっきりの人生のご褒美をもらった。
本気のご褒美だった。
生きてる毎日があんなにも華やいでいて、ただただ生きてることに生きて会えることに感動した日々もなかった。
ポスティングをしてた時には全く考えられなかったことが起こった。
ポスティングをしてた頃、天気は大方恵まれていて、大雨の中することはなかった気がする。
だから晴れなり曇りの天気のことしか覚えてないけれど、心の中はいつも「いつまでこんな生活が人生の中で続くんだろう…」とネガティブ思考だけがグルグルと渦を巻いていた。
本当に先のことに対して一ミリも光が見えず、当時は希望とか明るい未来とかさえも望まない代わりに朝が来ても憂うつにならない程度の生活を送れますように、と本気で願ってた。
死ぬわけにもいかない。
なら、生きたいと思わなくてもいいから、せめて朝を普通に心穏やかに迎えられる、その生活が本気で欲しかった。
夜寝る時に明日も普通に朝がやって来ると考えるだけで恐怖に打ちのめされる、そんな毎日から解放されたい、本当にそんな風だった。
仕事を辞めた後は後で、また次から次へと意味のわからないことや上手くいかない現実が山ほどやってきたけれど、最終的に「何とかなった」ということで、人生生きてる限り何とかなるのかもしれない、と半分あきらめ、半分まぁここまで来れたから良しとするかな…という感じだった。
37歳になってすぐぐらいに全てをリセットして地元の新潟に戻って来た。
経済的に立ち行かなくなり、親を頼って帰るという、とんでもない理由で戻った。
よくよく考えたら、名古屋で仕事を辞めた後新潟で仕事を始めるまで私には半年の空白期間がある。
あまりに色んなことがあり過ぎたから、しかも二つの地をまたいだことで記憶はかなり勝手に書き換えられていた。
だけど通しできちんと数えたら、半年の空白期間が存在していた。
そして新潟に戻った最初の1ヶ月ほどは、冗談抜きで一歩も外に出なかった。
家のすぐ外にさえ出ずに、ずっと家の中にいた。
何かしらはしていたけれど、もう今となっては何を毎日してたのか記憶にさえない。
家事をして、自分の部屋の掃除をして、それ以外は…わからない。
当時は親も今以上にピリピリしてたから、私が帰って来たことも近所の人含めて町の知り合いたちには誰にも言わず、それもあって私は本気でこもっていた。
(私は良かったけれど、親の方が気にしていて、もう色々面倒すぎて、ならこもろうという流れだった)
色々自分の中の収集がつかなくて、ようやく外に出るようになってからも、本当にそれは月で数えたら片手で終わるぐらいの回数だった。
しかも今気になって調べたら、当時はほとんど書き物もしていない。
日記とノート合わせて数日分の記録、それも1ヶ月に1日とかしかない。
テレビもほとんど見てなかったし、本も読んだ記憶がない。
本気で毎日何をして過ごしてたんだろう。
お金がなくて外に出なかったのはまだわかる。
だけど、かと言って何をしてたのかはわからない。
ネットを見てもそんなに何時間も毎日飽きずに見てたとは思えない。
その年の秋から社会復帰したけれど、当時一番感動したことは、毎日朝を健やかに迎えられたことと、そして仕事に何の抵抗もなく気持ち良く行けたこと、その2つだった。
当たり前みたいなことが随分長いこと損なわれていたから、私はそんなことでも十分感動できる体質になった。
そんなこんなを抜けて迎えた2017年の夏、私は本気で何に感謝の気持ちを伝えればいいのかわからないぐらいの特大のご褒美がやって来た時には、大真面目に「生きてて良かった」と思った。
生きてるって本当に素晴らしいことなんだと知った。
ただただ生きて朝を迎えて大切な人に今日も会える、その人も生きて普通に今日もいる、そのことが私にはもう奇跡にしか見えなかった。
色々思い通りにはならなかったけれど、私はそこで生きる喜びを得た。
もう何年もあきらめて、もしかして一生私は生きることに喜びを感じずに終わるかもしれない、そういう気持ちがエンドレスいつも根底にあった。
ささやかな喜びは色々あったけれど、でも根底は生きてることそのものが私は怖かった。
何で生きてるのか、何でこんなにも丈夫なのか、何でこんなにも丈夫でそこそこの能力もあってやろうと思えば何でもできそうなのにそんな気持ちには全くなれず、ずっとずっと考え込んでは暗くなっていた。
健康が損なわれてたり色んな事情で夢を断念せざるを得なかったり、そんな人たちにとって私の状態なんて喉から手が出るほどに欲しいものだと思う。
自分の罰当たり的なネガティブ思考にはいつも罪悪感が伴ったし、本当に何で生きてるのかさえわからなかった。
だからそんな気持ちを根底から抜き取ってくれて、単に生きてるだけでこれだけのいいことがあるよ、っていうことを存在を通して私に伝えてくれた人には本当に感謝してる。
生きてることが本当に奇跡なんだとわかった。
1つとして当たり前のことなんてなくて、その中で出逢わせてもらえた人がいるのはもう人生のご褒美だった。
その辺りから不思議なことはたくさん起こり始めた。
しかも日に日に加速度的に起こっていった。
あまりにも凄かったから、私もさすがに色々調べ出した。
それが去年の秋ぐらいの話。
そこからもうそんな夢の日々は終わり、悲しい現実が登場したけれど、それでも私が前を向けたのはその人に出逢えて生きることにもう一度希望を見出したからだと思う。
自分の思い通りではなかった現実に対しても、今は今でもっと別の形で向き合うようになった。
そして私は今ものすごい勢いで自分のホロスコープを読み解いて、自分に起こった数々のこと、自分の性格や性質のこと、とにかく色んなことを紐解いている。
(ちなみにホロスコープには恐ろしいぐらいに自分の過去や数々の大変だと感じる出来事の概要なんかもしっかりと出てくる)
そしてこれら全部を使ってこれから先の自分にバトンとして繋げていきたいと思ってる。
単純に生きたい、生きてもっともっと色んなことを体験したい、今はそう思えるようになった。
新潟に戻って二度目の春。
1年前の春は、菜の花を見た記憶がない。
でも今年はそれを見た時に、今は絶望以外の気持ちを持って日々生きていられることと、そう思えるだけの人に出逢えた奇跡が真っ先に思い浮かんだ。
もちろん一緒に生きていたいと望んだ。
本気で望んだ。
だけど叶わないまま今に至っても、もう生きるのがしんどいだの辛いだのと思わなかった。
それはものすごく残念だし今からでも私は叶えてもらえるならどうぞよろしくお願いします的な気持ちではあるけれど、それが叶わなくても他にも生きる目的みたいなのが今はあるから、まぁしばらくはそこに専念しなさいという意味にでも捉えたらいいかと思って日々を過ごしてる。
今は当時のように生きて会えて嬉しいですみたいな状況がないのは寂しいけれど、それでも自分で自分を満たせるぐらいの力量はこの10年ほどで鍛えられて持てるようにはなった。
そしてその人に出逢えたことで、私は本気で「奇跡が起こる」ということを信じられるようになった。
しかも今回の奇跡はとてつもなく大きかった。
私はその奇跡のために何かを頑張ったわけでもなければ、何かしらを意図して手に入れたわけでもなかったから。
むしろ何も頑張らず、何の意図もなく、本当に単に働かないと九州の友達の結婚式行けないよ、ぐらいな感じでとりあえず選んだ選択の先にあったことだった。
だから奇跡というのは、頑張ったら起こるわけでもない、何なら何も期待もしてないような時に起こることなんだと知って、余計と私は「奇跡が起こる」信者になった。
今年の菜の花は、奇跡を目撃した後に初めて見る菜の花だった。
今いる私の立ち位置は、何年も前に望んだこと以上の場所になってる。
何となくだけど、来年以降も菜の花を見るたびに私はその人のことを、その人に出逢えたことを思い出す気がする。
本人とは全く関係のない花ではあるけれど、春の陽気と当時の日々華やいでた感じがとてもマッチする。
菜の花を見た記憶が最初「絶望」の中にあったからこそ、それが塗り替えられた今は「奇跡」というラベルが付いている。
そしてその奇跡はその人の登場によってもたらされたものだった。
「私の人生に現れてくれてありがとう」その意味が今より一層よくわかった。
その人が私の人生に現れてくれたことは、本物の奇跡だったから。
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