2018年4月24日火曜日

雨の日の遺跡

メキシコを一人旅したのは約10年前。

いくつもの遺跡を回って(途中からは飽きた…苦笑)、その中で一番感動したのは雨の日の遺跡だった。

雨に濡れた草木や植物はより一層と生い茂った感じを出して、原風景のようなとても神秘的な雰囲気になってた。

石で造られたピラミッドのような遺跡は雨に打たれて、その濡れそぼった感じが太古の昔もこうだったんだろうと想像できた。

しかも雨のおかげか人もほとんどいなくて(数えるほどの人としかすれ違わなかった)、それがますます当時のコミュニティもそうだったのではと想像した。

所変わって日本の新潟県。

県内には縄文土器が発掘された場所があるらしく、それらを中心に展示されてる歴史博物館がある。

私はそんなこと知らなくて、関西にいる友達が教えてくれた。

友達はそれを見るためにわざわざ大阪だか京都だかで開催された特別展に行った、ぶっしーもそんなに近くにあるなら見に行ってきなよ!と薦められたのが数ヶ月前。

ふと、春うららな天気の良い日より、メキシコの時のことを思い出して、わざと雨の日に行きたいと思った。

博物館は空調も電気もある今時な建物の中でも、せめて外の天気だけでも数千年前のある時と一緒だと想像して雨がいい。

しかも今回は伊万里焼の展示も開催されてて、どちらかと言えば伊万里焼を見に行きたい。

関係ないけれど、週末に夕日を見るために車を止めたら、そこは丁度石屋さんの駐車場だったらしく、岩みたいな大きな石が4つほど無造作に置かれていた。

ふとこの石のエネルギーをペンジュラムで感じられないかと思って、石の上にペンジュラムをかざすとYESの意味で時計回りに元気よくグルグルと回った。

石自体は動かないけれど、その中にきちんとエネルギーが宿ってるんだなと思った。

その大きな石の上でグルグルと回ったペンジュラムを見て、土器や当時の自然のものを使って作られた他のものにはどんな風にペンジュラムが反応するのか、それも見てみたかった。



平日の午前、歴史博物館は私が多分1番乗りの客だった。

雨が降っていて、来る途中は霧がかったところもあって、メキシコで見た幻想的な風景にちょっとだけ似てて、やっぱり雨の日に来て良かったと思った。

縄文土器よりも私は古伊万里焼の特別展の方に惹かれた。

伊万里焼の方は3回も見て回ったぐらいに楽しかった。

本当に単に器をひたすら見て回るだけだったけれど、それを見てるのがとてつもなく好きだった。

3回目は、思いつきで器の1つ1つにペンジュラムを通して問いかけてみた。

この子たち、こんな風に厳重なガラス窓の向こうに鎮座して飾られて嬉しいんだろうか?と思ったから。

17〜18世紀に作られたものがほとんどではあったけれど、状態はものすごく良かった。

私はそれぞれの器を見て、「これは肉じゃが」「これは刺身用のしょうゆ皿」「これは親子丼」とか、朝から色んなメニューを思い描いていた。

「こんなに深い鉢は、何を入れるんだろう?」
「この大皿は割烹風のオードブル盛合せ」
「これにふぐの刺身とか乗せたら映えるだろうなぁ」←食べたことないけれど
「昔はこの器にどんな料理を盛り付けてたんだろう?」

妄想はどこまでも広がった。

そんな風に普通にメニューが浮かぶもんだから、だから気になった、器たちの気持ちが。

そんなことペンジュラムで聞いたところで何ができるわけでもないし、単なる私の好奇心を満たして終わりだけれど、でも妙に気になってそれで1つ1つ聞いて回ることにした。

聞く前に「これは普段使いされたい!」とか「これは飾られたいはず!」とか勝手に予想しながら、聞いて回った。

6割ほどの器は普段使いを希望してた。

絵柄の繊細なのとか芸術的にすごく意味のありそうなものは、もれなく飾られたいと言っていた。

現代の生活様式では使いにくそう…というものでも、「使われたい」と出るのもあったし、なんなら「個人宅で愛でられたい」などと言う器まであった。

個人宅希望の器は、飾られるのも普段使いもNOで、じゃあ何だ?と思って質問を重ねたらそう出た。

確かに、色んな人たちに使われるより特定の個人から大切にされる方が良い、扱うのにかなり注意が必要な大きさだったから、個人宅希望も頷けた。

器たちが喋るなどと普通は誰も思わないだろうから、そこに飾られたものたちはこれからも文化遺産としてどこかに重装備で展示されると思うけれど、本当は使われたい希望のものは誰か人間の手で可愛がってもらいたいんだろうなぁと思って帰ってきた。

私がしてること、ペンジュラムで物の気持ちを聞くなんて、さぞかし滑稽で変だとは思うけれど、私は何も知らずにいた頃より今みたいに物とコミュニケーションが取れる方が好きだと感じてる。

特に、物を捨てる時と迎え入れる時にものすごく役立ってる。

捨てようと考える時、私は物の1つ1つに手放しても大丈夫かを聞いてる。

私の気持ちだけじゃなくて、もうこれは私のすごい勝手な気持ちだけど、物も私の元から去ることを納得してくれてるといいなと思ってる。

最近の一番大きな手放しは、昔作ったパワーストーンのブレスレットと友達が手作りしてくれたパワーストーンのブレスレット、あとは水晶かダイヤモンドか忘れたけれど友達が掘ってきてプレゼントしてくれた石。
(どちらももらったけれど、どっちがどっちか忘れた)

さすがに普通には手放せなくて、最後離れる場所も聞いた。

雪が溶けて川の裾野まで行けるようになってから、地元の小さな川に流してきた。

石たちもわかってたのか、私が手放すことを一度も反対しなかった。

むしろ聞いた最初の時から「いいよ」という意味のYESをペンジュラムを通じて伝えてくれてた。

こういうプロセスを踏むと余計とわかる。

物もご縁だということ。

私もあと何年ぐらい生きるのかわからないけれど、その中で持てるものはある程度限られてくる。

だから、せめて手元に縁あって来たものたちに対しては、大切に使える自分でありたい。

だからと言うわけではないけれど、そうやって物と話すことを始めたから、だからこそ今日見た伊万里焼たちが本当は何を望んでいるのかが気になった。

食いしん坊が見ると、その器に盛られるおかずが次から次へと映像のごとく浮かんでくる。

少なくとも何百年前かは、日々なのか特別な時だけなのかはわからないけれど、人間の手で触られて、人間たちの生活のために使われていたことは間違いない。

まさか物たちも人間より自分の方が何百年と長生きするなんて思ってもいなかったと思う。

メキシコでピラミッドをはじめとする遺跡を見た時はそんなこと全く感じなかったけれど、今日の伊万里焼たちからは何か別の感じを受けた。

扱われ方は多分物たちの生きてきた時代の中では一番だと思うけれど、丁寧に厳重に扱われることが必ずしも物にとって一番とは限らない、なんて思うのは私だけだろうか。

蛇足の話だけど、よく人に質問されるから答えると。

今日のように公共の場でどうやってペンジュラムに聞いてるかということ。

一応周りに人がいないかとか、いても目線は展示物かどうかの確認は多少するけれど、まぁ普通に短く持って聞いている。

かなり無理があるけれど、キーホルダーを持ってるように見えるかもしれない…。

今日は館内のパンフレットを渡されてたから、それをちょっとした壁にして、あまり目立たないようにはしてたつもり。

まぁでも見られても知らない人たちばかりだから、そこは変と思われても痛くもかゆくもないから気になっていない。

ふと思ったけれど、私に会う人たちは慣れたもんで、別に飲食店のテーブルの上にペンジュラムを置いていようが、何か聞かれて私がペンジュラムにその質問を聞いていようが、誰1人異を唱えた人はいない。

何なら誰もキョロキョロしないし、ふざけて「私たちおかしな人に見えるかな?笑」とか言っても、相手の人たちも意に介してない感じ。

そんな風だから、私は普段からも公共の場で普通にペンジュラムを出して何かその物に対して聞きたいことがあれば聞いている。

恥ずかしいよりも、聞かずにモヤモヤする方が気持ち悪いから、だから聞いてる。

関係ないけれど、私は未来のパートナーの人には、そういう私でもいいよと言ってくれる人がいいなと思ってる。

男友達の前でも3人は見せたような気がするけれど、全員超面白がって食いついてきたから、そういうタイプの人だと尚のことありがたい。

というか、そういう人じゃなきゃ、むしろ私は単なる変人にしか映らないだろうから付き合えないか…。

ちなみにたった1人だけ、本当にもし何か進展があったら私はどう説明するのか真剣に考えたことがあった。

そんなこと起こらなかったけれど、ペンジュラムや他のことも含めて、そもそもそういう自分を相手に伝える覚悟があるのかどうかをまずは自分に聞いた。

本当に覚悟のいるものだった。

まぁ覚悟を決める必要もなくなってしまったけれど。

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