このブログにアップしようとして途中まで書いたもの、下書きが13個保存されている。
一番古いものは2013年10月となっていた。
今間違えて3013年と打ったけれど、1000年後の3013年なんてどんな風だろう、地球。
13個保存された記事たちは、これからもアップする気がしない。
だけど消去することもおそらくしないだろう。
例えばそのうちの1つは、『朝から卵を3つ割った日』なんて書かれていた。
ちなみにもったいなくて、そのまま朝から卵3つ使ったオムレツを食べた模様。
自分が実際に取った行動は憶えていなくても、そうするだろう自分のことは想像できる。
そしてその日のことも、その日あった出来事も感情も今となってはきれいさっぱり忘れている。
今読み返しても、ぴんとこない。
天気やそれに伴った外の様子(5月の新緑の時期)まで詳細に書いていたけれど、それさえももう
想像すらできず現実にあったこと見たことは忘れている。
だから消しづらい。
もう過去の過ぎ去ったある日のある場面、そしてそれを文章に起こそうとしたわたしは、もう今
どんな手を尽くしても取り戻せないと知っているから、そこに妙な希少価値が生まれて消しづらい。
1000年後の3013年になったらそういうことも可能だったりするんだろうか。
過去のことって、よほどインパクトがない限り強烈に鮮明には記憶に残らない。
朝から卵3つ割った日なんて、ある意味強烈でも鮮明でもないからさらりと忘れている。
今ぱっと強烈に思い返せるものとして、ある時当時の恋人からすごい宣告をされた日を思い出す。
それはそれはもう、世の中のありとあらゆる色彩が一気に失われて、茫然自失となったことが
今でもくっきりと当時のことを思い出せる。
だけど歳月とはすごいもので、今も決して思い出して気持ちの良い感情は浮かび上がらないし、
極力記憶にのぼらせたくないシーンであることには間違いないけれど、それでも当時のような衝撃
はもうわたしの中にはない。
あの衝撃以上の衝撃は、人生でそうそう経験しないような気がしている。
それを思えば、例えば今ああでもないこうでもないと悩んでいることも、朝から卵3つを割った日
程度の衝撃で、気付けば全然違うところにいるのかもしれない。
そして今からある程度の歳月が経過した時には、朝から卵を3つ割った日程度の記憶にしか
ならないのかもしれない。
今日の生きていた時間も、ある日の生きていた時間も、時が過ぎるとすべて一緒になる。
一緒になるというのは、記憶に残らないという意味で一緒になる。
だからこそ、13個途中まで書いてそのままになっている下書きを消せないんだと思う。
消したって痛くないし、何かが失われるわけではない。
だけど、今となっては、過去のある特定の日の1日の出来事または考えたことは、その文章の中
にしか存在していない。
当の本人ですらつるりと忘れているんだから。
だからなんとなく取っておきたい。
何の役にも立たないし、持っていてお得感もないけれど、なんとなく「消去」より「保存」の方がより
ぴんときている。
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