iphone用の充電器の不具合が出てきて、交換が必要になった。
そのために3件もの電話をかけることになるとは、そして最後の手続きには唖然とした。
電話のうち最初の2件は、必要があって電話したから仕方ない。
1軒目はドコモに電話をかけて、そもそもの保証の確認をした。
わたしは何の保険に入っていて、こうした修理交換はどこに問い合わせるのかがわからなくて、
それでドコモに最初電話をかけた。
それはさっと終わり、修理全般はApple Storeに電話することがわかりそのまま2件目の電話へ。
2件目のApple Storeの電話もスムーズではあったけれども、何をするにしても諸々のIDの確認が
必要で、その確認をするのに一度もしたことのないiphone操作を説明を受けながら同時進行で
操作し、まぁとりあえずはスムーズに事は運んだ。
ちなみに、この電話しながら同時進行で操作する、その電話の使い方から教えてもらった(汗)。
ただ、引っ掛かったのは、今回基本的には無償で対応してもらう充電器の交換のために、
①クレジットカードの登録
②その登録をメールで完了後、充電器発送の手続き開始
になるという説明だった。
よく理解できなかったけれども、とにもかくにもそのメールでの手続きをしないと始まらないよう
だったから、とりあえずメールを受信したのを確認してその2件目の電話を終えた。
早速メールでの手続きを始めた。
修理専用のサイトに行き、そこで手続きを完了しようとしたら、いきなり「購入画面」が出てきた。
無償で交換予定の充電器が、いきなり有償になってる、しかもクレジットカードの情報まで入力。
となった時点で、これがなぜ有償でさらにはクレジット情報まで提供しなければいけないのか?
それがわからなくて3件目の電話。
3件目の電話でわかったことは。
基本的には無償交換の予定ではあるけれども(←保険対応)、万が一交換時に故意に故障とか、
その他私側の事由での不具合が発覚した場合、有償になる。
そのもしもの場合に備えてAppleの方で一時金としてクレジット情報&お金?を預かり、それが
故意ではないとApple側で最終判断が出来次第、クレジットの預かりは解除されるとのこと。
説明はもっと丁寧だったけれども、おおよそこんな内容だった。
とりあえず事情はわかったから、そのまますぐに手続きを踏んだ。
おそらく、これが今会社側と客側の双方の負担が最小限に抑えられる方法なんだろうとは思う。
だけど、もしApple Storeも近所になく、クレジットカードも所有していない場合はどうなるんだろう。
直接店に行っても良かったけれど、とにかくすごい待ち時間だと聞くから電話にした。
私の知ってる人でカードを絶対に持たない主義の人がいる。
2人ほどいた気がする。
たとえばそういう人たちが今のわたしと同じ状況になったら、どんな風だったんだろう。
批判とかは一切ないけれども、なんだか便利なのか不便なのか釈然としない感じは残った。
ドコモに電話する時もApple Storeに電話する時も、とにかく個人を特定するための質問が半端
ない。
これだけ多種多様な犯罪がある昨今だから致し方ないにしても、とにかく手続きが煩雑だ。
わたしはただ充電器を交換したかっただけ。
そして、それがたまたままだ保証期間だったから、今回は保証期間での対応となるだけ。
言葉にするとこれだけシンプルなのに、その手続きとやらはやおら30分コースだった。
しかも電話の待ち時間はすべて合わせても5分程度でしかなかったと思う。
話は変わって、普段読んでいる某ブログの筆者が、なんとクレジットカードでのネットショッピング
のID乗っ取られ事件の被害に遭い、今その手続きを日々しているという記事をここ数日読んだ。
すでに数日経過しているにも関わらず、今もまだ諸々の手続きに追われているらしい。
そして当初100万円近く被害に遭い、そのうちの9割はそういう被害での場合の免除的なもので
難を逃れたらしいけれども、残りの10万円近くは、手続き次第で下手すると本人支払いになる
ようで(←これもすごい巧妙な手口らしい)その対応を一生懸命しているようだ。
色々便利になり、ワンクリックでお買い物できるし、今日もある意味1(?)本の電話で充電器交換
手続きを完了するんだけれども、これらの便利とは引き換えに問題が起きた時の不便といったら
もう言葉では言い表せないほどになっている。
ちなみに乗っ取られ事件の人は、ごくごく普通の一般の方だし、普段は料理のレシピをご丁寧に
アップしてくれる親切この上ない人だ。
そうした犯罪の被害者は、何も特別な人だけじゃなくて一般人も十分になりうる今の時代。
今日の手続きも色々面倒くさいとは思ったけれども、とにかく色んな個人情報をいくつも提供して、
そしてようやく本人確認となるのだから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
ただ、わたしの頭や体は相変わらず昭和からのアナログ的な要素が強いから、こうした平成の
デジタル化にさっぱりついていけてない。
2015年8月31日月曜日
2015年8月30日日曜日
早朝に届いた1枚の写真とメッセージ
今朝起きたら、携帯のfacebookのメッセンジャーの方に1通のメッセージが届いていた。
寝る時は、分厚い布の上に携帯を置くから、何かが届いていても気付かない。
めったにそこにメッセージが入ることはないから、誰だろうと思い開いて確認すると、
数年来の友達Aちゃんからだった。
最初にAちゃんとわたしの二人が写っている写真が目に入り、少し画面をずらしたらメッセージも
表示された。
「夜中に昔の写真を漁っていたら、なんだかものすごく懐かしく心に響く一枚に出会ってしまったよ」
とあった。
撮影場所が定かではなかったけれども、たしかに二人でどこか一緒に遠出して撮った1枚なのは
わかった。
撮影した日から、7年8年経過している。
ずいぶんと遠くへ来てしまった、というような言葉があったけれども、全く同感だった。
当時、同じ市内に住み、互いの家を行き来するのに30分あれば良かったと思う。
同じ市内の対角線上に住むような形ではあったけれども、今考えたら近くに住んでいた。
よく二人で金曜の夜~土曜にかけて、飲みに出かけたりテイクアウトしてAちゃんの家に泊まった。
ロール巻や中華、フードコートでもないのにその場でパスタを調理してくれる行きつけのスーパー、
二人で「すごい油の量だよね!でも、なぜか美味しいんだよね、あそこのパスタ」と称賛してた。
飲む量も食べる量もよく似ていて、お互い全く気遣いせずに飲んで食べて語った。
本当に苦楽を共にした同士だから、共通の話題も事欠かなかった。
「よく二人で」と書いたけれども、多分同じところに住んだのは1年半、その中で仲良くなったのは
後半の数ヶ月だったから、お泊りが一体何回できたのか定かではない。
たくさんと思っていても、実際は片手で数える程度かもしれない。
朝寝ぼけた頭で当時のことを色々思い起こし、そしてAちゃんの短いメッセージを数回読み。
すんごい時が経っていても、遠慮せず当時の写真を送り付け、送り付けられ、言葉少なでも
当時の思いを互いに共有できる・・・。
これってすごいことだなぁと思った。
財産と呼んでもいい。
当時は色々ありすぎて笑えないどころか泣く羽目になるようなこともあったけれども、今となれば
すべて「良き思い出」に変わっている。
笑えなかったことは笑えなかったままで「良き思い出」になってる、という感じだ。
そして、そういうことは共有した者同士だからこそ分かり合えるように感じる。
多分、他の人に言ったところで、「ふ~ん」だろうし、ましてや今朝送られてきた写真なんか、
他の人が見ても面白くも何ともない。
でも、それを送ってきたAちゃんやそこに一緒に写っているわたしにはわかる。
そういう言葉にはできない共有財産を持てることって、人生の中で大きなご褒美みたいだ。
寝る時は、分厚い布の上に携帯を置くから、何かが届いていても気付かない。
めったにそこにメッセージが入ることはないから、誰だろうと思い開いて確認すると、
数年来の友達Aちゃんからだった。
最初にAちゃんとわたしの二人が写っている写真が目に入り、少し画面をずらしたらメッセージも
表示された。
「夜中に昔の写真を漁っていたら、なんだかものすごく懐かしく心に響く一枚に出会ってしまったよ」
とあった。
撮影場所が定かではなかったけれども、たしかに二人でどこか一緒に遠出して撮った1枚なのは
わかった。
撮影した日から、7年8年経過している。
ずいぶんと遠くへ来てしまった、というような言葉があったけれども、全く同感だった。
当時、同じ市内に住み、互いの家を行き来するのに30分あれば良かったと思う。
同じ市内の対角線上に住むような形ではあったけれども、今考えたら近くに住んでいた。
よく二人で金曜の夜~土曜にかけて、飲みに出かけたりテイクアウトしてAちゃんの家に泊まった。
ロール巻や中華、フードコートでもないのにその場でパスタを調理してくれる行きつけのスーパー、
二人で「すごい油の量だよね!でも、なぜか美味しいんだよね、あそこのパスタ」と称賛してた。
飲む量も食べる量もよく似ていて、お互い全く気遣いせずに飲んで食べて語った。
本当に苦楽を共にした同士だから、共通の話題も事欠かなかった。
「よく二人で」と書いたけれども、多分同じところに住んだのは1年半、その中で仲良くなったのは
後半の数ヶ月だったから、お泊りが一体何回できたのか定かではない。
たくさんと思っていても、実際は片手で数える程度かもしれない。
朝寝ぼけた頭で当時のことを色々思い起こし、そしてAちゃんの短いメッセージを数回読み。
すんごい時が経っていても、遠慮せず当時の写真を送り付け、送り付けられ、言葉少なでも
当時の思いを互いに共有できる・・・。
これってすごいことだなぁと思った。
財産と呼んでもいい。
当時は色々ありすぎて笑えないどころか泣く羽目になるようなこともあったけれども、今となれば
すべて「良き思い出」に変わっている。
笑えなかったことは笑えなかったままで「良き思い出」になってる、という感じだ。
そして、そういうことは共有した者同士だからこそ分かり合えるように感じる。
多分、他の人に言ったところで、「ふ~ん」だろうし、ましてや今朝送られてきた写真なんか、
他の人が見ても面白くも何ともない。
でも、それを送ってきたAちゃんやそこに一緒に写っているわたしにはわかる。
そういう言葉にはできない共有財産を持てることって、人生の中で大きなご褒美みたいだ。
2015年8月28日金曜日
贅沢な執筆タイム
今、茄子カレーを煮込みながらこれを書いている。
年中問わず、煮込み料理をしながら何かをする時間はやたらと悦に浸れる。
それがとてつもなく贅沢だと感じる。
ガスコンロの上では何かがぐつぐつと用意されていて、それは時間という薬が美味しくしてくれる。
片やわたしはそこから離れて、今自分がしたいことやする必要のあることをする。
2つのことを同時進行でできる感じが好きなのもあるし、両方の行為が時間をかけた分、何かを
生み出してくれるというところも好きだし、とにかくこの「煮込み料理+他事をする」のセットが
昔から好きだ。
関係ないけれど、「ほかごと」という言葉、これは名古屋やその近隣ではよく聞くけれども、
新潟では一切と言っていいほど聞かなかった。
方言なのか、それとも標準語だけど名古屋では使う率が高いのかはわからない。
「他のこと」と呼ぶより「ほかごと」の方が、この場合はしっくりくる。
さらなる悦に浸るため、母お手製の梅シロップを水で薄くした梅ジュースも用意した。
母が梅シロップを作っているとは、つい1週間前まで知らずにいた。
ここ近年、梅に余裕があると作っているようだけれども、梅ジュースを差し出されたのは今年が
初めてだった。
母は、我が家からさらに山に入ったところにあるお宅で毎年梅をもらってくる。
完熟するまでずっと木の上で放置されたもの、それをもらってくるとのこと。
今年ももれなく皮の固いわたしが漬けた梅干しは、多分この完熟具合が足りないのだと思う。
母の漬けた梅干しは驚くほど柔らかい。
話が脇道にそれたけど、この梅の収穫量が毎年まちまちだから、多い年はこうして梅シロップも
作るようだ。
なぜかはわからないけど、梅ジュースを飲むと体の熱が少し下がって涼しい感じがする。
夏にぴったりの飲み物だ。
今日は茄子カレーにしたけれど、この茄子カレーも贅沢だと思う。
今年は例年にないほど茄子の値段が高かった。
いつになったら値下がりするのだろう?と思っているうちにもう夏が終わる。
毎年夏と言えば、ピーマンと茄子のもらいものラッシュが実家では続き、そのおこぼれをわたしも
もらっていたけれど、今年は茄子はもらうものではなく買うものになっていた。
名古屋に戻ってから近所の八百屋さんで茄子が他よりは安く買えたから、それで茄子カレーの
献立になった。
他より安いと言っても、例年より確実に高い。
ここ数年、茄子がくたくたになる位の食感にはまっている。
最近のお気に入りは麻婆茄子だ。
最初に油で茄子をよく炒めるとあのくたくた感が出るとわかり、今回大きな茄子3本のうち2本は、
麻婆茄子として消費された。
麻婆茄子を作れば作るほど、自分好みの食感と味付けに近付けるのもうれしい。
この度作った2回の麻婆茄子は、これまでの中で一番上出来に仕上がった。
脈絡のない話を延々と書いたけれど、こういう感じこそ最高の贅沢だと思う。
気負わず、今頭にぱっと思い浮かんだことを言葉にし、そして扉の向こうでは茄子カレーが
ぐつぐつと煮込まれている、こんな贅沢が大好きだ。
年中問わず、煮込み料理をしながら何かをする時間はやたらと悦に浸れる。
それがとてつもなく贅沢だと感じる。
ガスコンロの上では何かがぐつぐつと用意されていて、それは時間という薬が美味しくしてくれる。
片やわたしはそこから離れて、今自分がしたいことやする必要のあることをする。
2つのことを同時進行でできる感じが好きなのもあるし、両方の行為が時間をかけた分、何かを
生み出してくれるというところも好きだし、とにかくこの「煮込み料理+他事をする」のセットが
昔から好きだ。
関係ないけれど、「ほかごと」という言葉、これは名古屋やその近隣ではよく聞くけれども、
新潟では一切と言っていいほど聞かなかった。
方言なのか、それとも標準語だけど名古屋では使う率が高いのかはわからない。
「他のこと」と呼ぶより「ほかごと」の方が、この場合はしっくりくる。
さらなる悦に浸るため、母お手製の梅シロップを水で薄くした梅ジュースも用意した。
母が梅シロップを作っているとは、つい1週間前まで知らずにいた。
ここ近年、梅に余裕があると作っているようだけれども、梅ジュースを差し出されたのは今年が
初めてだった。
母は、我が家からさらに山に入ったところにあるお宅で毎年梅をもらってくる。
完熟するまでずっと木の上で放置されたもの、それをもらってくるとのこと。
今年ももれなく皮の固いわたしが漬けた梅干しは、多分この完熟具合が足りないのだと思う。
母の漬けた梅干しは驚くほど柔らかい。
話が脇道にそれたけど、この梅の収穫量が毎年まちまちだから、多い年はこうして梅シロップも
作るようだ。
なぜかはわからないけど、梅ジュースを飲むと体の熱が少し下がって涼しい感じがする。
夏にぴったりの飲み物だ。
今日は茄子カレーにしたけれど、この茄子カレーも贅沢だと思う。
今年は例年にないほど茄子の値段が高かった。
いつになったら値下がりするのだろう?と思っているうちにもう夏が終わる。
毎年夏と言えば、ピーマンと茄子のもらいものラッシュが実家では続き、そのおこぼれをわたしも
もらっていたけれど、今年は茄子はもらうものではなく買うものになっていた。
名古屋に戻ってから近所の八百屋さんで茄子が他よりは安く買えたから、それで茄子カレーの
献立になった。
他より安いと言っても、例年より確実に高い。
ここ数年、茄子がくたくたになる位の食感にはまっている。
最近のお気に入りは麻婆茄子だ。
最初に油で茄子をよく炒めるとあのくたくた感が出るとわかり、今回大きな茄子3本のうち2本は、
麻婆茄子として消費された。
麻婆茄子を作れば作るほど、自分好みの食感と味付けに近付けるのもうれしい。
この度作った2回の麻婆茄子は、これまでの中で一番上出来に仕上がった。
脈絡のない話を延々と書いたけれど、こういう感じこそ最高の贅沢だと思う。
気負わず、今頭にぱっと思い浮かんだことを言葉にし、そして扉の向こうでは茄子カレーが
ぐつぐつと煮込まれている、こんな贅沢が大好きだ。
2015年8月25日火曜日
食器の値段
先日、出掛けたついでに某デパートを徘徊した。
いつも催事場は大混雑しているのに、今回はなぜか人がちらほら。
どうしてだろう?と近くに寄って見ると、丁寧な暮らしや自然派を謳う雑貨が今回のテーマで、
遠目に見てもセンス良さそうな感じはあったけれども多分値段が全くかわいくない代物なんだろう
と思った。
気になる物を数点手に取って見てみたけれども、何が驚きかって値段が「0」一つ分間違っている
のではないかというところ。
1つだけじゃない、総体的に価格設定がびっくり仰天するもの揃いだった。
すごく素敵な、通常の茶碗よりも少し大きくした小丼型でふた付きのものを見つけた。
下方をひっくり返して値段を確認。
「¥16000」
えっ!?これ一万六千円ですか?と心の中で叫んだことは言うまでもない。
友達と瀬戸焼で有名な瀬戸の陶器店巡りをした時、あるお店の店員さんが、
「ふた付きのものは、上下で大きさを合わせないといけないから、それだけ技術が要る。
だからふた付きの食器は高いんだよ。」
と説明してくれたことがあった。
でも、そこでのふた付きの食器も、どんなに高くても数千円だった。
個人的にデパートの食器売場を見るのが好きで、よく一人で買いもせず見学だけすることがある
けれども、まず万単位の食器は置いていない。
デパート入りする位だから、良い品且つ中には作家さんのものもあるけれども、まず普段使いの
もので諭吉1枚出してもまだ足りないなんていうものは置かれていない。
とにかく「高い」という印象だけを持って帰ってきたけれども、なぜそれが高いと感じたのか、
それを一人でぐるぐると考えていた。
例えば、1泊2日の温泉旅行で同じ価格だったら、高いという風にはならない。
例えば、これが新潟‐東京間の往復新幹線代だったら、安いとさえなるだろう。
あの1人分の器が¥16000だと高いと感じる理由。
それは、そこに入れる食材の値段と関係していると思う。
1人の1食分、しかも家で作るごはんで、という条件で考えると、まずそれで¥16000分も材料費
がかかることはない。
そこに入れるためのものすごい高級食材を用意しても、1人分で16000円というのは難しい。
高級和牛買ってきて、ステーキ丼?
北海道の高級ウニといくらのせて、海鮮丼?
それ位しないと、食材が器負けする。
もっと言うと、値段を知らない人がその食器を見て、「16000」という数字が思い浮かぶかと
言えば難しい気がする。
失礼だけれど、1600円だったよ!と言っても、疑われない。
素人には値段の判別がつかない位、それが高級なのか大衆向けなのかがわかりにくい。
そんなこんなを考えているうちに、わたしが普段選ぶ時の基準というのが浮かび上がってきた。
まず、器に気を遣うことなく、がしがしと日々使えること。
陶器は扱いを誤れば当然割れる。
そういう自分のミスも計算に入れた上で、気を遣わなくていいというのはとっても大事。
もしわたしが年収1億円なんていう稼ぎを打ち出す身分になったとしても、そこは変わらない気が
する。
器を食器棚から出す、盛り付ける、テーブルへ運ぶ、食べる、洗い場へ運ぶ、洗う、乾いたら
片付ける、この一連の流れのどこか1点でも緊張が走るような器はわたしは好きじゃない。
そういう流れは毎日のことだから、それにはリラックスしながら臨みたいと常々思っている。
もうひとつは、日々のごはんの材料費に見合った器であること。
器だけ高級品でも、日々のごはんは高級品ではないからものすごいギャップが生じる。
器と料理とが仲良く手を取り合って、互いに美味しそうに見せ合える点が必ずある。
だから、どちらかが頑張りすぎていると、必ずどこかに歪みが生じる。
例えば高くて割れたらもったいないからあまり使わない、なんてことになったらもっともったいない。
自分が好きで家に連れて帰ってきた器たちは、できるだけたくさん活躍の場を与えたいと思う。
数年かけて食器を集めただけあって、食器は常に一期一会であることがわかる。
洋食器と違って、和食器は重版で同じものが繰り返し作られる方が少ないかと思う。
今家にある食器たちは、縁あってわたしの元にやってきた。
たんすの肥やしにするのではなくて、日々の生活の中でたくさん使って愛でたい。
それらの条件を満たしてくれる食器を、いつも無意識で選んでいたんだなぁと今回気付いた。
そして仮に今回見た¥16000が¥1600だったなら買っただろう・・・。
ということは、値段抜きにしてそこまで惹かれてもいなかったことがうかがえる。
いつも催事場は大混雑しているのに、今回はなぜか人がちらほら。
どうしてだろう?と近くに寄って見ると、丁寧な暮らしや自然派を謳う雑貨が今回のテーマで、
遠目に見てもセンス良さそうな感じはあったけれども多分値段が全くかわいくない代物なんだろう
と思った。
気になる物を数点手に取って見てみたけれども、何が驚きかって値段が「0」一つ分間違っている
のではないかというところ。
1つだけじゃない、総体的に価格設定がびっくり仰天するもの揃いだった。
すごく素敵な、通常の茶碗よりも少し大きくした小丼型でふた付きのものを見つけた。
下方をひっくり返して値段を確認。
「¥16000」
えっ!?これ一万六千円ですか?と心の中で叫んだことは言うまでもない。
友達と瀬戸焼で有名な瀬戸の陶器店巡りをした時、あるお店の店員さんが、
「ふた付きのものは、上下で大きさを合わせないといけないから、それだけ技術が要る。
だからふた付きの食器は高いんだよ。」
と説明してくれたことがあった。
でも、そこでのふた付きの食器も、どんなに高くても数千円だった。
個人的にデパートの食器売場を見るのが好きで、よく一人で買いもせず見学だけすることがある
けれども、まず万単位の食器は置いていない。
デパート入りする位だから、良い品且つ中には作家さんのものもあるけれども、まず普段使いの
もので諭吉1枚出してもまだ足りないなんていうものは置かれていない。
とにかく「高い」という印象だけを持って帰ってきたけれども、なぜそれが高いと感じたのか、
それを一人でぐるぐると考えていた。
例えば、1泊2日の温泉旅行で同じ価格だったら、高いという風にはならない。
例えば、これが新潟‐東京間の往復新幹線代だったら、安いとさえなるだろう。
あの1人分の器が¥16000だと高いと感じる理由。
それは、そこに入れる食材の値段と関係していると思う。
1人の1食分、しかも家で作るごはんで、という条件で考えると、まずそれで¥16000分も材料費
がかかることはない。
そこに入れるためのものすごい高級食材を用意しても、1人分で16000円というのは難しい。
高級和牛買ってきて、ステーキ丼?
北海道の高級ウニといくらのせて、海鮮丼?
それ位しないと、食材が器負けする。
もっと言うと、値段を知らない人がその食器を見て、「16000」という数字が思い浮かぶかと
言えば難しい気がする。
失礼だけれど、1600円だったよ!と言っても、疑われない。
素人には値段の判別がつかない位、それが高級なのか大衆向けなのかがわかりにくい。
そんなこんなを考えているうちに、わたしが普段選ぶ時の基準というのが浮かび上がってきた。
まず、器に気を遣うことなく、がしがしと日々使えること。
陶器は扱いを誤れば当然割れる。
そういう自分のミスも計算に入れた上で、気を遣わなくていいというのはとっても大事。
もしわたしが年収1億円なんていう稼ぎを打ち出す身分になったとしても、そこは変わらない気が
する。
器を食器棚から出す、盛り付ける、テーブルへ運ぶ、食べる、洗い場へ運ぶ、洗う、乾いたら
片付ける、この一連の流れのどこか1点でも緊張が走るような器はわたしは好きじゃない。
そういう流れは毎日のことだから、それにはリラックスしながら臨みたいと常々思っている。
もうひとつは、日々のごはんの材料費に見合った器であること。
器だけ高級品でも、日々のごはんは高級品ではないからものすごいギャップが生じる。
器と料理とが仲良く手を取り合って、互いに美味しそうに見せ合える点が必ずある。
だから、どちらかが頑張りすぎていると、必ずどこかに歪みが生じる。
例えば高くて割れたらもったいないからあまり使わない、なんてことになったらもっともったいない。
自分が好きで家に連れて帰ってきた器たちは、できるだけたくさん活躍の場を与えたいと思う。
数年かけて食器を集めただけあって、食器は常に一期一会であることがわかる。
洋食器と違って、和食器は重版で同じものが繰り返し作られる方が少ないかと思う。
今家にある食器たちは、縁あってわたしの元にやってきた。
たんすの肥やしにするのではなくて、日々の生活の中でたくさん使って愛でたい。
それらの条件を満たしてくれる食器を、いつも無意識で選んでいたんだなぁと今回気付いた。
そして仮に今回見た¥16000が¥1600だったなら買っただろう・・・。
ということは、値段抜きにしてそこまで惹かれてもいなかったことがうかがえる。
2015年8月24日月曜日
好きな活字と嫌いな活字
1週間以上パソコンのメールチェックをしなかったら、メールの受信箱が溢れ返っていた。
数十通の中で本当に対応する必要のあるメールは1通のみで、残りの大半はメルマガだ。
薄々気付いてはいたけれども、どうも今購読しているメルマガが好きじゃない。
1通として開こうとしていない自分がいる。
ためになる情報があるだろうことは、これまでの流れで想像はつく。
だけれども、1つとして開いて読もうという気にならない。
これはそろそろ解約する時期なのかもしれない。
必要か不要かと言われたら、必要。
読みたいか読みたくないかと言われたら、今は読みたくない。
好きか嫌いかと言われたら、気付いたら嫌いになっていたような気がする。
多分それらのメルマガからの最大の影響は、自分の心の声がかき消されることだと思う。
ためになるし、わたしにはない視点をくれるから気付かされることも多い。
きちんと線引きしながら読んでいたら良かったけれども、気付いたら「○○をしなきゃ」というような
強迫観念の方が強くなってしまった。
ぶっちゃけて言えば、疲れたんだと思う。
読んでも楽しくないし、小さなプレッシャーを自分で勝手に感じて、気付いたらそれがとてつもなく
大きくなっていた、という感じかもしれない。
本の読書の方にも同じようなことが起こっている。
今手元に図書館から借りてきた本が数冊ある。
帰省前に借りてきて、当初は読む気満々だった。
途中まで読み進めている。
今本を読む時間はある。
あるけれども、それを開こうと思わない。
なんとなく、気が進まない。
メルマガとは違うけれども、似たような感情を抱いているのは否めない。
じゃあ活字ゼロの生活をしているのかと言えば、そうじゃない。
この1年ではまりにはまった日常が綴られたブログは読んでいる。
何て事の無いある人のある日常(×数人分)だけれど、読んでいて面白い。
毎日が色んな表情に溢れていて、本当に淡々と日常だけを綴っている。
何かを自慢したくて書いているものとは違う。
自分の身の丈に合ったことをそのまままっすぐに発信しているから、読んでいる方も気負わずに
楽しんで読める。
笑いも涙も怒りも悲しみも、すべてを含有した生きている記録。
それに今も変わらず惹かれている。
好きな活字と嫌いな活字が今ほどに明確になったことは、頭の中の記憶を辿っても過去にない。
上に書いたのは、すべてわたしの日常の生活の中に含まれていた。
なんとなく全部があっての日常だと思い込んでいた。
でも、そうではないらしい。
たかが1週間程度のリセットでしかなかったけれども、この1週間がもたらした好き嫌いの基準は
想像以上に大きかった。
好きな活字は、これからも日常の一部として存在し続けるだろう。
一方の嫌いな活字は、どこかのタイミングで手放していくのだろう。
数十通の中で本当に対応する必要のあるメールは1通のみで、残りの大半はメルマガだ。
薄々気付いてはいたけれども、どうも今購読しているメルマガが好きじゃない。
1通として開こうとしていない自分がいる。
ためになる情報があるだろうことは、これまでの流れで想像はつく。
だけれども、1つとして開いて読もうという気にならない。
これはそろそろ解約する時期なのかもしれない。
必要か不要かと言われたら、必要。
読みたいか読みたくないかと言われたら、今は読みたくない。
好きか嫌いかと言われたら、気付いたら嫌いになっていたような気がする。
多分それらのメルマガからの最大の影響は、自分の心の声がかき消されることだと思う。
ためになるし、わたしにはない視点をくれるから気付かされることも多い。
きちんと線引きしながら読んでいたら良かったけれども、気付いたら「○○をしなきゃ」というような
強迫観念の方が強くなってしまった。
ぶっちゃけて言えば、疲れたんだと思う。
読んでも楽しくないし、小さなプレッシャーを自分で勝手に感じて、気付いたらそれがとてつもなく
大きくなっていた、という感じかもしれない。
本の読書の方にも同じようなことが起こっている。
今手元に図書館から借りてきた本が数冊ある。
帰省前に借りてきて、当初は読む気満々だった。
途中まで読み進めている。
今本を読む時間はある。
あるけれども、それを開こうと思わない。
なんとなく、気が進まない。
メルマガとは違うけれども、似たような感情を抱いているのは否めない。
じゃあ活字ゼロの生活をしているのかと言えば、そうじゃない。
この1年ではまりにはまった日常が綴られたブログは読んでいる。
何て事の無いある人のある日常(×数人分)だけれど、読んでいて面白い。
毎日が色んな表情に溢れていて、本当に淡々と日常だけを綴っている。
何かを自慢したくて書いているものとは違う。
自分の身の丈に合ったことをそのまままっすぐに発信しているから、読んでいる方も気負わずに
楽しんで読める。
笑いも涙も怒りも悲しみも、すべてを含有した生きている記録。
それに今も変わらず惹かれている。
好きな活字と嫌いな活字が今ほどに明確になったことは、頭の中の記憶を辿っても過去にない。
上に書いたのは、すべてわたしの日常の生活の中に含まれていた。
なんとなく全部があっての日常だと思い込んでいた。
でも、そうではないらしい。
たかが1週間程度のリセットでしかなかったけれども、この1週間がもたらした好き嫌いの基準は
想像以上に大きかった。
好きな活字は、これからも日常の一部として存在し続けるだろう。
一方の嫌いな活字は、どこかのタイミングで手放していくのだろう。
2015年8月23日日曜日
色んな自分
丸っと1週間、普段の生活から離れて父・母が暮らす家に帰った。
名古屋に住んでから15回以上は帰った場所。
盆、正月、ゴールデンウィーク以外にも必要があって帰った時もあった。
1週間ほど滞在するとすごくよくわかる。
自分の中の細胞が丸ごと入れ替わる位の変化が起こる。
「娘」以外の役割は何も持たず、食べて寝て家事して喋って、その繰り返しが主だけど、
そして動くのも必要最低限だけど、それでも普段の生活では出てこない自分が出てくる。
淡々と日々を送り、お互いに家事を押し付け合ったり文句を言ったりしながらも、世の中であの
場所ほど自分が自分でいられる場所は他にない。
家族に自分の今を、もしくは過去をすべて包み隠さず話せるわけじゃない。
多分、わたしがわたしの秘密を持つように、家族それぞれだって秘密があると思う。
それでももうこれ以上ないと言わんばかりの素の自分が何もしなくても出てくる。
普段肩だけと言わず全身に力が入っている自分の姿が、すごくよくわかる。
いつもなら、その力の入っていることにすら気付けない自分がいる。
そのがちがちの力、余計な力が一瞬で抜ける。
それらが抜けた時、物事は実にシンプルになる。
それを今やりたいかやりたくないか。
ごちゃごちゃ面倒くさいことは考えず、体の欲求に合わせて、心の動きに合わせて自分を動かす。
世の中の出来事の煩雑さと言ったらない。
あの煩雑さの中で生きようとしたら、それは変な力もよそ行きの顔も便宜上必要だ。
それでも、それらの仮面を全部脱ぎ捨ててもいいと自然に思えて本当にそうできる場所、
気付いたら力が抜けている自分、そういう場所と自分が存在していることにどれだけ救われるか、
そんなことをゆったりとした頭と心で感じた。
生きていたら色んな自分がいる。
全身に思いっきり力の入っている自分も自分。
力が完全に抜けきっている自分も自分。
怒っている時も、涙流している時も、「それおかしい」と自分の思いを主張している自分も、反対に
自分の主張を呑み込んでいる時の自分も、全部自分。
色んな自分がいるけれど、なるべく自分の中にある自分と外に向かって表現する自分にずれが
ないといいなぁ。
ずれるから力が入るんだろうと思う。
ずれがなければシンプルにそのままの自分を出せばいいだけ。
そんなことを考えているうちに、帰りの高速バスの中ではいつの間にか眠っていた。
名古屋に住んでから15回以上は帰った場所。
盆、正月、ゴールデンウィーク以外にも必要があって帰った時もあった。
1週間ほど滞在するとすごくよくわかる。
自分の中の細胞が丸ごと入れ替わる位の変化が起こる。
「娘」以外の役割は何も持たず、食べて寝て家事して喋って、その繰り返しが主だけど、
そして動くのも必要最低限だけど、それでも普段の生活では出てこない自分が出てくる。
淡々と日々を送り、お互いに家事を押し付け合ったり文句を言ったりしながらも、世の中であの
場所ほど自分が自分でいられる場所は他にない。
家族に自分の今を、もしくは過去をすべて包み隠さず話せるわけじゃない。
多分、わたしがわたしの秘密を持つように、家族それぞれだって秘密があると思う。
それでももうこれ以上ないと言わんばかりの素の自分が何もしなくても出てくる。
普段肩だけと言わず全身に力が入っている自分の姿が、すごくよくわかる。
いつもなら、その力の入っていることにすら気付けない自分がいる。
そのがちがちの力、余計な力が一瞬で抜ける。
それらが抜けた時、物事は実にシンプルになる。
それを今やりたいかやりたくないか。
ごちゃごちゃ面倒くさいことは考えず、体の欲求に合わせて、心の動きに合わせて自分を動かす。
世の中の出来事の煩雑さと言ったらない。
あの煩雑さの中で生きようとしたら、それは変な力もよそ行きの顔も便宜上必要だ。
それでも、それらの仮面を全部脱ぎ捨ててもいいと自然に思えて本当にそうできる場所、
気付いたら力が抜けている自分、そういう場所と自分が存在していることにどれだけ救われるか、
そんなことをゆったりとした頭と心で感じた。
生きていたら色んな自分がいる。
全身に思いっきり力の入っている自分も自分。
力が完全に抜けきっている自分も自分。
怒っている時も、涙流している時も、「それおかしい」と自分の思いを主張している自分も、反対に
自分の主張を呑み込んでいる時の自分も、全部自分。
色んな自分がいるけれど、なるべく自分の中にある自分と外に向かって表現する自分にずれが
ないといいなぁ。
ずれるから力が入るんだろうと思う。
ずれがなければシンプルにそのままの自分を出せばいいだけ。
そんなことを考えているうちに、帰りの高速バスの中ではいつの間にか眠っていた。
2015年8月15日土曜日
秋のおとずれ 立秋
立秋から早一週間。
日に日に秋の気配が強くなってきた。
8月の最初の週が異常な暑さで、そのままお盆に突入するのかと思いきや、立秋の辺りから暑さがいきなり収まった。
暑いには暑いけど、あの灼熱のジリジリした暑さが消えた。
そして夕方ともなれば涼しい風が吹くようになった。
蝉時雨も朝の5時きっかりには始まらなくなり、そこそこの気温が上がると聞こえる程度になった。
梅雨明けに梅干しを天日干しした時に、なぜこの時期に干すのかなんて考えなかったけど、今ならわかる。
あの時期じゃないと、太陽の光がそこまで強くない。
今週に入って、今干さないともう干せないかもと思って、ゆかり用に赤紫蘇を干した。
梅干しを干した時からわずか3週間も空いていない。
だけど、確実に太陽は秋の太陽になっていた。
おととい夕方取り込むのを忘れて、夜遅くなってから取り込んだ。
梅干しの時に夜通し干した日もあったから、それと同じ感じを想像していた。
ところが、おとといの晩は、もうすでに涼しくなってるおかげで、あんなに日中カラカラと乾いた赤紫蘇が一気に湿り気を帯びてた。
それを見て、ようやく梅雨明けの晴れの日を狙って干す梅干しの意味がわかった。
たった3週間でしかなくても、その間に太陽は夏の太陽から秋の太陽に変わる。
立秋という言葉が本当に天気そのものを表しているなんて、この年になるまで気がつかなかった。
今ほどに技術が発展していない時代に生まれた季節を表す言葉。
昔の人の感性の豊かさから、今年のわたしは沢山の知恵を学んでいる。
2015年8月14日金曜日
やる気スイッチオン!!!
かれこれ何時間作業していたのだろう。
自分が過去に書いた100近い記事を読み返し、必要なものは編集し直し、そしてそれぞれを
新しいカテゴリーに分けた新しい記事を作っていた。
いつかはやろうやろう…と考えていたもののいつもやる気にならず、ずっと放置していた。
やってもやらなくてもいいけれども、絶対にやっておいた方が未来の自分の助けになることだけは
わかっていた。
残り90近い再編集が残っている。
明日というか今日これから寝て起きたら、またこの調子でやりきりたいと思っている。
頼むよ、明日(=今日の朝)の自分…。
作業をしていて思ったのは、「継続は力なり」の一言に尽きる。
200近い記事、しかもこのブログよりも気合が入っていて内容も多岐に渡っている。
それを延々とほぼ毎日書きあげることで、200近いものが出来上がる。
しかもほとんど内容がかぶることなく、色んなことを多方面から書いている。
そしてその内容の大元のネタは、すべて自分の失敗から始まっている。
たくさん失敗してそこから立ち直らざるを得ず、それで暗中模索でやってきたことが1つまた1つと
記事になった。
難しい本なんか開かなくても、自分の過去を振り返って得た知恵やプロセスを言葉にする。
それだけで良かったにしても、言葉になっていないものを言葉にする作業はこうして言うよりも
難しいものだった。
200近いものを書いて、これがどうにもならない可能性だってある。
でも、本当に少しだけ希望を抱いている。
半年近く書き続けて、この反応の無いブログどうしてくれよう…と何度も何度も思った。
しかもこのブログよりもっと具体的に色んな数字が出てくる。
余計にへこんだ。
だけどようやくここに来て、本当に少し見知らぬ誰かにも届いているかもしれない、というのが
わたしにも伝わることが出てきた。
それはどこの誰かも知らない人からのメッセージという形で出てくることもあれば、繰り返して
わたしのブログを訪れて読んだよのサインを残してくれることもある。
相変わらず変な営業の人とか、自分に利益が欲しいくせにわたしに「いいね」を連打する人、
わたしには到底理解できない変なメッセージ送りつけてくる人とかいるけれども、
それでも心ある人たちが少しずつ現れ始めた。
これは続けなければわからないことだった。
そういう兆候が出てきたことで、もう少し見やすい記事の整理の方法はないかと思って、それで
手をつけた今回の再編集。
亀のような歩みだけれど、これがどこかに繋がって欲しいと自分だけは希望を持ち続ける予定。
自分が過去に書いた100近い記事を読み返し、必要なものは編集し直し、そしてそれぞれを
新しいカテゴリーに分けた新しい記事を作っていた。
いつかはやろうやろう…と考えていたもののいつもやる気にならず、ずっと放置していた。
やってもやらなくてもいいけれども、絶対にやっておいた方が未来の自分の助けになることだけは
わかっていた。
残り90近い再編集が残っている。
明日というか今日これから寝て起きたら、またこの調子でやりきりたいと思っている。
頼むよ、明日(=今日の朝)の自分…。
作業をしていて思ったのは、「継続は力なり」の一言に尽きる。
200近い記事、しかもこのブログよりも気合が入っていて内容も多岐に渡っている。
それを延々とほぼ毎日書きあげることで、200近いものが出来上がる。
しかもほとんど内容がかぶることなく、色んなことを多方面から書いている。
そしてその内容の大元のネタは、すべて自分の失敗から始まっている。
たくさん失敗してそこから立ち直らざるを得ず、それで暗中模索でやってきたことが1つまた1つと
記事になった。
難しい本なんか開かなくても、自分の過去を振り返って得た知恵やプロセスを言葉にする。
それだけで良かったにしても、言葉になっていないものを言葉にする作業はこうして言うよりも
難しいものだった。
200近いものを書いて、これがどうにもならない可能性だってある。
でも、本当に少しだけ希望を抱いている。
半年近く書き続けて、この反応の無いブログどうしてくれよう…と何度も何度も思った。
しかもこのブログよりもっと具体的に色んな数字が出てくる。
余計にへこんだ。
だけどようやくここに来て、本当に少し見知らぬ誰かにも届いているかもしれない、というのが
わたしにも伝わることが出てきた。
それはどこの誰かも知らない人からのメッセージという形で出てくることもあれば、繰り返して
わたしのブログを訪れて読んだよのサインを残してくれることもある。
相変わらず変な営業の人とか、自分に利益が欲しいくせにわたしに「いいね」を連打する人、
わたしには到底理解できない変なメッセージ送りつけてくる人とかいるけれども、
それでも心ある人たちが少しずつ現れ始めた。
これは続けなければわからないことだった。
そういう兆候が出てきたことで、もう少し見やすい記事の整理の方法はないかと思って、それで
手をつけた今回の再編集。
亀のような歩みだけれど、これがどこかに繋がって欲しいと自分だけは希望を持ち続ける予定。
2015年8月12日水曜日
お盆の手土産
今年のお盆は、わたしがこれまで試して美味しかった乾物の食材を母と妹ふたりに持って行こうと
けっこう前から決めていた。
家に帰るだけだから手土産なんてなくても大丈夫なんだけど、美味しかったものはぜひともみんな
にも教えたいし広めたい。
ふと、子どもの頃の母と叔母たちのやりとりを思い出した。
母の実家は我が家から120kmほど離れたものすごい田舎にある。
隣りの家に行くのに50mは離れているような土地だ。
母は7人きょうだいで、上から2番目、女4人の中では長女にあたる。
下3人、Y、T、Mの順で、Yは大阪、Tは軽度の知的障害がありグループホーム入所、Mは
母の実家から1時間も離れていないところに住んでいる。
母、Y、Mの3人でいつも物々交換をしていた。
Tも帰省しているけれども、入所ホームに大量の生の食べ物はいらないから、自分が使えるもの
だけもらう方式で参加していた。
長兄にあたる一家の主へはきちんとのしを貼り、お中元お歳暮をいくつも持ちこんでいた。
大人になってからわかったことだけれども、1つではなくあんなにいくつもお中元お歳暮を持ちこむ
というのは、あの田舎特有の文化だと思う。
8年前、祖母のお葬式に参列した際、なんと7日間ほぼ通しでなにがしかの式があったのだから、
そんなことを今のこの時代でするなんていうのは、文化遺産として登録できそうな位だ。
話は戻って、お盆の母たち姉妹のやりとりだ。
母はわたしたちが住んでいる市の名産品をいつも大量に購入して配っていた。
それはおそらく今も変わらない。
Yは大阪でショッピングセンターに長く勤めているけれども、その兼ね合いで安く手に入る食材や
下着をいつもふるまってくれていた。
Mは、家でちょっとした畑をしていて、そこで採れた大量の夏野菜をいつも持ちこんでくれていた。
それらを台所でわいわいがやがや喋りながら分けていた光景が今も脳裏に残っている。
母たちにとっての実家には、きちんとしたものにのしを付けて渡すのが流儀ではあったけれども、
姉妹間ではそんな固いことはせず、互いに持ち寄れるものを持ち寄り交換していた。
主婦でもある母たちにとっては、肩肘張らず普段使えるモノが一番ありがたいというのが互いに
わかっていた。
全て暗黙の了解で行われていた物々交換は、毎年お盆の風物詩のようなものだった。
ふと今年の自分の用意した手土産を見て、当時の母たちと同じことを自分もしようとしていること
に気付いた。
決して高価なものではないし、なんだったら買ったお店のナイロン袋からどんと裸で出すような
状態ではあるけれども、まちがいなく美味しくて普段のごはんに使える。
自分の親やきょうだい位、この位気を遣わないのはとても楽ちんだ。
子どもの頃、ぼけ~っと見ていた大人の物々交換。
今となっては、ああいう肩肘張らないやりとりを目の前で見ることができて本当に良かった。
もし母たち姉妹が互いにのしを貼ったお中元やお歳暮をやりとりしていたのなら、それこそ今の
わたしもそんな風になっていたかもしれない。
内と外を上手に使い分ける知恵は、大人になってからどれほど大切か身に染みてわかるように
なった。
けっこう前から決めていた。
家に帰るだけだから手土産なんてなくても大丈夫なんだけど、美味しかったものはぜひともみんな
にも教えたいし広めたい。
ふと、子どもの頃の母と叔母たちのやりとりを思い出した。
母の実家は我が家から120kmほど離れたものすごい田舎にある。
隣りの家に行くのに50mは離れているような土地だ。
母は7人きょうだいで、上から2番目、女4人の中では長女にあたる。
下3人、Y、T、Mの順で、Yは大阪、Tは軽度の知的障害がありグループホーム入所、Mは
母の実家から1時間も離れていないところに住んでいる。
母、Y、Mの3人でいつも物々交換をしていた。
Tも帰省しているけれども、入所ホームに大量の生の食べ物はいらないから、自分が使えるもの
だけもらう方式で参加していた。
長兄にあたる一家の主へはきちんとのしを貼り、お中元お歳暮をいくつも持ちこんでいた。
大人になってからわかったことだけれども、1つではなくあんなにいくつもお中元お歳暮を持ちこむ
というのは、あの田舎特有の文化だと思う。
8年前、祖母のお葬式に参列した際、なんと7日間ほぼ通しでなにがしかの式があったのだから、
そんなことを今のこの時代でするなんていうのは、文化遺産として登録できそうな位だ。
話は戻って、お盆の母たち姉妹のやりとりだ。
母はわたしたちが住んでいる市の名産品をいつも大量に購入して配っていた。
それはおそらく今も変わらない。
Yは大阪でショッピングセンターに長く勤めているけれども、その兼ね合いで安く手に入る食材や
下着をいつもふるまってくれていた。
Mは、家でちょっとした畑をしていて、そこで採れた大量の夏野菜をいつも持ちこんでくれていた。
それらを台所でわいわいがやがや喋りながら分けていた光景が今も脳裏に残っている。
母たちにとっての実家には、きちんとしたものにのしを付けて渡すのが流儀ではあったけれども、
姉妹間ではそんな固いことはせず、互いに持ち寄れるものを持ち寄り交換していた。
主婦でもある母たちにとっては、肩肘張らず普段使えるモノが一番ありがたいというのが互いに
わかっていた。
全て暗黙の了解で行われていた物々交換は、毎年お盆の風物詩のようなものだった。
ふと今年の自分の用意した手土産を見て、当時の母たちと同じことを自分もしようとしていること
に気付いた。
決して高価なものではないし、なんだったら買ったお店のナイロン袋からどんと裸で出すような
状態ではあるけれども、まちがいなく美味しくて普段のごはんに使える。
自分の親やきょうだい位、この位気を遣わないのはとても楽ちんだ。
子どもの頃、ぼけ~っと見ていた大人の物々交換。
今となっては、ああいう肩肘張らないやりとりを目の前で見ることができて本当に良かった。
もし母たち姉妹が互いにのしを貼ったお中元やお歳暮をやりとりしていたのなら、それこそ今の
わたしもそんな風になっていたかもしれない。
内と外を上手に使い分ける知恵は、大人になってからどれほど大切か身に染みてわかるように
なった。
2015年8月10日月曜日
200文字以内の願い事
7月の梅雨明け宣言が発表された頃、友達から1通のメールがきた。
本来の用事とは別に、「これ見たらぶっしーが真っ先に思い浮かびました!」ということで、一緒に
添付されていたあるホームページがあった。
「絶対応募してね!」とあり、開いて見ると、それは願い事を書いてコンクールに出す案内だった。
文字数は20文字~200文字以内と規定があり、願い事の種類は何でもOKとのこと。
今日8月10日(月)の消印有効で、だからざっと3週間ほどの時間があった。
ところがこの願い事、「自分の願い事を200文字以内で述べよ」なんていう論文とは違うものの、
まぁそれに準じたものと捉えて質問に答えようとしても、言葉が出てこない。
200文字なんてあっという間の文字数だ。
とりあえず文字数は脇に置いても、「自分の願い事」がそもそも何なのか、それがわからなかった。
いくつか頭に思い浮かべてみても、どれもぴんと来ていないせいで言葉にできない。
先週、そろそろ締切間近だと気付いて、じっくりと考えたりしたこともあったけれど、「○○です」と
一言で表せるような感覚はまだやってこなかった。
週末、他のことをしていたらこの願い事の件をすっかり忘れた。
思い出したのは、10日(月)になろうとしている日曜日の夜遅くだった。
朝起きて忘れないように、とりあえず官製はがきだけ枕もとの近くに用意した。
夜うつらうつらしていた時も言葉は何も出てこず、まぁどうでも応募しなくてもいいかと諦めモードに
突入していた。
朝の早い時間一度目覚め、二度寝ができると思って二度寝をしようとした時。
一気に言葉が出てきた。
それは4年か5年前にいつか使おうと思って、とりあえず出てきた言葉を散文詩風に綴った
一篇の詩のようなものだった。
非常に単純な言葉の繰り返しで、おおよそ何を書いたのかは自分でも憶えている。
その文章が頭の中を通り過ぎた。
決まりだった。
その文章を土台にして、願い事を書こうと思った。
二度寝から目覚めた後、当時のノートを出してきて、そして文章下書き用のノートも出して、
一気に数年前の自分の思いと今の自分の思いを組み合わせて1つにした。
書きながら、文字数もカウントした。
最初が203文字。
一部をくっつけて、最終的に190文字と少しおまけ位になった。
自分で何度も声に出して音読した。
言葉の順番を変えたりしながらも、基本は同じことだった。
すぐに官製はがきに清書をして、先ほど郵便局の窓口で直接手渡しでお願いしてきた。
そこに書いた私の願い事は、すべて「自分の体1つでできること」ばかりだった。
すっごくシンプルだけれども、余計なことを考えると途端にそこからものすごく遠く離れてしまう、
「今ここ」の自分を意識していないとシンプルなのに一気に難しくなってしまう、そういうものだった。
それを声に出して読む時、胸が震える感覚が湧いてくる。
ついでに涙も噴き出してくる。
すごく当たり前のことばかりなのに、よく忘れるんだな、わたし・・・と思いながら読む。
コンクールの結果云々はどちらでもいい。
それよりも、今回この「願い事を200文字以内で表す」という行為を通じて、自分がいつも静かに
心の中でそっと求めていること、なぜそれが自分にとって大切なのかということ、そういうことが
浮き彫りになった。
それだけでも今回のことは有意義な創作活動だった。
たった200文字で表せる世界に存在する自分の願い事。
いつでも自分で読めるように、出す前にコンビニでコピーした。
本来の用事とは別に、「これ見たらぶっしーが真っ先に思い浮かびました!」ということで、一緒に
添付されていたあるホームページがあった。
「絶対応募してね!」とあり、開いて見ると、それは願い事を書いてコンクールに出す案内だった。
文字数は20文字~200文字以内と規定があり、願い事の種類は何でもOKとのこと。
今日8月10日(月)の消印有効で、だからざっと3週間ほどの時間があった。
ところがこの願い事、「自分の願い事を200文字以内で述べよ」なんていう論文とは違うものの、
まぁそれに準じたものと捉えて質問に答えようとしても、言葉が出てこない。
200文字なんてあっという間の文字数だ。
とりあえず文字数は脇に置いても、「自分の願い事」がそもそも何なのか、それがわからなかった。
いくつか頭に思い浮かべてみても、どれもぴんと来ていないせいで言葉にできない。
先週、そろそろ締切間近だと気付いて、じっくりと考えたりしたこともあったけれど、「○○です」と
一言で表せるような感覚はまだやってこなかった。
週末、他のことをしていたらこの願い事の件をすっかり忘れた。
思い出したのは、10日(月)になろうとしている日曜日の夜遅くだった。
朝起きて忘れないように、とりあえず官製はがきだけ枕もとの近くに用意した。
夜うつらうつらしていた時も言葉は何も出てこず、まぁどうでも応募しなくてもいいかと諦めモードに
突入していた。
朝の早い時間一度目覚め、二度寝ができると思って二度寝をしようとした時。
一気に言葉が出てきた。
それは4年か5年前にいつか使おうと思って、とりあえず出てきた言葉を散文詩風に綴った
一篇の詩のようなものだった。
非常に単純な言葉の繰り返しで、おおよそ何を書いたのかは自分でも憶えている。
その文章が頭の中を通り過ぎた。
決まりだった。
その文章を土台にして、願い事を書こうと思った。
二度寝から目覚めた後、当時のノートを出してきて、そして文章下書き用のノートも出して、
一気に数年前の自分の思いと今の自分の思いを組み合わせて1つにした。
書きながら、文字数もカウントした。
最初が203文字。
一部をくっつけて、最終的に190文字と少しおまけ位になった。
自分で何度も声に出して音読した。
言葉の順番を変えたりしながらも、基本は同じことだった。
すぐに官製はがきに清書をして、先ほど郵便局の窓口で直接手渡しでお願いしてきた。
そこに書いた私の願い事は、すべて「自分の体1つでできること」ばかりだった。
すっごくシンプルだけれども、余計なことを考えると途端にそこからものすごく遠く離れてしまう、
「今ここ」の自分を意識していないとシンプルなのに一気に難しくなってしまう、そういうものだった。
それを声に出して読む時、胸が震える感覚が湧いてくる。
ついでに涙も噴き出してくる。
すごく当たり前のことばかりなのに、よく忘れるんだな、わたし・・・と思いながら読む。
コンクールの結果云々はどちらでもいい。
それよりも、今回この「願い事を200文字以内で表す」という行為を通じて、自分がいつも静かに
心の中でそっと求めていること、なぜそれが自分にとって大切なのかということ、そういうことが
浮き彫りになった。
それだけでも今回のことは有意義な創作活動だった。
たった200文字で表せる世界に存在する自分の願い事。
いつでも自分で読めるように、出す前にコンビニでコピーした。
2015年8月6日木曜日
夏の夕暮れ
今年はこれまでにない位、夕焼け空を観察できる日が多い。
数年前、塾の仕事をしていた頃、夕焼け空を見れるというのがどれだけ贅沢に感じたことか。
毎日窓の上方10cmほどのところにぽっかりと見える小さな夕焼け空を見ては、いつかはこれを
好きなだけじっくりと眺めたいと何度も願っていた当時。
夕方から夜にかけてがメインの時間となる仕事になってしまったことを何度も悔やんだ。
今年はとにかく夕暮れの空の移り変わりに魅せられて、その時間になるとせっせせっせと外に足を
運んでいる。
外は暑いには暑いけれども、6時台後半~7時にかけては幾分涼しくなり、そして風が吹く。
夕焼けを観察するにはそこまで体力も消耗しない。
でも、なぜだろう。
夏の夕焼けは、春や秋、冬にない寂しさがある。
秋は「冬に向かっている」ということがとても鮮明だから、別に夕暮れ時だからといって寂しさを
そこまで感じない。
日に日に短くなる太陽の長さは惜しいけれども、どこかで「秋から冬」への覚悟をしてる気がする。
冬は反対に、そろそろ春がやってくるという愉しみがある。
そして冬の夕暮れ時の空気が張り詰めた感じは個人的に粋だと思ってる。
春は、これから「夏」に向かうという希望のような明るさを感じる。
だから夕暮れすらもなんだか陽気で心躍る感じがある。
夏はそういうものがない。
改めてじっくりと季節を見ていると、日本の夏はあっという間に終わる。
たしかに今年の夏は異常な暑さが何日も続いているけれども、それだって1ヶ月位がいいところ。
お盆を過ぎれば一気に秋の気配が忍び寄る。
特に夕方以降はその気色が強くなる。
蝉時雨が始まったと思うのが梅雨明けの小学校の夏休み開始の時期と重なる。
それから1ヶ月も経たぬうちに、とんぼがちらほら出てきて夜には鈴虫が登場する。
それは夏の終わりをいつも静かに告げている風で、どこか寂しい。
日中は暑さのおかげで夏特有の寂しさも姿を紛らわしているけれども、夕暮れあたりから徐々に
その姿は大きくなってくる。
夕焼けが毎日きれいなグラデーションを奏でているけれども、いつも儚さが一緒に佇んでいる。
この夏に、夏の夕暮れに新たな意味が加わったら、寂しさ以外の意味が加わったらいいなぁと
いつもひっそり願っている。
数年前、塾の仕事をしていた頃、夕焼け空を見れるというのがどれだけ贅沢に感じたことか。
毎日窓の上方10cmほどのところにぽっかりと見える小さな夕焼け空を見ては、いつかはこれを
好きなだけじっくりと眺めたいと何度も願っていた当時。
夕方から夜にかけてがメインの時間となる仕事になってしまったことを何度も悔やんだ。
今年はとにかく夕暮れの空の移り変わりに魅せられて、その時間になるとせっせせっせと外に足を
運んでいる。
外は暑いには暑いけれども、6時台後半~7時にかけては幾分涼しくなり、そして風が吹く。
夕焼けを観察するにはそこまで体力も消耗しない。
でも、なぜだろう。
夏の夕焼けは、春や秋、冬にない寂しさがある。
秋は「冬に向かっている」ということがとても鮮明だから、別に夕暮れ時だからといって寂しさを
そこまで感じない。
日に日に短くなる太陽の長さは惜しいけれども、どこかで「秋から冬」への覚悟をしてる気がする。
冬は反対に、そろそろ春がやってくるという愉しみがある。
そして冬の夕暮れ時の空気が張り詰めた感じは個人的に粋だと思ってる。
春は、これから「夏」に向かうという希望のような明るさを感じる。
だから夕暮れすらもなんだか陽気で心躍る感じがある。
夏はそういうものがない。
改めてじっくりと季節を見ていると、日本の夏はあっという間に終わる。
たしかに今年の夏は異常な暑さが何日も続いているけれども、それだって1ヶ月位がいいところ。
お盆を過ぎれば一気に秋の気配が忍び寄る。
特に夕方以降はその気色が強くなる。
蝉時雨が始まったと思うのが梅雨明けの小学校の夏休み開始の時期と重なる。
それから1ヶ月も経たぬうちに、とんぼがちらほら出てきて夜には鈴虫が登場する。
それは夏の終わりをいつも静かに告げている風で、どこか寂しい。
日中は暑さのおかげで夏特有の寂しさも姿を紛らわしているけれども、夕暮れあたりから徐々に
その姿は大きくなってくる。
夕焼けが毎日きれいなグラデーションを奏でているけれども、いつも儚さが一緒に佇んでいる。
この夏に、夏の夕暮れに新たな意味が加わったら、寂しさ以外の意味が加わったらいいなぁと
いつもひっそり願っている。
2015年8月4日火曜日
ネットの世界のマナー
ここ最近、ネットでの発信ややりとりに関してずっと引っ掛かっていたことがある。
最初は「もやっとする」とか「不快感」とかいう漠然とした感じで、何に引っ掛かっていたのか
わからずにいた。
ようやくそれを言葉にできるようになった。
わたしの最初のネットデビューは2005年、ちょうど今から10年前だった。
インターネット自体は大学の頃から使用していたけれども、例えば自分の思いを日記にするとか、
ネット上で誰かとやりとりするというのは2005年が初めてだった。
最初はmixiでスタートした。
今のmixiのシステムや方法は知らないけれど、当時のmixiは100%「招待制」となっていて、
例えば自分がmixiに参入したければ誰か知り合いからの招待状がないことにはサイト内にも
入れない仕組みだった。
時代はまだガラケーで、自宅でパソコンを所有する人も割合としては今ほどには多くないという頃
だったかと思う。
わたしも当初はmixiが何かなんていうことは知らず、友達が
「ぶっしーがパソコンを所有したら、絶対にmixiに招待するから言ってね」
と言うことをしつこく言ってくれたおかげで入ったようなものだった。
当時は、本名を出さなくて良かったのと(登録時ではなく普段使用時)、個人で発信できるものは
日記(ブログ)と枚数制限のついた写真、あとはコミュニティを自ら作ることもできれば、既存の
コミュニティに入ることもできたのと、メンバー同士で個人的なメッセージをやりとりする位が
大まかな機能だったと記憶している。
わたしの場合は8割位は元々知っている友達とお互いに繋がり、mixiを通じて新たに繋がった
のは本当に何人でもなかった。
ただ、いきなりは繋がれないから、お互いの日記にコメントし合ったり、個人的なメッセージを
やりとりした上で繋がるから、今のように誰とでも繋がりましょう的な感じは一切なかった。
当然変な人もいたけれども、そういう人には閲覧規制をかけられるようになっていたから、
そこまで問題だとも感じなかった。
実際にmixiを通じて会なんかでリアルに会った人も数人いる。
たしかにリアルで会うのははじめましてでも、元々色々とやりとりしていたからそんなに違和感は
なかった。
時代は2015年の今。
今はスマホを所有している人も自宅でパソコンを所有している人も増え、ブログを個人で発信
する人も当然右肩上がり、SNSと呼ばれるものはmixiだけではなくfacebookはじめ色々とある。
わたし自身は、mixiはもう2年位ほとんど触っていない。
代わりに、このブログ合わせて3つブログを書いてあとは登録休止状態のfacebook。
ただこの10年でネットの世界も大きく様変わりして、わたしなんかは今の全体的な流れが全く
好きじゃない。
お手軽に(表面上は)繋がれるようになった分、すごくマナーの悪い人も増えているのは本当だし、
まず個人的なやりとりなどなしにいきなり「友達になりましょう」的な申請が来たり。
意味もわからず何かのグループに自分が勝手に加入されていたり。
とにかく完全なる無法地帯になっている。
一言何か個人的な接触があればまだわかるけれども、それもなしにいきなり来るからびびる。
自分で対策できるものは対策するけれども、元々パソコン関連の操作に疎いわたしは、
知らない操作に関してはさっぱり知らないままでどうしていいのかもわからないものが色々ある。
あの頃は良かったじゃないけれど、mixiの初期の時代には体験しえなかった今の現状がある。
mixiの初期の時代の方が自分の本名を出す必要もなかったにも関わらず、ということは相手も
同じ条件だったわけで、でも確実に個人的にやりとりしなければいけなかったおかげで、
文章のやりとりで互いを知れるような感じが逆に安心だった。
なんだったら、当時繋がった人で、今も時々ふらりと連絡が来る人がいる。
人生で一番大変だった時、そこから立ち直った時、また新たに出発する時、そんな風に連絡が
突然やってくる。
一方、今は本名出して、相手も本名を出している場合が多く、無法地帯を抑えるべく各SNSの
管理会社が対策立てて奔走しているにも関わらず、もうどうにもこうにも追いつかない感がある。
それは使用者であるわたし含め各個人の人がどう捉えるかだと思う。
きちんと繋がれる人というのは、やはりマナーもしっかりしている。
こういう見えない世界だからこそ、誠意を尽くしている人も多い。
その反面、見えないからいいだろうと好き放題にやる人もいる。
でもその好き放題の人たちは多分リアルな世界でも色々やらかしてるんじゃないかと思う。
見えないからいいだろうじゃなくて、一生会うことないだろうからいいだろうじゃなくて、
たとえネットでもその先にいるのは1人の人間だということを絶対に忘れちゃいけないと思う。
mixiの時は、本名を知らずにいても、ネットの向こうには自分と何ら変わらない一人の人間がいる、
ということが大前提にあって、だからこそ非常にディープな話もしたりした。
特に名古屋に来てからは、mixiのコミュニティを通して朝活に参加していた時期もあって、
mixiでは本名を知らなくても会った時に本名を知るという人もかなりな人数でいた。
そしてそのうちの1人とは今でも時々近況をやりとりしている。
その反面、今は特別な規制がないことをいいことに好き放題、相手の事情も考えずに、
変なメッセージを送ってきたり突然何かのグループに相手の承諾もなしに入れたりと、
そういうことが起こる回数が確実に増えた。
文句ばかり垂れていても仕方ないので、わたしはわたしであくまで従来通り、あくまでも相手は
1人の人間だということを念頭に置いて、これからも繋がる人とは繋がっていきたいと思う。
最初は「もやっとする」とか「不快感」とかいう漠然とした感じで、何に引っ掛かっていたのか
わからずにいた。
ようやくそれを言葉にできるようになった。
わたしの最初のネットデビューは2005年、ちょうど今から10年前だった。
インターネット自体は大学の頃から使用していたけれども、例えば自分の思いを日記にするとか、
ネット上で誰かとやりとりするというのは2005年が初めてだった。
最初はmixiでスタートした。
今のmixiのシステムや方法は知らないけれど、当時のmixiは100%「招待制」となっていて、
例えば自分がmixiに参入したければ誰か知り合いからの招待状がないことにはサイト内にも
入れない仕組みだった。
時代はまだガラケーで、自宅でパソコンを所有する人も割合としては今ほどには多くないという頃
だったかと思う。
わたしも当初はmixiが何かなんていうことは知らず、友達が
「ぶっしーがパソコンを所有したら、絶対にmixiに招待するから言ってね」
と言うことをしつこく言ってくれたおかげで入ったようなものだった。
当時は、本名を出さなくて良かったのと(登録時ではなく普段使用時)、個人で発信できるものは
日記(ブログ)と枚数制限のついた写真、あとはコミュニティを自ら作ることもできれば、既存の
コミュニティに入ることもできたのと、メンバー同士で個人的なメッセージをやりとりする位が
大まかな機能だったと記憶している。
わたしの場合は8割位は元々知っている友達とお互いに繋がり、mixiを通じて新たに繋がった
のは本当に何人でもなかった。
ただ、いきなりは繋がれないから、お互いの日記にコメントし合ったり、個人的なメッセージを
やりとりした上で繋がるから、今のように誰とでも繋がりましょう的な感じは一切なかった。
当然変な人もいたけれども、そういう人には閲覧規制をかけられるようになっていたから、
そこまで問題だとも感じなかった。
実際にmixiを通じて会なんかでリアルに会った人も数人いる。
たしかにリアルで会うのははじめましてでも、元々色々とやりとりしていたからそんなに違和感は
なかった。
時代は2015年の今。
今はスマホを所有している人も自宅でパソコンを所有している人も増え、ブログを個人で発信
する人も当然右肩上がり、SNSと呼ばれるものはmixiだけではなくfacebookはじめ色々とある。
わたし自身は、mixiはもう2年位ほとんど触っていない。
代わりに、このブログ合わせて3つブログを書いてあとは登録休止状態のfacebook。
ただこの10年でネットの世界も大きく様変わりして、わたしなんかは今の全体的な流れが全く
好きじゃない。
お手軽に(表面上は)繋がれるようになった分、すごくマナーの悪い人も増えているのは本当だし、
まず個人的なやりとりなどなしにいきなり「友達になりましょう」的な申請が来たり。
意味もわからず何かのグループに自分が勝手に加入されていたり。
とにかく完全なる無法地帯になっている。
一言何か個人的な接触があればまだわかるけれども、それもなしにいきなり来るからびびる。
自分で対策できるものは対策するけれども、元々パソコン関連の操作に疎いわたしは、
知らない操作に関してはさっぱり知らないままでどうしていいのかもわからないものが色々ある。
あの頃は良かったじゃないけれど、mixiの初期の時代には体験しえなかった今の現状がある。
mixiの初期の時代の方が自分の本名を出す必要もなかったにも関わらず、ということは相手も
同じ条件だったわけで、でも確実に個人的にやりとりしなければいけなかったおかげで、
文章のやりとりで互いを知れるような感じが逆に安心だった。
なんだったら、当時繋がった人で、今も時々ふらりと連絡が来る人がいる。
人生で一番大変だった時、そこから立ち直った時、また新たに出発する時、そんな風に連絡が
突然やってくる。
一方、今は本名出して、相手も本名を出している場合が多く、無法地帯を抑えるべく各SNSの
管理会社が対策立てて奔走しているにも関わらず、もうどうにもこうにも追いつかない感がある。
それは使用者であるわたし含め各個人の人がどう捉えるかだと思う。
きちんと繋がれる人というのは、やはりマナーもしっかりしている。
こういう見えない世界だからこそ、誠意を尽くしている人も多い。
その反面、見えないからいいだろうと好き放題にやる人もいる。
でもその好き放題の人たちは多分リアルな世界でも色々やらかしてるんじゃないかと思う。
見えないからいいだろうじゃなくて、一生会うことないだろうからいいだろうじゃなくて、
たとえネットでもその先にいるのは1人の人間だということを絶対に忘れちゃいけないと思う。
mixiの時は、本名を知らずにいても、ネットの向こうには自分と何ら変わらない一人の人間がいる、
ということが大前提にあって、だからこそ非常にディープな話もしたりした。
特に名古屋に来てからは、mixiのコミュニティを通して朝活に参加していた時期もあって、
mixiでは本名を知らなくても会った時に本名を知るという人もかなりな人数でいた。
そしてそのうちの1人とは今でも時々近況をやりとりしている。
その反面、今は特別な規制がないことをいいことに好き放題、相手の事情も考えずに、
変なメッセージを送ってきたり突然何かのグループに相手の承諾もなしに入れたりと、
そういうことが起こる回数が確実に増えた。
文句ばかり垂れていても仕方ないので、わたしはわたしであくまで従来通り、あくまでも相手は
1人の人間だということを念頭に置いて、これからも繋がる人とは繋がっていきたいと思う。