1週間以上パソコンのメールチェックをしなかったら、メールの受信箱が溢れ返っていた。
数十通の中で本当に対応する必要のあるメールは1通のみで、残りの大半はメルマガだ。
薄々気付いてはいたけれども、どうも今購読しているメルマガが好きじゃない。
1通として開こうとしていない自分がいる。
ためになる情報があるだろうことは、これまでの流れで想像はつく。
だけれども、1つとして開いて読もうという気にならない。
これはそろそろ解約する時期なのかもしれない。
必要か不要かと言われたら、必要。
読みたいか読みたくないかと言われたら、今は読みたくない。
好きか嫌いかと言われたら、気付いたら嫌いになっていたような気がする。
多分それらのメルマガからの最大の影響は、自分の心の声がかき消されることだと思う。
ためになるし、わたしにはない視点をくれるから気付かされることも多い。
きちんと線引きしながら読んでいたら良かったけれども、気付いたら「○○をしなきゃ」というような
強迫観念の方が強くなってしまった。
ぶっちゃけて言えば、疲れたんだと思う。
読んでも楽しくないし、小さなプレッシャーを自分で勝手に感じて、気付いたらそれがとてつもなく
大きくなっていた、という感じかもしれない。
本の読書の方にも同じようなことが起こっている。
今手元に図書館から借りてきた本が数冊ある。
帰省前に借りてきて、当初は読む気満々だった。
途中まで読み進めている。
今本を読む時間はある。
あるけれども、それを開こうと思わない。
なんとなく、気が進まない。
メルマガとは違うけれども、似たような感情を抱いているのは否めない。
じゃあ活字ゼロの生活をしているのかと言えば、そうじゃない。
この1年ではまりにはまった日常が綴られたブログは読んでいる。
何て事の無いある人のある日常(×数人分)だけれど、読んでいて面白い。
毎日が色んな表情に溢れていて、本当に淡々と日常だけを綴っている。
何かを自慢したくて書いているものとは違う。
自分の身の丈に合ったことをそのまままっすぐに発信しているから、読んでいる方も気負わずに
楽しんで読める。
笑いも涙も怒りも悲しみも、すべてを含有した生きている記録。
それに今も変わらず惹かれている。
好きな活字と嫌いな活字が今ほどに明確になったことは、頭の中の記憶を辿っても過去にない。
上に書いたのは、すべてわたしの日常の生活の中に含まれていた。
なんとなく全部があっての日常だと思い込んでいた。
でも、そうではないらしい。
たかが1週間程度のリセットでしかなかったけれども、この1週間がもたらした好き嫌いの基準は
想像以上に大きかった。
好きな活字は、これからも日常の一部として存在し続けるだろう。
一方の嫌いな活字は、どこかのタイミングで手放していくのだろう。
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