『物は語る』と題したけど、実際に物が喋り出したというような怪奇現象の話ではない。
生活用品にまつわる某エッセイを読んでいたら、
過去に人からもらったある物とその結末を思い出した。
わたしはまだ使えるそのある物を、結果として自分の手で処分したのだけど、
まさにそれと同じことがその送り主とわたしとの間で後々起こり、
もしかしたら処分する時に、そうなりますよ~と予言めいたものが物から発信されていたのでは?
と思う。
いただいたものというのは、非常に実用的でそしてデザインの良いものだった。
わたしは実際に使っていたし、部屋の中に新たな彩りが加わって良い風であった。
ところが、ある時からそのもいただきものが床に何回も落下することが続いた。
落ちないように工夫したし、支えの部分をさらに補強した。
落ちても割れたり壊れたりするものではなかったから、物自体はいつも無事だった。
だけど、度重なる落下は、わたしにとってストレスとなり、
もう何回目かはわからない落下の時に、わたしは「捨てる」ことを選んだ。
補強してもしても落ちる物。
そしてその度にイライラする自分。
無傷の物は、まだいくらでも使えたけれど、そのイライラから自分を解放すべく、
送り主やその送り主に手渡る経緯に携わった人たちにも申し訳ないと思いながら、
思いきって捨てた。
この時は、単に物が勝手に落下すると思っていたし、送り主との関係も良好だった。
ところが、その後になって、物が落下するのとはちょっと違うけど、
関係にひびが入ることが幾度か続いた。
ひびが入るという表現が適切かわからないけど、わたしの中でもやっとするものが残る、
そういうやりとりが続いた。
そしてとうとう、そのもやっが塵も積もれば山となり、わたしは爆発してしまった。
わたしは自分の思いをそのまま伝えた。
関係修復をどこかで望んではいたけれど、現実はわたしの意志表示を皮きりに関係が終わった。
家の中で物が何度も落下していた時。
重さに耐えられないほど重い物ではなかったと思うし、
自らの手で処分するようになるなんて想像すらしなかった。
ただ、今になって振り返ると、すでにあの時点で物が何かしら語っていたのではないかと、
ふとそんな風に思った。
2015年1月21日水曜日
目のきれいな人
思い返されるのは、Sさんの目。
今日数ヶ月ぶりに再会したSさん。
Sさんは、わたしが春夏と仕事でとってもお世話になった人だった。
おいしいお店でランチをご一緒しましょう!となってから幾らか時が経ち、
ようやく今日ランチ日和を迎えた。
春夏しか会ったことなかったから冬のコートを着ているSさんに会うのは今日が初めてでも、
高架橋の上から待ち合わせ場所を見下ろした時、
遠くから見てもあれがSさんだとすぐにわかった。
Sさんという佇まいは、冬のコートを着ていようが変わらず、
わたしと会ってすぐにほころんだ笑顔も相変わらずだった。
たかだか数ヶ月しか一緒に働いていなかった割には、実に色んな話を共有した方だった。
わたしよりも20歳ほど年上のSさん、もうお孫さんも数人いらっしゃるけど、
おばあちゃんでもお母さんでもない、Sさんはわたしにとって大人の女性だった。
がははと大口開けて一緒に笑うこともたくさんあったし、
手作りのものや何かおいしい頂き物があると会社までわざわざ持ってきてわたしにくれて
肝っ玉母ちゃんのようなことをしてくれたこともあったし、
スーパーのお得情報も、仕事の色んな愚痴も、かと思えば人生のある1ページを語ったり、
組織という中にいながら、実に楽しい愉快な時間を過ごさせてもらった。
Sさんはわたしの席の隣りで、仕事中は横顔を見るか、
少し体を斜めにして向かい合わせに少しでもなるようにして話していたかと思う。
でも、やっぱり真正面ではなかった。
お昼のお弁当の時間も斜め横とかだったし、
いつか2人で土曜日出勤の日は、L字型にテーブルを囲んで窓の外を眺めながら
暑いさなか辛い辛いタイカレー弁当を2人で大汗流しながら食べたこともあった。
やっぱり真正面ではなかった。
グループ内で送別会を開いてくれた時も、Sさんはわたしの真横にいたから横顔だった。
よくよく考えてみると、Sさんの顔を正面からしっかりと数時間拝んだのは今日が初めてだった。
今日もいろ~んな話をしたけれど、わたしは話の内容よりもSさんのきらきらした目に
惹きこまれて仕方なかった。
本当に、目がきらきらしていた。
軽く化粧をするだけの人だから、化粧とかではない。
小さな子どものような感じの目とも違う、あの子ども独特の無邪気な透明な目。
これまで見たどんな人よりも目がきらきらしていたし、
魂のきれいな人、という感じの目だった。
魂のきれいな人の目というのがどんな目なのかわからないけど、
あのきれいさを表現するのにはどんな言葉がいいだろうって考えていた時に最初出たのが、
「魂のきれいな人」だった。
Sさんが数ヶ月の期間で話してくれたSさんの人生の軌跡の数々は波乱万丈だった。
本人が決めたものもあれば、本人がどんなに努力や良い行いを日々していても
防ぎようのない出来事もあった。
もちろん全部なんか知らないし、自分から尋ねたこともないから、
Sさんが話してくれたことは、50数年の中のほんの一部だ。
それだけで十分に波乱万丈とわかるのだから、
大層なアップダウンな人生を送ってきたんだと思う。
概要だけかいつまめば、非常に重たい内容になる。
でも、Sさんが話すと重たいことも重たさではなく強さみたいなのがいつも伝わってきた。
そして、どんなに理不尽なことや不幸と言いたくなるようなことでも、
それらをすべて通り抜けて今底抜けに明るいSさんがいる。
Sさんの目の奥からそれらすべてを映し出しているような、
目の奥に邪念も邪気もない、大人特有の計算や駆け引きもしない、
人間としてあるがまま生きている、
辛いことも楽しいことも存分に味わって生きています、というような、
何とも表現しがたい輝きをずっと放ち続けていた。
ここまで目に力の有る人も見たことない、と何度も思った位にわたしは今日じっと目を見ていた。
あれだけ毎日のように顔を合わせていたのに、今日までこんなにも目のキラキラした人だと
知らずにいた。
どこに行き着く予定の人生なのか、自分の人生がさっぱり読めないけれど、
わたしがあと20年くらいして今のSさんと同じ年になった時、
ああいうキラキラした目を持てるようになりたいと、
どんなに波乱万丈なことになっても、ああいう目の大人になりたいと心底思った。
今日数ヶ月ぶりに再会したSさん。
Sさんは、わたしが春夏と仕事でとってもお世話になった人だった。
おいしいお店でランチをご一緒しましょう!となってから幾らか時が経ち、
ようやく今日ランチ日和を迎えた。
春夏しか会ったことなかったから冬のコートを着ているSさんに会うのは今日が初めてでも、
高架橋の上から待ち合わせ場所を見下ろした時、
遠くから見てもあれがSさんだとすぐにわかった。
Sさんという佇まいは、冬のコートを着ていようが変わらず、
わたしと会ってすぐにほころんだ笑顔も相変わらずだった。
たかだか数ヶ月しか一緒に働いていなかった割には、実に色んな話を共有した方だった。
わたしよりも20歳ほど年上のSさん、もうお孫さんも数人いらっしゃるけど、
おばあちゃんでもお母さんでもない、Sさんはわたしにとって大人の女性だった。
がははと大口開けて一緒に笑うこともたくさんあったし、
手作りのものや何かおいしい頂き物があると会社までわざわざ持ってきてわたしにくれて
肝っ玉母ちゃんのようなことをしてくれたこともあったし、
スーパーのお得情報も、仕事の色んな愚痴も、かと思えば人生のある1ページを語ったり、
組織という中にいながら、実に楽しい愉快な時間を過ごさせてもらった。
Sさんはわたしの席の隣りで、仕事中は横顔を見るか、
少し体を斜めにして向かい合わせに少しでもなるようにして話していたかと思う。
でも、やっぱり真正面ではなかった。
お昼のお弁当の時間も斜め横とかだったし、
いつか2人で土曜日出勤の日は、L字型にテーブルを囲んで窓の外を眺めながら
暑いさなか辛い辛いタイカレー弁当を2人で大汗流しながら食べたこともあった。
やっぱり真正面ではなかった。
グループ内で送別会を開いてくれた時も、Sさんはわたしの真横にいたから横顔だった。
よくよく考えてみると、Sさんの顔を正面からしっかりと数時間拝んだのは今日が初めてだった。
今日もいろ~んな話をしたけれど、わたしは話の内容よりもSさんのきらきらした目に
惹きこまれて仕方なかった。
本当に、目がきらきらしていた。
軽く化粧をするだけの人だから、化粧とかではない。
小さな子どものような感じの目とも違う、あの子ども独特の無邪気な透明な目。
これまで見たどんな人よりも目がきらきらしていたし、
魂のきれいな人、という感じの目だった。
魂のきれいな人の目というのがどんな目なのかわからないけど、
あのきれいさを表現するのにはどんな言葉がいいだろうって考えていた時に最初出たのが、
「魂のきれいな人」だった。
Sさんが数ヶ月の期間で話してくれたSさんの人生の軌跡の数々は波乱万丈だった。
本人が決めたものもあれば、本人がどんなに努力や良い行いを日々していても
防ぎようのない出来事もあった。
もちろん全部なんか知らないし、自分から尋ねたこともないから、
Sさんが話してくれたことは、50数年の中のほんの一部だ。
それだけで十分に波乱万丈とわかるのだから、
大層なアップダウンな人生を送ってきたんだと思う。
概要だけかいつまめば、非常に重たい内容になる。
でも、Sさんが話すと重たいことも重たさではなく強さみたいなのがいつも伝わってきた。
そして、どんなに理不尽なことや不幸と言いたくなるようなことでも、
それらをすべて通り抜けて今底抜けに明るいSさんがいる。
Sさんの目の奥からそれらすべてを映し出しているような、
目の奥に邪念も邪気もない、大人特有の計算や駆け引きもしない、
人間としてあるがまま生きている、
辛いことも楽しいことも存分に味わって生きています、というような、
何とも表現しがたい輝きをずっと放ち続けていた。
ここまで目に力の有る人も見たことない、と何度も思った位にわたしは今日じっと目を見ていた。
あれだけ毎日のように顔を合わせていたのに、今日までこんなにも目のキラキラした人だと
知らずにいた。
どこに行き着く予定の人生なのか、自分の人生がさっぱり読めないけれど、
わたしがあと20年くらいして今のSさんと同じ年になった時、
ああいうキラキラした目を持てるようになりたいと、
どんなに波乱万丈なことになっても、ああいう目の大人になりたいと心底思った。
2015年1月14日水曜日
2008年に蒔いた種
2015年という今年は、これまでに蒔いてきた種により実ったものを収穫する年なんだそう。
それは去年2014年のものというよりも、2008年に蒔いた種だという。
読んだ記事をメモしておけば良かったけど、メモを忘れたので、出典先不明の情報。
2008年と言われて、まず最初に思い付いた種1は、すでに2009年に収穫済み。
それはすでに完了しているし、今収穫するようなものは何も残っていない。
じゃあ何だろうなんだろう・・・としばし考えて、はっとした。
2008年に蒔いたもうひとつの種。
わたしは「不安の種」を蒔いた。
何が不安だったかというと、何にも考えていない未来が、自分の生き方が不安だった。
高校~20代の終わりまで、わたしはひたすら「○○をやってみたい」という精神で生きてきた。
だから、やってみたいことは一通りやりきったと思う。
2008年、わたしは29歳だったけど、29歳のわたしには30歳とか30代の自分が
まったく思い描けなかった。
一言、「わからない」、これに尽きた。
自分の向かいたい方向とか、住みたい所とか、結婚子育て含め、
すべてが宙ぶらりんで、29歳のわたしはそれはそれは30代になることが怖く、
怖くても当然時間は流れるわけだから、じゃあその時間の中でわたしは何をやるのか、
何をやりたいのか皆目見当がつかなかった。
そう思ってこの2008年から2014年、2015年と見ると、あぁもう十分だと思った。
迷走、混乱、混沌・・・こんな言葉が修飾詞としてふさわしい、そんな何年かだった。
なぜそんな気持ちになったのかはわからないけど、この2015年を迎えた三が日を過ぎた頃、
もうこの「わからない」は終わりにしていいなぁと思った。
多分もうどれだけ考えてもわからないものはわからないし、
自分でこうだ!と決めて動き出さないうちは、何をどうしても、わからないわからないだろう、
もうわからないは十分だから、一度ここで終わりにしよう。
そんな風に思った。
思った後で、最初に書いた2008年に蒔いた種の実を収穫する、というのを読んだ。
わからなかったなりに一つだけわかったことがある。
自分の人生は、自分で責任を持たなければいけないこと。
すごく当たり前のことだけど、わたしはもう他の誰かや社会や勤務先や、
その他色んなもののせいにはできない、今の状況はすべて自分で選んだことの結果だと、
それを全身全霊で理解するようになった。
自分が選んだ結果・・・というのが非常に不愉快極まりないこともあれば、
できれば誰かや何かのせいにしてしまいたいという衝動にも駆られれば、
何をやり直したらいいのかわからないけど何かをやり直してみたくなったり・・・
どんな感情や気持ちを抱くのは自由だったけど、やっぱり最初から最後まで自分なんだなと
それだけは、数年間を通してとても腑に落ちた。
それは去年2014年のものというよりも、2008年に蒔いた種だという。
読んだ記事をメモしておけば良かったけど、メモを忘れたので、出典先不明の情報。
2008年と言われて、まず最初に思い付いた種1は、すでに2009年に収穫済み。
それはすでに完了しているし、今収穫するようなものは何も残っていない。
じゃあ何だろうなんだろう・・・としばし考えて、はっとした。
2008年に蒔いたもうひとつの種。
わたしは「不安の種」を蒔いた。
何が不安だったかというと、何にも考えていない未来が、自分の生き方が不安だった。
高校~20代の終わりまで、わたしはひたすら「○○をやってみたい」という精神で生きてきた。
だから、やってみたいことは一通りやりきったと思う。
2008年、わたしは29歳だったけど、29歳のわたしには30歳とか30代の自分が
まったく思い描けなかった。
一言、「わからない」、これに尽きた。
自分の向かいたい方向とか、住みたい所とか、結婚子育て含め、
すべてが宙ぶらりんで、29歳のわたしはそれはそれは30代になることが怖く、
怖くても当然時間は流れるわけだから、じゃあその時間の中でわたしは何をやるのか、
何をやりたいのか皆目見当がつかなかった。
そう思ってこの2008年から2014年、2015年と見ると、あぁもう十分だと思った。
迷走、混乱、混沌・・・こんな言葉が修飾詞としてふさわしい、そんな何年かだった。
なぜそんな気持ちになったのかはわからないけど、この2015年を迎えた三が日を過ぎた頃、
もうこの「わからない」は終わりにしていいなぁと思った。
多分もうどれだけ考えてもわからないものはわからないし、
自分でこうだ!と決めて動き出さないうちは、何をどうしても、わからないわからないだろう、
もうわからないは十分だから、一度ここで終わりにしよう。
そんな風に思った。
思った後で、最初に書いた2008年に蒔いた種の実を収穫する、というのを読んだ。
わからなかったなりに一つだけわかったことがある。
自分の人生は、自分で責任を持たなければいけないこと。
すごく当たり前のことだけど、わたしはもう他の誰かや社会や勤務先や、
その他色んなもののせいにはできない、今の状況はすべて自分で選んだことの結果だと、
それを全身全霊で理解するようになった。
自分が選んだ結果・・・というのが非常に不愉快極まりないこともあれば、
できれば誰かや何かのせいにしてしまいたいという衝動にも駆られれば、
何をやり直したらいいのかわからないけど何かをやり直してみたくなったり・・・
どんな感情や気持ちを抱くのは自由だったけど、やっぱり最初から最後まで自分なんだなと
それだけは、数年間を通してとても腑に落ちた。
2015年1月13日火曜日
小さなちいさな感覚
さかのぼること、3年前になるかと思う。
当時、人間関係において決断に迫られていた。
このまま関係を継続するか、断ち切る覚悟で距離を置くか。
立てつづけに2人ほどそういうことが続いた。
2人共、とってもお世話になり、さんざん迷惑もかけ、色んな話を聞いてもらい、
非常に良い関係に恵まれたと思っていた矢先でのことだった。
そんな決断を下さなければ・・・と感じたきっかけは、
一つは人生そのものの選択ともろかぶりだったし、
もう一つは消え入りそうなくらい、すごく小さなちいさなものだった。
うんと時間が経った今。
人生そのものの選択ともろかぶりだったきっかけの出来事を共有する方とは、
出来事の直後に、わたしは自分の思いや気持ちをそのまま伝え、
それからまた1から関係を立て直す、と言ったら大袈裟だけど、気付けば立ち直っていた。
なぜだろう・・・
あの時のわたしは「この人は関係を切る人じゃない」ときちんと自覚できたわけではなかったけど、
どこかで繋がっていたいと、もうどこでそんな風に感じたのかわからないぐらい、
すごく小さな気持ちだったけど、その気持ちが結局今日の関係に続いている。
当時は、怒りをはじめとし、ありとあらゆる感情が錯乱していたから、
もうこんな思いは二度といやだ、金輪際、絶対に関わりたくない、と頭では強く思っていた。
そんな気持ちの渦にはまっていたから、わたしはその人ともう一度関係を立て直した今なんて
想像すらできなかった。
もう1人の方は、そんな人生の選択もろかぶりなんていうようなことは全くなく、
むしろ大変な時期だった当時をいつも陰ながら応援して下さる方だった。
本当に本当によくしてもらっていた。
では、何が起こったのか・・・
すっごく小さなきっかけだった。
一度目は、第三者に伝える内容にしては、すっごく勇気のいる話をした時だった。
勘違いされないように端的に言うと、わたしはトラウマ的な幼少時の体験について語った。
自分が墓場まで持っていくような、そういうレベルの話だった。
でも、話した後、わたしが見たものは、自分の期待とは全く別物の相手の反応だった。
期待した自分も悪いかもしれない。
もしかしたら相手に余裕のない時だったのかもしれない。
理由は測り知れないけど、わたしがその時の反応でショックだったのは本当だった。
そして二度目がとどめとなるのだけど、二度目は言葉のちょっとした行き違いだった。
でもぽろっと出た言葉に、わたしは不信感を募らせた。
それまでの恩を100としたら1にも満たない、
それ位目をつぶりなさい、という小さなことだった気がした。
でも、わたしは悶々とし、小骨がのどにつっかえたみたいにずっと引っ掛かり、
結局そこから連絡を取ることを止め、もう関係は終わったと思っていた。
この度それ以来ぶりに再会する運びとなったのだけど、
再会した時に、あぁやっぱりあの小さな引っ掛かり、あれは自分にとって正しい感覚だったんだと
つくづく感じた。
何が正しくて間違ってる、なんていうものは人間関係だと白黒はっきりさせるのは難しい。
恩や情なんかも絡むから、余計と難しい。
でも、あのしっちゃかめっちゃかな時に感じた、それこそ小さなちいさな感覚で、
頭で考えているのとはまったくもって反対の小さな声を聞き取れたのは、もう奇跡に近かった。
後者の方との再会は、その小さな感覚が時を経て会ってみたら確信に変わっていた。
相手が変わったのか、わたしが変わったのかはわからない。
ただ少なくとも、過去に感じたあの小さなちいさな感覚は、わたしを守る最後の声だったと、
それを再開時にまざまざと見ることになった。
前者の方との関係立て直しプロセスの細かいところは忘れた。
見事に忘れた。
最初は多少ぎくしゃくしていたし、また途中ももっとぎくしゃくというか互いに距離感つかめずな
時期もあったけど、今はそれらのおかげでさらに深い関係になれたように思う。
相手は同性だから深い関係なんて書くとおかしいけど、関係が成長する不思議な方だ。
小さなちいさな感覚。
頭で考えただけでは出せないような妙な感覚。
義理や人情を飛び越え、非常識な感じも否めない、とても理屈では説明できないもの。
そういうものを大事にして大丈夫なんだとわかった。
もし、自分ひとりだけでも、YESの時はYESだし、NOの時はNOだ。
他の誰かがわたしに取って代わってその微細なところを感知してくれるわけじゃないんだから、
最後は自分のその意味不明な感覚でいっていいんだと思う。
当時、人間関係において決断に迫られていた。
このまま関係を継続するか、断ち切る覚悟で距離を置くか。
立てつづけに2人ほどそういうことが続いた。
2人共、とってもお世話になり、さんざん迷惑もかけ、色んな話を聞いてもらい、
非常に良い関係に恵まれたと思っていた矢先でのことだった。
そんな決断を下さなければ・・・と感じたきっかけは、
一つは人生そのものの選択ともろかぶりだったし、
もう一つは消え入りそうなくらい、すごく小さなちいさなものだった。
うんと時間が経った今。
人生そのものの選択ともろかぶりだったきっかけの出来事を共有する方とは、
出来事の直後に、わたしは自分の思いや気持ちをそのまま伝え、
それからまた1から関係を立て直す、と言ったら大袈裟だけど、気付けば立ち直っていた。
なぜだろう・・・
あの時のわたしは「この人は関係を切る人じゃない」ときちんと自覚できたわけではなかったけど、
どこかで繋がっていたいと、もうどこでそんな風に感じたのかわからないぐらい、
すごく小さな気持ちだったけど、その気持ちが結局今日の関係に続いている。
当時は、怒りをはじめとし、ありとあらゆる感情が錯乱していたから、
もうこんな思いは二度といやだ、金輪際、絶対に関わりたくない、と頭では強く思っていた。
そんな気持ちの渦にはまっていたから、わたしはその人ともう一度関係を立て直した今なんて
想像すらできなかった。
もう1人の方は、そんな人生の選択もろかぶりなんていうようなことは全くなく、
むしろ大変な時期だった当時をいつも陰ながら応援して下さる方だった。
本当に本当によくしてもらっていた。
では、何が起こったのか・・・
すっごく小さなきっかけだった。
一度目は、第三者に伝える内容にしては、すっごく勇気のいる話をした時だった。
勘違いされないように端的に言うと、わたしはトラウマ的な幼少時の体験について語った。
自分が墓場まで持っていくような、そういうレベルの話だった。
でも、話した後、わたしが見たものは、自分の期待とは全く別物の相手の反応だった。
期待した自分も悪いかもしれない。
もしかしたら相手に余裕のない時だったのかもしれない。
理由は測り知れないけど、わたしがその時の反応でショックだったのは本当だった。
そして二度目がとどめとなるのだけど、二度目は言葉のちょっとした行き違いだった。
でもぽろっと出た言葉に、わたしは不信感を募らせた。
それまでの恩を100としたら1にも満たない、
それ位目をつぶりなさい、という小さなことだった気がした。
でも、わたしは悶々とし、小骨がのどにつっかえたみたいにずっと引っ掛かり、
結局そこから連絡を取ることを止め、もう関係は終わったと思っていた。
この度それ以来ぶりに再会する運びとなったのだけど、
再会した時に、あぁやっぱりあの小さな引っ掛かり、あれは自分にとって正しい感覚だったんだと
つくづく感じた。
何が正しくて間違ってる、なんていうものは人間関係だと白黒はっきりさせるのは難しい。
恩や情なんかも絡むから、余計と難しい。
でも、あのしっちゃかめっちゃかな時に感じた、それこそ小さなちいさな感覚で、
頭で考えているのとはまったくもって反対の小さな声を聞き取れたのは、もう奇跡に近かった。
後者の方との再会は、その小さな感覚が時を経て会ってみたら確信に変わっていた。
相手が変わったのか、わたしが変わったのかはわからない。
ただ少なくとも、過去に感じたあの小さなちいさな感覚は、わたしを守る最後の声だったと、
それを再開時にまざまざと見ることになった。
前者の方との関係立て直しプロセスの細かいところは忘れた。
見事に忘れた。
最初は多少ぎくしゃくしていたし、また途中ももっとぎくしゃくというか互いに距離感つかめずな
時期もあったけど、今はそれらのおかげでさらに深い関係になれたように思う。
相手は同性だから深い関係なんて書くとおかしいけど、関係が成長する不思議な方だ。
小さなちいさな感覚。
頭で考えただけでは出せないような妙な感覚。
義理や人情を飛び越え、非常識な感じも否めない、とても理屈では説明できないもの。
そういうものを大事にして大丈夫なんだとわかった。
もし、自分ひとりだけでも、YESの時はYESだし、NOの時はNOだ。
他の誰かがわたしに取って代わってその微細なところを感知してくれるわけじゃないんだから、
最後は自分のその意味不明な感覚でいっていいんだと思う。
2015年1月9日金曜日
思い出が乗る
年末年始、実家に帰省した際、1冊の絵本を久しぶりに手に取って読んだ。
川端誠さんの『お化けの冬ごもり』という本。
川端誠さんの絵本原画展に行った際に出会った本で、
たまたま足を運んだ日に本人もおられて、絵本に直接サインをしてもらった。
ちなみに新聞でその原画展の開催記事を見るまで、川端誠さんのことは全く知らなかった。
どんな絵本を描く方なのか皆目見当もつかず、ただただ「絵本の原画」という言葉に魅せられて
足を運んだのだった。
2005年8月21日。
それが絵本原画展に行った日だ。
だだっ広い駐車場に、一足お先にと言わんばかりに咲いていたピンクのコスモス。
でかい美術館なのに、へんぴな場所にあるおかげで駐車場はガラガラだった。
川端誠さんの絵本の原画は、これまでに見た絵本の原画とは全く違っていた。
あらゆる手段を用いて絵は表現され、わたしはそのひとつひとつに魅了された。
原画と絵の物語とに引き込まれ、途中から自分が泣いていたことも憶えている。
田んぼの稲がすっかり大きくなり、そろそろ穂が垂れるという秋目前のその頃。
稲穂もコスモスもありながら、その日も暑い夏の1日だった。
わたしはなぜかその季節外れの『お化けの冬ごもり』という本が面白いと思い、
原画展に使われた絵の絵本と2冊購入して帰ってきた。
買った日から10回冬を迎えたことになる。
だけど、どういうわけかわたしはこの絵本を真冬の雪がもさもさと降る時節に読んだことがない。
今回10回目の冬に、そうだ、今読んだらさぞかし臨場感あふれる内容だろうと思い、
それで初めて冬のある日にこの絵本を読んだのだった。
まだあれから数日しか経っていないのに、大昔のことのように感じる。
物語は暗記している位何回も読んだから、今回もまた文字を目で追い、
文字の内容を今度は絵で確認し、1ページ1ページと進んだ。
何ページ目かに差し掛かった時。
あっ、と驚いた。
そこには、この冬のクリスマスの日、両親と見た景色とそっくり同じものが描かれていたから。
何が描かれていたかというと、小さなかまくら、大きさで言えばバケツ1杯分位の大きさ、
そのかまくらにろうそくを灯し、幾つも幾つも小さなかまくらをだだっ広い雪原に置き、
幻想的な雰囲気をかもし出している、
この目で確実に見た景色と同じ景色が絵本の中にも描かれていた。
何回も目を通した絵のはずなのに、クリスマスの日、小さなかまくらキャンドルを見ても、
全然絵本のことは思い返されなかった。
初めての体験だった。
逆のパターンの体験、要は絵本なり何か別のものを見て過去を思い出すことはあっても、
先に絵を見ていて、それと同じ体験を未来にするというのは、これまで一度もなかったと思う。
しかも、今回は母親が勤務先の人から雪上イルミネーションの催しがある、
それもちょうどその日が最終日ということを聞きつけ、
そして、たまたまわたしが帰省する時間帯と、降りる高速バスの停留所から近いという理由で、
じゃあ行ってみよう!となったのだった。
開催場所は、うちの家からは同じ市内とはいえとてつもなく遠い。
冬なら1時間弱はかかる。
だけど、数年前、たまたま父の小学校からの同級生がその地区に引っ越し、
その同級生夫婦は父何十年と行きつけの床屋さんでもあって、
父は今でも、看板を下ろした床屋さんへ通っている。
面倒くさいといつもなら言いそうな父も、その日は夕食の酒も断ち、
ハンドルを握って、何回も通ったその道を運転してくれた。
幾つもの小さな小さなことが重なると、大きな絵が浮かび上がる。
次、どのタイミングで『お化けの冬ごもり』を開くかはわからない。
だけど、次からはこの冬に見た景色や、父と母とのやりとり、
大粒の雪が降ったり止んだりしたあの夜の天気、
そういうものがあのページをめくる度に蘇ってくるだろう。
川端誠さんの『お化けの冬ごもり』という本。
川端誠さんの絵本原画展に行った際に出会った本で、
たまたま足を運んだ日に本人もおられて、絵本に直接サインをしてもらった。
ちなみに新聞でその原画展の開催記事を見るまで、川端誠さんのことは全く知らなかった。
どんな絵本を描く方なのか皆目見当もつかず、ただただ「絵本の原画」という言葉に魅せられて
足を運んだのだった。
2005年8月21日。
それが絵本原画展に行った日だ。
だだっ広い駐車場に、一足お先にと言わんばかりに咲いていたピンクのコスモス。
でかい美術館なのに、へんぴな場所にあるおかげで駐車場はガラガラだった。
川端誠さんの絵本の原画は、これまでに見た絵本の原画とは全く違っていた。
あらゆる手段を用いて絵は表現され、わたしはそのひとつひとつに魅了された。
原画と絵の物語とに引き込まれ、途中から自分が泣いていたことも憶えている。
田んぼの稲がすっかり大きくなり、そろそろ穂が垂れるという秋目前のその頃。
稲穂もコスモスもありながら、その日も暑い夏の1日だった。
わたしはなぜかその季節外れの『お化けの冬ごもり』という本が面白いと思い、
原画展に使われた絵の絵本と2冊購入して帰ってきた。
買った日から10回冬を迎えたことになる。
だけど、どういうわけかわたしはこの絵本を真冬の雪がもさもさと降る時節に読んだことがない。
今回10回目の冬に、そうだ、今読んだらさぞかし臨場感あふれる内容だろうと思い、
それで初めて冬のある日にこの絵本を読んだのだった。
まだあれから数日しか経っていないのに、大昔のことのように感じる。
物語は暗記している位何回も読んだから、今回もまた文字を目で追い、
文字の内容を今度は絵で確認し、1ページ1ページと進んだ。
何ページ目かに差し掛かった時。
あっ、と驚いた。
そこには、この冬のクリスマスの日、両親と見た景色とそっくり同じものが描かれていたから。
何が描かれていたかというと、小さなかまくら、大きさで言えばバケツ1杯分位の大きさ、
そのかまくらにろうそくを灯し、幾つも幾つも小さなかまくらをだだっ広い雪原に置き、
幻想的な雰囲気をかもし出している、
この目で確実に見た景色と同じ景色が絵本の中にも描かれていた。
何回も目を通した絵のはずなのに、クリスマスの日、小さなかまくらキャンドルを見ても、
全然絵本のことは思い返されなかった。
初めての体験だった。
逆のパターンの体験、要は絵本なり何か別のものを見て過去を思い出すことはあっても、
先に絵を見ていて、それと同じ体験を未来にするというのは、これまで一度もなかったと思う。
しかも、今回は母親が勤務先の人から雪上イルミネーションの催しがある、
それもちょうどその日が最終日ということを聞きつけ、
そして、たまたまわたしが帰省する時間帯と、降りる高速バスの停留所から近いという理由で、
じゃあ行ってみよう!となったのだった。
開催場所は、うちの家からは同じ市内とはいえとてつもなく遠い。
冬なら1時間弱はかかる。
だけど、数年前、たまたま父の小学校からの同級生がその地区に引っ越し、
その同級生夫婦は父何十年と行きつけの床屋さんでもあって、
父は今でも、看板を下ろした床屋さんへ通っている。
面倒くさいといつもなら言いそうな父も、その日は夕食の酒も断ち、
ハンドルを握って、何回も通ったその道を運転してくれた。
幾つもの小さな小さなことが重なると、大きな絵が浮かび上がる。
次、どのタイミングで『お化けの冬ごもり』を開くかはわからない。
だけど、次からはこの冬に見た景色や、父と母とのやりとり、
大粒の雪が降ったり止んだりしたあの夜の天気、
そういうものがあのページをめくる度に蘇ってくるだろう。