2021年4月9日金曜日

呼んでいる風景

  呼んでいる 胸のどこか奥で♪

『いつも何度でも』〜映画:千と千尋の神隠し主題歌


木村弓さんの生歌をちょうどテレビでやっていた。


上の部分を聞いて、「あぁそういうことだ」と思った。


呼んでいるかどうかは知らないけれども、自分の中で心の真ん中にいつもいる、そういう感じなんだと改めて思った。







昨日(4/8)は何の日かと思うほど、仕事ですごい強烈なことばかりがいくつも重なった日だった。


家に帰ってから昨日のホロスコープを出したほど、何か特別な配置でもあるのかと思った。


いくつもの重たい案件が重なって、どれもこれも言うなれば2週間分くらいの強烈な仕事たちが一気に昨日1日に起こったみたいになっていた。


1日中、調整やら確認やらをひたすらやりまくっていて、重大案件を2つ同時進行するための細々としたことをしつつ、すっかり終わった気でいた他のことも予測さえしていなかった新展開を見せてそれにも呼ばれたり(そしてそんなの今の仕事で初めて遭遇したマニアックなケース)、とにかく本当に頭がオーバーヒートしながら1日過ごしていた。


残業も珍しくして(今は社内景気対策のために、基本は残業禁止)、スーパーで半額で買ってきた刺身と寿司を並べて晩酌していたら、千と千尋の神隠しの主題歌の生歌がテレビから流れた。


というのが冒頭のくだりだった。


そこではっとなった。


その超忙しかった時もだけど、あまりにも色々あってかなり精神的な負担が大きかったものの、いつの時も心の中でふとある人のことを思い出しては落ち着いたり安らいだりしている、その自分やその状態を初めて認識した。


珍しいわけではないけれども、改めてそのことを認識した時に(千と千尋の神隠しの主題歌が流れる中で)、深く納得したというかそういうことなんだと知った。


「いつも心躍る」

「ただ青い空の青さを知る」

「生きている不思議」

「呼んでいる 胸のどこか奥で いつも何度でも」

(『いつも何度でも』より)


自分の心の風景と歌詞とが重なった。


思い出しては心が躍る感覚。


空を見上げては空の青さを、季節の花を見てはその花の生命力や美しさを、街行く人の姿を見てはその中に宿っている人生の色を、とにかく色んなものを見ては世界の色彩を改めて思い出す。


その人の存在というのは、私の見ている景色、生きている世界に本当に色彩を鮮やかに艶やかにした人だった。


世界の色彩、それはいつも見慣れているなんてことない風景なのに、その人はそれを音で言えばオクターブくらい引き上げた人だった。


空の色が本当に変わった。


目の前の景色が本気で光と共に輝き始めた。


細胞が活性化するかのごとく、何かしら自分の生きる世界にビビッドな色彩とやさしい光とをもたらした。


今一生懸命言葉にしようとしているけれども、言葉では言い表せないほどの世界の色彩を本気で変えた人だった。


色彩が変わるって比喩で言ってるのではなく、本気でそうだから言っている。


魔法がこの世に本当に存在するのなら、そういうものこそ究極の魔法だと思う。


そしてそういう境地にまでなったからこそ、生きている不思議をその時はいつも、離れた今も結構な頻度で思うようになった。


同じ時代に同じ場所に毎日のように居合わせるって、そんなの本気の奇跡なんだと数え切れないほどの数思っている。


命が運ばれると書いて「運命」になるけれども、本当にそういう感じだった。


すごい速さで当時の仕事が決まって、何も知らない私は決まった通りの場所に出向いて、やる気など1ミリもないままそこに行って、そして命が運ばれたと感じるような出逢いに居合わせた。


どうやっても計算などできない形で、そこにその人がいて、そもそもその人だって何でこんな新潟の田舎のへんぴな所にいるのか不思議すぎる話だったけれども、運命のいたずらみたいにその人は新潟勤務を命じられて期間限定でそこにいてくれて、そして私も期間限定でそこにいることとなった。


その時から私はずっとずっとその人のことを心の中で胸の中で呼んでいるようなものだなぁと思った。


名前を呼ぶとかそういうことではなくて、存在そのものを呼び寄せるみたいな、無為自然にその人が勝手に思い浮かぶみたいな、そういう感じで今もいるんだと、再認識した。


あまりにもいつも自然にしかも自動的にそういう風になっているから、そのことを特段意識することも普段はないけれども、今回みたいに仕事で大パニックみたいな折にふとひと息つく時はいつもその人がいることに歌を聞きながら思い出した。


心のお守りみたいなもので、その人をいつの時も自分の自由に心の中で呼び寄せられることを思うと、関係性はさておきその自由さに救われてるんだと知った。


その人と私とがどうこうなることもないし、ばったりどこかで会うこともないし、関係はどこをどう切り取ってもゼロではあるけれども、それでも心の中はいくらでも自由にいられることの凄さを感じた。


心の中は特別な関係性も必要なければ、そんなのがなくても自分の好きなように好きなタイミングでそうした色々を想える。


自分の欲しい形とはずいぶん違うけれども、それでもそういう人が1人でも人生に現れたのとそうでないのとでは自分の人生の明るさや濃度がまるっと違う。


その人がいるから頑張れるという順ではなくて、頑張れる時も頑張れない時も心折れそうな時も、とにかくいつの時もいてくれる、もちろんいてくれるのは実態を伴ったものではなく存在の有る無しという意味でのいてくれるになるけれども、しかも私のためにいてくれるわけでは全くないけれども、それでもそんな風にしていてくれることがとても心強い。


その人がいなきゃ生きていけないわけではないし、その人側からしたら私がいなきゃ生きていけないなんて絶対にないけれども、そんなのは関係なくて、自分が価値ある人とか意味ある人である必要なんか全くなくて、ただただ自由に、その人を心の中で呼び寄せるみたいなことができる。


関係とか自分の存在意義とかそんなの全部無視して好きに自由に思い浮かべられるのって、そしてそうやって自分の中のエネルギー補充ができるって本気ですごい。


そういう体験を人生で一度でもできた私は、本当にラッキーな人だと自分では思っている。


もちろん相思相愛みたいなことが一番望ましいものでも、そうでなくてもとにかく台風と暴風雪とが一気にやってきたような大パニックな仕事の1日の色んな場面でその人の存在がいつの時もあったというのはすごく恵まれたことである種のしあわせなことだと思う。


とかいうことを真夜中に目覚めて書いていたらあと1時間後には起きないといけなくて、とりあえず寝ないとこれからの10時間勤務が無理すぎるから、読み返さずこのままアップしてしまおうと思う。


おかしなこと書いてても真夜中の不思議なテンションの中で書いていたから仕方ない。得意の開き直り()

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