2020年8月10日月曜日

希望の種と「目標:自愛」

希望の種と「目標:自愛」

自分でタイトル考えてうっとり(♡´艸`)♡

本文これからなのに、タイトルだけで妙にツボって、すでに満足。

ここ数日思ったことのつれづれ。





これはもはや私の特技かもしれない。

子どもの頃から色々とある割に、私は「絶対に良くなる」とか「絶対にここから抜け出せる時が来る」とか、とにかく未来に対して明るく希望を持つところがある。

根拠なんて何もないし、何か約束されたわけでもない。

それでも、絶体絶命に感じるような状況下でも、本当に小さな小さな可能性だけはいつも最後まで捨てずに持ち続ける。

30代の数回に渡るニート引きこもりの時も、先々のことなんか何もわからないし、何度も布団の上から天井を寝ながら眺めては何も変わらない今日に超絶不安になりながらも、それでも小さく何かしら希望、もしかしたらいつかはここを抜けれる日がくるかもしれない…というようなものを持っていた。

それよりも不安がデカすぎて、そんなの一瞬で消え去っても、それでも小さな希望を持ち続ける自分のことは昨日の出来事のように感触を覚えている。

そういうものを持てるか持てないかは、本当に個人の力だと私は思っている。

自分をどうやって大事にするのかを、聞かれたままに話した時のこと。

相手の人から「それができればいいんだけれどね〜(=私には「できない宣言」に聞こえる)」や「それって難しいよね…」と返ってきた。

今日言って明日いきなり変わることはないけれども、時間もかかるし根気もいるけれど、それでもやったらやった分自分のところに返ってくるよ、と内心怒りを感じながら返した。

私には何で自分を大事にしようとしないのか理解できなかった。

だってそれはもう、他の誰でもない、自分しか自分のためにやってあげられない。

どんなに優秀なセラピストの人がいたとしても、それが長続きするような効果抜群なものは無いに等しい。

1人だけ仙人級の秘技を持ったヒーラーの大先生に会ったことがあるけれど、そんなの特殊中の特殊で、その大先生からサービスを受けない99%の一般ピープルは自力で頑張る他ないよと言いたい。

ちなみに、その大先生のヒーリングは凄くて、本当に細胞ごと相手のクセや悪い流れを断ち切るようで、たまたま2年連続でその先生のセミナーに行ったら、1年目その場で失神して先生から治療を施してもらった人が翌年見違えるほど変わっていて驚いた。

本人もとにかく色んな人たちから、何をしたらそんなにも若返るのかや元気になるのかを聞かれまくったらしいけれど、本人いわくそれ以前とそれ以後で何一つ生活は変えてないらしい。

唯一私が本物の半永久的なヒーリング効果を見たのは、その大先生から施してもらった、その年配の女性だけだった。

とにかくそんなマニアックなことは大概の人には起こらないわけで(もう少し言うと、人生において必要ないから起こらないと私は思ってる)、自分のクセを自分で気付いて緩めてあげるのがそれ以外の人たち、私も含めてだけど、一番の手取り早く確実な方法だと思う。

多少のコツや知識は必要だけど、とにかく自分を責めまくったりダメ出ししているのに気付いたらそれをやめる、やめられなくてもやめるように努める、自分が居心地良い方を選ぶようにする、その辺りをひたすら日常で繰り返すことが大事だと思ってやっている。





誰にでも、苦しいことや辛いこと、布団の中に縮こまって逃げ出したいことなんかはある。

スーパーポジティブになろうとも思っていないし、気分がどうにも上がらない時は無理に上げずに時間薬が効いてくれるのを待つのでもいいと思っている。

それでも、自ら暗いことや暗い考えを選ぶ必要なんか全くないし、それが本当に好きならそうしたら良いけれど、本当は暗くなるのが嫌なら、全力で自分を明るい方に引っ張っていく努力はやっぱり必要だと思う。

難しいとかできないと言われた時、私ははっきりと「これ、本人がその考えを選ぶ限り無理だ」と思った。

難しいことは、私だって自らやってるからそんなのはよくわかる。

私も簡単だとは思ってないし、はっきりとそんな簡単なことじゃないというのも言った。

だけど、それが難しいとかできないと自分で自分に言ったら、そうだと自分で決めつけてしまったのなら、もう自分をどうやって這い上がらせて、どうやって救えばいいと言うのだろう?と思う。

私が小さな可能性に賭け続けた唯一の理由は、自分が楽になりたかったから。

楽になれるのであれば、手段や難しさにこだわりなんてなかった。

当然私も右往左往しつつの試行錯誤、それもほぼほぼ何の理屈もない中で「こうしてみてはどうかな…?」という自分の中の考えだけでほぼほぼ進んでいたから、良くなる保証はもちろんのこと、何にもならない可能性だって常にあった。

ここまで書いて気付いた。

私は2つのことに怒っていたんだと思う。

1つは、そうやって自らをあきらめてしまうこと。

そしてもう1つは、私の真剣にやってきたことをとても安直に捉えてるところ。

決して私が楽したとかぶっしーだからできるとか、そんな風には言われていない。

だけど、私が今ここまで色々と言い切れるくらいになれたのは、それ相応のことを積み重ねて、そこから結論を導き出せるところまである程度きたから。

逆に、ある程度やってきたものを、何の見返りも求めず情報をこれだけおおっ広げにしてるのに、なんならもっと具体的な方法論まで伝えたのに、相手からの言葉は私をガッカリさせて、そしてやるせなくさせた。

そりゃ自分も消耗するなと今書いてて気付いた。





そんなやりとりを経て、自分が付き合いたい人たちのタイプがわかった。

希望の種を持っている人。

それは別の言い方をすれば、自分の人生の可能性を信じているでも、自分の人生をあきらめていないでも同じ。

それは偉業を為すとか、名声と呼べるような社会的な何かやお金を得るとかいうのとは全く違う。

自分がしあわせになることを自分のために願えたり、自分が少しでも楽になれるように自分を慈しんだり、そういうことを本気でやれる人。

何かや誰かのせいにして、それを言い訳にするのも好きじゃないし、自分はしあわせにもなれなければ楽な人生も生きられないって悲観的なのも好きじゃない。

究極のことを言えば、どんなに状況が強烈でも、何もなかったとしても、それでも小さなしあわせを見つけられる感性や自分を大事にすることをあきらめない精神、そういうものに本気で私は憧れている。

そして、それは自分の努力次第で手に入るものだとも思っている。

笑えない時は笑えないし、涙する時は涙する。

そういう時がいくら続きまくっても、それでも命が続いてる、朝は何度でもやってくるとわかった時に、それでも前を向けるか否かはすべて自分次第な気がした。

明るい未来を描こう!とかそういうんじゃない。

すっごいギリギリな精神状態の時に、本当にわずかでも「ここをいつか抜けれる」と信じられるかどうか、それは言い換えると自分を信じられるかどうかだと思う。

上手く言葉では表現できないけれど、一緒に過ごして話をすると、そういうのは何となく伝わってくる。

どちらが良いとかいうことではなく、どちらがより自分が好きな方なのかだと思う。

そう思う時に、私は「できない」とか「難しい」と言ってしまう人ではなく、「難しくても試す価値ありだね」でも「仮に何もならなかったとしても試してみよう」でも、そういう心持ちの人たちといたいんだと、はっきりとわかった。

自分との付き合い方は、世界共通、老若男女問わず、みんなが直面する事柄になる。

そして、それこそが個人の裁量ですべてが決まる。

一生付き合わないといけない自分を大事にしようとする人とそうでない人とでは、見る世界も体験することもまるっと違う。

私は、自分を大事にしたい人たちと繋がっていたいし、大事な相手との時間も、その根底が同じ人としかますます付き合えなくなるだろうと思う。

基本的に自己否定を一切しない人なんか、世界絶滅危惧種並みにいない。

だけど、そうした中でも自分を大事にしようとする人たちも確実にいる。

根っこのところで何を信じてるか、何を信じたいか、そこを分かち合える人たちと繋がっていきたい、それを今回ものすごくはっきりと感じた。

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