2019年12月25日水曜日

職場の風景

Merry Christmas 2019



本文とは関係ない
今年のクリスマスイルミネーション☆
たまたま用事があって見れたイルミネーション。
改めてイルミネーション見るの好きだなぁと思った。





仕事日誌第3週目の感想に、質問に行く際の相手との距離の近さと自分がしゃがむ関係で相手を上目遣いで見る格好になる事への懸念を書いた。

私はそんなの自分が嫌だから、私が嫌にならない距離感と姿勢を保ちながら質問しに行こうと決めた。

それを書きながら、書く時だけじゃなく実際に職場の中でもこのことを別のシーンで想像した。

これは今の仕事を始めた時から思っていることだけど、もし今みたいに席のすぐ隣りにイケメンがいたら仕事が手につかなかったなぁなんて思う。

隣りとは1メートル以上空いているし、両隣りは女性で黙々と仕事をするタイプの方たちだから、私はすごく集中して仕事ができる。

もしこれが同じポジションでも隣りはイケメンなら仕事中も気はそぞろで全然仕事にならなかっただろうなぁと思った。

いつか夢の中でイケメンと席が隣りという場面の夢を見たことがあったけれど、それさえも超ドキドキだった。

夢の中の風景って普段はすぐに忘れるけれど、その夢のことは今でも覚えている。

そのイケメンと席が隣りで、そして私が変な意味不明な労働基準関係の難しい電話を取る羽目になって、イケメンに目配せで「助けて」アピールをして、イケメンに助けてもらったところまで覚えている。

俺に話を振ってくれるなオーラに負けじと助けてアピールをした自分。

夢の中ではありえないほどの自己PR力で、そして何だかんだでそこまでできる人間関係があるみたいだった。

イケメンが私の席のところにまで来るその感じにドキドキしながらも、それを頼める自分が、夢の中の話と言えども羨ましかった。





後から知ったことだけど、私が今の職場に企業見学に行った時、4人の方々が対応されて、そのうちの3人が超大御所的ポジションの方たちだった。

1人は人事の女性だから、出社初日も対応してもらったし個人的な会話もほんの少ししたからどうこういうことはないけれど、驚いたのは残りの3人のおじさんたちだった。

そもそもどんな人たちがそこに同席しているのか、何でたかが派遣1人、しかも年度末までの超短期の期間しか雇用予定のない派遣に4人もの人たちが同席するのか超不思議でならなかった。

今となってはもっと具体的に書いておけば良かったけれども、おじさんたちは笑いもしなければ質問も色々勝手を知らない一般人からするとズレていて、何を見てズレてると思ったのかもはや思い出せないけれども、とにかく変だと感じた。

とかいうおじさんたちが実は社内の大御所たちばかりで、役職が上の方たちだとそれぞれひょんなことから知り得た。

そのうちの1人も、私はつい昨日(12月中旬のいつか)知ったばかりだった。

何回かその明らかに上席とわかる位置のデスクに書類を持って行ったことがある。

常に不在で、郵便受け的なお手紙ボックスの中に書類を置いて帰っていた。

それが昨日初めて本人がいて、その上席こそが面談の時のおじさんの1人だと知った。

向こうは気付いたかはわからないけれど、私は気付いた。

お願いしますと言って箱の中に入れたら、おじさんは一瞬だけ表情を和らげて私の方を見ながら「はい」と返事をした。

これが妙に感動的なシーンだった。

もう1人別のおじさんもしょっちゅう廊下とかですれ違うけれども、毎回きちんと挨拶してくれる方で、挨拶を慣習としない企業風土の中でこの人すごいなぁといつも思っている。

ちなみに人事のトップだと知った。

どちらのおじさんもちょっと人間的な部分が見えて、そこを見てホロリとした。

そうした姿を見て、私が見たかったものはこういうものだったと気付いた。




イケメンは直接ではないけれど上司で尚且つ職場の責任者だった。

立場もあって、私は全く近付くチャンスもなく、当然近付くチャンスがなければ、人として交わることもなかった。

だけど、私が見たかったものはそういうその人にしかない人間的な部分だった。

イケメンは私が最初の日、中間管理職なり年齢相応な立場でまだ他に上がいると勘違いしたくらいに、全く偉そうにしていない人だった。

机の配置もオフィスの間取りそのものが全体的に不思議なところだったから、デスクが置けないからちょっと他の人たちとは違う席なんだと思った。

それくらいの勘違いをするほどに、イケメンには偉ぶるみたいな態度が全くなかった。

私でなくても、あの時あの場でイケメンがまさかその中のトップだなんてすぐにわかる人がいたらすごいと思う。

勤務している間に、イケメンより2つ上になるかと思うけれども、何回か上席的な男性陣がやってきた。

私にはその人たちがうんと年上に見えて、まさかの私の1つ上と知った時は思わずチラチラとガン見をしてしまったほど、見た目というかが老け込んで見えた←超失礼。

いくつか上の人も1人いたけれども、その方に関しては10以上年上で50代かと勘違いした。

その人たちは容姿というよりも、むしろ容姿にはきちんと気遣いしている風だったけれども、放ってる雰囲気が偉そうな感じというか、偉ぶってるのとは違うけれども、男の人特有の大きく見せるみたいなそういうのを持っていた。

イケメンはそういうものもなくて、だから余計と若く見えて、私は勝手に年は近くても何歳か下の人かと思った。

まさか1つしか違わないなんて聞いた時には心底驚いた。

接触できる場面が極端に少なくて、私は電話の取り次ぎでも書類渡しでも何でもいいから超やりたかったけれども、そのどれも基本的には関わりがなくて、だからその人特有の仕草とかちょっとしたクセとか、そういうものもほとんど見ることができなかった。

イケメンは最後まで偉そうではなかったし、気さくな感じとは違うけれども、肩書き的な立場を振りかざすみたいなことは一切しない人だった。

イケメンはこの人はこういう立場だからとかいうことよりも、相手が年上であれば立場がたとえ自分が上でも相手に対して敬意を払っていたし、自分より下の人相手でも何かを頼む時は丁寧に頼んでいた。

イケメンがあまりにも普通にそうしていたからその当時は気付かなかったけれども、大きな企業で働いている人としてはかなり珍しいタイプだと思う。

誰とでもすぐに仲良くなれるタイプでは絶対にない人だけど、人としての振る舞いがとても感じの良い人で、ただでさえイケメンなのにそうしたことがさらにイケメン度をアップさせていた。

そういう大枠の部分は見てわかるものももちろんあったけれども、私はもっと詳細を知りたかった。

人間くさいところをもっともっと見たかった。

自分から喋るなんてことをしない人だから、全然個人的なことは何一つ知らなかったけれども、個人情報じゃなくていいから、公の場でない時の話し方とか顔とか私はそういうものを見たくてたまらなかった。





今現在の職場で書類を渡しに行ってちょっと緩むような面談の時の男性の表情や雰囲気を見て、こういうやりとりをもっともっとイケメンとしたかったなぁと思った。

当時の記憶を私はまるっと維持したまま今に至っている。

これほどまでに記憶が残ったのは、私の記憶力が高いからじゃない。

仕事の時の記憶は何回やっても覚える気がないのか、メモを見ないと新しい仕事はやれない。

当時の仕事のことも大方は忘れた。

だけど、その人とやりとりしたことは覚えている。

すべて鮮明に覚えている。

それは、それだけのインパクトがあったということ。

書類を渡しに行ったり、電話の折り返しを伝言しに行ったり、たった一度ずつしかないような小さな瞬間たちを私は覚えたまま今を生きている。

ファイルを探していたその人に声をかけたり、年上の穏やかな方に話しかける時は自分は立ち膝的な格好で相手を敬ったり、後輩と話す時は少しくだけていたり、仕事の話なのに目をキラキラさせるほど目がとても澄んでいてきれいだったり、何か起こると颯爽と身を翻してすぐに駆け付けたり、大雨の日はカッパを着て仕事していたり、椅子に座る時は背側を前にしてまたがるようにして座って仕事の話をしたり、仕事のファイルを見る時は自席に戻らずその場でどかっと座り込んで見たり…。

その人は知らないと思う。

その人がファイルを見る時は、私も同じキャビネットにある別のファイルが必要で、いつもいつもよくタイミングがかち合うなぁと思っていたこと。

そう、本当はビックリするほどのタイミングが重なりまくっていた。

でも私はその人に究極に近くなってしまうそのことがどうしても恥ずかしいやら何やらで、毎回わざとタイミングをずらしてファイルを取りに行っていた。

この上なく近付けるチャンスで、その人にちょっとよけてもらわないといけないから必ず「すみません、ちょっとだけいいですか?」ぐらいなやりとりはできるってわかっていても、私にはそれをする勇気がなかった。

今すぐにでもそこに行きたい気持ち以上に勇気のない方が勝っていた。

そうしたことも全部全部覚えている。

今だから思うのは、それら全てをこんなにもはっきりと記憶しているのは、それは魂の記憶だからだと思う。

ここから先は私の超妄想に満ち満ちた話だけれど、そうやってものすごく強く鮮明に記憶するのは、魂そのものがそれを希望しているからだと思っている。

過去世で10歳ぐらいまでしか生きられなかったとされる自分を思う時、その時に近くにいてくれた人たちを見て最後何を想って日々を過ごすかを想像したことが何回かある。

その人たちの姿やその人たちとのやりとりを克明に自分の目に記憶に命に刻もうとしたんじゃないかと思う。

子どもの方が大人より何十倍と感度が高いから、死ぬその時も自分が長くないことはそこそこわかったのではないかと思う。

そう思う時、自分が見たいものはその時に近くにいてくれた人たちじゃないかと思った。

そういうのは言葉以上に伝わることがある。

言葉のやりとりよりも、ただそこにいる人の空気や存在感を全身全霊で感じる、そんな風だったかもしれない。

そして黙っている時ほど、空気は真っ直ぐに伝わる。

ベラベラと私のこのブログのように言葉を長々とたくさん並べたら伝わるわけじゃなく、何もなくてもただそこにいてくれるだけでその人の気持ちや想いが伝わることもたくさんある。

死ぬ間際なんか特に体が弱っていたと思うから、たくさんの言葉よりもただただそこにいてくれるだけで相手からたくさんの何かをもらうこともあると思う。

そんなことを思う時、今世でイケメンと同じ職場に勤めることになって、ものすごく短い期間とはいえ、その瞬間瞬間のことが今でも強く深く鮮明に残っているというのは、その時の名残やその時の自分を追体験しているのかもしれないなぁと思う。

寝床で体を動かせないみたいな状態だとするなら、尚更相手側から私の元へ来てくれないと相手のことを捉えることができない。

来てくれた時は動かない体を使って、自分が記憶できる限り相手のことを記憶したかと思う。

そんなこんなを想像すると、夏の職場でイケメンを私が全力で見て捉えていたことは、もしかしたらいつかの自分がしていたことをそっくりそのまま今の体を使ってやっていたのかもしれない。

魂はすべての人生、今世ばかりじゃなく前世や過去世の記憶もすべて持っているとされているから、当時のやりとりを今世でも再現しててもおかしくない。

日が経てば経つほど、当時の記憶が鮮明になる様を見て、自分でも驚いた。

毎日生きていたら、何かしら新しいことが人生にプラスされる。

特にイケメンがいなくなってからの人生は相当な勢いと意味不明な出来事と縁ができたけれども、今のところ断トツでイケメンの存在がいた瞬間や時間が色濃く残っている。

夏の色んな日に、それがいつかの未来に何度も思い起こすからしっかり覚えようなんて思って覚えたのとは違う。

気付けば、他のことは忘れたり大きなインパクトがあっても一過性であるのに対して、イケメンはずっとずっと残った。

そして、他のところに是非とも活用したい桁外れの記憶力をイケメンにまつわることやイケメンが存在した瞬間を私は持つことになった。

その時のことだけが、異常と呼ぶべきものすごい強さで残り、私もまさかその後自分の人生が色々変化を迎えてもここまで残り続けることになるなんて想像さえしていなかった。

知っているのは、元気らしいことと彼女の有無は知らないけれど今も独身なこと、趣味は続いていること、仕事は部署の人が異動した後補充がなくてその部分も自分が担当することになって忙しいこと、を人づてに聞いた。

どうすることも私にはもうできないし、間接的に何かを知ったところで私が望むようなやりとりが手に入るわけじゃない。

そうと知っていても、記憶の残り方は想像を遥かに超えた残り方を保持している。

だからこれは魂の記憶なんだと思う。

文字通り、全身全霊でイケメンを見て覚えたことを私が今もはっきりと鮮明に覚えているのは、恋愛的な片想いズルズルとかいうことよりも、本当に魂が覚えておきたくてそうなっているという感じがする。




当時の仕事とは風景も内容も違う今、それでも私は時々1枚もののPDFをコピー機で取ったり、書庫のようなところに行ってファイルを取りに行くこともある。

全く違う風景に自分はいるのに、そこで私が見ているのは、イケメンがいた頃のコピー機でのやりとりだったり、キャビネットでのすごい確率でかち合うことだったりする。

もうコピー機を前にしても、そこにイケメンが自分の印刷物を取りにくることもないし、当時と同じ色のどこのオフィスにでもあるような分厚い青ファイルを取りに行ってもイケメンがいるからタイミングをずらそうなんてことはしない。

でもそうしたことが鮮明に思い出されて仕方ない。

今の職場は従業員が何人いるのか知らないけれども、とにかくたくさんの人たちとすれ違う。

たくさんの人たちとすれ違えばすれ違うほど、イケメンとすれ違うことのできた空間に一緒にいられて、イケメンの名前が何で、イケメンもせめて私を見て私が武士俣さんだと知ってもらえていたことというのは、どのくらいの奇跡なのかと思う。

魂がプレゼントしてくれたものだと思う。

イケメンと当時出逢えたことは、魂が叶えたいことで魂が今世にももたらしたい出逢いだったんだろうと思う。

魂、魂と連呼するのもいかがなものかと思ってはいるけれども、そうとでも説明しないと私の中で折り合いがつかない。

去年の今頃も似たようなことを思って何かしら書いたかと思うけれども、まさかそれがもう1年繰り越しになるとは思わなかった。

まさか新たな職場に行ってまで思い起こされるのがここに書いたようなことになるなんて、想像さえしていなかった。

これは備忘録とか普段書く何かを感じたり思ったりしたこととも違う。

軌跡を残すのと一緒に、これだけは伝えたい、届けたいというのがはっきりとある。

年内にアップできるかどうか怪しいけれども、友人ノムの声掛けで実現した来年のある手帳にメッセージを書いたものが現実に印刷されて書店に並んでいるけれども、それさえも私は伝えたいとは思っていない。

そちらの方が社会的に見せられるし宣伝もできるものだけど、それはそれという感じ。

でもここに書いた超個人的なことで書いたところでだから何?というものの方が、私にとっては重要で他の何にも代えられない。

そしてこれだけは言葉にしなきゃ伝わることさえないって知っているから、他の何を差し置いてもこれだけは書こうという意志がものすごく明確にある。

願掛けのように、魂の願いのように、言葉を綴って見えるようにして、そして伝わる可能性に賭けて伝わるようにする。

命の言葉を通訳している気分でずっとこの文章を書いていた。

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