この文章を書き始めた日の夕空
2019.11.24
2年前2017年の秋だった。
「霊性の開花」
このフレーズを私は何十回何百回と当時は見た。
調べ物をする度に、だから書き手は毎回違う人に当たっているはずなのに、とにかく「霊性の開花」というフレーズがここかしこに散らばっている。
当時の私は、自分が霊性の開花などするわけもないし、そんなの望んでもいないし、もし仮に開花するのならそれは自分で自分が開花したとわかるんだろうか?、仮にわかったらものすごく痛い人じゃないだろうか、そもそも「霊性の開花」って何?と思っていた。
だから私は冷ややかな目でその何十回何百回と現れるフレーズを華麗にスルーした。
2年経った今、とりあえず私は今の自分を見て「霊性の開花」と呼んでいいかは判断つかないけれど、2年前と今とでは全く違うものを体験したり見聞きしている自分のことはわかる。
自分自身はそんなに変わらないけれども、できることや視野が増えたとでも言えばいいんだろうか。
野球が何かも知らなかった人が、野球というスポーツを知って、道具揃えてキャッチボールしたり素振りしたりするようになった、そのぐらいの変化はこの2年で起きた。
ここから先は、実際の試合に繰り出してみようか…というところ。
この2年の間に、私は38歳から40歳になった。
当たり前と言えば当たり前のことだけど、40歳、そして年が明けて3月になれば41歳になる自分の年齢の変化を見て、この霊性の話と年齢のことと、これまでとは少し違う視点が生まれてきた。
それに伴って、私の捉え方も少しずつ変わってきた。
ここから先は思い浮かんだまま書きたい。
見えない部分の力というか体質に気付いてから1年8ヶ月が経過した。
今となれば、そういう人生設定ゆえに本当のところはわからないけれど、私の中でその体質側にスイッチオンになるきっかけというのが何かというのはものすごくはっきりとしている。
1人のイケメンとの出逢いだった。
何度かこのブログ内でもご登場いただいているけれども、本当に明らかに変化が起きたのは、イケメンご登場以降の話だった。
今、冷静になって客観的に見ても、やっぱりその人というのはイケメンだと思う。
神々の審議会もどうせ私の人生に送り込むなら、イケメンではなくフツメン(普通メン)で良かったのに。
書いてて思ったけれども、もしかしたらイケメンだったからこそ良かったのかもしれない。
私はさすがに最初から最後まで自分が相手にされるとは到底思えなかったから、これがフツメンなら「フツメンなのになぜ相手にされない?」(←傲慢)などとなるところ、イケメンだと「イケメンだから相手にされないのは当たり前」となる。
だからイケメンがあえて送り込まれたのかどうかはわからないけれども、とにかく私の人生に送り込まれてきたのはイケメンだった。
このイケメンが私にとって、「霊性開花」などというフレーズを目にするキーパーソンだった。
異常としか思えない自分の心理や状態とか、神業的なシンクロ率とか、その人もその人で若干挙動不審他いくつか変だったから、それで私はもう調べに調べた。
最初は「男性心理」みたいな枠で調べていたから全然的外れの話ばかりだったけれど、どういうわけか「ソウルメイトの分類」みたいなもののサイトに行き着いて、そこから今度は魂関連の調べ物に一気に変わった。
そこで魂の関係なんちゃらに始まり、霊性の開花とかまぁ色々と出てきた。
私は霊性開花には目もくれなかったけれども、唯一私のモチベーションになってくれたものはある。
霊性開花してそれをきちんと世のため人のために使うようになったら(←ちなみにここは速読並みにマッハで読み飛ばし)、魂的な繋がりがある相手とは再会できる、とあった。
私は冗談抜きで「再会」を願ったし、それのみが全てにおいてのモチベーションだった。
霊性開花には全く興味が湧かなかったけれども、再会には常々24時間体制で興味があった。
その再会への執念のおかげなのか、イケメンパワーのおかげなのか、真相はわからないけれども、たしかに私の目に見えない力はどんどんパワーアップしている。
昨日もノムと話していて、ノムの懸念事項を聞いて出てきた「人に真似されても本物には敵わない」という話を思い出して、それを言った。
ノムに「私この手のヒントならいくらでも喋れる」と言った。
とにかく話を聞けば何かしら思い浮かぶし、思い浮かぶものは自分も超気に入った考え方だったりするから素で何も見なくてもベラベラ喋れるし、そして私が色んな人たちから聞いた話は本当に役に立つ。
ノムはそれはぶっしーだからこその強みだよ、ときちんと言葉にして伝えてくれた。
だからすごいスキルだというのは、ようやく最近自分でも認められるようになってきた。
それはそうと、何にも囚われず、真っ直ぐ情報を引っ張ってきたり、伝えたりというのは、かなりできるようになってきた。
2年前よりも確実にそこは数段上になった。
話はいきなり飛ぶけれども、イケメンはどういうわけか私のブログを読んでいると思われる。
「再会」をモチベーションにしていた私は、ついこの間までそれは「私が気になるから」ではないかとかなりおめでたいことを考えていた。
だけど、それも最近は少し変わってきた。
気になるというのにも、当然種類がある。
異性として気になるのか、大切な人として気になるのか、友達みたいに気になるのか、単に人の方ではなく私が書く文章が気になるのか(長いし面白いものではないと思うけれど)、はたまた読むと癒しが起こるのか(※時々、「癒された」という感想を他の方たちからいただく)。
「私が気になる」のではないんだろうなぁと思うようになったきっかけがある。
単純に「気になったのなら連絡してくるでしょ!してこないというのは、言い方を変えると、連絡はしたくない、だよね…」と。
私だってひっそりと読むブログの1つや2つあるわけで(ちなみに全盛期の1日10ブログはチェックしていた方のほとんどが今ブログを止められてとても残念)、でもそんなのブロガーさんに連絡するなんてしないし。
せいぜいコメント残すぐらい。
それを思うと、ブログを読むことと会いたいと思うことはイコールじゃないな…と突然理解した。
私が達した結論は、イケメンから見て私というのはブログを読むのは嫌じゃない人、の立ち位置かもしれないと思った。
このブログには何度も書いているけれども、私の見えない世界のことというのは、とにかく異常なほどのスピードや濃度でどんどん展開していく。
そちらは努力や計画なんかしなくても、とにかく勝手に必要に応じて動いていく。
ヨシダさんのことがあって、ことさらその部分は強く感じるようになった。
ヨシダさんの資料の件(米でも野菜でもよく育つ方法)はやる必要のあることで、私個人の利ではなく世のため人のためにものすごくなるものだから、そういう動機や意図のものはとにかくすごい速さで結実していく。
一方で、イケメンとの再会とかいうことは、私の人生には必要ないことなんだろう、起こる気配すら無い。
相手に気がないからだと言われたらそれまでだけど、これがブログのことがなければ私もそう思えたけれども、ブログがあることでそうは思えないところがある。
小さな望みを私はずっとずっと持ち続けた。
だけど、さすがの私もここまできて何もなければ、「何もない」ことが起こることであって、そちらは必要だからそうだし、反対に何か起こることは不必要だから起こらない、それを冷静に受け止めるように少しずつなってきた。
悔しいけれども仕方ない。
こういう時、「イケメン(+ハイスペック)」というのは、頭だけでも納得するために役立つ。
そんな人が私を相手にするわけないと思うのに十分な理由だし、そして冷静になって自分のツッコミどころ満載のスペック的なものを見て、そりゃ選ばないよねと思う。
魂の関係には正直顔や容姿、スペックなんて何一つ関係ないけれども、それはあくまでも理論なだけで、現実の日本社会ではスペックだって顔や容姿だって大切になる。
さすがの私も日本社会の風潮を無視して「魂の関係優先だから!」なんて馬鹿なことは思わないし言わない。
そもそも「好み」がある。
異性として好んでくださいではなく、単に会ってお茶するにしてもしたい相手としたくない相手とがいる。
私だけ一方的に希望したところでダメだから、そしてそれだってお茶したい人の好みがあって当たり前で、要はそれにさえもランクインしないということ。
(2019/11/22)
派遣先の企業に見学という名の面接に行った時のこと。
見学に現れた3人の男性と、その後大きなオフィスに案内されて、中を見た時に気付いた。
イケメンと会ったのは、最後に派遣に行っていた職場だった。
今日行ったところは何せ本当にでかい会社で、最初に通された会議室的なところがすでに最後の派遣先のオフィスの半分はある大きさだった。
言うなれば、コンビニの半分くらいの大きさがその会議室ぐらいだった。
見学したオフィスについて言えば、その部署だけでバスケットコート2つ以上は余裕で入る体育館並みの広さだった。
そんなところに入って、滞りなく終わった後に気付かされた。
イケメンに出逢った初めての瞬間のことは私は今でもとてもよく覚えている。
初対面の時の記憶なんてまずは残らないけれども、イケメンはその時はどういう人かなんて何も知らなくても強烈に記憶に残った。
それはその人がイケメンだったからじゃない。
イケメンというのは、異彩な空気を放っていた。
それは私が人生で一度も見たことのない空気感だった。
その時も私は、慣れない事務仕事への不安をとめどなく募らせた状態で職場に行った。
さらに小さな場所で、人数も限られていたから、そこで働く人たちがどうかどうかタチの悪い人ではありませんように…とかも願ったりしたわけで、仕事と人とダブルで心配していた。
そんな私の前に現れたのがイケメンだった。
他にも男性3人と女性3人がいたけれども、他の人たちのことは覚えていない。
だけどイケメンだけは覚えている。
イケメンを見て私は
「この人がいるから大丈夫」
と思った。
私はこれまでずっとそれは、「こんな人が職場にいてくれたら、この職場は大丈夫」という意味だと思っていた。
でも、今ここでこうして
「この人がいるから大丈夫」
と書いてみてわかった。
「この人がいるから大丈夫」というのは、職場のことを指したわけじゃなかった。
実際に大丈夫ではあったけれども、そういうことではなく、全く違う意味だった。
「その人が私の人生にいてくれるから大丈夫」
そういう意味だったんだと今書いてて気付いた。
あの時は無我夢中で、そして私もアホすぎて「イケメンだから」印象に残ったりするのかと思っていた。
よくビビビ婚なんて言うけれど、見た瞬間わかるなんて嘘だと思った。
何で一瞬見ただけで相手のことがわかって、相手のことが他の人とは違うと感じるのか、そんなことあるわけないと思っていた。
イケメンに出逢う前までは、本当にそんなのはみんな適当に言ってるんじゃないかと思っていた。
イケメンを結婚相手と思ったとかいうことはなかった。
そういうことではなく、何だか知らないけれども、最初からズバ抜けて印象に残った人だった。
そんな風に印象に残る人なんかまずはいない中、イケメンだけは本当にすごい印象の残り方だった。
それの本当の意味を知るのは、今だったんだと知る。
私は当時、イケメンのような人がいてくれるからこの仕事、この職場は大丈夫だろうと思った。
でもそうじゃなかった。
あの最初に会った瞬間に、私はその人が自分の人生の中でとても重要な人だということを無意識に、でも強烈に認識したんだと思う。
それが本当に特別だと知ったのは、今日の職場見学に行った時だった。
もうあんな風にイケメンみたいな、「この人がいるから大丈夫」なんて出会いはそうそうないことを悟った。
広い職場はどこか機械的で、余計なことは気にしなくて済むような感じだった。
代わりに人間くさい感じがほとんど感じられなくて、こんなところに自分が行くというのが何とも変な感じがした。
イケメンの笑顔は2回しか見れなかった。
そのうちの1回がその初めて職場に行った日の着いてすぐぐらいの話だった。
笑顔だけじゃなくて、その人がまとっている空気感は本当にきれいで、その後も私はいつも、どうしてイケメンの周りの空気だけがいつもキラキラとしているのかと思って見ていた。
不思議なもので、私はこの2年ほどで本当に素敵な人たちにも引き合わせてもらえたけれども、イケメンが持っているその人特有のあの空気感、キラキラした透明な空気をまとっているのは、今のところ他の誰にも見たことがない。
派遣会社の担当者は電話の頃からとても応対の素敵な人だった。
実際に会ってみて、実は私が世話になっている営業所の所長だというのは、その時名刺をもらって初めて知った。
その人は服装はじめ身につけているものもとてもオシャレで、営業兼所長だけあって話し方も穏和で本当に相手を柔らかくする人だった。
雑誌から飛び出てきたような、本当にオシャレなジャケットとスーツパンツを着こなす風な人だった。
人の服なんかあまり見ない私が思わずジロジロと見てしまうくらいに、本当に正装してるのにオシャレというスタイルだった。
そもそも何の会社なのかを聞いたら「実は僕も1ヶ月前に転勤になったばかりで、何の会社かまでは知らないんですよね」と笑いながらしれっと言える面白い人でもあった。
気さくな人で偉ぶってもなくて、こういう人も派遣会社の所長クラスでもいるんだなと思った。
とかいう気さくで素敵パーソンに会ったからこそ、余計にわかった。
イケメンとはほぼ会話を交わさなかった。
たかが10分程度の所長との会話で、イケメンの個人的な情報より所長の個人的な情報の方を多く手にした。
それくらい私はイケメンのことを何も知らなかった。
人同士を比べるなんてのは行儀悪い感じがするけれど、ここでも私は思った。
全く相手にもされなかったイケメンだけど、イケメンが放つ空気で得ていた安心感は、あれは次元の違うものだったことを知った。
所長が実務的な安心感だとするなら、イケメンはそもそも生きていること、心や魂が感じる安心感という感じだった。
何も知らなかったからこそ、私はただただ目の前に現れた人のことを、その人が放つ空気をボケーっとしながら眺めていた。
あの時はやっぱり何もかもが尋常ではなかったんだなと知った。
イケメンと日々会っていた時の私というのは、本当に生きていることと自分の命が今日もあることを、本気で感謝していた。
それは相手のことも同じ気持ちで見ていた。
同じ時代の同じ時空間に存在しているイケメンの今日ある命が私には特別なものとして映った。
あれは本当の本当に別格過ぎた。
所長と話した時に、以前は〇〇にあるX社に行っていました、と言ったら、赴任1ヶ月の所長はその会社を知らないと言った。
X社が何の会社なのかをざっくりと説明したら、「聞いたことないから、今はそことは契約していないと思います」という衝撃の事実を知った。
私のポジションは元々私が行った時に新規に増設されたもので、そのポジションはないものだった。
どうやらそのポジションはいつの間にか無くなったらしい。
そして私とは別に10数年勤務したSさんのポジションも、Sさんの退職後補充されなかったんだと知った。
Sさんだけが唯一私が今でも当時の職場で連絡を取る人で、そして同時にSさんはイケメンと趣味つながりで今でも仲良くしているようだから、私はこのSさんからイケメンが元気にしていることを又聞き状態で何回か聞かせてもらった。
そのどちらも今はなくて、あの時にしか存在し得なかったポジションだったと知った。
そして、イケメンもその時にちょうど転勤でそこに勤めていて、イケメンはSさんの記憶だと2年半くらいいたみたいだけど、その最後の4ヶ月のところに私がちょうど派遣で行って出逢えた人だった。
色んな事情があって増設されて私はイケメンに出逢えたわけだけど、これも神々の審議会が企てたもののように今となっては見える。
1ミリとしてずれてはいけない過去の出来事や環境的なものが重なって、それで私はイケメンに出逢うための切符を手にした。
イケメンはこれから先もずっと私の中で忘れられない人として君臨したままなのかもしれない。
会えないのにずっと忘れられない…、私はそのことに対して色んな感情が湧く。
自分のことをダサいとも思えば、悔しいと思ったり、奇跡が起きてくれないかと願ったり、相手にされてないんだからいい加減貴女も気持ち切り替えたらと思ったり、もう二度とは会えないんだよと自分に言い聞かせてみたり…。
そんな風に2年以上の時間思ってきた。
話がややこしいから詳細は割愛するけれど、イケメンは間違いなく私のオカルト体質開花、霊性開花の超重要なキーパーソンだったことには違いない。
冗談抜きで、イケメンなくしては今の私のオカルト体質は出現しないまま、そして実際の人生も今とは違うものになっただろうと思う。
オカルト体質は徐々に進化を遂げていて、それに関しても私からすると私1人の力でそうなってると言うよりも周りの人たちのおかげなところがとても大きいし、そしてイケメンはその総括というか全体に対して本人は1ミリも何もしてはいないんだけれど、イケメンが全体に対してのバックアップ、セーフティネット役みたいなところの立ち位置にあるのはわかってる。
そもそも私の体質を、機械や車のモデルチェンジに例えるとするなら。
イケメンが担当してくれた部分は、モデルチェンジをする前もした後も変わらずに残るところ、言うなら骨格を形成する超コアな部分。
それと、変更後そのモデルチェンジが上手くいったかどうかを確かめるテストがあるとするなら、そのテストに合格とわかる合格サインの部分といったところ。
はたからしたら、何のこっちゃ?の話でも、私当人からするとわかる。
むしろ私にしかわからないもの、その部分の影の功労者的、統括的な役割を果たしているのがイケメンという感じ。
多分私に見えているのは、現実のイケメンの方ではなく、イケメンの魂の役割みたいな部分なんだと思う。
2019/11/26
書き始めた当初はもっと色々書きたいことがあったけれども、何を書こうとしていたのか記憶がだいぶ薄れてきた。
1つだけ書こうとしてまだ書いてないことがあるから、それを付け足したい。
いつからか具体的には思い出せないけれど、多分10月以降ではなかったかと思うけれど、イケメンの役割はすでに終わっていて、私だけがいつまでも気持ちの上で執着しているだけかもしれない、そう思うところが出てきた。
例えば、イケメンが私の霊性開花のスイッチを押す係なら、それはもう終わって完了している。
一度入ったスイッチはもう元には戻らないし、私もこの能力は周りに役立てるためにもたらされてると今ではさすがに思うようになった。
自分の能力というか体質に対してもきちんと受け入れるようになって、そこはイケメンがいなくなった2年前の秋からは大きく進歩した。
ある程度の路線にはおかげさまで乗れるようになってきて、抵抗はだいぶ薄まってきた。
そこまでの状況になってみて、イケメンはもう役割を果たしたから、それは実を言えば2年前にすでに終えていて、だからこそ私の人生からはいなくなって、そしてそもそもイケメンからして私が人として付き合いたい人でもなんでもないから、もう全ては終わったこと…、そんな風に思うようになった。
それは仕方ない。
さすがに人の気持ちまでは変えられない。
本当に私が執着しているだけ、それが全てだろうと思う。
いつかは再会できるんじゃないかというのは、私にとって本当に大きな希望だった。
特に私は、自分の能力に対して懐疑的でもあれば、そんなのは無くてもいい、能力とさえ思えなかったり、そんなものはオーダーした覚えはないなど、もういくらでも否定的で受け入れようと最初はしなかった。
だけど途中からは受け入れることを始めたし、そしてそれが再会に一歩また一歩と繋がるんじゃないかと大真面目に真剣に本気で私は信じた。
今の地点にまで着いて、とりあえず周りから必要とされる時はその能力を使って動いていこうと心に決めているし、実際にそのようにはしている。
イケメンと再会できなくても、それは今後もずっと続ける気でいる。
私側の心構え的なものも、ある程度のレベルにまで引き上がってきた。
ここまで来たら、ますますイケメンの役割は終わった感があって、これまでは再会を夢見て頑張っていたものが、今は再会がなくても頑張るに切り替わったから、そういう側面でイケメンが特別な意味を果たさなくてもよくなった。
同時に、役割もないとなれば、何のメリットもない私と会うなんて、イケメンからしたら不要無用もいいところで、その事実を私が本当に受け入れ始めたんだと思う。
ブログは何か別の意味で読んでるだけで、私が好きなブログを読むのや気になる情報を集めるのと似てるんだろうなぁと思った。
ブログを読んでその人と会いたいとならないのと一緒だと思う。
そして、イケメンは私を無視するという一貫した態度はずっと同じなわけで、こんな状態で再会を本気で信じられた私のメンタルの方がある意味すごいわけで、願っていたらいつかは叶うとは思わなくなった。
魂の関係がどうであれ、それだからと言って再会できるわけじゃない。
そういう事実を淡々と整理し始めた。
今でも私はイケメンにめちゃくちゃ感謝しているし、出逢えて本気で良かったと思っている。
冗談抜きで、本来なら一番星周りがキツい時に、イケメンは私の人生に登場して、生きることの喜びをもたらしてくれた。
今でもイケメンがいたあの時間は、それまでの超苦しい人生をがんばってくぐり抜けてきたから、人生のご褒美としてもたらされたものだと思っている。
色んな人たちが人生に立ち現れるけれど、必ずしも繋がりが強いからと言って、一緒に生きるとか近くにいるということにはならないんだと思う。
イケメンにはイケメンの役割があって、それがもう終わったとするならイケメンは私と何ら関わる必要はないわけで、このまま何事もなく二度と人生で交わらなくても、それが元々の計画だとするなら仕方ない。
嘘でも幻想でもいいから、再会できるかもしれないと小さくでも強く希望を持てたことが私には必要だった。
自分の身に起こってくるあれこれは欲しいものとは言い難く、だけど必要が生じれば動くみたいな感じの、心は常にやさぐれまくりな時に、目の前のことには正直心惹かれなくても、もしこうしたことを1つ1つクリアした先には再会できるかも…と思えるだけで、本当にそれだけで私は頑張れた。
生きる源みたいなもので、嘘でも幻想でもそれを1つ心に持っていることは、心のお守りみたいなものだった。
自分の能力に気付いてそろそろ2年になろうとしている今、それは使うものだという認識が自分の中に出てきて受け入れるようになった。
イケメン関係なく、そこに向き合えるようになった。
実は2年前の秋にイケメンの役割はすべて終わったのかもしれない。
なんだけど、私のグダグダ加減と先延ばしと自分の道から目を逸らそうとすることと、そうした諸々が色々こじらせて、それで神々の審議会からイケメンを匂わすシンクロを色々起こして、私のただでさえないモチベーションを何とか少しでも生み出せるように維持継続されてただけなのかもしれない。
相変わらずシンクロは途切れることなく続いているけれど、あまりに出来過ぎだからたまたまとは思わないけれど、それも何か別の意図(神々の審議会の)があって起こっているのであって、私の再会希望などというところを叶えてくれるのとは違うと思う。
色々釈然とはしないけれども、自分の人生の色合いがそもそも理路整然からは程遠い、常に斜め45度から色んなものが投げ込まれるみたいな人生だから、イケメン関連のことも私は釈然としなくても、神々の審議会からしたら「はい!これでOK!」となってるのかもしれない。
「神々の審議会」という言葉、何かと便利(笑)。
説明のつかない色んなことたちは、すべて私は「神々の審議会」案件だと思っている。
人間が計画してできることじゃないものは、すべて「神々の審議会」の仕業と思っている(「仕業」って…( ̄∀ ̄;))。
2019/12/01
あまりに慌ただしく過ぎて気付いたら師走になっていた。
新しい職場に行くこともだし、11月は色々とバタバタしていた。
この文章を書き始めた11月の下旬あたりから思っていたことがある。
イケメンは本当に役割を終えたのかもしれない、ということ。
2018年の4月に始まったニート生活。
「ニートになろう!」と思ってなったのではなくて、ズルズルと何もしないことを大半は無意識に時々は意識的に選び続けた結果がニートだった。
たしかに外で働くことを含め何も役割を持たない時間ではあったけれど、中身はめちゃくちゃ濃密だった。
社会から自分を切り離して自分の内側にこもることが多くても、時々は外に出て働いた。
又はペンジュラムを使って行方不明の人を探して欲しいとかそういう頼まれごとをやっていた。
外に久しぶりに出る時は、いつも緊張した。
内容いかんによっては、緊張どころか一生の覚悟を問われるようなこともごくたまにあった。
とにかく日常にはない何かを体験する時、それは一時的な仕事でもプライベートでも、そこにはいつもイケメンにまつわる何かサインがあった。
そのサインたちはいつも不意に訪れては私を「大丈夫」と落ち着かせてくれ、心を和ませてくれ、緊張を和らげてくれた。
そのサインとイケメンにどのくらいの関連度があるのかは知らない。
もしかしたら、本当に意味なんて何もなくて、単に私の強い意識がそうしたサインに気付きやすくなっているだけかもしれない。
でもそれでもいいから、そのサインたちは私に絶大な安心感と心和むパワーをいつもくれてる。
8月の終わりから9月にかけて行った米の仕事の初日の帰り道、このブログを2年前の秋に再開するきっかけになった、イケメンと同じ名前の入った美味しい洋菓子屋さんの車とすれ違った。
世界に1台しかないその車とすれ違って、幸先大丈夫とすぐに信じることができた。
米の仕事の長は、イケメンと同じ漢字が名前の中に入っていた。
それだけでこの職場は大丈夫だろうなぁと思ったら、素晴らしい体験をたくさんさせてもらえた。
明日から行くところは不安の方が強いけれども、もしかしたらもうイケメンサインは現れないかもしれない…、最近はそんな風に思うことが増えてきた。
いつかはそうしたサインが消えてなくなる日が来そう…、そんな不安が最近は時々よぎる。
私が何の印象にも残らなかったとは思わなくても、私とどこかでもう一度人生が交差しなくても相手は困らない。
困らないし、記憶からも消える。
私の存在は、今日も生きていても「無い」も同然なんだろうと思っている。
そして、ある程度自分の中の人生への覚悟が決まりつつある今、もうイケメンのサインは私の前に現れないかもしれないなぁ…とそちらも覚悟を少しずつし始めた。
しっぽりとした気持ちで、自分の中にある純粋な部分にだけ目を向けて文を書けるのは、しばらくは今日が最後かもしれない。
だから明日からの超社会人生活に入る前にこれだけはアップしてしまいたかった。
どの程度自分の中から余裕がなくなるのか想像できないけれど、余裕がなくなった時に、今みたいに真っ直ぐ書けるかわからない。
イケメンにまつわる話を紡ぐ時は、いつも純度高い自分でありたい。
イケメンの話は、自分の中の最も深いところに潜る。
そういうところから響き渡る。
イケメンの存在は近くにいた時と何も変わっていない。
むしろ、いなくなってからの方が、もっと存在感を強めたかもしれない。
もう二度と会えなくても、私の中では小さな希望をずっと強く持ち続けられるくらいの威力を持つ人だった。
それは今も現在進行形でも、どこかでもう生涯叶わないことなんだろうというあきらめの気持ちもある。
希望に託す想いと同じくらいの大きさで絶望している。
そういう存在なんだと思う。
究極の喜びの後には、それよりも大きな絶望がやってきた。
勝手には終わらないから、流れに身を任せているけれども、本当は切望している。
もう一度会わせてください、って願っているし祈っている。
霊性開花でもなんでもがんばるから、本当に願いを叶えてください、たった1つの願いを叶えてください、いつもそれは思っている。
ずっと延び延びになっている、私のファースト本(←誇張気味( ̄∀ ̄;))のあるページの言葉の原文ままを紹介したい。
占星術講座のクラスメイトのノムに誘ってもらって、ノムと私とは40数日分のメッセージをある手帳に書くことになった。
その中の1つの言葉。
日にちを見ただけで何の日で何があったかを思い出せる。
そのメッセージは、私は他の誰でもない自分自身に贈った。
日にちは出版社の人から指定されたものを2人で手分けした。
私にこの日が来た時、私はこの日だけは自分のためだけに書こうと思った。
イケメンと交わしたとも言えない、とある日の朝の風景が頭に浮かぶ。
頭よりも心かもしれない。
心の情景を生涯大切にしたい。
そしてどんなに思い通りでなくても、その時のことを一生憶えておきたい、そして死ぬ時にはその時イケメンがいた風景や自分の気持ちを少しでも思い出せたらいいなぁと思っている。
9月11日
忘れられないほど大切な誰かや何かに出逢ったあなたへ。
愛を思い出す日。
忘れられないことがあるのなら、自分の人生の終わりを想像してみましょう。それはどんな形になっていることでしょう。忘れられないものの形が自由自在に変わっていくことを、もしくは変わらないことを、どちらにしても自分の心にフィットする形が見つかるように祈りましょう。そして、少なくとも今まで向き合い続けた自分を心よりねぎらいましょう。
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