少しだけ、と決めて書く。
今日(12/16)は、ひたすら黙々と英訳をしていた。
最後の1時間ほどは本当に神経がいかれたみたくなって、英訳は根詰めてやってはいけないと学んだ。
やりすぎると、頭が働かなくなる。
だけど、締切の迫ったものはそうも言ってられない。
だから明日以降は頭の気分転換を取り入れることにした。
考えてるフリして、5分とか10分とかボーッとする時間を意図的に持とうと決めた。
その時に考えること、記念すべき第一号のテーマが決まった。
「もし電話をかけるなら」
お題はそれ。
「もし電話をかけるなら」というのは、かける予定のない電話をもしかけるとするなら、というたられば話。
これが妙に楽しい。
仕事中でもいつでも空想世界に浸れる(♡´艸`)←仕事しろ!
くだらないことを山ほど考える。
出ない時、何コールまで鳴らしてもおかしな印象にならないか。
いきなり「武士俣です」と名乗るのがいいのか、〇〇でお世話になっていた武士俣ですと名乗るのがいいのか。
〇〇さんですか?とまずは確認するところからスタートするのか。
っていうか、ネタがその後ないからそこはどうカバーするのか。
タメ口も変かもだけど、ビジネスライクなのもよそよそしい、どういう口調がいいのか。
聞いてみたいことはたくさんあるけれども、いきなり聞くのはおかしいことばかりで、じゃあ何なら話をしても大丈夫なのか。
空想世界もとい妄想だけならどういう想像をしても今のところ楽しい。
英訳の仕事は本当に頭がフリーズしそうなほどありとあらゆる回路を使うから、少し頭を柔らかくするために取り入れたもののはずだった。
相変わらずたられば妄想を楽しんではいるけれども、遊びではなく本気でそれらを捉えてみると、そんなこと考えたら連絡こなくて当たり前かと思った。
そういう細々としたことをいくつも気にし出したら、はっきり言って何もできなくなる。
自分で考えた時に、そもそも連絡が欲しいなどと思っている自分の希望そのものが超ハードル高いことだったんじゃないかと思った。
色々無理だな、難しいな…、とか考えると、気持ちも暗い部分が顔を覗かせる。
私は何をしているのかという話だけれども、大きなオフィスの中に自分の身を置いてみて、当時のことは本当に稀すぎることだったんだと改めて知った。
オフィスの大きさも適度な小ささと適度な大きさを兼ね備えたちょうど良い大きさで、みんながみんな誰さんなのかわかるぐらいの規模だった。
コソコソ隠れるようにして見ていてもバレない距離感を保ちつつ、反対に視野に十分入る空間の大きさで、大きすぎず小さすぎずベストな大きさの中に自分の身を置いていた。
携帯の着信音が耳に入るぐらい、電話がかかってくればその声が聞こえるぐらいの広さだった。
今のところは広すぎて(50M走なら普通にオフィス内で開催できる)、何もかも遠くて大きすぎる。
当時の仕事は、どういうわけか私は最後まで社内メール無しで対応されていた。
無くても困らなかったし、セクハラパワハラネット研修みたいなのは教育係の人のメールに届いたものを一緒に見てやる程度で、本当に困り事は何もなかった。
時々思う。
もし私が当時社内メールを与えられていて、それを使える立場にあったのなら、私は見えない電子メールを使ったかもしれないけれど、見える手紙やメモを残すことはしなかっただろうなぁと。
手紙だって何を書いていいかわかっていたわけじゃないけれど、少なくとも何百通と色んな種類の手紙を手書きで書いてきたから、手紙を書くことそのものに抵抗はなかった。
昨日も昨日で、会計監査の資料を友達に送るにあたり、一言お礼の手紙を書いて同封した。
そうやって普段から書く習慣があるから、そういうことに慣れてはいるものの、それでも電子メールがあるなら形の残らない電子メールで用件を伝えたんじゃないかな…と思う。
そういうものを相手に形として残すのは、正直な気持ち、気乗りはしなかった。
相手も私を気に入ってくれてるとかならまだしも、そうではない人に形あるものを手元に残すとはいかがなものかと思った。
だけどあの時はそれしか手段がなくてそうなった。
そういうことも、イレギュラーながら、そういう組み合わせがその時にはあって、その時のベストだったんだと知る。
手紙やメモの行方は知らないけれども、生涯で一度きりの形あるものが行き渡ったということで良しと思う気持ちもあれば、そんなのいつまでも手元に置いておかないで燃えるゴミの日にゴミとして出してきちんと他の人の目に触れないようにしてねとも思えば、最初はどこでどんな気持ちでそれらに目を通したのかなと思ったり、色々思う。
もうどの時も二度とは戻らない。
後悔でもない、絶望でもない、不安や心配でもない、言葉にはできない気持ちが去来する。
今の広いオフィスに身を置いて、色々勝手の違う中にいて、その景色の違う世界にいる自分を見て、いつの時もその瞬間にしか存在し得ないことを痛感する。
広いオフィスにきちんとした日本企業。
その人の毎日もこんな風なんだろうかと想像する。
自分が色々場違いだったんじゃないかと思う回数がたくさんある。
日本のきちんとした企業というのは、本当に目を見張るものがある。
今の職場がおそらく一番その人のいる業態にかなり近いと思うけれども、そこにいると私というのはずいぶんと周りとは違う感覚なんだろうということを思い知る。
私は自分の無知さや社会性の欠如が色々と自分の身を助けたように思う。
当時の私は社会的な常識でも社会人としての適切なふるまいでもなく、自分の中から湧き出る意味不明な衝動に基づいて動いていた。
理性とか社会性とか、本来遵守するものを飛び越えて、自分の気持ち最優先で、そうすると決めたのなら他は全部二の次三の次となった。
今いる世界にいて、そんなことがどれだけ有り得なくて、逸脱していて、異常な状態なのかを知った。
私はそれを魂の衝動だと思っているけれども、その衝動に従えたのは、私の無知さと社会性の欠如がなければ絶対に起こり得なかったとわかる。
今のところにいて、そんなことしようなんて絶対に考えないし、そうしたことがどれだけおかしなことなのか今ならわかる。
あの時にできた色んなことは、あの時にしかできないことだった。
それをますます自分の中で感じるようになった。
今黙々とする作業的な仕事が多いけれども、そんな中で色んなことが事件簿のように発生する。
パソコンがありえないエラーを起こすとか、社内で迷子になるとか。
そういうことでも自分の中のあらゆる細胞が「ヤバイ」となって驚くのに、だから表面は涼しい顔して対処していたとしても、実際は全く違う。
当時のことは、相手からしたらちょっとした事件簿ではなく、何がどうしたらそんな訳の分からないことが起こるのか?と言いたくなるような、そういうものだったのかもしれないなぁと初めて思った。
そういうものを第三者が発生させて嫌でもそれに付き合わされて、そんなのに巻き込まれたにも関わらず、その人はそこに居ざるを得なかったからそこに居たそのことが突然ものすごくありえなかったんだと今さらながらに気付いた。
色んな気持ちを抱きながらまた仕事中に頭のストレッチと休息を行うと思う。
仕事中に事件というか不具合的な非常事態を体験する時の気持ちを今度は想像してみようと思う。
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