2019年7月3日水曜日

eat LOVE ⑸ 扉びらき

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)











ーー扉びらきの時間ーー

【ノムのメールより】
〜eat LOVE邸合宿3日前〜


ホロスコープとペンデュラムのやり方、ぜひ! ご教授お願いします!
手に入れたものの、ぜんぜんまださわっていなくって、
ぶっしーがやってきてくれることになったから、
そのときに、ぶっしーにその扉びらきに立ち会ってもらおう。
そんなことを思ってるのでした。勝手にすみませぬ。

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色んなことが濃密すぎて、ノムのペンジュラムの扉びらきに立ち会ったことが、すっかり記憶から抜け落ちてた。

今回のeat LOVE邸合宿のメインイベントの中の1つじゃなかったのか!?というくらいに重要ポジションにあったのに、こういう時の私の忘却力たるや計り知れない底力を発揮する。←こんな底力は要らない( ̄∀ ̄;)。

ノムに突っ込んで聞いてないからわからないけれど、こういうのってすごい不思議なもので、「手に入れたものの、ぜんぜんまださわっていなくって」ということが起こる。

ノムが触らなかった時、私がまさかeat LOVE邸に足を運ぶなんて思っていなかったと思う。

私だって、ノムが誕生日にプレゼントされたペンジュラムを使ってないとか、ノムが言うまで知る由もなかった。

だけど、天の采配的な必要性は、「なんとなく」の感覚を私たち人間にもたらして、ちなみになんとなくの後は「なんとなく今じゃない」とか「なんとなく気が乗らない」とか、まぁ私を例にすれば得意の「先延ばし」的なことになって、それで先延ばししたりやらなかったりする中で色んなタイミングが揃って、それで本当に必要なことがドンピシャのタイミングで起こる。




私は今回の扉びらきの立ち会いをとっても楽しみにしていた。
(なのに忘れるという暴挙…)

ノムに最初さらりと打診された時はとても簡単に返事をしたけれども、後になって「扉びらき」なんて一生に一度しか訪れない機会なんだと気付いて、そう思ったら俄然テンションが上がって、一度はメモなんかも取り始めた。

ペンジュラムを日常使いするのは珍しくなくても、そのペンジュラムを初めて使うのは一生に一度しかない。

なんとなく触れるとかじゃなくて、本当に「あなたを使います」宣言をして使い始めるのは一度きり。

そんな超貴重な時に立ち会えるなんて、私は選んでもらえた嬉しさでいっぱいだった。

1つ前のブログは、一部をカットしてノムのメールを載せたけれど、本当はこんな風に書かれてあった。


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それからなんと、ペンデュラムを手に入れたよ!

あれから、カレにぶしまたさんの話をけっこうしてて、もちろんペンデュラムのことも話していて、
なんというか、ぶしまたさんのペンデュラムをする姿が、とても格好良かった!のだよね。

自分ではわからないだろうけど、
すごーく、いい顔というかムードをしていたし、
ペンデュラムの扱い、向き合い方? 関係? が、とても神聖さをはなっていて、
so cool !! って感じた。

おかげで、ぼくもやってみたいってなって、
ある夜、延々とペンデュラムの画像をみまくって。
これいいかも!って真鍮のがあって、買っちゃおうか、と思いつつも、
なんだかGOが出せず、そのうちに、自分はもたなくていいのではないかと落ち着いて忘れていたら、

カレが大家さんに、ぼくのことを聞かれたらしく、
けっか、ちいさい水晶のペンデュラムが誕生日にぼくのもとへやってきて、
(正確にはペンデュラムみたいなペンダントらしいんだけど)
めちゃくちゃびっくりした。

そこでまた、ぶしまたさんのことを思い出し、
なんだろうなあ、このつながっていく感じ。すごいご縁だわ。
と、なっていたのでした。

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また別の時にも
「ぶっしーのペンデュラム姿はcoolだったよー。
真剣に対峙しているというのかな。
目をこらす、耳をすます、そういう姿勢。
でもね、そういうものだろうと思う。」
とノムは再度教えてくれた。

これは本当に嬉しい言葉だった。

何人かから指摘されたし自分でも自覚しているけれど、私のペンジュラムの扱い方は本当に普通過ぎて、一歩間違えると「テキトー」と言われかねない扱い方をしている。

使う前に深呼吸とか瞑想なんて一切しないし、使い終えてもまた普通だし、話途中にする時なんて話聞きながらもしくは喋りながらそれと同時進行で使うし。

さすがに、ミッチーの出生時間を出した時はもう少しきちんとしたけれども、そうでもない普段の時なんかは、私もテキトーだと思う。

だから、ノムが言ったようなことを言われたのは、本当に今回が初めてだった。

そして、そんな風に見てくれているノムから、ノムが初めてペンジュラムを使う扉びらきの時に立ち会って欲しいと言われるなんて、ものすごく光栄で誇らしいことだった。

だから二つ返事で了承したし、そうでなくてもホロスコープとペンジュラムを組み合わせる方法をノムも知りたいだろうと思ったから、良かったらそれは会った時にやり方をちゃちゃっと伝えるとその前に言っていた。

それこそ、ホロスコープとペンジュラムの組み合わせ技は、5月に銀座でお茶をした時に実演をして、ノムもそれを興味深く見ていたし聞いていたから、だからやり方は簡単だしすぐにできるから、そのやり方だけ伝えたらあとはいくらでもノムが応用させるだろうと思って、それで話を振ってみた。

今ノムのメールを読むと、「すごいご縁」とか「つながっていく感じ」とか、未来予測みたいな言葉が並んでいるのに気付いた。

本当にそうだと思う。

で、そんなにも重要な瞬間だったにも関わらず、記憶ごと抜け落ちるというすごい技を発揮して((((;゚Д゚)))))))、それでさっき1つ前の記事を書いていた時にようやく思い出した次第。




ミッチーとレイさんが夕ごはんを作ってくれることになって、料理しない食べる専門のノムと私は時間を得た。

「アトリエ見る?」ということで、ノムたちのアトリエに連れて行ってもらった。

距離は徒歩20歩いかないぐらい。

アトリエは本当に「芸術」に携わる系の人のアトリエだった。

着いたら、ミッチーがミシンで何かを縫っていたことにも驚いたけれども、ミシン云々より私はてっきりミッチーはもうごはんを作るとか買物に行くとかしてるのかと思ったから、ミッチーがいたことに驚いた。

ちなみにいつのまにかミッチーはいなくなっていた。

アトリエではノムの次の個展の絵たちを見せてもらった。

あと、ノムからもらった絵を新潟から持って行って、それをアトリエでノムともう一度見てみたかったからそれもした。

あとは、ノムにリクエストしていた本(『光の書』)を見せてもらって、猫ちゃんも途中でやってきて…、とそんな風に過ごしていた。




ペンジュラムの扉びらきの話に入る前に一言私のつぶやきなどを。

何せノムと出逢ったのは占星術の講座で、私はノムも含めてクラスメイトたちがどんな背景の人たちなのかは何も知らずにいた。

(かなりな余談だけど、クラスメイトたち本当にみんなすごい人たちが多くて、他にもガラス作家さんとか、億単位のお金を動かす金融の人とか、(推定)年令的には還暦近くの人で喫茶店オープンとか、バリバリのキャリアウーマンの人とか、ハワイに移住経験のある人とか、モデルさんとか、とにかく普通には出会えないご職業や体験をお持ちの方々が多かった!)

占星術に関してはみんな私含めて似たり寄ったりのスタートだったから(すごい人たちももちろん中にはいたけれども)、その感覚で付き合い、さらにノムの経歴なんてまず見ることもなかったから、今回個展の案内をしっかりと見て、ぶったまげた。
(冒頭のリンク先が個展の案内)

ノムの頭の良さとか人とは違う良きところとかは気付いていた。

本人にも直接言ったことがある。(ちなみにこれは後半の記事のどこかで書く予定だけど、ノムは自分の凄さや特異なところに対しての自覚が恐ろしいぐらいに薄い。)

だけど、ノムの経歴を見て、まさかそんな超すごい人だとは知らなくて、本当によくぞ私と知り合ってくれました!!!と大真面目に思った。

その紹介の中にある
【「ゼロは最強」(TAKAHIRO 著 光文社)】
をクリックして、腰を抜かした。

「この本、もしかしたら本屋で最新本とかで出てた本と違う!?」と思ってクリックしたら大当たり。

そういう話題本の構成を担当するって、絶対に当たり前じゃないし、実力なきゃ無理だよね?と思う。

話題本なのは結果そうなったというものでも、少なくともその可能性を秘めた本作りにノムも呼ばれたわけで、本当に凄い人なんだと改めて再認識した。

その他にもノムは色々とすごいわけで、多分普通には絶対に出逢えなかったと断言できる。

接点があまりにもなさすぎるし、私からすると、経歴だけを見た時のノムは雲の上の人みたいな世界の人で、手を伸ばしたら届くとかいうレベルに全くない。

占星術講座ももちろん大きかったけれども、私とノムを引き合わせてくれたのは、ミッチーとレイさんの存在も大きく関与している気がするし、そしてペンジュラムもそれと同じくらい大きく関与している気がする。

興味ある人は良かったらノムのブログの「comment」と書かれたコメント欄をクリックして見てもらうと、1年前よそ行きの顔をした私「武士俣」とノムがやりとりした記録が出てくる。

ノムのコメントを読んだはずなんだけど全然記憶がなくて、今回読んですごく素敵なことを当時から言ってもらえてたんだと改めて心がヌクヌクした。

「講座のお仲間の中で、
あんな風に一緒に帰った方はまだほかにいなくって、
その稀有なるお一人の武士俣さんと、
このような形でつながったことにとってもご縁を感じます。」

当時からきちんと縁をもらえていたことに気付いていたノムのコメントにも、今ごろ、それこそeat LOVE邸に行った後に初めて知った。

何をどうしたらそんなすごい人に私はペンジュラムの扉びらきに立ち会って欲しいなどと言われるんだろう…。

人生七不思議の一つに数えられる。




扉びらきの時のこと。

自然光がたくさんは入りにくいアトリエの中でも、さすがにそろそろ夕暮れ時だろうことはなんとなくわかった。

私は迷信とかはそこまで信じる方じゃないけれど、さすがに自然の石でさらには無意識の領域の情報をキャッチするペンジュラムは、太陽が空に出ているうちに扉びらきをしてあげた方がいいだろうと思った。

過去に会った霊能者の人2人が口を揃えて「明るい時間と暗くなってからの時間では、空気が変わる」と言っていたから、もちろん暗くなってからの時間は霊障じゃないけれど、霊のいたずらなんかも増えるから、そういう時間帯に何か危ないことをするのは勧められないとキリッと言われた。

それが頭にあったから、ノムに暗くなる前に始めようと声をかけた。

っていうか、「扉びらき」ってそもそも何だ?と思っていたことにその時ようやく気付いて(苦笑)、しかもきちんと正規にペンジュラムの使い方を学んではないから、私の場合は超がつく我流なわけで、何をしたらいいのかあまりよくわかってなくて。

だから、最初に私がペンジュラムを見つけたお店でやったように、YES・NOのサインの確認とか、本当にそんな感じの私が知ってることをノムに伝えた。

ノムは1つ1つを喜んで聞いてくれて、そして聞いたそばから早速実践に入っていった。

ホロスコープとペンジュラムの組み合わせ技も、出生時間の調べ方も伝えた。




ここからは私側の心にあったものを話したい。

私は今回何が自分のことで嬉しかったって、そうした専門的な情報を快くノムに伝えられたこと。

そして伝える時に全幅の信頼をおいてノムに伝えられたこと。

若干テングにならないように話したいけれども。

自分の資質もそうだし、占星術やペンジュラムの知識もだけど、色んな人たちと話をしてみて感じたのは、私はそれらを伝える時に相手から一定の返しが欲しいことに気付いた。

ものすごく悪い言い方をすれば、自分がぞんざいに扱われると私は異常に腹が立つことに気付いた。

これは私側のこだわりだけど、私はペンジュラムにしても占星術にしても、変に特別なものにしたくないと思っている。

それを崇められたりとかやたらと崇高なものにされたりとか、そういう感じが好きじゃないから、なるべくさらっと伝えたりとか、重くならないように実は相当気をつけてる。

それは私のコミュニケーションスタイルだから、それも多分一因なんだろうとは思うけれども、私が何せ普通の会話のように話したりするから、相手もまた実に軽く取ったり、全く敬意が払われてないことが伝わってきたりする。

そういうことがこの1年ぐらい続いていた。

私もまた望み過ぎなところがあるけれど、そういうことを軽く受け取ることを実はされたくない。

そういうことに知識とかない人なら私は全然許せる。(ちなみに、専門知識がない人たちの方がきちんと丁寧に受け取ったり扱ったりしてくれる率が高い。)

私がいつもガッカリしていたのは、知識ある人たちからそれをされていたから嫌だった。

何で人の資質をそんなに軽々しく扱う?、といつも怒りみたいなのを覚えていた。

適当にいつも流していたけれども、今も普通に思い出せるぐらいだから、本当に嫌だったことがわかる。

話していると必ずわかる。

「知識だけ欲しいんだなぁ」って。

多分本人も無意識だから本人さえ気付いていない可能性も高いけれども、そうした専門的な情報を渡した時の相手の反応を見ると、私側は少なくともわかってしまう。

私じゃなくて私の持っているものが欲しいんだって。

これは本気で萎える。

私はなりたくてもなれるだけの財力にもパートナーにも恵まれたことがないからわからないけれど、バリバリのビジネスマンたちが奥さんからお金だけを期待されてしまう、お金だけを必要とされてそれ以外は必要とされないみたいな時の気持ちに近い気がする。

自分っている意味があるのかな…?となるあの気持ち。

自分の存在意義がわからなくなって、例えばお金をもし持っていないとしたらそれでも自分は相手にとって必要とされたり愛されたりするんだろうか…?みたいな気持ち。

ペンジュラムにしても占星術にしても他の人の潜在意識や魂から情報をキャッチしてしまうことも、相手の人からそれだけを求められると本当に辛い。

決してそんなモロにわかる感じでは来ない。

本当にもしかすると、相手はそんな気さらさらなくて、私と個人的に付き合いたいと思ってくれてるだけかもしれない。

でもわかってしまう。

それは、さりげなく口から出た言葉の中に「私はあなたの持ってるものを軽々しいものと見ていますが、私が必要な時はその知恵をください」というニュアンスがある。

こんなどストレートにはもちろんやってこない。

だけど、相手が私の持ってるものを軽々しく捉えていたり、それを気安く自分の都合に合わせて利用しようというのが、どうしても私側には伝わってしまう。

そうした経験がいくつか続いたから、私はますますそうした専門的なものになると身構えてしまうようになった。

これは相手を信用してないとかいうことではなくて、信用したいのにそうではない結果が返ってきた時に自分がものすごい傷付くから、そうなりたくなくて伏線を張る。

私はこれだけは自分が譲れないポイントなんだとわかる。

すごい些細なことなのに、私の場合、全部を無くしてしまいたくなるぐらい、これまでのすべてが消えてしまうぐらい、小さなボタンの掛け違いがすごい破壊力でやってくる。

そういう背景が私側にあったから、今回ノムのペンジュラムの扉びらきに立ち会った自分を見て本当の本当に嬉しくなった。

これまでの傷が癒されたと言ってもいい。

私にははっきりとノムが、自分のためと自分と縁ある人たちのためにペンジュラムを使うことは、ノムとの普段の会話や行いでわかった。

変な動機とか、変な依存心とか、そういうのが本当にないのがよくわかった。

さらに、ペンジュラムとホロスコープの合わせ技は本当に使えるし、生きるヒントも引っ張ってこれるから、ノムがそれを必要とする人に渡すだろうことも想像できた。

方法はあくまでも方法でしかなくて、それを発展させられるかどうかは本人次第になる。

ノムはそれを自分で発展させることも、それを楽しみながら試行錯誤することも、本人が何も言わなくてもそうするだろうことはわかった。

こういうことは普段言わない。

自分が何様かと思うし、自分が偉いわけでもないし、何その上から目線!?みたいにも思う。

だけど、こういうことは言葉にしなくても感覚でどうしても伝わってしまうことがわかったし、その伝わってしまったことで私は自分が嫌な思いをするのもわかった。

そして、それゆえに変な壁を作ったり、防御するための処世術みたいなものも使いこなすこともわかった。

ところが今回はそんなこと一切しなかった。

そういうものを全部取っ払って、何も防御服を着なくても私は安全だとわかっていたから。

専門的な知識に関しても、渡さない方が罪になるかもと思ったぐらいに、自然とそのまま知ってることをノムに言った。

ノムがノムだからなのもそうだし、これまでのやりとりのおかげもあるけれど、とにかく全幅の信頼を置いてノムに自分が持っているものをさっと差し出せた。

計算とか信頼できるできないを吟味するとか一切なくて、野生の勘並みにノムにそのままペンジュラムのことは伝えられた。

この自然と湧き上がる信頼感に、私の心は満たされまくりだった。

ただただあるがままを差し出せばいい。

そして、その行為が安全だと肌レベルで知れるというのは、本当に凄い安心感と安らぎがあることがわかった。

その時の私は、私でいるだけで良かった。

取り繕うことも身構えることもなく、普段のまんまの自分だった。

その自分で自分以外の誰かとやりとりできることの素晴らしさと言ったら、人生の中でも相当上位のしあわせに数えられる。

その時点で知識はたしかに私の方が持ってはいても、それ以外の部分はノムの方が断然持っていて、本人は無意識のままそれを私に贈り続けてくれていた。

「僕、そんな大層なことはしていない」とか言い出しそうだけど、本当にあの時というのはそういう空気がずっと絶えず流れ続けていた。

この後、私は自分がノムに色々と共有した行動が大正解だと知る。

ノムはまずその後1時間くらいして、ミッチーとレイさんと4人で集った時に、早速知り得たことを披露、活用していた。

そのこなし方たるや、本当に驚くぐらいに完璧で、そして何より楽しそうだった。

なんならノムはそのうち、残りの3人はまるで空気状態で、自分とペンジュラムだけの世界にどっぷりとハマっていった。

一晩明けると、今度は自分の亡くなったおじいちゃんの出生時間を調べ上げていて、それと自分のホロスコープの重なりについて熱く語っていた。

いつそんな時間あったの?っていうぐらい、すごい使いこなしていた。

さらに私が新潟に帰ってくると、レイさんとペンジュラムの話になって、何が要点かもわからない私のまとまりのない話からしっかりとポイントを絞って、それをそのままレイそんに伝えたんだ〜と報告が来た。

よくあんな説明でそこまでわかったね!?、何か翻訳機能を体内に隠し持ってるの?ってなぐらいに完璧すぎる説明をレイさんにしていて超驚いた。




ノムのペンジュラムの扉びらきは、終わってみれば、ノムのためというよりも私のためにあったんじゃないかと思ったほど、私自身がものすごく癒された。

自分の持っているものをそのまま必要とされたり、ぶっしーのやり方を知りたいと直接言ってもらってはないけれどすなわちそういうことを求められたり、私が言ったことをすぐにその場で活用してくれたり、あれから1週間以上経ったけれどノムは相変わらず色々発展させてたり。

過去にしてきた嫌な思いも無駄ではなかったと思えるほど、私は今回めちゃくちゃ癒されてる。

思い起こせば、毎回私は、何か受け入れ難いことが起こると「自分に何かが足らなかったか至らなかった」とか「色んな考え方があるから(相手のことは否定できない)」とか、そんな風にして折り合いをつけようとしていた。

でも、ノムとやりとりして、気付かされた。

相手も悪くなかったかもしれないけれど、私も決して悪くはなかったということ。

それこそお互いに合う合わないの問題でしかなくて、合わないのに自分が間違ってるのかも…なんて自分を否定しなくても良かったんだと知った。

なぜならノムに伝えたことや教えたことは、これまでと何ら変わらない内容で、今回だけが特別ではなかったから。

中身は何も変わってないのに私の感じ方が全く違う。

私が私のままで、ノムももちろんノムのままで、互いがそのままなのにカチッとパズルがはまるみたいな一致感があった。

それは私が夢にまで見た光景であり在り方だった。

自分を曲げなくていいからエネルギーも真っ直ぐだし、今回はノムの方がエネルギーの受け取り手だったわけだけど、ノムも自然体で真っ直ぐに受け取っていて、どこにも歪みやいびつさがなくて、すべてがそのままでとてもきれいなエネルギーが流れていた。

こういうことが本当にあるということを目の当たりにして、私は癒しと希望を得た。

ノムを基準にしてしまうと私は怖くなってしまうけれども(苦笑)、だけどそういうやりとりも可能なんだよとノムが見せてくれた。

人に対してビビリな私は、そのカチッと合ったノムを基準にすることは怖くてまだできないけれども、少なくともその感覚は一生忘れないぐらい深く自分の中に刻まれた。

私からして、ノムとの間に起こったみたいなカチッと誰かとはまることは高望みなんじゃないかと思い込んでいたもので、望むことさえはばかられるものだった。

扉びらきの前までの私なら絶対に言ってたよね、と思う。

「だってそんなこと望んだって現実にはありえないよね」とかなんとか。

扉びらきはノムが提案したことだったけれど、結果的にそれを必要としてたのは本当は私の方だったのかもしれない。

自分がそのままでいることを許されるというのは、ものすごい安心感をもらえる。

それは想像すらできない領域だった。

しかもまだこれは序の口で、この後ミッチーとレイさんも加わって、大人の合宿のような、場所を変えて心身を癒すリトリートと呼ばれるような、そういう至福の時間を過ごした。

「至福」とか「多幸感」という感覚があの場所での空気とあの場にいた3人の大人の人たちが醸し出している空気に、ピッタリと合う言葉だと思う。




タイトルを「ペンジュラムの扉びらき」にしようと当初は考えていた。

でも、シンプルに「扉びらき」に変更した。

なぜなら、たしかに大元はペンジュラムの扉びらきだったかもしれないけれど、そこに立ち会った私にも私の感覚が開いていく扉びらきがあったから。

そして、それは私にとってとても大切な瞬間で絶対的に必要としていたことだった。

だから、色んな意味を掛け合わせて「扉びらき」に変更した。




[写真]
・アトリエの天井に吊るされていたハート。今回の話にとても合った飾り物、象徴みたいに感じる。

・あんくん(猫くん)の部屋。あんくん一匹だけがこの広いスペースを自分の縄張りにしている。(他の猫ちゃんたちの猫密度とは比べものにならないぐらい広い場所を占有)

・3枚の絵は、両脇2枚の絵を新潟から持ち込んで、同じシリーズで撮影したもの。

・本『光の書』よりも、そのためのノム手作りのキットよりも、まるでメインのようだったあんくん。

・よくよく見たら、自分も作品のごとくうっかり写り込んでしまっていたことに気付いた写真(風景に馴染んで違和感なし)。

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