2019年7月16日火曜日

eat LOVE ⑾ 愛になる。

(↑今回の主人公カップル:ノムとミッチーの日常)














ぽんぽん。

ノムは右手で運転席のミッチーの手なのか足なのかをぽんぽんと軽くたたいて「行ってくるね」と挨拶した。

後部座席でそれを見ていた私は、一瞬だけ流れた甘い空気に1人で超ニンマリしそうだった。

何せ相手はミッチーだから、ミッチーはそれに対してうんともすんとも返事がなくて、そのミッチーの変わらない姿も良かった。

ここでミッチーが笑顔を向けて手を振って「いってらっしゃい」なんて言ったら、もはやいつものミッチーじゃなくなってしまう。

私はこのミッチーの読めない感じにノムは実は安心感を覚えてるんじゃないかと思っている。

だってこれこそがミッチーだし、素の姿バージョンだと思うから。

私は嬉しかったけれども、ミッチーは少なくともノムにはしないだろう小さな気遣いを私にはしてくれていた。

でもそれと同じことをミッチーがノムにしたら、何かいつもの2人ではなくなってしまう気がする。

もう少しミッチーに言葉でのやりとりをノムは万年求めているのは知っているけれども、もしそれを普通にミッチーがしだしたらノムは逆に慌てるんじゃないかと思う。

いつもヤキモキしてるノムに、そんなノムにおかまいなしのマイペースなミッチー。

2人の日常は、本当に『eat LOVE』というサイトの名の通り、超「愛・LOVE」に溢れていた。

私が知っているカップルを色々思い浮かべるけれど、その中で2人が一番愛に溢れている。

本当に愛でいっぱいだなと感じる。

「ミッチー愛してる」「ノム愛してる」とはたとえ言わなくても、それ以外の方法で2人はお互いに愛を伝えている。

それは見ているとよくわかる。

私、2人の家の隣りの母屋で毎日泊まらせてもらって、2人をひたすら観察して2人の様子を文章に起こすなら、空前の大ヒットとなる映画かドラマの脚本書ける自信がある。

2人の日常は本当に見ていて飽きないし、毎瞬フレッシュな感じがする。

本当に毎瞬毎瞬が一期一会なんだと知る。

同じ日なんてないし、同じ空気なんて本当は存在しない。

そのことを13年近く共にいる2人を見て感じた。




これを書いている何日か前、ミッチーが電話越しに、あまりに精神的にキツイものと向き合っているから食べられないと言った。
(↑7/16現在、すでに終わった話でミッチーは元気だと思う)

その次の日、ノムから「数日ぶりの」ミッチーのトーストだよと、チーズトーストの写真が送られてきた。
(↑土手煮チーズトーストの日)

そして今から3時間くらい前に今度はケーキの写真がきた。
(↑すでにアップした第10話を書いていた日)


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ノム:みっちーキャロットケーキ作ってた。笑

私:ミッチー、キャロットケーキ作れるぐらい、回復したってこと?
それとも、あまりに気持ちが落ち着かないから作ったってこと?
どちらが理由でも、ミッチーのキャロットケーキを食べれるノムが羨ましい!!
わかった!次は私もデザート「も」リクエストしよう!

ノム:ケーキ作れるくらい回復したって感じがするな〜。ピークは過ぎたって思う! これから蝕の満月がくるけどもねえ。笑  いいね、デザートのリクエスト😋😋😋

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相変わらずノムはミッチーの空気から察してるようだった。

私が質問した理由は、ノムがいつだったか、ミッチーはメンタルが乱れたりする時は「刺繍してくる」とか言って作業を始めることがあると言っていたことがあって、それは私的に「無になりたい」のかな…と思って、それならキャロットケーキもミッチーなら回復の意味も気分転換の意味も両方あると思って、それで聞いた。

そして、ノムは相変わらず裏切らない返信をくれた。

空気で読むということ 笑。

そして、私はミッチーの料理は、ノムへの愛がいつもその中に含まれていると思う。

夕ごはんの時にミッチーに聞いた。

「ミッチー、誰かの作ったごはん、食べたくならない?」

「うん、食べたくなるよ」

「ミッチー1人の時は何食べてるの?」

「えー、適当だよ。こんな風には作らない」

ミッチーはたしかに料理の腕も素晴らしいし、何でもオクターブ増しにおいしく作れる。

レパートリーも普段の食材の使い方も、本当に毎日毎日ごはんを作っている人の手慣れた感はすごいするけれど、やっぱり毎日のように作ると誰かのごはんが恋しくなるし、自分以外の味のごはんを食べたいのも一緒だと思った。

しかも1人の時は適当だと言う。

じゃあ何でミッチーが毎日のようにごはんができるかって言えば、それはノムがいるからで、ミッチーもそうやってノムに気持ちを見せてるんだなぁと思った。

ノムがミッチーと付き合う前か付き合ってすぐかの時のコーヒーのエピソードを、eat LOVE聖地から最終回の占星術講座に行く時の電車の中で教えてくれた。

「部屋でコーヒーをミッチーが用意しだしたんだけど、それがさぁミッチー自分の分だけ淹れて僕の分ないの。ミッチーに聞いたら『えっ?飲みたかった?』ってあの調子で聞くんだよね。僕本当にビックリしてさ…」

(書くと長いから割愛するけれど、この話とホロスコープの話とがこの後絡まっていく。だからノムは文句として言ったわけではなく、その先のホロスコープの話をしたくて出した例だったと記憶している。)

ミッチーは基本自分の分だけ用意するのがベースにあった人みたいで、そのミッチーがこれだけ長い年月、日々のごはんを作るって、これは愛がなかったら無理だと私は思う。

自分も食べたいから作るってだけではそんなに日々続かない。

だけど、誰かと食べる、それも大切な人と囲む食卓であれば、それが気持ちの上でのモチベーションになってくれる。

しかも、ミッチーはパン焼いたりちりめんじゃこを手作りするぐらいだから食べ物に超こだわりがあるのかと思えば、子どもの頃自分1人だけ赤味噌がダメで、だけど家族はみんな赤味噌でミッチーだけ別の味噌汁だったと言うから、お母さんミッチーの分だけ別に毎日作ってたの?と聞いたら、いやあさげとかゆうげとかあるでしょ、あれを飲んでたよって教えてくれて、それでミッチーが基本何でもいける口だと知った。

だから、ミッチーはそんなにこだわりありまくりというのとは違うと思う。

作るのも好きは好きだと思うけれど、それだけじゃ作れない。

やっぱり原動力はノムだと思う。

ミッチーのごはんの原動力。




【野村さんのパートナー】

ノムのことを野村さんと呼んでいた頃の話。

去年のある夏の回の占星術講座の後のカフェタイムの時だった。

講座の後は、講座建物から徒歩3分くらいのカフェに毎回移動して、先生を囲んでの質問タイムになる。

その時にどういう流れか、ノムは先生の質問に答えながら「僕ゲイです」とカミングアウトした。

そしてその時に「長く付き合っているパートナーがいて…」と、ここで初めて私はミッチーの存在を知った。

この時のことを私はとてもよく覚えている。

ノムはまるで「僕都内に住んでます」ぐらいの感じで「僕ゲイです」と言っていて、普段から普通にこうやって言ってるんだろうなぁと思った。

ノムは占星術講座の中の唯一の男性受講者で、不思議な空気を放っていた。

私の普段の癖で男の人が結婚指輪をしているかどうかを見る。

ノムのことも確認したとは思うけれど、私はノムの指輪の有無を確認したことは覚えていない。

代わりに、不思議な空気感の方が強く印象に残っている。

格好やリュック愛用してるところを見て、フリーのお仕事か休みの日に来てるだろうことは予想がついた。

先生が「プロのライターさん」と紹介していたけれど、それよりも私の中で残っているのは先生が「野村さんのホロスコープの読み方はきっちりと基礎を全部丁寧に読んでいて、そしてそれを余すことなくわかりやすくまとめているところです。野村さん、占星術をこれまでどこかで学んだんですか?」と聞いていたことだった。

先生はノムの宿題を大絶賛していて、クラスの中で内容を読み上げた。

本当にキッチリとしていて、格好とは真逆の感じがしたから、この方はとても真面目で理系の頭の人なのだろうと思った。

男の人なのに「ザ・男」という類いの空気感が若干薄めで、良い塩梅に力が抜けていて、なのに占星術の読み解きは男性的で、不思議なバランス感覚の持ち主だとは思った。

そうした印象のままノムがゲイでパートナーがいると聞いて、私はお互いに超独立している者同士を勝手にイメージした。

ベタベタしないドライな2人、なんだけど信頼関係バリバリみたいな、そんなのを想像した。

その日の駅までの帰り道、初めてノムと並んで歩いて、その時にパートナーのことを聞いた。

今思うと、ノムはミッチーと付き合う前をもしかしたら回想しながら話していたかもしれないなぁと思う。

パートナーとは10年以上の付き合いで、ゲイでは珍しい長年カップルだと言っていた。

自分もそうだったし相手もだけど、この関係を始めるのにとても慎重にゆっくりと進めていたと言っていた。

この時の私は、まさか隣りの野村さんが幽体離脱とかしちゃう人で、そのカレがごはん作りを日常的にして、2人でたくさんの猫ちゃんと一緒に住んでるなんて全く想像していなかった。

あくまでも、あのキッチリした文章を書くキッチリな野村さんとそのカレもキッチリなんだろう…とだから2人で長く続いているのかな…なんて思った。

まさかキャロットケーキを見て、「回復したと思う」とかパートナーの状態を予想する日常なんて、一切思いつかなかった。

でもあの頃からノムは「パートナー」の話になるたびに必ずミッチーの姿を思い浮かべながら返答していたと思う。

それをもっと感じたのはそのまた何回か後の講座後のカフェタイムの時だった。

先生からノムは質問されていた。

「野村さんのホロスコープはこれこれこうで、なので色んな人たちから自分の(健全な)境界線を越えて、自分のテリトリーにガンガン入って来られるみたいなことはないですか?」
みたいな質問をされていた。

ノムの答えはこんな風だった。
「前はそうだったけれど、パートナーといるようになってからだいぶその辺りが改善されて。僕のパートナーはすごく静かで、僕1人だけなら相手もガンガンと来ても、パートナーが隣りにいるとパートナーが抑制力になってくれるのか、みんなガンガン来なくなるんですよね。どの人もパートナーの前ではガンガン入ってこれないというか…」

これが決定打となって、ノムのパートナー=「強面な超いかついダンマリ兄ちゃんみたいな人」という、単なる妄想が暴走したイメージをミッチーに勝手に持った。

そして相変わらず不思議だったのが、ノムはまるで最近付き合い始めたかのように、パートナーのことを口にする時はいつもとても嬉しそうだったこと。

強面の兄ちゃんでもノムの前だけでは違う姿を見せるのかもしれない…と私の妄想はとどまるどころを知らなかった。

これは言葉としては正解だった。

でも私が思い描いた「違う姿」とは180度真逆のタイプの違うの方だった。

私は勝手に、強面の兄ちゃんは、普段はガテン系みたいな怖いオーラを発していても、ノムの前だけではやさしい甘えたような態度になるのかと思った。




年が明けて、ノムとは私のブログを通じてもう一歩近付く感じになった。

その頃はまだノムとお茶をするなんて思ってもいなかったから、5月の講座の後にノムにお茶に誘ってもらえるなんて想定外の嬉しい出来事だった。

この時も、私の中で相変わらず「強面な兄ちゃん」イメージは健在で、ただノムと話していると2人の親密な間柄が長年一緒にいるとは思えない新鮮さを常に感じるようにはなった。

お茶の席でのことだった。

ノムが「カレの出生時間がわからないから正確なホロスコープが出せないんだよね」と言った。

そこで私がペンジュラムを使ってカレの時間を割り出した。

何が驚いたって、それを知れた時のノムの反応だった。

ノムは本当に嬉しそうに、「これでもっとカレのことを詳しく知ることができる」と言った。

私はビックリした。

5月の講座の前にノムから「講座を受けようかどうしようか迷っている」と連絡が来た。

元々、私同様、自分のホロスコープを読み解きたくて申し込んだ講座で、人のものを読むことに興味がないと言っていた。

だから中級講座を受けるモチベーションがなく、申込みをためらっていると言っていたのに、カレのホロスコープになると俄然テンションが上がっている。

今後私も誰かパートナーができたらすごい一生懸命に読むだろうけれど、ノムのその気持ちもそんな風だった。

とても10年以上連れ添ったパートナーとは思えない喜びようで、そんなにも知りたいんだと少し驚いた気持ちもあった。

その後、パートナー自作の刺繍されたトレーナーや同じく自作のオリジナルカード入れを見せてくれた時も、ノムはとっても嬉しそうだった。

強面の兄ちゃんがノムにだけさっとさりげなくプレゼントするその気持ちが嬉しいんだろうと、そして強面の兄ちゃんもさっと何かを作って「ほらよ」ってな具合にさりげなく何かをプレゼントするやさしさをノムには見せるんだろうと思った。

ノムはその銀座での素敵天空カフェの日から何日かすると、私に連絡をくれた。


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出してもらった時間でチャートつくったら、アセンダントのシンボルがぼく的にはまさに!!!!!!! だった!!
彼のことがようやくわかった気持ちになれたよ!! ありがとう〜〜ヾ(@⌒ー⌒@)ノ

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(アセンダント=ホロスコープ用語。出生時間がわからないと割り出せないもので360通りある)


この返事にもビックリした。

ノムのビックリマークの多さに「確信」度合いが表れていたし、そして何より「ようやくわかった気持ちになれた」ってどういうこと??と思った。

わかった気持ちになれた?ようやく?あれ10年以上一緒にいて日々一緒に暮らしてるんじゃなかったっけ?、と私の頭の中はクエスチョンマークのオンパレードだった。




【ミッチー登場】

ガテン系よろしく強面だけど心は繊細シャイボーイ兄ちゃんという、もう前情報からの私のミッチー像はえらいことになっていた。

シャイボーイは、ノムが泊まりに行くと決まってすぐに「ミッチー、too シャイボーイだけど、ぜひ会ってみて〜〜。」と言ったからだった。

母屋に入ってしばらくするとミッチーが登場した。

ミッチーに会った瞬間、私の暴走しまくりなイメージが即解体された。

爆破されたと言ってもいいかもしれない。

本当に「やさしい」っていうのがものすごく伝わってくる人だった。

本当に柔らかくて穏和な感じで、ノムもそうだけど、ノムの比ではないぐらいにミッチーはすごく柔らかい空気の持ち主だった。

ガテン系とか強面とか言った人、誰?と言いたくなったぐらいに私の見え方は誤りだらけだった。

シャイボーイなのはすぐにわかった。

成人男性なんだけど、どこをどう切り取っても成人男性なんだけど、少年みたいだった。

ノムもミッチーも2人とも年齢不詳な上、ドラマや映画に出てきそうな独特の雰囲気や世界観を持つ子どもの心のまま大人になった人みたいな感じだった。

子どもの心というのは、純粋無垢という意味での方。

特にノムよりもミッチーの方がその感じが強かった。

レイさんと3人で星を見に行く中年男性2人は、星を見に行くのが本当に似合っていた。

2人を前にすると「中年」とかいう言葉もなんだかおかしくて、ミスマッチな気がする。

ミッチーが隣りにいるとノムのところにガンガン入ってこない人たちの心情や、そういう時のミッチーの様子が今も私は想像できない。

ミッチーは本当に怖い空気は一切出してないし、なんとなく出せない人な感じがする。

ただ代わりに嘘も通用しないだろうから、欺瞞だらけだったり何か後ろめたいことがあったりする大人は、ミッチーの前ではタジタジになるかもしれない。

ミッチーの第一印象は、とっても良い意味で裏切られた。

そして、ノムがミッチーに夢中になるのも、常々ミッチーを知りたくなるのも、そしてミッチーの謎すぎるところをもっともっと知って理解したくなる気持ちも、ミッチーを見てものすごく納得した。

あの講座とかで嬉しそうにパートナーについて語っていた野村さんの姿がミッチーと重なった。

ノムは、ミッチーのいないところでミッチーの話をするのが本当に嬉しくてたまらなかったんだとわかった。

ミッチーはノムにとって「最愛の人」なんだとすぐにわかった。

単なる恋人とか同棲相手とかではなく、人生を賭けての最愛の人・最愛のパートナーなんだというのが、ものすごく伝わってきた。




【ミッチーとホロスコープ】

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リーディング(=ホロスコープの読み解き)をしてもらい、
あらためてカレについて考えたし、
カレにも星のことを通して彼自身の可能性みたいなことを伝えられたよ、ありがとう!

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上の文章は、eat LOVE邸お泊まりのお誘いの前にノムから来たメール。

ノムのカレことミッチーの出生時間をペンジュラムで割り出して、その時間でミッチーの生まれた時のホロスコープをノムが出した。

そのホロスコープを見て、私の中ですごく気になったことを書いてノムに送った。

何せ私の感覚だから、そしてそもそも時間が合ってる合ってないもわからないから、あとは本人がどの程度その話を聞いてピンとくるかが争点だなぁと思って、それで感想を聞きたくてノムに聞いた。

私の中ではあくまでもミッチーの感想を聞きたい程で質問したけれど、ノムからは上のような返事が来て、その後もノムの感想だけが綴られてきた。

もしかして、ミッチー、ホロスコープには全く興味ないんじゃ……と思った。

レイさんも来てくれることになったことを知らせるメールの時は、ノムはレイさんの反応も書き添えてくれていたのに、ミッチーのホロスコープの感想はミッチーの反応の記載はなし。

ははーん…(ΦдΦ☆)ニヤリ、と勝手に想像したのは、ミッチーはホロスコープに興味ないんじゃ…!?ということだった。

実際に会って4人でホロスコープの話になった時も、ミッチーはペンジュラムの時のような食いつきは一切無くて、ずいぶんと淡々としていた。

ノムが自分たちの家にiPadを取りに戻った時、「これはチャーンス!」と思って、単刀直入にミッチーに聞いた。

「ミッチーは、ぶっちゃけ、ホロスコープに興味あるの?」

ミッチーが何という言葉で答えたか忘れたけれど、「ない」と断言したことだけは覚えている。

魂とか天体の名前とか言われても僕にはわからないし、興味もない、それぐらいはっきりと答えを口にしていた。

そんなことは想定内だったからどっちでも良かったけれど、その後のミッチーが口にしたミッチーの想いが忘れられない。

僕は興味ないけれど、ノムがする分にはそれでいいと思っているし、それに対してどうこう思うことはないみたいなことを言っていた。

ちなみにミッチーは「ノム」とは呼んでいない。

私の記憶にある限り、ミッチーはノムのことを一度も呼んでいない。

だからどう普段呼んでいるのか知らない。

もしかしたら、普段も名前なしで「ねぇ」とか「あのさ」という風に呼びかけをしてから話しかけるスタイルかもしれない。

その辺りはわからないけれど(いつになるかわからない次回のeat LOVE観察テーマの1つ!)、ミッチーが自分の在り方もノムの在り方も両方尊重しているのが私にはツボだった。

ホロスコープって知らない人たちからしたら、なんじゃらほいの世界だし、もっと悪く言うと「超絶怪しい根拠なしのオカルト天体話」というところだと思う。

ノムは何か悩み事があると、『光の書』という名のスピリチュアルガイドブック的なものをよく開いているみたいだけど、2人のアトリエにあるその本にミッチーは触れたこともなければ存在さえ知らない可能性が高い。

自分たちの風呂場の前の本棚にノムの愛用書が並べられているけれど、『チャクラ』とか『ソウル(魂)プラン』とか『魔法の学校』とか、あれはミッチーにとって完全なる風景と化してるだろうなと思う 笑。

ノムは多分ミッチーを知りたくて、ミッチーが興味あるものなら自分は興味なくても一度は目に入れたり確認したりするタチなんじゃないかと思う。

でも、ミッチーは、ノムの興味あるものでも自分は興味なければ毎度華麗にスルーするのが常だと思う。

ミッチーのそうした個人主義的なところは、ノムに対して最大限発揮されてると私は勝手に思っているけれど、私はこれこそがミッチーの純粋な愛だと思う。

ミッチーはノムに何かしてあげたり気にかけたり言葉にしたりというような、いかにもノム好みな行動は多分ノムに対して気が乗らない限りしないと思うけれど(ノムの欲しい度が100ならミッチーの提供度は10ぐらいじゃないかと勝手に思っている)、その代わり全く別の形でミッチーはミッチーの愛をノムに見せていると思う。

ミッチーにとっては、ノムに何かしてあげることよりも、ミッチーが一番ミッチーのままでいることこそが、それが相手に示せる愛とか信頼という図式になっている気がする。

だから、毎朝おはようとノムが挨拶することに対して、ミッチーの返しは365日毎日違う返しなんだと思うけれど、ミッチーにとっては形としてノムご所望のおはようを言葉で返すことより、その時の自分の気持ちや感情をそのまま表現することの方がノムに対して「誠実」だと思っている節があるんじゃないかと予想している。

[参考資料:eat LOVE/DAY 10より

それから12年。ぼくは今も彼といる。
毎日おはようってぼくは彼に言っている。
彼はおはようっていったり、ちょこっと会釈するみたいにしたり、
目だけで返事してきたりまちまち。
その態度に、なにそれ、と不満がわいたり、
挨拶を交わせることに幸せをおぼえたりぼくの感情は一定ではない。
その不安定さは、彼を今日も好きという証なのかも。]

ミッチーは少なくとも私の前で難易度高い返し(無視とかスルーとか無言とか)はなかったから、ミッチーが絶対にそれをする相手は相当選んでいることはわかった。

だから、ホロスコープに関してもミッチーが僕は興味ないとあそこまで言い切れるのは、私には「だって僕が興味を持たなくても、僕とノムの関係はダメになったりしないよ」という風に聞こえた。

ミッチーはそんな風に言ってないしそんな風に考えてもないかもしれないけれど、冗談抜きで私にはそう聞こえた。

ミッチーは静かにしていても、ノムとの関係やノムにものすごい信頼を置いていると思う。

僕たちの関係はそんなヤワなもんじゃないでしょ?って。

それはものすごく伝わってくる。

だから超超超感動した、ミッチーのホロスコープ興味ないの答えに。




【恥ずかしいと思ったことない】

ノムからミッチーが20代の初め頃、3年間オーストラリアにいたと聞いた。

その話とゲイに対しての考えをミッチーに聞いた時のこと。

ミッチーははっきりと言った。

「僕はゲイであることを恥ずかしいと思っていない。生きている中で、恥ずかしいと思ったことがない」

そんな風にはっきりと言い切った。

話の前後を忘れてしまったけれど、私がミッチーとノムにとりわけ興味を持っている理由の1つは、2人の関係やゲイであることに対する考え方や姿勢にある。

これはノムには直接言ったし、その夜も私はレイさんも含め3人の前で思ったことを言ったし質問もした(記憶がある)。

私は行く前日にノムにメールした。


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ノムが【「いるよ」ってこと、ただそれだけ】って書いていたところ超良かった!!!
ほら今同性愛者の法的な婚姻関係を求める運動みたいなのがよくニュースに出ているけれど、あれに限らず、世の中にある権利主張みたいな運動に私はいつもどこか違和感を感じていて。
それが何なのかな…と思っていた。
そうなんだよね。
「いる」「存在してる」ただそれだけのことなんだよね。
こんなこと言ったら非国民みたくなりそうだけど 苦笑、たしかに少数派かもしれないけれど、どんな人も等しくこの世の中に存在していて、少数だから目立つかもしれないけれど、私は特別だとは思っていない。だって、例えばノムやミッチーは「ゲイ」という分類に属するかもしれないけれど、だって大元は好きになった人がミッチーだった、好きになった人がノムだった、それが同性だったというだけでしょ?って。例えば私が誰かを好きになるのに「相手が異性だから」そしてじゃあ「Aさんが好きなのはAさんが異性だから」では絶対にないわけで。好きになった人がAさんで、Aさんが異性だったというだけなのと一緒だと思っている。
もし一緒にして不快にしてたらごめんね。
社会的なハードルはもちろん違う。だけど、とりあえずそれは脇に置いて、単純に人と人というくくりで見たら、私はノムが言った【「いるよ」ってこと、ただそれだけ】が一番しっくりくる。
これだけ色んな種類の人たちが世の中に存在しているわけで、どんな人が好きかとかは人それぞれ傾向があって当たり前だと思う。ただその傾向が社会的権利を持っているか否かの差で、でもどの人もどんな立場の人も「いる」、ただただ「いる」、それが全てだと私は思っている。好きな気持ちとか大切な気持ちはみんな一緒だと思っている。表現の仕方とか好みの差にしか私には映らないから、だから、ノムが当たり前のように「いる」それだけだよって言った言葉が本当に響きまくった。

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ちなみにノムが「いる」と言ったのはこれ。↓


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世の中のゲイのイメージは、おそらく「オネエ」みたいなことや「マッチョ」とか、
どこか、異形な、特殊なものを抱く人が多いのではないかと思うのだけど、
そういう人ももちろんいるけど、そうじゃない、
ぜんぜん”ふつうっぽい”人はたくさんいて、むしろそういう人の方が多い。

で、ぼくらもそうだけど、男同士だからって、SEXだけでつながっているわけでもないし、
結婚ができないことが不幸でもないし、
なんというのだろう、ただパートナーが同性ってだけ(いや、それだけじゃないだろうけど)。

というか、そもそもゲイ、LGBTなどいつの時代にもいただろうし、
いるのだから、「認める」とか「受け入れる」とか、そういうことじゃないんじゃない?って思う。
「いるよ」ってこと。それだけ。

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本編とは少し離れるけれど、ここだけ私の主観とノムとのやりとりを書き記したい。

私が何でこんなにも2人の関係に熱を上げるのか。

春のドラマで一番話題になった『きのう何食べた?』がある。

ゲイカップルのごはんと日常が描かれたヒューマンドラマ。

それの感想を書いている人の文章をeat LOVE聖地を後にしたのち、私はたまたま見ることになった。

感想を書いた人は50歳前後の既婚者で成人したばかりぐらいの子持ちの男性だった。

その男性の視点は、まさにノムとミッチーを表しているなぁと思った内容だった。

その人は、ゲイカップルたちは結婚という法的な拘束力を持つことが出来ないことに触れて、それ故に自分たちの気持ちだけで繋がっていることの尊さと凄さを感想として書いていた。

ノムとミッチーもそうで、2人は自分たちの気持ちだけで繋がり続けている。

それってすごく危うくて不確定で実体を持たないどこまでも「見えない糸」みたいなものだと思う。

2人は、法的な権利の主張とかは一切していない。

もちろん、法的に何かしら恩恵に預かるとか守られるなんてこともない。

なのに2人の関係は、私が人生で見たどんなパートナーシップよりも強固で堅実で誠実なものになっている。

そこにいると、圧倒的な「愛」が常にあって、そしてどこかにも書いたけれど、2人の交わす言葉の中に「愛」とか「好き」は多分ほとんどない。

キスしたり手を繋いたりみたいなわかりやすいスキンシップも、唯一私が見た冒頭のノムのぽんぽん以外はなかった。

そうしたわかりやすいものを何も見なくても、その場にいるとものすごい強い愛があって、私みたいな第三者が行くとそれをもろに感じる。

本当に当事者の人たちからしたら私の考えは逆鱗に触れる話かもしれないけれど、私は権利を主張するのが悪いなんて思ってはいない。

だけど、私が同性愛だけではなく他の権利主張のものも見ていて毎回疑問なのが、「その権利を手に入れたら、あなたはしあわせですか?」ということ。

そんな喧嘩を仕掛けるようなことを口にしたら自分が社会にいづらくなるだけだから言わないけれど、私は真面目にそんな風に感じている。

だからこそ、権利的なものを何も主張しないノムとミッチーを見た時に、逆にゼロで、nothing・nothing・nothingだらけで、むしろ社会的に差別や偏見を受けやすい立ち位置にいるはずなのに、「ほんとに敵わん!!!」としか言いようのない2人の在り方や2人の愛に圧倒される。

何も持っていないのに、最強な2人。

それって「何もなくてもしあわせだよ!」を本気で日々実践しているからだと思う。

しかも2人は「しあわせを追い求めよう!」としてるのとは違う。

自分が自分であること、2人が2人であること、それをひたすらやっている。

そしてその2人の日常や在り方を見た私が、そこにものすごい愛を感じる。

相手に自分を捧げているのとも違う。

相手のために自分を差し出してるのとも違う。

なんだけど、お互いがお互いを想い合ってるのは近くにいるとものすごーくよく伝わる。

ノムはノムのやり方で、ミッチーはミッチーのやり方で、それぞれがそれぞれの気持ちを表している。

伝えたいからそうするというようなレベルじゃない。

息をするように、ごはんを食べるように、2人は普通に自分たちの気持ちを出している。

そうだ、「表してる」じゃなくて「出してる」。

ノムはミッチーの反応をもう少し欲してるところもあるにはあるけれど、見返りは一切求めていない。

僕がこれだけミッチーにしてあげてるんだから、ミッチーも返してよ!なんてのはない。

ミッチーはその辺りもっと何も求めてる感がないから(実際は知らないけれど、ノムに何か求めてるなんてのは私は感じられなかった)、もっとさっぱりしている。

求めてはないけれど、ノムもどこまで気付いているんだかいないんだかわからないけれど、ミッチーはミッチーのやり方でノムのことを本気で大切にしている。




【最強の愛を支えるもの】

最強の愛を支えるものをノムは私にメールで教えてくれた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

それはみっちーに限ったことではないけれど、
やはり、ゲイという人種(?)は、特に子どもの頃に、
自分を否定する人は多いと思うし、
ぼくなどは、まさにそうで、
話があちこちに行くけど、

ぼくこそ、居場所を、心の基盤をずーーっと求めて生きてきた、と思う。
”思う”と他人事に書いたのは、
それを求めているって気がつかなかったから。

結果的に、みっちーと郊外の、人との接触がすくない今の家に引っ越してから、
ひきこもり的になり、その繭の中みたいな安全安心さを味わい、
あとから「ああ、ずっとこれが欲しかった!」って気がついたの。

みっちーは、言葉でそういうことは伝えてこないけれど、でも、
カレもまた、居場所を、拠り所を、安全安心なスペースをずっと欲していたんじゃないかな。

で、ぶっしーが書いてくれたように、ぼくはたぶん、
カレのこれまでの人生に登場した誰よりも、それを提供できる人なんだと思う。
うぬぼれじゃなくてね、
ぼくもそうだから、わかる。

で、ふたりとも、リラックスできる場所、時間がたっぷりできて、
毎日のようにゴロゴロして、食っちゃ寝して、
そのダメ人間的日々を、誰からも咎められず満喫して、
それがベースになって、
初めて、自分からなにかを放ちたい、つくりたい、って意欲が、熱がわいてきた。

(中略)

ふたりとも、本当は自分を表現したい。
自分を表現しよう、ってやってきたのに、ずっと怖くって、恐ろしくって、とてもできなかった。
安心なホームができたことで、ようやっと火星に火がついた。(※)

だから、たぶん、ここから第二の人生というか、
これまでの「隠れる」スタンスから、怖くても「表現する」フェーズに入っていくのだろうと思う。

去年から、写真家の人に、カレの料理を撮ってもらっていてさ。
もともとは「料理」が主だったのだけど、あっという間に、
ぼくとカレと猫たちとの「生活」の記録になっていって、
eat LOVEというプロジェクトなんだけど、これはそのまま「愛を食べる」ってことで。

最初に書いた、”ホーム”が、なによりもぼくには大切で、
そして、ぼくだけではなく、「みなさん、ホームって大事じゃない?」
「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」ってなことを、伝えてみたいとか思う気持ちがあって。

隠れていて、時代が「ゲイなんて珍しくもなんでもない」って変わるのを待ってから外へ飛び出すのが安心だけど、
誰かがそれをしてくれるのを待っている間に、じゃあ何をしたいのか、というと、
とくにほかにしたいことはなく。
だから、一歩ずつでも自分を、自分たちを表現していこう。
そんなことを思う。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

※…「火星に火がついた」というのは、占星術で「火星」は「(何かの目的や目標のための)行動力」を表していて、だからノムが言うのは、ようやく行動したくなってきたという意味。



ノムとミッチーが築いた王国は、「ホーム」とか「安心安全な場所」とか「自分が自分でいられる場所」だと思う。

その辺りはeat LOVEシリーズの最後に書くからここではこの程度にとどめるけれど、とにかく「ホーム」感が半端なかった。

もちろん、2人だって最初から今の2人みたいな感じではなく、紆余曲折あっただろうし、別れの危機だってあったとノムが言っていた。

ノムがアトリエかな?の中で、2人の馴れ初めというか初期の頃、まだ恋人未満だった頃の話を教えてくれた。

私は勝手に、1年前のいつかノムの口から聞いた「お互いに大切に関係を進めていった」というのは、お互いが大切だから徐々にという意味なのかと解釈した。

もちろんそれもあったと思うけれど、今回もう少し話を聞いたらどちらかと言えば、気持ちがどうなのかよくわからないから少しずつ進めて行ったんだろうなぁと思う、特にミッチーが。

ノムは激しく恋していたと思うけれども、ミッチーはその激しさとは対照的で、2人とも今ほどに関係が続くなんて全く想像できなかったと思う。

2人の気持ちの度合いや表現の仕方が真逆すぎることやその他にもいっぱい色々あったと思うけれども、その都度その都度で2人ですり合わせを行ったんだろうなぁと思う。

サイト『eat LOVE』にもたしか書いてあったし、これは(本来の東京行きの目的の)占星術講座に向かう電車の中でもノムが言っていたけれど、ノムは言った、
「これまで付き合ってきた10数年の中でただの一度もミッチーに否定されたことがない」って。

ミッチーは声を荒げるとか怒るとか否定するとか、そういうのが一切ないって言ってた。

私の超絶怪しい記憶の中で、たしかミッチーも、もしくはミッチーもそう言ったよとノムが教えてくれたのか、全く同じことを言っていた。

「僕、(ノムから)否定されたことない」って。

「あ!2人同じこと言ってる!」ってところだけは記憶にあるから、ミッチーがノムか私に言ったのは間違いない。

2人はどこまでもお互いのことを尊重している。

変な押し付けや「〇〇やってよ!」とか「あなたはいつも〇〇してくれない」みたいなのがない。

やってくれたら「ありがとう」だし、やってくれないことは黙って自分で何とかしている風だった。



ノムが書いたメールの話に戻るけれど。

これはノムにも直接言ったけれど、私がノムが言った言葉の中で超感動したのは、「ぼくはたぶん、カレのこれまでの人生に登場した誰よりも、それを提供できる人なんだと思う。うぬぼれじゃなくてね、ぼくもそうだから、わかる。」と言い切ったところ。

居場所とか心の基盤とか、それを誰よりも提供できる人だと自負できる、自信を持って堂々と言えるなんて、本気で凄っ!!と思った。

これはノムにメールする少し前に知った豆知識だけど、「居場所」という言葉は、言葉が先に生まれたものではなく、言葉が後からついてきたものらしい。

心理学者とかそれ系の人だったと思うけれども、ある時パーティーみたいな場所に出かけたそう。

そこにはたくさん人がいるんだけど、どこにも属せなくて、心ここにあらずみたいな寂しさや孤独を感じて、どうにも気持ちや自分が落ち着かない、その状態を見て「居場所」という言葉が浮かんだとのこと。

それすごくわかる!と思った。

居場所があるって、あれは物理的な場所ではなく心理的な場所のことで、そしてそれは生きている誰しもが欲してるものだと思う。

私は自分の枯渇度もよーくわかるから、それを満たしてもらえることの凄さや誰かに与えられる凄さは本当に身をもって知っているつもり。

それをノムは「自分がカレに提供できてる」と言い切れるってどれだけ凄いんだろうと思う。

ノムは普段そういうことは言わない。

むしろ自分のやっている色んなことに「これでいいんだろうか?」「このやり方で合っているんだろうか?」と悩むことの方が圧倒的に多い。

そのノムが、ミッチーにとっての居場所を提供することに関して、自分は「誰よりもカレの人生の中でできる」と胸張って言えるって、本気で凄いことだった。

そして、そう自信を持って言い切れるのって、人としてものすごくカッコいい生き方だと思った。

で、ノムからeat LOVE邸へ泊まりにおいでよと言ってもらったのは、このメールの翌日だった。

だから私はあのメールの中に描かれている2人を見に行けるんだ!と思って、さらにはその時に初めて『eat LOVE』のサイトを教えてもらって、それに全部目を一気に通して、何なら2回以上読んで予習した上で2人に会いに行った。(正しくはレイさんも来てくれたから、3人に会いに行きます!になった!)




【ミッチーの記憶力】

ミッチーとノムのやりとりは見ていて面白かった。

時々ノムは自分の言ったことが合ってるのか不安になるようで、しょっちゅうミッチーに「で、合ってるよね?」とちょっとだけタジタジしながら聞いてることがあって、私的にはその様子が超ツボだった。

違うと、ミッチーからすかさずさっと訂正されるから(←それはほとんどなかったけれども)、その時のノムはΣ(꒪◊꒪; )))) ってな表情になっていて、空気漫才みたいで面白すぎた。

私は行く前はノムからしか話を聞いてなかったから、ミッチーがどういうタイプの人なのかはノムの話からしか想像できなかった。

実際に2人を前にしてすごく感じたのは、ミッチーの方が1つ1つの細かいエピソードをきっちりと覚えていること。

ミッチーは、ノムとやりとりしたりノムと一緒に訪れた場所なんかは、本当にビックリするぐらいの記憶力を発揮していた。

講座に行くための電車の中で、ノムが「僕さ、時々覚えてなくて、なのにミッチーは超覚えてて、“えっ?覚えてないの?”なんて聞かれるとドキッとすることがあるんだよねー(苦笑)」ともらしてたことが可笑しくて仕方なかった。

ノムの記憶力が弱いというよりも、私にはミッチーの記憶力の凄さの方が上回って見えた。

ミッチーは本当に多くをベラベラとは喋らない。

しかも、言葉と自分の考えや心が一致していないと、それを言ったりしない。

ますます言葉少なめになる。

なんだけど、ミッチーは外には直接の言葉としては出さなくても、その様子やシーンをものすごく鮮明に記憶する能力が他の人よりもうんと高いと思う。

そして、その記憶する優先順位は、自分にとって大切なものとかインパクトのあるもの…となっているはずで、ノムとの記憶はミッチーの中でもとりわけ超上位に君臨しているかと思われる。

具体的なエピソードは思い出せないけれど、ミッチーが過去のどこかの場面を切り取った話は、本当に目の前でそのシーンが繰り広げられているのを想像できるくらい、立体的に説明される。

しかも私みたいに1から10まで喋るのとは違って、本当に切り取って厳選された言葉で表現されている。

だから言葉の数としては少ないけれど、その様子がものすごくよく伝わってくる。

そして、それがノムと行った場所だったり、ノムと共に体験したりすることだと、より一層その鮮明度が上がる。

それを聞いて、私はそうやってミッチーは自分の心の中でノムとの時間やノムとの関係をひっそりと愛でてる気がした。

ノムとは日常一緒にいるから、過去をあれこれ振り返るなんてあまりしないかもしれないけれど、私はノムがタジタジしてるそばで、ミッチーの静かな愛みたいなのを感じて、ミッチーの振り返り話はすごく好きだった。




どの辺りで私はそう思ったのかは忘れたけれど、とにかく2人を前にしてリアルミッチーを見ていてわかったことがあった。

その1ヶ月前に、ノムが私にミッチー作のオラクルカード入れやミッチーデザイン兼製作の刺繍されたトレーナーを見せてくれた時、ミッチーはそうしたプレゼントを恋人に普通に軽くさっとする人なのかと思った。

でもミッチーを見て、その考えは変わった。

ミッチーは1つ1つの贈り物に関して大げさには考えてないみたいだったけれど、それでもその1つ1つを自分の心も一緒に織り込んで作ったのだけは伝わってきた。

ミッチー流の愛の表現がそういうものなんだと思った。

トレーナーはまだしも、カード入れなんかはノムのことをよく見ていないとその必要性には絶対に気付けない。

それをミッチーが察してさっと作ってくれたというのは、愛だなぁと思う。

しかもミッチーは簡単な直線縫いではなく、私からすると超技術の要る曲線縫いをして、丸いボール型の入れ物を作っていた。

手間だけではなく技術も要ることを、ただ相手のためを想ってする、それも何の利益にもならないと言っては失礼だけど、本当にそれでミッチーにお金とか何か良いものがもたらされるとかいうものじゃない。

それをさっと作ってさっとノムに渡すミッチーにものすごく愛を私は感じたし、そしてそれを嬉しそうに紹介するノムの気持ちもものすごくよくわかる。

今回で終わった占星術講座の後の先生を囲んでの質問タイムならぬカフェタイムのワンシーンが蘇ってきた。

ノムのトレーナーに注目が集まった。

誰かがそれに気付いてノムに質問したら、ノムは本当に嬉しそうに「カレがデザインしてカレが作ってくれて…」と私の時と全く同じ説明をしていた。

ノムは相変わらずミッチーが含まれる話をする時はとても嬉しそうな顔をする。

好きな人の話をしているとニコニコしてしまう、人類共通のあの表情。

ミッチーにも見せてあげたいぐらい、本当に良い表情をノムはしている。

ミッチーがノムに愛を贈って、それを今度はノムの口から(愛が)語られる。

本物の愛の循環だと思って、私は毎回興味深くノムの様子を見て話に耳を傾けている。

同じ話を聞いているのに、ノムのミッチー話は全く飽きない。

2人のしていることは特別なことではないのに、とてつもなくキラキラしているのは、そのベースが愛だからだと思う。

愛って本当に偉大なパワーなんだと、2人それぞれを見て感じる。




【eat LOVE邸見学】

冒頭の写真はeat LOVE邸の写真になる。

ジブリの映画とかに出てきそうな本当にかわいいお家で、私は木が生い茂る中にポツンと姿を見せている家の姿や昭和を彷彿させるようなドアのデザインに1人で胸がキュンキュンした!

色々目移りしまくりで超忙しい見学になった。

まず、2人の清潔度合いにとっても感動した。

本当にきれいに家を使っていることがよく伝わってくるし、家も2人から愛されているんだなぁという印象がどこを見ても感じられた。

写真家の人に撮ってもらったという2人の写真がお守りとかお札的なものを置くところのスペースに飾られていた。

その写真が本当に良い感じで、しかも毎日2人でいるのに、その写真も普通に飾っている、2人の大切なもののように飾っているところに、なんだかジーンとしてしまった。

話が逸れるけれど、前の日アトリエに行って何が驚いたって、2人の距離感だった。

私はアトリエは、各自がそれぞれの部屋を持っているのかと思っていた。

ところがアトリエは、仕切りとなる戸が外されていて、ミッチーとノムの身体的距離はあっても2メートルで、「ねぇミッチー」って離れたところから話しかけても普通に聞こえるぐらい超近かった。

それぐらいの近さにほぼ24時間単位で日々いられるわけだから、本当にお互いが近くにいても気にならないぐらいの関係を2人は作ったんだなぁと思った。

それぞれが個々に動く時間ももちろんあると思うけれど、多分2人が一緒にいない時間なんて24時間365日の中でもかなり少ないと思う。

家の方も、台所・リビング・寝室で構成されていて、個人の空間はなかった。

家とアトリエがあるから、2人バラバラの建物にいることはできるけれど、ここはミッチーだけのスペースでここはノムだけのスペースという明確な差はないんじゃないかと思った。

基本どちらも2人の共有スペースしかない。

強いて言うなら、ミッチーのミシン周りだけが(広さにして畳2畳ほど)唯一ミッチーだけの場所と言えばそうなるけれど、そこだって区切られてはないから、そしてそこを通過しないとアトリエの奥に入れないから、どこからも隔離された場所というのとは全然違う。

家の中のこともまた別に色々レポートしたいところだけど、その中でもとりわけ私が感動したのは、冷蔵庫に貼られたミッチーのお母さんのからのお手紙だった。

ノム宛に書かれたもので、いつもありがとうということと息子(ミッチー)をよろしくねということが書かれていた。

短い手紙だけど、そこにお母さんの想いが溢れかえっていた。

ちなみに、ノムもミッチーも両親にはわりかし早い時期にカミングアウトしていて、両家共々お互いのことを知ってくれているとのことだった。

去年はミッチーのご両親が何百キロと離れたところからeat LOVE邸を訪ねてきたとも教えてくれた。

2人のご両親が最初にカミングアウトされた時、本当は何が胸にあったのかはわからない。

だけど、少なくともノムの話を聞いていて、どちらの親からもそのままを受け止めてもらえたんだなというのは何となくわかった。

そして、すぐに何でも飛躍しがちな私の脳みそは、「だから2人が安定して関係を築けるんだ」と思った。

ノムが私が人生で出会った2人目のゲイの人だったけれども、1人目の人は還暦の方が年齢的に近い状態の当時、目下の最大の悩み事は死期の近いお母さんにどうカミングアウトするかということだった。

母親が死んでしまう前にそれだけは伝えたいと、そして自分はゲイでも幸せであることをきちんと伝えておきたいと言っていた。

私には想像しかできないけれど、一般的な性とは違う性を体験するというのは、当事者たちからして相当な葛藤を生み出すと思う。

対自分ともそうだろうけれど、多分それ以上に対家族とか対社会に対してもっと葛藤すると思う。

そして、まだまだ社会的理解が低いものでもあるから、それゆえに葛藤の度合いもでかくなってしまうのは、当事者でなくても想像がつく。

という中で、ノムもミッチーも家族から見守られてる感がある。

知らない私が見ていても、それを感じる。

ノムとミッチーが今2人の世界や個人の世界をとことん探究できる生き方の根っこのところには、家族からの見守りも含まれている気がする。

2人のご両親が本当に愛情いっぱいに育てたこともものすごくよく伝わってくる。

本人たちの生まれ持った気質もあると思うけれど、それが本当にやさしい形で引き出されたその土台には幼少期の頃にそれを引き出すことが日々積み重ねられていたのではないかと勝手に推測している。

ミッチーのお母さんの手紙は、自分の息子が大切にしている人への感謝と信頼と愛が一緒に綴られていた。

言葉は短く、「ありがとう」と「よろしくね」ぐらいだけれど、それ以上のものをその手紙からは感じた。

自分の大切な息子が大切にしている人、その人を自分も大事にしたいと思っている気持ちがものすごーく伝わってきた。




【ぶっしーの質問の答え】

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>>>私→ノム

ちょっと、いたずらな質問をリクエストしてもいい?

ミッチーに、「僕が、昨日ぶっしーがミッチーにした質問みたいに、『食べれてないの?』とか『ダメージいくつ?』とか聞いたら、教えてくれた?」とか
「もしかして、ミッチー、僕にぶっしーがミッチーにしたみたいな質問・問いかけをして欲しかった?」とか
是非とも聞いて欲しい(!!!)


>>>ノム→私

ぶっしーからの質問、ミッチーに聞いてみたよ!
(おもしろいことを投げかけてくれたねえ)

ミッチーの答えは、
ぼくに、食べられてないの?とか聞いて欲しいかを尋ねたら、
最初、聞いて欲しいかな。と言って、そのあと、うーんってなり、
「いや、でも、聞いてもらわなくていいかな」ってなった。
その理由は、「(口にしなくても)その感情を共有できていると思ってたから」とのこと。
その答えを聞いて、あ、そうか、って思った。
言葉にしなくても、それこそテレパシーのように伝わっていることっていっぱいあるものね、って。

それから、ぼくの思いとしては、
本当に困っているのだとしたら、手を差し伸べて欲しいと訴えてくるだろうってのもあるし、
それを、「察して」という関係ではなく、
本当に必要なときには「助けて」と、
ぼくがぶっしーに「話を聞いてもらえる?」って電話の要請をお願いしたように、
言葉にする。たとえそれが苦手であっても、苦手だからこそ、ちゃんと言葉にする。
その能動みたいなものは、あって欲しいな、というのがあって。
この「そうあって欲しい」が、ぼくのニーズなんだよね。
この”ニーズ”はそのままの彼を否定していることかもしれないけれど、
この”ニーズ”をもつ自分を、ここでは優先というか、保ちたいなって思ってて。

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これは、ある時ノムと電話して、最後にミッチーも参加した時のことだった。

私が食い意地に基づいて電話の向こうのミッチーに、今日のごはんは何だとか聞いていた時のこと。

ノムもずいぶんと自分が関わるプロジェクトに関して悩んでいたけれども、ミッチーはそれ以上に大打撃だったようで、食欲は減退するわ眠れないわですごいことになっていたことが、私の食い意地質問によって判明した。

ノムもノムで、「あ〜、ミッチーも今あまりおなか空いてないんだね」ぐらいの感じで見ていたものが、まさか「食べたくない」ではなく「食べられない」の方だと知ったのはその時だったと後から教えてくれた。

ミッチーが眠れないのも、ダメージ100がマックスとするならダメージ100なのも、その時知ったとノムは言った。

だから、この記事の一番下にある土手煮のチーズトーストは、そういう経過を経ての数日ぶりの超貴重なトーストの写真になる。

2人の回復を聞いて、それで私が気になってノムにした質問だった。

2人のやりとりは、いつも色んなことに気付かされる。

相手の気持ちも自分の気持ちも大事にしている。

そして、大切なことは、訂正があればミッチーもノムも訂正する。

そのまま曖昧にせず、大事なことは口にする。

口にして相手に伝える努力をしている。

何だかんだ言っても、2人共相手に多くを求めていない。

いてくれるだけでいい、その基本が2人共の根っこの部分に浸透している感じがする。

これは男女パートナーとの差なのか、ノムとミッチーが別格過ぎるのかは知らないけれど、「いてくれるだけでいい」なんていう基本スタンスのパートナーにまず出会ったことがない。

まだ付き合って1年とかそういう初々しい感じの人たちではなく、10年越えのパートナーたちでそんな人たちには少なくとも私は会えていない。

2人のやりとりは、まずそこがスタートで、だからその上にどんなことがやってきても簡単に揺らがない感じがする。

それが感覚的にわかっていたから、私はノムに「ミッチーに聞いてみてよ」と言えたし、2人はそんなことで揺らがない確信がありありだったから聞けた。

2人を前にするとすごいよくわかる。

「いてくれるだけでいい」そう思って日々生活を一緒に営んでいることを。

そして、大人になったから余計とわかる。

「いてくれるだけでいい」って大人になってから誰かのことをそう思えたり、反対に自分も誰かにそう思ってもらえることは、奇跡だということ。




【ノムのつぶやき】

ここでは、ノムが私宛てのメールやLINEでつぶやいた諸々を紹介。

eat LOVE邸に行く前と行った後と、もらった時は色々だけど、いつのどの時でもノムの中にある想いは同じだから、そのままを紹介。



❤️たとえカップルでも家族でも誰もが、本当にはひとりである、孤独な存在であるということを、受け入れた上ではないと、安心して一緒にいることはできないんだって。

eat LOVEに書いた、彼と一つになりたいけどそれはムリだった。彼はぼくのものにならないし、ぼくは彼のものになれない。


❤️ミッチーはほんとに言葉にしないっていうか、何か訴えてこないんだよね。けど、それがいっしょにいて楽なところでもあるのかもなあ。彼はくみとって欲しいのかもだけど、あんまりくみとることもしていないから楽なのかもだけど、、、


❤️あらたまってみたけど、単純に、ぼくとミッチーは2人きりでいる時間が超大事ってこと!笑
不機嫌な顔とかも彼の前でならできるし、彼も無愛想で無口で暗い姿でいられる。
ぼくはそれができる人が1人いるだけで充分ありがたいし、そうできる相手とは、体にふれるとかセックスとか、肉体?野生?本能?レベルの許容しあいみたいなことが必須で。そんな人は、1人だからそんな人なのかも、とも思う。そのカップルの基盤があって、そこが満たされた状態で、はじめて誰かとeat LOVEできる。
その一線を、あたりまえ、みたいにしてちゃんと考えてこなかったんだけど、今回のことであらためて向き合い、この一線がぼくの、ぼくたちの聖域みたいなものかもって思ったんだよね。


❤️愛とは深い絶対的な安心
否定がない状態
ありのままでいられる関係
対立がない
依存がない


❤️LikeではなくLove
“ここが好き”ではなく“あなたを好き”
それが双方間である
ことばにする必要がない
すべてが一致することはないが、すべてが一致しないことを理解し合っていて、その違いを知っていて受け入れている
ふれる・SEXをするなどのある種特別な行為がその関係にはある
動物的・生理的・本能的部分でも違いを求めあい、うけいれあっている関係


❤️寝食をともにしあい生活から性的なことからともにしてきた12年強という相性と年月があって成り立つ今の2人の関係

かわりはいない


❤️その“パートナーシップ”が僕たちの宝
もちろん最初からそうあれたわけではなく、何度も危機があり、それをのりこえて育んだ

ぼくにとってその彼との関係こそが人生の最も大切なものなのかもしれない
それは手にしたことで気がついた


❤️「ありのままでいられる自由」は魂が求めたもの
一生この関係がつづくかわからないが、すくなくとも自分はそれを守ろうと、大切にしつづけようと思っている
それを脅かす要素は、改善したり手放していく
優先順位の問題
両立できないのならば下位のものを手放す
それが何故かというと
彼との基盤のあってこそ
自分がのびのび自分を表現できるから
つまりはけっきょく自分のため


❤️たぶん、ぼくはミッチーと恋人関係にある間は、
彼とふたりでいる時間は、必要で、
彼との間にしか生まれない平穏があるのだよね。
あらゆることを、ミッチーとの間のようには誰とも共有できないだろうと思う。


❤️たくさんキャッチするもの同士だから一緒にいられるのだろうけど、
そうした二人が、恋人関係でありつづけるには、
実は、意識していない部分でも、たくさんの気遣い?みたいなものをしているのかもな、
ってなことを、あらためて、今回の出来事で思うよ。




【猫とミッチー】

ノムが家の中を色々案内してくれてる途中で、ミッチーもいつのまにか母屋から荷物を持って戻って来ていた。

朝ごはんの後、講座出発前までのものすごく限られた時間の中で、ノムは私にeat LOVE邸を案内してくれていた。

多分時間にして10分とか15分だったと思う。

ノムとミッチーは9匹?10匹?の猫ちゃんたちと暮らしている。

2人とも飼おうと思ってそうなったのではなく、いつからか猫たちがやってくるようになって気付いたら住みつくようになったらしい。

リビングなんかは猫ちゃんたちの居場所の面積の方が明らかに2人の占有面積より広いんじゃないかと思うほどだった。

で、いつのまにか母屋から戻ってきていたミッチーは、その中の1匹を両手で抱えて、自分のおへその前あたりに抱きかかえながら小さな赤ちゃんをあやすように体を左右に揺らしながら腕の中の猫を見つめていた。

そのすぐ近くでは、別の猫が自分もそうしてもらおうと順番待ちしていた。

私はそのシーンを見て、ものすごく胸がキューンとなった。

涙が出そうなほどだった。

おかしな発想なのはわかっているけれども、ミッチーのその姿を見て、なぜか私はミッチーとノムが里親とか養子縁組とかをして子どもを預かって一緒に過ごすみたいなのを思い浮かべた。

それは勝手にイメージとして画像が浮かんだ感じで、私も何でそんなものが思い浮かんだのかはわからない。

本当に一瞬のシーンなのに、私には忘れられないシーンになった。

それを見て、ミッチーが愛情いっぱいの中で育っただろうことが伝わってきたり、そしてその親のような部分も掛け合わせてノムが今度はミッチーに愛を注ぎ続けていることを思った。

ミッチーの抱っこの仕方は、愛を知っている人でなければ絶対にできない抱っこの仕方だった。

お母さんが小さな赤ちゃんを抱っこする時のあの雰囲気にとても似ていて、それはもうとどまることのないずっと半永久的に供給される愛って感じだった。

そして、ミッチーはそういう姿をあのeat LOVE邸ではごく当たり前に出していたし、そうできるほどに安心安全をあの場で感じてるんだなぁと思った。

これは私の偏見かもしれないけれど、男の人たち、特に大人の男の人たちが、わかりやすい形で愛を表現することは一般的に少ないと思う。

ノムみたいに言葉や態度で豊かに自分の気持ちを表現する人も中にはいるけれど、そんなタイプは超類いまれで、大体の男性は感情表現の中でも特に「愛」にまつわるものは、超苦手だと思う。

なんだけど、ミッチーのその姿は本当に愛に溢れかえっていて、見ていると泣きたくなるぐらいのものが出ていた。

感動して胸が震えるみたいなタイプの泣きたいの方。

何てすごい王国を2人は築いているんだろうと思った。

自分の中にある愛や何かを大切にする気持ちや愛しき存在をそのまま愛でる行動を、余すことなくそのまま出している。

言葉になんかできないものを2人はひたすら日々積み上げて、2人にだって方向性なんか見えないまま積み上げていたと思うけれども、少なくとも私のように初めて見た人の目にも2人の積み重ねたものや軌跡が見えるようだった。

2人が大事に育てたものは、居場所でホームでそしてその根っこにはいつもいつもお互いを思いやる愛があるんだと私は思って見ていた。

何にも法的な保証なんてない中で、2人が築き上げたものは、2人にとっての唯一無二のしあわせの形で、2人だからこそ作れた唯一無二の愛の形なんだと思う。




【ノムとミッチーの最近】

ーーノムのメールよりーー

散歩に出る報告をアトリエにいるミッチーに言いにいったら、
ぼくの顔をみて「大丈夫?」って。
そんなこと、言うことは稀だから、おどろいたな。

けど、それくらい大丈夫じゃない顔をしてたんだろうなあ。




私も驚きを隠せなかったこの2人のやりとり。

ノムが大丈夫かどうかよりも(←こらっ!)、ミッチーが「大丈夫」なんて声をかけるそのことに超驚いた(´⊙ω⊙`)!

ノムも悩み事とか一瞬飛んだんじゃないかと思う。

このやりとりに2人の日常がにじみ出ている。

出かける前に一言声をかける。

これって、誰か大切な人に自分の所在を明らかにするのと、あなたの元へまたきちんと帰ってくるよという意思表示と、今の僕にとってあなたはそういう存在なんだよというのを全部織り交ぜた行為だと思う。

1人暮らしニート時代に何が一番怖かったって、うっかり死んでしまったらどうなるのかな…ということだった。

死ぬのは構わなくても、うっかり死んで腐敗死体とかそういうのは嫌だなぁ…ってけっこうな頻度で考えたことだった。

ノムもミッチーも法律上は同居人とかになるのか、それぞれが独立した世帯に登記上なっているのかはわからない。

役所の書類上は何であっても、今日も今日でノムとミッチーなのには変わりない。

そうした時に、本当に小さなやりとりだけど、このやりとりがとても大切だとわかる。

究極のことを言えば、やってもいいし、やらなくてもいい、どちらでもいいことだと思う、一声かけて出かけるのは。

でも、「やる」となった場合、これは絶対に気持ちがないとやれない。

いちいちノムの中で「気持ちを持ってミッチーに一声かけてから出かけよう」なんて考えたわけじゃないと思う。

ミッチーだって「ノムに“大丈夫?”って言った方がいいのかな?」なんていちいち考えて言ったのとは違うと思う。

ごく自然な流れでお互いにそうしたに過ぎないんだろうなぁなんて思う。

なんだけど、そこには2人だけのリズムがあるし、そのリズムが自然に生まれるまでの積み重ねがある。

一声かけてから出かける、大丈夫?と声をかける、これって全然当たり前のことじゃない。

2人が作った2人だけの日常で交わされる、当たり前のようにあるけれど当たり前じゃないもの。

しかもミッチー、じーっとノムを見つめるなんて普段してなさそうだけど、見て感じたんだろうなぁと思う。

なんか大丈夫じゃなくない?って。

多分ノムが見てないところでミッチーはノムのことをたくさん見ている。

ノムは物足りない感じを口にしていたけれど(笑)、多分ミッチーはノムが思っている以上にノムのこと見ているような気がする。




ノムはノムで相変わらずミッチー研究に超励んでいる。

ノムに真面目なメールを送って、その返信が返って来た時に、その中の3分の1以上、少なくともiPhoneの画面に収まらなくてスクロールを数回する以上の長さが、ミッチーのホロスコープ研究の話に費やされていた。

ノム、本気でミッチーのこと愛愛愛してるし、本気でミッチーの魂の説明書(=ホロスコープ)を読み解こうとしているなぁと思った。

面白く読んでたら、途中いきなり
「って、今日は占星術の話をしたかったのではなかった!」
とか言い出すから、読みながら吹き出した。

天体同士の角度なんかも少数第2位まで見たぐらいの徹底ぶりでミッチーのホロスコープを超読み解いていて、ノムは相変わらずミッチーを知るためのホロスコープ読みに夢中なようだった。

なんなら今日の日中、この記事のタイトルのやりとりの時でさえ、ミッチーのホロスコープについて一言以上添えられていて、本気でミッチー大好きだなと思った!

タイトルが用事なのか、ミッチーのホロスコープが用事なのか、相変わらずよくわからない面白可笑しいやりとりになった。

一応今回は写真を分けて載せたいと思っているけれど、下の方の写真はノムからこの2〜3週間の間に送ってもらったもの。

第何話かに登場するミッチーのお母さんから送られてきた材料で作った土手煮の夜ごはんの日と、翌朝数日ぶりに2人で食べた土手煮のチーズトースト(←食欲復活の印)と、いつかミッチーが作ったキャロットケーキと、そしてこれをアップする今日送られてきた今日のチーズトーストは「紫キャベツと鳥のささみのチーズトースト」とのこと。

野菜高騰中の今、「紫キャベツ!?」とビックリしたけれど、ノムいわく「最近、野菜が安くてそろいのいいスーパー見つけて、野菜率高くなってる。笑」とのこと。

もちろん選定はミッチー。

今日もeat LOVE邸ではおいしいごはんが作られていて、2人でおいしく囲んでいるんだなぁと、いつも写真が来るたびに思う。

愛の食卓の写真を私も自分のiPhoneにそのまま保存している。←見ていると癒しになる( ̄∇ ̄)ついでに、パートナーシップ運もアップしてくれないかと思うv( ̄∀ ̄)v




【『愛になる』が生まれるまで】

早起きしたノムからLINEが来た。

基本午前中のわりかし遅い時間に起床みたいなことを言っていたから、9時台に、しかもその少し前に私が出したものに即返信が来て驚いた。

ふと思い立って、ノムに電話した。

スリーコールぐらいですぐに出てくれた。
(ノムは携帯はガラケー、LINEはiPadだから普段どのように両者を身の回りに配置しているのか知らない。ただ、iPadは開かない限り気付かないから、それで私の中では「急用」だったから、初めてガラケーに電話した。)

「あのさー、ノムとミッチーで今回の記事のタイトルを考えてくれない?
私が題名付けてもいいんだけど、2人のことだから2人に付けてもらった方がいいかな?と思って。どんな言葉でも任せるし、どうしても付けられない、無理、ってなれば私が付けるけれど、そうでなかったら2人に付けて欲しい」

そうお願いした。

2人にはそれよりも前に、下書きの超途中(4分の1程度の完成時)でこの文章を送ってさっと読んでもらった。

その後からものすごい量を付け足したけれど、中身のテーマは変わらないから、その状態でタイトルを付けてもズレないことは想像できた。

ちなみにあまり考えていなかった私の中で出ていた候補は、
『ノムとミッチー』
『愛を食べる2人』
とかで、なんかどれもしっくりこなくて困っていた。

『ノムとミッチー』だとまるで『ぐりとぐら』という絵本のタイトルみたいで、味気ないと思った。

『愛を食べる2人』だと、表現が若干生々しいと思って、なんかそれもピンとこなかった。

頼んで大正解で、それから数時間後にノムから連絡が来た。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

愛になる。

ではどうかな?

うーむ。

愛になる生活。

うーむ。
どちらかピンときましたら!

みんな愛から生まれた愛なんだろうけども、いろいろ付着したりしてゆがんだりするでしょう?

ミッチーが1人のときはパパとすますけど、2人になると何品もつくる。ってな感じに、誰かといることでひとりの時に隠れている?自分がでてくる。ぼくらは、もちろん不穏な空気のときもあるけど、一緒にいると、愛になれる感じがあって。愛はまたIでもある。わたし。わたしになることで、相手もわたしになることができる。その健全さみたいなものをぼくたちは大事にしているのかもな、って。

愛になる。は、人生のテーマっていうか人類のテーマな気がするから、「愛になる」だと視野が広い感じがする。宣言のような感じも。「愛になる生活」は、具体的で、個人的な感じがする。どっちがいいんだろう? って迷うから、ここは執筆者にまかせたいー。そして、アップしたものでどっち選んだか知りたいー! ちなみにごめんね、ミッチーは、うん、それでいいよ。って感じだった。笑

いまトースト焼いてるとこ。焼けたら写真送るね〜

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


ノムはまたおいしいトーストを食べられるのかと羨ましくなりながら、ノムの答えがとても素敵だった。

そして、ミッチーの反応も想定内だったのが私には妙に嬉しかった。

私はミッチーが最初からウンウン頭をひねるとは全く思っていなくて、まぁできたらミッチーも参加してくれたら嬉しいけれど、そうではない可能性も高いだろうなぁと思いながらノムに振った。

ミッチーがそうしてくれたとしても嬉しいけれど、そうではなくいつものスタイルで特に可も不可もなくみたいなのでも嬉しいなぁと思った。



上の返事をもらった後、ふと気になってさらに突っ込んだ質問をした。


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>>>私→ノム

ところで、「なる」なんだけど、ノムの感覚を教えて。
BeなのかBecome なのか、どっちの方がより「なる」に近い?
それこそミッチーがわずらわしく思わないのなら、英語を使うミッチーにも聞くと面白い答えが出てくるかも!


>>>ノム→私

なる。は、beの方かもしれない。ニュアンス伝えてミッチーに聞いてもbeじゃないか、って。ちなみにミッチーは、それでいい、という風に言葉にもしてないからね。笑  うなづく、みたいな。

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ミッチーの反応が具体的にノムから伝えられて、私はその様子を知れて大満足した!

聞いた後、自分でも気になって考えてみた。

色々なシーンを思い起こしながら、2人は基本「be」の方だけど、そのbeの中には「become」も含まれる気がした。

beがあるがままだとするなら、becomeは後天的に何かになることを指す。

2人の愛は、最初からこの形ではなく、2人で試行錯誤しながら、色々すり合わせながら、時には別れも覚悟しながら、そういう歴史を経ての今になっている。

そうした2人の積み重ね部分はbecomeな感じがして、でもbecomeも今はbeに組み込まれてとても自然な形になっている。

私はノムとうなずき担当のミッチーが考えてくれたタイトルがとても好きだし、本当に2人そのものを表したタイトルだなぁと思う。

何の違和感もない。

さらに「うなずく」は、十分ミッチーが参加していることがわかる。

ミッチーは興味ないとか関係ないと判断するとか何か自分のものとは違うとなると、うなずきさえもないみたいだから(←ノムが別件でそれらしいことを言っていた)、うなずくだけでもそれは私の中で十分参加してくれた感じに勝手になっている。

そして、それをこんな風に毎回丁寧に教えてくれるノムのきめ細かさにも感謝と笑いしかない。

こういうのも「愛」あってこその観察眼だなぁと毎回思う。

話が飛ぶけれど、私が「愛になる生活」ではなくて「愛になる」を選んだ理由は、まさにノムが書いてくれたことに直結する。

たしかにここに書いた数々のエピソードは、ノムとミッチーの個人の生活だし、それは2人にしかわからないものでもあるとは思う。

でも2人が見せてくれたことは(2人は見せたつもりもないと思うけれども)、人類共通のテーマ「愛」だと思うし、そして愛が何かわからなくなった大人たちに何かしら「こういうものだよ」とそっと指し示してくれるような話だったりする。

私個人の宣言は不要だけど、私は2人を見て、残りの人生で誰かパートナーとなる人が現れてくれたのなら、その時は2人がしているみたいな愛を少しでも積み重ねられたらいいなと思ったし、傷付くの覚悟でその中に入っていきたいと思った。

私の中で、オカルト体質を発揮して社会の中で人と繋がっていくことよりも(こちらも非常にハードル高すぎてやりたいことでは全くない)、誰か特定の人と向き合うことの方が怖さしかないぐらいに超超超怖い。

1人の孤独より誰かといて孤独の方がより耐えられないことも自分で知っている。

しかも色々強烈な40年だったから、パートナーシップもそんなに明るく楽しいニコニコパートナーシップみたいなのではなく、けっこうヘビーなのが来るんじゃないかと思って
恐れおののいている。

どちらかというと、戦々恐々という感じ( ̄∀ ̄;)。

決して意気揚々ではない。

ミッチーはすごい魅力的な人だし、好きなところもたくさんたくさんある!!!

と宣言した上でこの後に続けたいけれど。

何が私からして2人を見て希望を持てたかと言うと、ミッチーのような言葉少なめなタイプの人とノムが超真剣に向き合って、そしてミッチーもミッチーで超真剣に向き合っているところだった。

ノムのコミュニケーション能力は「神ってる」という言葉が一時期流行語になったけれど、本当にその域だと思う。

ノムはミッチーの言葉にしない部分を超一所懸命言語化しようといつもしている。

eat LOVEの最終回、ミッチーのうなずきストーリーの別バージョンを紹介する予定でいるけれど、そのノムの解説たるや半端なく凄かった。

それを私はもっと早い時期に聞いてたおかげで、今回のタイトル案件に対してミッチーがうなずくだけなのも全然平気というか、どんな形にせよミッチーも参加してくれたと知れたからそれで大満足した。

多分だけど、私のところに今後誰か現れるとするなら、コミュニケーションスタイルにおいて、1から10まで詳細に言葉を発してくれるノムタイプか反対に1言葉を発したらOKのミッチータイプかと言えば、ミッチータイプが来る可能性が高いと思っている。

こんなところにホロスコープ話題を入れるのもどうかと思うけれど、1年前の夏のホロスコープ鑑定で言われたことがある。

「男性で出た場合、不器用で屈折した難しい男性を引き寄せるでしょうね。他の女の子ならちょいちょい選ばない人、だけど(武士俣さんなら)理解してあげられるんじゃないかなという人がくると思います。愛の修行。コンプレックス強めだったり、挫折を経験しまくってたりする男性を引き寄せやすいですね〜」

積極的に認めたい部分ではないけれど、決してこの話が絵に描いた餅ではないことは自分でもわかってる。

仮にミッチーのようにたくさんは口にしないタイプの人が来たとしても、ノムがミッチーを理解しようとするように私もしたらいいんだと思うし(実践はかなりキツイと思っているけれど( ̄∀ ̄;))、ミッチーがノムに示すような在り方で愛を知っていく方法もある。(それがどの程度ノムに見えているのか、その辺りは今度聞いてみたいと思っている)

いずれの場合も、2人を見て感じたのは、色んな愛の形があるということと、愛を伝える手段は無限大にあるということ。

だってミッチーのごはんが愛だととるかルーティンだととるかで、見える世界はガラリと変わる。

本当のところは知らなくても、「愛」だととると途端にしあわせ感が増し増しになる。

しかも、ノムの血や骨や肉が、ここ10数年、ミッチーのごはんによって作られている。

そんなしあわせなことってないと思う。

自分の体を作る成分の中に、自分の好きな人の気持ちも混ざっている。

ノム超しあわせ者じゃん!と大真面目に思っている。

ミッチーもミッチーで、そこに何かしらの愛を感じてると思うし、ミッチーは少なくとも肌の合わないと感じる人とか気が乗らない会合とかはそもそも会うことさえしないみたいだから、誰か特定の人とこれだけ長く、しかもほぼ24時間365日みたいな感じでいるというのは、ミッチーにとってもすごいことなんだと思う。

私のようにパートナーシップ恐怖症みたいな人は他にもたくさんいると思うけれど、ノムとミッチーを目の前で見て、私は怖くてもそこにそっと少しずつ足を踏み入れていけそうな勇気を2人からもらった。

恐怖よりも勇気が上回るというのはものすごいことで、私は過去最高に希望が持てたパートナーシップを2人から見せてもらえた。

そして、本物の愛って、本人たちが何も教えようとしなくても、周りにも良い風に影響をもたらすことができるんだと知った。

私と同世代の人たちは知ってるだろう歌にKANの『愛は勝つ』というのがある。

歌詞の通り、「最後に愛は勝つ〜♪」。

それをノムとミッチーから見せてもらえた。




【さいごに】

さんざん好き勝手書いといて、最後にすごいことを言うけれど。

ここに書いたミッチーは、ノムから聞いたミッチーと本物ミッチーが答えてくれたこと以外は、私がミッチーを見ていた中で感じたことだから、もしかしたらミッチー本人が読むと「僕、それ違うんだけど…」なんてこともあるかもしれない。

それはぜひともノム経由で聞きたい!!!(ミッチーの連絡先は知らない)

だけど、私は私の目に映ったミッチーをそのまま書きたかった。

もしかしたらミッチーは、ノムがいるから単にごはんを作るだけで、それを「愛」とは思ってないかもしれない。

でも私があそこにいて感じたのは、ノムもミッチーのこと大好きだけど、ミッチーもすごくミッチーらしい表現方法でノムのこと大好きだということ。

ノムから何回か聞いた。

「みんなさぁミッチーの料理を食べた人たちは、ミッチーのごはんを毎日食べれていいなぁって言うけれど、たしかにそれはそうなんだけど、そればっかりじゃないんだよね。
だって、ミッチーだよ!
あの宇宙人だよ!」

ノムは気付いているんだろうか。

ミッチーが宇宙人になるのは、ノムの前で一番宇宙人力を発揮すること。

だって私の前ではそんなに言うほど宇宙人じゃなかったもん。

わかりやすいかわかりにくいかという二択なら、わかりにくいところは多々ある。

なんだけど、ミッチーは見ていると「わかりにくい」という一点に対してどこまでもそれを通す芯みたいなのがしっかりあるから、そして嘘つけない人だというのが本当によくわかるから、わかりにくいけれど筋は常に通ってるみたいな、ミッチー道をひたすら極めるみたいな感じがある。

私が苦手な裏表がありすぎて何考えてるかわからないタイプとは全然違っていて、ミッチーの謎めいたところは健全な真っ直ぐさを私は感じる。

だから、私はあまりミッチーを見て宇宙人だとは思わなかった。

けれど、eat LOVEのサイト内のミッチーは、ノムが「ごはんはいいんだけど…」の後に続く言葉の部分がよく表れている。

宇宙人ミッチーの出現率もがぜんアップする。

でも、ミッチーはきちんと選んでいる。

朝のおはようをはじめ色んなことを返事したりしなかったりするのは、誰にでもじゃない。

ノムにだからそうするというのがよくわかる。

ノムの前情報で強面兄ちゃんだけでなく繊細なのもなんとなくわかったから、行く前は「質問とかできないかもなぁ」と思った。

でも、実際のミッチーは際どい質問でも普通にそのまま思ったことを答えてくれて、私なんかは超感動してた。

よく考えたら、子どもの頃から今現在まで、私は「答えない人」というのにかなりたくさん遭遇していると思う。

けっこうな率でくるから、私は基本的に自分から質問を振らない。

なんだけど、する必要のある場面てのはあって、その時はせざるを得ないからしてるのに答えが何も返ってこない。

あれ?私、独り言ですか?並みのスルーを受ける。
(注:私の声は決して小さくないと思う)

って場面を百戦錬磨とは言わないけれど、かなりな確率で当たってきたから、ミッチーが普通に何でも返してくれるのに超感動した。

しかもミッチーは適当に返さない。

必ず自分の中にあるものと言葉とが一致するか確認しながら1つ1つ丁寧に答える。

っていうのを見ていたからこそ、ミッチーが宇宙人になるのは、心を本当に許した人の前でしかしないんだろうなぁと思った。

ノムがそこにたとえ不満を持っていてもっと言葉が欲しいー!!!と切望していても、ミッチーはノムの前では安心してスルーとかとりあえず返事延期とか、各種様々な言葉以外の返事や反応を駆使している。

ミッチーのストライクゾーンは相当狭いはずで、さらに自分の自由気ままな性質をそのまま明かすとなるとさらにゾーンは極小になる。

そこを唯一射止めているのがノムなんじゃないかなと思った。

ノムと話していた時に私は言った。

「これから先ずっと死ぬまで2人一緒だったとして、仮に今から50年後も2人とも健在だとしても、ってことは93歳のノムも言ってると思うよー!
“ミッチー宇宙人でよくわからなくて…”って(爆笑)」

自分で言ってて可笑しくなったけれど、本当にそんな気がした。

ノムもそれに関して笑いながら、全く否定はしなかった。

なんかいいなぁと思った。

50年経っても、ノムはわかったフリをせずに、ミッチーもその時その時のミッチーのままで居続ける、そのスタイルで2人が共に生きる姿が目に浮かんだ。

愛を交わし続ける毎日を2人は今日も東京の空の下で続けているだろうし、いつかどこか違うところに行ったとしてもそうだろう2人がいると思う。

ノムが提唱した「みなさん、ホームって大事じゃない?」「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」は、これからどんなに時代が変わっても、絶対的に生き残る。

自己実現とか社会的ステータスとかの前に、まず個は個であって、さらにその個である時に究極欲しいものは「愛」だと思う。

「愛」なんて言うとわかりにくいけれど、少なくとも私がここに書いたものは「見える化」した愛、形になった愛の例だと思うし、なんとなく私でも他の誰かでも1つは真似できそうなのが良い。

すっごい難しいことじゃなくて、ちょっとがんばったら、ちょっと気を配ったらすぐにでもできそうなところが良い。

しかもこの中に書かれている愛は2種類あって、「自分が誰かに渡す愛」と「誰かから受け取る愛」がある。

どっちもとっても大事だと思う。

誰かを愛するというのもとても神聖で素晴らしいものだけれど、誰かの愛を受け取るというのも実はすごい可能性を秘めた愛だと思う。

なぜなら、誰かの愛を受け取るのは、その誰かのことも同時に幸せにするから。

自分の一方通行じゃなくて、相手も受け取ってくれるってすごい奇跡だし、すごい幸せなことだと私は感じる。

いきなり大きな愛を目指すんじゃなくて、とりあえずおはようと言ってみるとか、とりあえずごはんを2人分作ってみるとか、そういう日常の小さな積み重ねの先に本物の大きな愛が育つんだと思う。

ノムとミッチーが今回あてがってくれたタイトル『愛になる』は、まさに誰でも愛を持っているし、その愛と誰かの愛を組み合わせると『愛になる』、そして『愛になる』は『幸せ』にもなることを教えてくれるものだった。

ノムの声が聞こえてくる気がする。

「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」

ノムとミッチーが教えてくれた幸せは、そういう幸せだった。

2人の言う「しあわせ」は「幸せ」よりも「仕合わせ」の方が近い気がする。

自分たちも積極的に幸せになるように、仕合わせる。

そして、2人が言う「幸せ」は「愛になる」ということだと思う。



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『eat LOVE』より

DAY 6:
・ぼくは彼のことが好きなのか、愛しているのかよくわからない。
この感情をそんな風に言葉にしてよいのかよくわからない。
ただ、彼との暮らし、ぼくたちの生活をぼくは絶対に愛していると思う。

DAY 10:
・彼との関係に特別な目的も目標もない。
ただ、ただ、大切なものを恥ずかしげもなく大切にしていくこと。

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