ゴールデンウィーク明けてからだったと思うけれど、ブログとSNSの違いを書いている記事を読んだ。
基本的に、ブログからの情報収集が多い私にとって、一番見るサイトは圧倒的にブログで、次がホームページ系のサイト、その次に最近はツイッターとなっている。
インスタはやってないし見ることもほぼない。
フェイスブックはよほど用事がないと開かない。
ちなみにツイッターも私の使い方はかなり特殊だと思う。
私はツイッターのアカウントは持っていないし、そもそもツイッターがどういう表示をされるのか知らない。
私は特定の人物のツイッターを、特定のブログを見るようにして検索している。
だから私は、例えばAさんのツイッターならAさんのツイッターのみをずっとさかのぼって見て、BさんならこれまたBさんのものをひたすらチェックする方法を採っている。
ツイッターに関しても、ホロスコープならホロスコープの情報、ルノルマンカードならルノルマンカードの情報…という具合に調べるから、基本的に「NOW」的な、今現在の情報よりも、特定の分野における情報を調べるのに使う。
そんな風だから、ブログのヘビーユーザーの私にとって、ネット=ブログと言ってもいいぐらいにブログを使う率が圧倒的に高い。
だけど、ゴールデンウィーク明けてから目にした記事によると、今というのは種類別に言うとブログは圧倒的に使用者が少ないらしい。
他のコンテンツと比べても、書き手もだけど、読み手も少ないみたいなことが書かれていた。
YouTubeなんかの動画サイトもあるから、より一層文章を読むことがメインのブログは、時代の流れからして面倒というか手間がかかるもので、最近は下火みたいな書かれ方をしていた。
FacebookやInstagramをはじめとしたSNSがメジャーらしく、ブログはある種時代遅れのようだった。
何が言いたかったかと言うと、そんな風な時代の流れがある中で、私のブログに行き着いてくれた方たちがいるわけで、それってすごい確率なんだなと思った。
お役立ち情報でもない。
今の何かを書いているのでもない。
「無用の長物」という言葉が本当にピッタリなブログだと思うけれど、その生産性も有効性もゼロに近いこのブログをたとえ1記事でも読んでもらえるというのは奇跡に近い。
しかも、私のは長くて単なる独り言みたいな内容で、読んで爽快感とか高揚感も期待できない。
癒しでももちろんない。
定期的に読んでくれる人たちは、何が面白くて読んでくれてるんだろう…と大真面目に思う。
色んな人のブログを読むから薄々気付いているけれど、私のブログにはテーマがない。
通常ブログは、読み手やアクセス数を意識して書かれている場合が圧倒的に多くて、ホロスコープならホロスコープ、心理なら心理、料理なら料理、個人の飲み記録なら飲み記録…という具合にある1つの軸があってそれに沿って書かれる。
ホロスコープの人でも時々「こんなの食べた」とか「どこそこ行って良かった」みたいなのは書かれても、基本軸はホロスコープにきちんとある。
私のは日常のことから時間軸がない心の中のこと、出来事も書けば社会の風潮なんかも書く。
本当に一貫性もテーマもない。
強いて言うなら「一貫性がない」ことが私の軸と言ってもいいかもしれない。
そんなブログに縁あってたどり着いてくれた人たちとは、どれぐらいの確率でお互いに引き合うんだろう…と思う。
特にこのブログは、普通に発見できないのは何となく想像がつく。
このブログの大元のサイト、blogger経由で見つける人はほとんどいないと思う。
何年も使っているけれど、私はこのブログの管理ページしか知らないから、bloggerの他の方たちのブログの見方を知らない。
アメブロでも、livedoorブログでも、ハテナブログでも、他のブログでも、広告ページがあったり、オススメやよく読まれるブログの紹介がある。
bloggerはそれが一切ないから、画面がスッキリしていてとても気に入っているけれど、代わりに他のbloggerのブログをついでに見るようなこともない。
そうやって考えると、余計とこの私のブログとどういう経緯かを経て出会ってくれる人たちというのは、どんな確率なのかと思う。
ちなみに私がbloggerを使い始めた理由は、単に友達が「使いやすいよ」と教えてくれて、しかもたしかうちにわざわざ来てパソコン開いて、開設の仕方も懇切丁寧に教えてくれたからだと記憶している。
細かいことはほとんど覚えていないけれど、それまで会員制という閉ざされたmixiの中だけで日記を書いていたものが、ある時からmixiだけでずっと書いていくイメージができなくなった。
2000年代初頭からmixiを使っていた私は、mixiという守られたサイトが好きだったし、本当にネット初心者にはこれ以上ないきちんとしたマナーを守って人と繋がれるのが良かった。
だけど途中からツイッターやフェイスブックが出てきて、mixiもどんどん様変わりした。
もう古き良き時代の会員制サイトではなくなった。
その辺りから徐々に一般のサイトのブログに移行しようと考えて、それで最初に開設したのがこのブログだった。
このブログでオカルト的な体験談まで書くことになるなんて、開設当初は想像さえしていなかった 笑。
本当に単なる私の記録簿的なブログで、たまには特定の読者を想定することはあっても、基本はそれさえもない。
誰かに読んで欲しくて書いてるというのはほとんどない。
そんな風だから、本当の本当に、このブログに何らかの形で行き着いてくれた人たちというのは希少で、それだけで感動してしまう。
はっきり言って、砂漠で水の湧き出る場所を探し当てるぐらいの確率だと思う、私のブログに行き当たる確率は。
そんな風に考えると、これも縁と呼んでいいかはわからないけれど、この生きている人生の中で私と誰かが重なるって本当に凄いと感じている。
とても大げさに聞こえるかもしれないけれど、私はある時からある人がきっかけとなって、私のブログに目を通してもらうというのは、その人の命の時間をもらうことなんだと思うようになった。
どうしても欲しい時間があった。
本音はいっぱい欲しかったけれど、もうそんな量をたくさん希望できる立場にもなかったから、私はそれが1時間でもなんなら30分でも良かった。
それさえ叶わなかった時に、私の中で何か時間に対しての意味合いが変わるきっかけが訪れた。
誰かの時間の使い方は私が決められない。
私だけが欲してももたらされるものじゃない。
それが嫌と言うほどにわかって、そこから私は誰かの時間がもらえるというのは普通のことではないんだと深く胸に刻んだ。
誰かの命の時間に対して、私の書く内容は申し訳ないぐらいだけど、それでも何だか訳の分からないことが書かれているこの文章たちを読んでもらえるというのは、とても特別なことだと感じる。
私の中にしかなかったものを文章に起こして命を誕生させても、それが他の誰かの目に触れてその人の命の時間の一瞬にでもおじゃましに行くというのは、本当にすごいことだと思う。
しかも見つけてもらわないといけない。
そして読んでくれる人から、その人の大切な時間をこのブログに使ってもいいと思ってもらわないといけない。
そうした小さないくつものプロセスをくぐり抜けて、初めて誰かの命の時間とこの私のブログとが重なる。
手紙のように時差があるけれど、それでもいつかの私の時間といつかの誰かの時間が重なる。
私は多くの人に読んで欲しいというのはない。
でもこのブログを通じて、生きている一瞬の時間でも誰かと重なったら素敵だなと思っている。
これを書いている私も読んでくれている誰かもみんないつかは命の時間に幕を閉じる。
幕が開いている有限の時間に、一瞬でも重なる、何かが交わされる、それは奇跡としか呼ぶことのできないものだと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿