2019年4月10日水曜日
奇跡の果実* Lesson 14『“覚醒”の解説書』
『奇跡の果実⑧覚醒』 (←クリックするとリンク飛びます)
の解説書になります。
「解説書」と銘打ったものの、正しくは私がどういう意味で『⑧覚醒』を書いていたかの説明書き。
参考程度にしてもらえたら…という感じの説明書き。
文章を読んだ時に読み手の方たちの想像力や感性で受け取ったものが、私はそれぞれ一番ピッタリな解釈だと思っている。
だから、私の説明書きはあくまで書いた本人が見た世界の側の話。
書いてしばらくした後、『覚醒』の原本を写真に撮って霊視ができるOさんに見てもらったところ。
私1人で書いたものではなく、見えない世界のものと繋がって共同で書いていたと思われると分析してもらった。
私は丸っと自分の体験に基づいた感覚で書いている気でいたけれども、そうではなかったようで…。
そうした見えない世界のエネルギーも入っていたとするなら、それは余計と「他の人たちともシェアしてね!」という意味だと個人的には思っている。
これから書くことも、丸っと私の感覚で書くけれども、もしかしたら当時感じたままの話だから、私以外の何かから発信されてるメッセージも含まれているのかもしれない。
説明書きの方は、当時感じたままを書くのと、あとあれから約2ヶ月経ったその間でさらに深く理解できた部分も足しながら書く。
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覚醒=
自分に気付くこと
自分がどうしたいのか
自分にとって何が大切なのか
何が快で不快なのか
どんなことが喜びでどんなことが悲しみなのか
どんなことが怖いのか
何に対して怒るのか
何に涙するのか
そうした全てで形作られている自分というものに気付いていくこと
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↑この部分は、もう書いたまま。
私が『覚醒』という言葉を見て、私が思う『覚醒』、すなわち『自分に気付く』その状態やそこに至るまでのプロセスを書いてみた。
この中には、100%自分の感覚だけが詰め込まれている。
そういうものを大切にする先に「自分がどういう人なのかに気付く」と私は思った。
そして、私には自分の心の中を見まくって出てきた絶対的な答えが1つある。
【答えはすべて自分の中にある】
それを大前提として上の部分は書いている。
例えば文中に「大切なもの」というのがある。
これは結構きわどくて、自分の考えだけで「これ大切!」って思っているのか、そうではなく、気付かぬうちに周りの人たちや社会から刷り込まれたものを大切と思っているのか、その見極めは難しい。
他の人たちの意見や考えを取り入れるのも全然悪くない。
自分の心の琴線に響くものなら、それは自分のものにしていったら自分の感性もさらに広がる。
だけど、そうではない「普通は…」とか「…が当たり前」とか言われてることをそのまま自分に取り込むのは危険だと感じる。
だから、私が上の文章に込めた想いは、「自分自身がどう感じているのか、それを大切にしていくこと」だった。
誰かの受け売りとか世間から当たり前とされてる価値観じゃなくて、1人1人が自分の感覚で感じているもの、それが自分を知るためには絶対に大事だと思った。
それらを知っていくために、具体的にすることを表したのが、その後に続く部分。↓
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そのために内面を見ること
自分の感情を見ること
周りに登場する人物を見ること
その人たちと何を交わしているか
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↑基本的には、自分の内面で湧き起こる気持ちや感情を見ていくと、少なくとも自分がそれぞれの人やモノ、出来事なんかに対して、快なのか不快なのか、怒っているのか、楽しんでいるのか、そういうものは見えてくる。
わからなければ、「モヤっとする」でも「なんかスッキリしない」でも「何が良いかわからないけれどなぜか自分の中に残ってる」でも、とにかく自分の感覚を知っていくっていうのは、ものすごいヒントになる。
周りの人たちとの関わり合いについて書いているのは、相手を通して自分がどんな気持ちを抱いたり、一緒にいた時間に対してどんな気分でいたか、そうしたことを見るため。
清々しいものや心地よいものはそのまま自分の思い出にしたらいい。
だけど、不快や怒りなんかが湧いたら、相手の言動や行動に対して納得のいかない気持ちは気が済むまでそれを自分で消化するようにはするけれど、それが終わったら私はもう1つ別のことをしている。
その言動や行動のどこが嫌だったのか、何が気にくわなかったのか、そこを見ている。
人ではなく、言動や行動だけを切り取って見る。
そこにはまた自分にしかわからない、大切にしているものが何かと教えてくれるヒントがあるから。
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自分と他人を区別すること
本物の人たちに会うことで、その人たちにできること、自分にしかできないことに気付かされていく
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↑これは、生まれ持った才能や資質、自分自身というものを端的に言い表した。
今読み返すと、「うわっ、いきなり話飛んだな」と思った( ̄∀ ̄;)。
詳しい内容は、1つ前の記事『奇跡の果実*Lesson 13 才能や資質の特徴』にあります。
( https://viva-vivir.blogspot.com/2019/04/lesson-14.html?m=1 )
↑リンク飛びません
色々できなくて大丈夫で、自分を知るために人と比べるのはありでも自分を落ち込ませるために人と比べることはしなくて良くて。
自分を体現している人たちに出会っていくと、その人たちにできることとは別に、「これはもしかして私だからできる?」ということにも気付かされていく。
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みんなすぐに答えや結果を欲しがるけれど、そんなに簡単じゃない。
一朝一夕にできることじゃない。
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↑これは上に書いたことすべてを一応指してる。
自分を知ることも、自分の才能や資質に気付くことも、今日やって今日とか明日起きたらわかった!なんてことはまずない。
どんな小さなこと1つでも、今日1日自分のことで何か新たに知れたら御の字ぐらいで、そして自分に向き合うのがしんどい日も当然(たくさん)あるから、それは休み休み、自分のペースでやる。
思い出した。
これを何で書いたか。
自分を知っていくプロセスは時間も手間もかかる。
それはある程度やった今だからわかるけれど、最初はわからなさ過ぎてすぐに答えを欲しがった。
またそういう時に限って、何かの講座やセミナーに行くと「もっとわかるのかも!」と期待した。
実際期待させるような宣伝文句だったりもした(←すぐに責任転嫁( ̄∀ ̄;))。
でも、自分を知っていく作業は時間のかかることだし、そして今はそれが当たり前と思う。
時間かけてゆっくり知っていく面白さもわかるようになってきたし、それは自分のために一生やっていくことだというのも知りつつある。
話逸らすつもりはないけれど、今書いてて出てきてしまったから書く。
中年にもなって「自分探し」をするのはおかしいという文章を私は何回か読んだことがある。
自分探しをしているという感覚は今の私にはないけれど、側から見たらそう捉えられてもおかしくないことをしている自覚はある。
私は、年齢なんて関係なく、自分のことを知っていく行為は、いくらでもやったらいいと思っている。
自分を探すというよりも私は「自分を知る」ことをしていると思っている。
何でそうしているかって、私は自分を過大評価したり過小評価したり、甘く見ていたり、ないがしろにしていた時間がとても長かったから。
そしてそれだと気付かぬうちに自分に無理や負荷がかかってしまうとわかった。
だから、自分にそういうものを安易に与えないようにするためにも、「自分を客観的に知る」ことは大事だと思う。
私は20代の頃、臨床心理士の友達に会った時、何の話をしたかは忘れたけれど、普通に会っていなかった何年かの話をした時にポロっと言われたことがあった。
「史子、痛すぎて痛みがわからなくなったのかもね。痛みをわからなくすることで、その時を何とかしたのかもしれないね」
すごい優しい語り口調で言われて、私は泣きそうになった。
自分じゃ痛みを我慢していたつもりも無理していたつもりもなかったけれど、第三者から見てそういう感想になるわけだから、何かしらそんな空気があったんだと思う。
【ミラクル実況中継:上の臨床心理士の友達の部分、読み返してたタイミングで、本人から連絡来たーΣ(゚д゚=)
超ビックリして即返信したら、
テレパシーだね(笑)、と友達から返事きた。
やっぱり『覚醒』、何か持ってる気がする(o´艸`)
ちなみに、友達の話が可笑しかったからついでに紹介。
「さっき直太朗の曲を歌ってて、史子のこと考えてた(笑)」
何歌ってたの?と聞いたら
「『夏の終わり』
春の始めだけど(笑)」】
で、この意味を私が知るのはまたそれから数年後の話。
やっと「自分が無理してるかもしれない」と初めて思ったのが、30代半ばだったと思う。
そして、痛みを我慢していたとか自分が無理していたと本当の本当に知ったのは、この1年ぐらいの話。
最初は占星術の講座の時に、先生から「こういう特徴を持っている人たち」というくくりで説明された時だった。
基本的に我慢や無理が効いてしまうから、限界までブラックホールのごとく他者からのものを受け入れてしまう、というような説明。
私はあまり自覚がなくて、その時は参考程度に聞いた。
自分がその特徴をホロスコープに持ってるのはその時に知ったけれど、「私はそれに当てはまらない気がする」と他人事のようにして聞いていた…( ̄∀ ̄;)。
それからしばらくして、私は別々の時に2人の人から「ぶっしーは(メンタル的に)強いから・ポジティブだから」とか「ぶっしーは気にしないから話しやすい」というようなことを言われて、猛烈に違和感を覚えた。
私は確かに心が痛む経験の多さからメンタルは鍛えられたけれど、強いのとは違う。
そして、シレッと話を聞いていても実は否定的な気持ちも含めて違うことを感じてたりすることもあるから、何も気にしないのとは違う。
何でも話を聞いてるのではなく、ただ自分の本心を口に出さないだけの時なんかもざらにある。
私も気にすることは色々あるんだけどなぁ…なんて反発とは違うけれども、相手が言ってくれた言葉とは違う思いを抱いたのも本当だった。
そして、つい最近ホロスコープの調べ物をしていたら、またもやゴリ押しのように出てきた。
「このタイプの人は、一般の人の1我慢と自分の100我慢を一緒に考えている。けれど、実際は人の100倍我慢や無理ができてしまうから、自分じゃそれが普通だと思っていても、実際はすごい我慢や無理を気付かぬうちにしている」
20代の時に友達に言ってもらったことと自分のこととがやっと繋がってきた。
自分のことってあまりに当たり前すぎて無自覚でいることが色々あるけれど、今の私はその「無自覚」でいる部分を知っていくことが本当の本当に生きていく上で大切だと思っている。
それは何も私だけじゃなくて、基本的にみんな。
話が違う方に飛んでしまったけれども、ペンジュラムは書いてアップするのにYES・書かないにスーパーNOで、とりあえず書いた。
けれど、この部分をどう締めていいかわからないから、とりあえず次( ̄∀ ̄;)。
(↑こういうとりあえず自分の中に飛び込んできた言葉を即興で表現する性質が「言葉が降ってくる」とかいうものなのかもしれない)
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でもまじめに取り組んだら必ず何かしらはギフトとして贈られてくる。
ギフトは何が来ても基本的に拒否しないこと。
嫌なもの、苦手なものでも、一旦は受け取る。
受け取り拒否してもいいけれど、あとからもっとでかいものくるよ!(爆)
(↑自爆テロみたくなるから勧められない)
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↑出来事は色々起こる。
出来事や人を通して、自分を知ること、自分と向き合うこと、自分と対話すること、自分に自分の正直な気持ちを聞くこと…、そんなこんなをするうちに、自分の内側でも色んなものが沸き起こる。
大事なのは、その時の自分から逃げないことだと思う。
例えば、本当に自分にとって辛いのに逃げないのは違う、と今の私は思っている。
だけど昔は、色んなことから逃げちゃいけないと思っていた。
例えばだけど、一緒にいると自分がいつも傷付いてしまう人間関係があったとして、そこに居続けるのは向き合っているのとは違う。
言い方を変えると、状況からは逃げていなくても、自分の傷や自分の痛みから逃げている。
だから表面上の行動はまるで逃げていないみたいでも、自分の本当の気持ちからは逃げている。
大人になるにつれ、「逃げない」の定義が徐々に変わってきた。
自分を守るためなら「その状況から離れる」ことや「その関係を終わらせる」ことが、本当の意味での「逃げる」になる時もある。
それはもう「逃げ」ではなくて、「向き合った」ことになる。
大事なのは、離れる・終わらせると決めるまでの自分の1つ1つのプロセスと、自分が何を大切にしたのかを見ること、そしてどんな行動を選んでもその選んだ自分を自分が受け止めること。
自分の気持ちが苦しくなってしまうものからは、誰でも逃げたくなる。
でも、そのことたちと向き合うと、何かしらは自分にとって心地よいものの方向に舵は切られる。
渦中は強烈でも、過ぎ去ると向き合った相応のものは来る。
反対に自分の気持ちを無視した場合、その気持ちに気付かせるためにもっともっと強烈な出来事が送られてきたりするから、それを私は「自爆テロ」と呼んだ。
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でも、きたものきたもの、とりあえず開封していくと、その時には気付けなくてもあとから気付く時がくる。
その時は「ムリーーーーーーー!」となっても、いつかそのことたちが、その出来事たちが自分に寄り添ってくれる日がくる。
それはどんなに辛くて苦しくて自分が下しか向けない、
もしくは目を閉じてなかったことにしたいぐらいのことであったとしても。
そうしたことたちが、いつの日か自分に一番のパワーをくれるし、そしてそれは内容が辛く苦しいものでも、それと同じ位の大きさの大切なものを自分の元へ運んできてくれる。
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↑これだけは私は超絶自信を持って、そうだと言い切れる。
史上最悪なことや自分の人生で超黒歴史となっているもの、そうしたものたちこそ、それを体験した自分に全力で寄り添ったらプレゼントが来る。
マイナスの数値がでかければでかいほど、それと同じプラスが来る。
ただし、これには1つだけ条件がある。
その自分に全力で寄り添って自分をとにかく受け入れて、その上で自分から気付かないとプラスは一生気付かれないままになる。
これは他の人は教えてくれない。
ヒントはくれるかもしれないけれど、自分だからこそ自分で気付ける。
そんなこと起こらなきゃ良かった、こんなこと経験したくなかった、その気持ちのままでOK、大丈夫、問題なし!
だけど、それを体験してしまった自分、居合わせることになってしまった自分に全力でとにかく寄り添うことだけは絶対にやりきる。
自分は悪くないとか、誰それのせいでとか、相手がこうしてくれたら・変わってくれたらいいのにとか思っているうちは、絶対にプレゼントは来ない。
自分は悪くないって思いたい自分もいていいし、
すごい嫌だったよその体験、今でも起こって欲しくなかったって思ってていい…
それで本当にいいよ!!!
そう思ってる自分で、ひねくれてたり、あきらめていたり、誰かのせいにしたい自分で、その自分で本当の本当にいいんだよ!!!
って自分に本気で言えるようになったら、そしてそういう自分を否定せずに自分の中でそういう自分にも居場所を作ってあげたら、プレゼントは来る。
とにかく自分を、特にダメだと思っている自分を否定しないで、そういう自分もいて自分だとわかってくると、本気の癒しが起こる。
自分でその癒しは起こせる。
最悪な出来事は最悪なままでも、それを体験した自分からものすごいプレゼントが自分に贈られてくる。
そんな自分でもいていいよって、そんな自分でも生きてていいよって、そういうような自分肯定系の温かいものがやってくる。
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人生には希望があると知った。
何度も何度もあきらめたくなった人生。
もういつ終わってもいいと思っていた人生。
自分の人生で起こってくることたちに対して、本気でクソくらえ!と思ってた。
何かを恨みたくて、誰かの何かのせいにしたくて、汚い自分、ひどい自分、そういう自分なんかいなくなればいいと本気で思ってた。
逆だった。
そういう自分こそ大切にしてあげること。
世の中から味方が全員消えたと思うような瞬間でも、誰にも頼れないと思って布団にもぐって小さく縮こまってた時でも、自分だけはそこにいた。
ずっとずっとそこにいた。
その時の自分を大切にすること。
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↑理解できないことはたくさん起こるし、世の中のスタンダード的な生き方はできないし、自分が本気で望んだことはことごとく叶わないし…。
ネガティブな自分や切り替えが下手くそな自分、いつまでも根に持つ自分や全然良い人ではない部分の自分、汚い自分や情けない自分…、自分のドロドロ具合に知れば知るほど嫌さ加減が増した。
だけど、色んなことを経て、色々難あり問題ありの自分もそのままでいていいんだ、ということがやっとやっと掴めるようになってきた。
そして、色んなことがあっても、気付けば自分だけはずっと自分といるんだな…って。
布団に潜り込んで現実逃避中だろうが、人に酷いことして自己嫌悪中だろうが、人生今すぐ終わって欲しいと思うぐらいの嫌なことがあろうが、どんな時も自分だけは常に自分といる。
もう誰に認められなくても、誰に愛されなくても、自分だけは自分を大事にできるようになりたい。
そう思えるようになったのが、今から3年ないし4年前だった。
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もうダメ!と思ったその時こそが本当はチャンスだということ。
自分に出逢うチャンスだということ。
自分と分かち合うチャンスだということ。
やっと自分の方に向いてくれたね!という瞬間であること。
どんなにダメになっても、生きている限り、
自分だけはずっと自分にチャンスを与え続けている。
自分だけは、本当の自分に気付いてくれるようにずっと黙って待ってくれてる。
文句も言わずに、じっと静かに、ひたすら待ち続けてくれてる。
だから人生には希望がある。
“人を生きる”ーー自分を生きる限り、それが史上最悪の自分であっても、そこには必ず希望がある。
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↑世の中や誰かから認められるために頑張るのも嫌になって、散々嫌な自分にも気付きまくって、もう落ちるところまで落ちた時。
自分を大事にしたいと思うようになった。
一番カッコ悪い自分、一番ダメだと思う自分、そういう自分と生きていく覚悟さえあれば怖いものなしだなって。
その最低な自分で生きていく生き方を作っていく方が、私は上手く生きれる気がした。
そして気付いた。
色々納得のいかない別れも、周りから理解されないどころか非難されても、それでも自分だけは残ったこと。
何だかんだ、一番辛抱強く自分といるのも自分自身なんだなぁと思った。
自分と二人三脚で行けるかもしれない…、それが私が見た希望だった。
これから先も色々やらかすだろうし、思い通りではないこともあるだろうし、誰とも分かち合えず本当に孤独まっしぐらな人生かもしれない。
私が言う孤独は、「本当の意味で分かち合えない」という意味での孤独。
孤独は大切なものだと思うし、孤独が教えてくれることもたくさんある。
人と人とは分かり合えるとか分かち合える方がそもそも難しいことも知っている。
だから人と分かり合えるなんて超奇跡だと思っている。
でもそういうことじゃなくて、違っていてもお互いにお互いがわからなくても、それでも究極何か繋がりを感じられたら…という私が欲しいものがあって、でもそれは手に入るとは限らないから、だから「誰とも分かち合えず本当に孤独まっしぐらな人生かもしれない」と言葉にした。
たとえそうだとしても、それでも生きていく力が自分にはある気がしたし、色々気にくわない自分もいるもののその自分で生きていくしかないか…という良い意味でのあきらめが生まれた。
生きることも下手くそだし、心の葛藤も酷いものだったけれど、これから先だって何の保証もないけれど、それでもどこか希望みたいなのを感じた。
自分と生きていく、自分を生きていく、言葉にするとそんな風な希望。
[写真ストーリー]
3℃の夜空の下で咲く桜。
この春初めて見た桜。
25年前の春、高校生になったばかりの教室で私の左斜め前に座っていた女の子。
その娘が、この春高校生になった。
高校生活2日目だった昨日、席が前後になった子と一緒に部活見学に行ってきた、と話をしていた女の子を見て不思議な気持ちになった。
25年前の私は、まさかその左斜め前に座っている子とその後25年もの付き合いになるなんて思ってもいなかった。
そして、彼女のおなかに宿った新しい命が、私が人生で大人になってから初めて抱っこさせてもらう赤ちゃんになるなんて、当然予想なんか一切できなかった。
そして私の手で抱っこした赤ちゃんと10数年後再会して、その子の英語を見るなんて、もっともっと想像できなかった。
「女の子だったら名前は『さくら』にする」
生まれる前から知っていたその小さな命の名前。
その下に続くもう2人の子どもの命。
下2人はちょうど星座の境目と境目に生まれてきていて、星座が何座なのか微妙なんだよね、と友達が私のオカルト体質をカミングアウトした最後の家庭教師の日、何気なく言った。
占星術を習ったから出生時間教えてくれたら調べるよと言った。
調べてよくよく見たら度肝を抜かれた。
さくらたち3きょうだいと私とは、それぞれ親子かと思うぐらいに強力な縁が互いにあると知った。
さくらなんて丸っと互いの魂のテーマとされる部分と何か他の天体とがピッタリと重なっていた。
元々深い縁がお互いにあった。
血の繋がりはもちろんない。
まるで血縁縁者みたいな重なり合いだった。
未来予想するわけじゃないけれど、私はもしかしてこの3人の子たちが大人になったある時にまた再会するのかもしれないなぁ…と思った。
特に下の2人は、了解を得て友達にもそれとなく伝えたけれど、2人とも特殊な生き方、それこそその子しか他にできる人はこの世にいない何かを成し遂げていくぐらいの特殊な相を持っている。
さして知識のない私が見て気付くぐらいだから、きちんと見たらもっと色々出てくると思う。
そしてそうしたホロスコープの子たちと私とがまるで血縁縁者のごとく繋がっている。
友達に友達の3人の子どもと私がホロスコープですごい繋がっていた!とLINEしたら、「(昨日)ブッシーがいても我が子たちのマイペースさにビックリ!なんかピッタリ重なるのも納得かも!」と来た。すごい嬉しかった。
昨日の友達の言葉を思い出してた。
「うちの子たち、ぶっしーに懐いているから!」
ちなみに私はそう聞くまで知らなかった。
何百人と見た子どもたちの中で、さくらはやりとりするから別としても、下2人は一番懐かれてる感を感じられない子たちだった 笑。
でも言われてみれば私にお茶やおやつを運ぶ時は、それまでテレビかゲームをしてただろうに毎回嬉しそうに持ってきてくれてたなぁとか。
あとは、その子たちは私がいつ行っても、素のままで、親子ゲンカで怒る姿もやらかしてる姿も、本当に普通に普段のままでいて、気を使わないのもだけど、無意識下で普段のままでいてどんな姿を見せても私は大丈夫って感じてくれてたのかなぁ…なんて思ったら、とっても嬉しくなった。
私には自分の中で小さな願いを持っている。
今子どもとされる子たち、もしくは出会った最初に子どもだった今は大人になりつつある子たち。
その子たちが大人になる時に、私が人生で大迷走をしたように何かに迷って、もしくは私みたいな体質で困ることが出てくることがあれば、その時に何かしら縁が出てきて私にできることがあれば目一杯しようと思っている。
それはホロスコープの読み解きからわかることを伝えることかもしれないし、他の何かかもしれない。
迷走することで付けた知恵は占星術含めたくさんあるから、それは心おきなく渡そうと思っている。
今年の春の初桜は、15年前さくらという可愛い赤ちゃんだった女の子の、高校生になったばかりの姿を見に行った日の帰り道に見た。
今年の桜ストーリーもまた素敵になった。
命と命が出会うことの不思議さと深遠さを感じながら…。
今日は前橋や東京の八王子で雪が降った映像がテレビで流れていた。
桜のピンクと雪の白が織り成すコントラストがとてもきれいだった。
人との出会いも、桜と雪の融合も、すべて一期一会なんだよ、と教えられてるみたいだった。
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