2019年4月5日金曜日
奇跡の果実* Lesson 12『才能・資質に気付くプロセス』
〜関連記事〜(それぞれタイトルクリックするとリンク飛びます)
自分を大切にするレッスン
自分を大切にする
傷を癒す
ネガティブな自分との自己対話
カルマの解消
【自分を知ること】で自分を癒す
【才能・資質・強み】について、書く準備が整ったから今回はその話。
・定義の紹介
・才能や資質に気付くのに必要なプロセス
・才能や資質の特徴
の順に紹介したい。
プロセスや特徴は、私の実体験から気付いたことを中心に書く。
個人的な想いとしては、私が数年前自分の資質や強みを知りたくて躍起になって色々読み漁ったり診断を受けたりした時に知り得た「才能・資質」の特徴とはけっこう違っていたなぁと感じる。
私が特にこの1年で気付いた自分自身の才能や資質は『無理がない』ものだった。
ただし、【無理がなく普通に当たり前にあったもの】を自分の資質として認めるまでには、すごい抵抗と自己否定とその他諸々の負の思考パターンとの戦いも数知れずあった。
私的には、認めるまでの方がきつかったなと感じる。
だから、あえて「プロセス」を紹介するのはそうした理由から。
そして何百人の人たちにその人独自の強みや才能を伝え続けてわかったことは、本当に9割の人たちは受け取らない。
潜在意識の深いところでは受け取っているのかもしれないけれど、目の前では「そんなことない」とか「まだまだ上はいるよ」とか「そんなのみんな普通にできて当たり前」とかいう返信率の高さ( ̄∀ ̄)。
私もそうだったから普通にわかる。
特に大人の人で社会人生活・大人歴が長い人ほどその傾向が強い。
あと個人的に大事だなと思うのは、子どもはさておき大人の場合は、一旦「経済的な視点(稼げる稼げない)」とか「社会の中でのお役立ち度」とか「効率・能率」とかいうものを脇に置くこと。
才能や資質と経済活動をいきなり一緒に動かそうとすると、ちょっと歪みみたいなのが出てくる。
せっかく見つけても「稼げないなら要らない」みたいになって、ボツになりやすい。
本当はそういうことじゃないというのも、次回の記事で話す予定。
社会の中で役立ってなんぼみたいな指標で才能や資質を見つけようとすると、ものすごい遠回りになる(←私は必要な経験をしたとは思うけれども、同時に遠回りでもあったなと感じる)。
才能や資質を、社会に普通にある効率や能率で測ろうとすると、これもまた本末転倒になってくる。
これは私の超個人的な見解だけど。
これまでは国や経済界が推奨するようなある一定の経済発展や社会発展のために、生産性を提供できるような人材育成を目標とした教育が行われていた。
これは国レベルでも地域レベルでも家庭単位の個人レベルでも、そういう流れが普通にあった。
だから私が子どもの頃は、目には見えないスタンダードな生き方やしあわせがあって、それに基づいた「みんなが同じ方向を向く」ことを良しとされていた。
だからはみ出し者は非常に生きづらいし、ある一定のレベルに達しないと能無しみたいな扱いになったりして、色々やりづらいことが普通に社会の中にあったように感じる。
うまく適応できる人は良いけれど、私は不適応だらけで、色々とズレてる自分の修正に学童期は忙しかった。
そう、私はズレてるところをそのままにするのではなく、社会のものさしで正しいとされる方に自分を合わせることを強いられる場面が数多くあった。
没個性の時代と呼んでもいいと思う。
ところが時代は変わって、誰でもできる仕事はロボットや機械が請け負う流れがどんどん主流になっている。
だから、これまで人間がしてたことをロボットたちがしてくれる時代に変わりつつある。
そうなると今度は、個人が個人として生きる時代になる。
そうした時にスポットライトを浴びるのが、それぞれの人が生まれ持っている資質や才能の部分だと思う。
それはどの人も唯一無二の非常にユニークな形をしていて、それこそが今度は求められる時代にどんどん移行していくと思う。
ちなみに占星術界では、みんながみんなと言ってもいいぐらいに口を揃えて言う。
「個人を生きる・自分を体現して生きる時代」だと。
先月2019年の3月から正式に天王星が牡牛座に移行して、これから約7年は天王星牡牛座時代になる。
天王星は、これまでの流れを一新・革新する流れを(強制的に)もたらす天体で、牡牛座は個人に備わった資質や五感を研ぎ澄ませる・大事にする星座になる。
その2つを組み合わせた時に、牡牛座はお金の稼ぎ方に関しても影響する部分で、これまではお金を稼ぐために何をするかだったのが、そのままの自分を使ってどうお金を生み出していくかがこれからのテーマになる。
だから、全く真逆の経済活動がこれからはますます推進されるわけで、要は個人の資質がもっともっと注目を浴びることになっていく。
みんなと同じではなく、1人1人その人にしかない才能や資質を表現していく、そういう時代になる。
みんなが個人事業主や経営者になるとかいう意味ではなく、たとえ組織の中で働く場合でも、本人の適性が一番活かされる働き方・部署が今後は重要視されてくのかな…とこれは予想だけどそんな風に思う。
もっと細かく知りたい方は、「天王星 牡牛座」とか「天王星牡牛座時代」とか入れて検索すれば、詳細な情報がヒットします。
そんなこんなを踏まえて、私が今ここに来るまで一通り体験した自分の資質や才能に関して知り得たプロセスや特徴をそのまま私の視点で書きたいと思う。
【才能や資質の定義】
最初に定義を辞書やグーグル先生で調べたから、それについて紹介。
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資質…生まれつきの性質や才能
素質…生まれつき持っていて、性格や能力などのもとになるもの
才能…物事をうまく成し遂げる優れた能力。記述・学問・芸能などについての素質や能力
強み…実力などがあって、他との競争に負けない誇りに出来る点
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定義を見た場合、私が今これから話そうとするのは【資質】や【素質】の部分だとわかった。
だけど、「資質」や「素質」と言うと、世間的な認識とのズレをすごい感じるから、あえて「才能や資質」という言い方でいこうと思う。
だって、才能開花とは言っても、素質開花とか資質開花とは言わないから。
強みに関しても「競争に負けない」というのが、個人的に違和感がある。
スポーツなんかの勝負の世界ならわかるけれども、一般社会や日常にも勝負を持ち込むとかなり辛いものがある。
しかも、今時代が変わってきてるから、おそらく言葉の定義も変わってくると思う。
例えば最近見たニュースの中に、トヨタがプリウスとかの電気自動車の設計や技術に関して、世界に公表していく決定をしたというのを見た。
これまでは、それこそ競争原理に基づいていち早くそうした技術開発に励んだわけだけど、これからの時代、環境への配慮も含めて全世界での取り組みが必要で、その一端を担える電気自動車の技術を幅広くシェアしてみんなで良くなっていく方向に進んでいきたい、そんな内容だった。
ひと昔前なら自ら技術を公開するなんて自殺行為のように見られたかもしれないけれど、これからは違う。
シェアすることが一般的になっていくだろうし、そうした良いものをみんなでシェアできるその考え方こそ強みに代わっていくと思う。
競争ではなく共存を打ち出した取り組みだなぁと感じながら見てた。
【才能や資質に気付くのに必要なプロセス】
これから書くプロセスは、才能や資質に気付く前に必要なプロセスではあるけれど、そのプロセスを終了しないと気付けないということではない。
才能や資質に気付く・磨くのと同時進行できるもの。
ここではサクッと紹介して、細かいことは冒頭のリンク先の各記事に書いたから割愛。
☆才能や資質に気付くのに必要なプロセス☆
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1:自分を大切にする
2:自分の心の傷を癒す
3:自分に興味を持つ
4:ネガティブな自分がいると気付く
5:直観力を鍛える
↓↓↓↓上のことたちをすることで↓↓↓↓
【自分の才能や資質を受け取る器が用意できる】
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才能や資質と上に書いたことたちは、一見すると関係性が見えない。
私は才能や資質に気付くために上のことをしたんじゃなくて、結果的にそちらをしたことで才能や資質に気付けたから、それらがめちゃくちゃ大事なんだということがわかった。
才能や資質に気付くプロセスとして、上のようなことを提唱している人たちには、私は残念ながら当たらなかった。
世の中でよく出回っている才能を発見・発揮する方法は、いきなり才能・資質を発見しよう!的なスタートからの説明が多い。
私も実際にそういうスタートで入っている。
何の抵抗や不安もなく自分の才能を伸ばす方にいけた人はそれをじゃんじゃんやればいいと思う。
私みたいにそれだけでは全く上手くいかなかったタイプの人、「自分のそれって才能なの?」「私に才能なんてあるの?」みたいな傾向を持っている人たちは、私が上に書いた5つのことは必要なプロセスだと感じる。
私は色々上手くできない自分や時間ばかりかかって遠回りしてるかのような自分のことを責めたりもしたけれど、今振り返るとそんなの責めなくて良かったと思う。
人それぞれプロセスがあって、私のように他のプロセスが必要な人はそれをするだけで、速いから良くて遅いからダメなんてことは絶対にない。
才能や資質の特徴で詳しく書くけれども、どんな才能や資質も、大前提として、本人が気付いて受け取らないことにはどうにもならない。
(↑この部分は次回書くことに変更)
いくら周りがそれあなたの才能だよって教えてくれても、本人が受取拒否している間は絶対に開かない。
受取拒否する理由は色々あるにしても、その部分を癒す必要があるし、そこが癒されてくると受け取れるようにもなる。
自分を大切にするとか心の傷を癒すとか、そういったことは最終的に【自分の才能や資質を受け取る器】になってくれる。
器は元々持っている。
何もどこかのセミナーやセラピーを受けに行かなくても、あなたの潜在能力を引き出します的なグッズを買わなくても、器そのものはみんなが持っている。
だけど、自己否定や自己卑下、怖れ、不安、心配、自信のなさなんかでいっぱいになっていると、もれなくその器もそちらでいっぱいになっていく。
そしてそうしたものたちは、才能や資質がすぐ近くにあっても、「そんなことは誰でもできる!」とか「そんなの普通でしょ」とか軽く見て、言うなれば本人から無視されてるみたいな非常に残念な流れを生み出す。
だから、その他のものでいっぱいになっている器を整理して、それで本当に必要なものを受け取れるようにしよう!という感じ。
ここでは上に書いたことたちが、どうして才能や資質の発見と関わるのかを簡単に説明したい。
1:自分を大切にする
・才能や資質を日々大切にできるのは本人だけになる。それは才能や資質以外の部分も大切にする、要は自分そのものを日頃から大切にすることと繋がっている、と私は思っている。
2:自分の心の傷を癒す
・「自分には価値がない」とか「何をやっても人並みかそれ以下でしかない」とか、色んな体験を通してそのように思ってしまうことも多くの人たちはある。
そうした時に、そう思ってる自分を責めずに、まずはそう思ってる自分を受け入れることが大切。
そうした負のものが受け取れる・認められるようになると、才能や資質といったプラスのものも受け取れるようになってくる。
3:自分に興味を持つ
・自分の内面では何を考えてるのかな?とか、自分にはどんな資質があるのかな?とか、とにかく自分に興味を持つ。
その興味関心のスイッチが入れば、それが自然と行動に移される。そして、その行動した先に才能や資質との出会いがある。
(無理矢理行動するのは無駄ではないけれども、武士俣分析によるとそれは外側ばかりを探してるようなものだから、大概見つからない)
4:ネガティブな自分がいると気付く
・ネガティブモードになっていたりネガティブ思考が働いていても、「ネガティブになってる」と気付くことが大切。
そうした自分を無視しなくなると、自分を大切にするようになるし、そしてその大切にする先に才能や資質が登場したなぁと、これはあくまでも私の体験談。
5:直観力を鍛える
・感性を鍛えるでもいいと思うけれども、とにかく才能や資質はともするとあまりに当たり前にできてたりするから、当人は気付けない場合が往々にしてある。
そこに気付くには、そうだと気付く自分の感覚が大事になるから、そういう意味で直観や感性を磨くのは必要な要素だと私は思っている。
【才能や資質の特徴(前編)】
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前編:才能や資質について、私自身が自分のものに気付く前に勘違いしていたことと実際のことのその差。
後編(別記事):私自身が自分の資質や才能に気付いた後に「これ特徴だな」と気付いたもの。
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今回は6個の才能や資質の特徴を紹介。
どれもこれも、私の勘違いとか実体験から学んだこと。
【1】
才能・資質=
評価されなければ、
役立たなければ、
お金が稼げなければ、
ダメだと思っていた。
才能・資質の初期段階は、ものによってはすぐ評価されることもあるけれど、私の場合はそちらの体験は少なかった。
場合によっては、周りの人たちから理解されず否定されたり軽々しく取られたりすることもある。
特に初期の段階は自信もないもんだから、周りの人たちの評価が気になりやすいし、自分もそれに左右されやすい。
だけど、今だからこそ私は思う。
評価や価値と才能をイコールにしない方がいい。
プラスの評価に変わった時は評価をありがたく受け止めたらいいけれど、そうではない時に、評価されなかったからとか軽々しく扱われたからと言って、せっかく見つけた才能や資質に蓋をするのは本当にもったいない。
上のことに相反するみたいな話だけど、役立つ・役立たないを決めるのは相手だから、それを自ら「役立たない」と決めつけることも極力避けたらいいなと思う。
多分世の中で誰よりも評価が厳しいのは自分自身だから、自分から「ダメ」とか「役立たない」と決めつけて、今開こうとしている才能に蓋をしないことが大切だなぁと感じる。
そういう意味でも、「ネガティブな自分に気付く」というのが大事になってくる。
お金を稼ぐことと自分の才能や資質をイコールにすると、いける人はいいけれど、私のように色んなお金に関する間違った思い込みとか自己評価の低さからおかしな方向に向かうことも往々にしてある。
要は、【才能・資質】は【才能・資質】だけで独立させて、そこに私が書いたような評価だの価値だのお金だのというところは、一度切り離した方が純粋に育っていく感じがする。
評価や価値に繋がったり、役に立ったり、お金稼をげるようになったりというのは後の話だから、そこをいきなり最初から全部一緒にしてしまうと、才能や資質が育つ前に自らの手で蓋をしてしまいかねない。
最初はそれぞれを独立させて見てあげた方がいいのかなと感じた。
【2】
受け取りやすい形で才能・資質に気付く
ペンジュラムを使うことも他人の潜在意識や魂からメッセージをキャッチすることも、どちらも最初は受け取りやすい形で来てくれた。
もし、ペンジュラムに出会った最初が
「これで死者と繋がります」
なんていう但し書き付きなら絶対に手をつけなかった( ̄∀ ̄;)。
もしくは、他人の潜在意識や魂からメッセージをキャッチする体質的なものが、
「人の生死に関わるものに発展していくでしょう」
なんて言われたら、絶対の絶対にやらなかった。
私はどちらの時も「興味を持った」から、すっと入っていけた。
ペンジュラムをお店で初めて見た日は、多分30分はそこにいたと思う。(1時間ぐらいいたかもしれない)
しかもそこにずっといたら怪しまれると思って、たしか一度店を出て時間を置いて再度また店に入ったと思う←どっちみち怪しい( ̄∀ ̄;)。
見た瞬間、*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*☆*:.。. o(*´꒳`*)o .。.:*☆とかなってたと思う。
幸い、店員さんがいるレジからは死角になっていて、私は思う存分そこでペンジュラムと遊んだ。
しおりを探しに行ったんじゃないのか?という話で、用事そっちのけでそれを見ていた。
他人の潜在意識と繋がった時もそうだった。
初めて自分でもわかるぐらいに相手の人の今悩んでることに対するヒントをキャッチした時、相手の人も大きく悩んではいたけれども、少なくともそこには静かで穏やかな時間が流れていた。
肌寒い中、桜の花が満開でそれを見ながら話を聞いてた。
怖い感じもなければ、伝えた相手もとても私が話しやすいやすい雰囲気を持ってる人だったし、さらにその人もスピリチュアルな話とかに抵抗が元々ない人だったから良かった。
そういうスタートだったから、私も素直に起きたことを受け止めることができた。
その後もっと色々手広くしていくようになるけれど、どの時も単純に「この方法を試してみたい」という純粋な気持ちでやっていた。
それから何ヶ月かして、私が仕事的にするものが人の命(生死)にまつわる部分だと占星術の先生からその可能性を教えられた。
聞いた時に、重たいとは思ったけれども、多分こういうことかなぁ…というのは頭に浮かんだ。
過去に私が関わってきた人・世界がまさにそういうものだったから、「死」というよりも「生きる」ことそのものに直結している。
ちなみにその話の後に、山で行方不明になった人をペンジュラムで探して欲しいと依頼が来た。
先生のあの言葉がなければ、私は実際に引き受けたようには引き受けられなかったかもしれない。
すごいまとめ方だけど、才能や資質に関わる部分は、知るごとに色んな情報がもたらされていく。
それらの情報も含めて、然るべき形で然るべきタイミングでお知らせはやってくる。
要は本人が一番受け取りやすい、そして受け入れやすいように整えられてやってくる。
【3】
才能として開花するための経験もセットで付いてくる
才能に気付くための経験や才能を生かすための経験は、人生のどこかで体験するようになっている。
「書く」ということに関しても、これは私の1つの資質だと思っているけれども、その中でもとりわけ「話を聞きながら要点をまとめてメモをする」ことが他の人たちから見て才能になるとわかったのは、32歳ぐらいの頃だったと思う。
これはある種後天的に身につけたものではあるけれども、大学では板書がなかったから、ひたすら教授の講義を聞いてノートを取ることが求められた。
それを4年間続けた。
だから、話を聞きながら頭の中で要点をまとめてそのまとめた内容を書くことは、鍛えられたから得意になった。
30代前半、1年から1年半近く、月1ぐらいのペースである本の勉強会に出席していた。
毎回必ずグループで話し合う時間があって、そしてその後みんなの前で代表者が発表する流れにいつもなっていた。
私はその発表とやらが本当に苦手で、いつも上手い具合に避けていた。
司会進行してもいいから、発表が嫌だった。
何が嫌かって、それぞれの人が全然違う意見や考えを言うのに、それをまとめろなんて無茶な話だった。
それをするぐらいならその時だけ適当にやっておけばいい司会の方が楽だった。
ある時とうとう回ってきてしまった。
その時私はまとめることはやめて、「Aという考えとBという考えとCという考えとDという考えが出ました」と、自分のメモをそのまま読み上げて発表した。
苦肉の策でしかなかった。
ところが発表が終わると、グループの人たちから盛大な拍手喝采が湧き上がっただけではなく、その中の1人がわざわざ口に出してみんなの前で言ってくれた。
「ぶっしーは、私たち1人1人の意見をそれぞれきれいにまとめて、それを全員分その言葉通りに発表してくれました!」
全員で20〜30人ほどいたと思うけれども、その全員からも拍手を送ってもらった。
私は本当に驚いた。
特別なことどころか、私としては何とかその役をこなすために自分ができることをする他なくてそうしただけだった。
ところが、それは誰でもできることではないということをその時初めて知った。
『奇跡の果実』シリーズでも他の人たちとの会話のシーンが時々出てくる。
全部ではないけれども、本人の話したことを私がメモしていた場合は、メモに書いたことをそっくりそのままブログに転記している。
言葉は基本聞いたままの言葉だから、その場合は本人の言葉そのままを書いている。
何せ普通にできるから、私はそれを言われるまで才能だなんて思ったことさえなかった。
だけどそれが自分の人生で必要な才能の場合、それが自分にできることの1つだと気付く体験とそれを活かす場面もどこかで経験することになる。
私が今書いたみたいなタイプの才能や資質は、それぞれの人がそれぞれ固有のものを持っている。
必ずそういうのに気付くタイミングというのがある。
それは他の人たちから知らされる場合が多いかもしれないけれど、とにかく知る時がくる。
そして、一度気付くと不思議なもので、それがその後色んな人たちから評価される場面が増える。
この私のメモ書きに関しては、私はその後から今に至るまでかなりな回数、色んな人たちから評価してもらえた。
いつだったかよくよく思い返すと、大学の時にも一度か二度だったと思うけれども、クラスメートからノートを貸して欲しいと言われた。
話したことない単に顔見知り程度の子から言われて、私は構わなかったけれども他の人の方がいいんじゃない?と最初返した。
なぜなら私のリスニング力ではかなり怪しいノートに仕上がっていると思ったから。
でも彼女は「あなたのものがいいのよ!」と返してきた。
あなたのノートよくまとまっているから、みたいなことを言われた。
一度自分の資質に気付いてからは、過去にもそういえば…みたいなことを思い出すようにもなった。
『才能に気付くための経験や才能を生かすための経験』のもう1つ別の例を紹介したいと思う。
私は自分が聞き上手だとは思わないけれど、とにかく色んな人たちから色んな話を聞く。
話を聞けば聞くほど、人生には色んなことが起こると知ったし、それを体験している本人には計り知れない苦悩や苦悶があることもわかった。
誰かからその人の人生の秘密の話を聞く時。
その時は、すべて自分の考えや世の中の常識とかを捨てる。
それは正論であっても、それが相手にとっては凶器になることもあるから。
非常に受け入れ難いことが起こったとする。
これは実際にあったこと。
ある子どものお母さんが、「子どもの名前を改名することになりました」と私に言ってきたことがあった。
本当にありえない理由だった。
お母さんは、もしこれが自分のことなら絶対にそんなことしないし、個人的には本当にしたくないと言われた。
でも、そうはできない事情、第三者からするとしょうもない事情だけど、お母さん1人の力でどうこうできるレベルのことではなかった。
だから、そのありえない改名の流れを受け入れる他なかった。
そんな時に自分の正論なんてかざせない。
また別の時は、自殺未遂した人に会った。
心理の講座見学の場で聞くことになったけれど、もう講座どころではなくその人に目が釘付けになった。
なんだか不思議な気分だった。
目の前で生きている人は、死にかけたけれど死ねなかった人で、そして自ら死にかけたことで猛烈に反省をしたのかもうやらないとは言っていた。
第一発見者は一緒に住んでいた彼女だと言っていた。
そんな大切な人がいるのに死のうとするその気持ちは私には全く理解できなかった。
だけど、私には理解できない彼しか感じられない苦しみがあるだろうことは想像した。
少なくとも普段から自殺願望が強いというより、その時は色んなことがどうにもならなかったからそんな風になった感じを受けた。
こうした体験を積めば積むほど、どこに正しさとか正解があるのかわからなくなった。
そして私側のものさしで自分のことはいいけれど、他人の生き方を計るなんていうことは絶対にしてはいけないことも学んだ。
『奇跡の果実』の発端となった、死者の霊魂と繋がることも、普通に考えたら疑わしいし怪しいと思う。
それは否定する気もない。
だけど、私がそれに対して自分の驚きや多少の不信感を脇に置いて向き合えたのは、これまでの体験たちのおかげだと思っている。
この一連のことを体験することと私の才能・資質がどう関連しているのかはいまいちわからないけれど、少なくともヒーラーのOさん経由で繋がったおじいちゃんとご家族を繋げる役割は来たわけで、それは過去の色んな体験なくしては務まらなかったと思う。
自分の資質を使う役割が来る時、それまでにその役割がある程度全うできるぐらいの経験を知らぬ間に自然と積んでいる。
頼まれた時に思った。
ここまで色々良くも悪くもやってきたからこそ、こうして頼まれたんだろうって。
それは違う言い方をすれば、それまでにあった色んな出来事たちも全て必要があって起こっていた、ということでもあった。
【4】
自分の才能や資質ではないものは、やり方をそもそも知らない
これは自分の資質に気付いてから知ったことだった。
現在、他者の潜在意識や魂から情報をキャッチすることに関して、私は誰にもやり方を習っていないけれど勝手にできるのと、そしてその資質の磨き方や伸ばし方についても、試行錯誤ではあるけれど、その方法に関しては自分で思いついてやれる。
これこそが「資質」と呼ばれるものなんだとわかった。
過去にNLP、『神経言語プログラミング』と呼ばれる心理療法を1年ぐらいかけて習った。
その中で色んな種類のワークがあるけれど、自分の生まれ持った資質との差がはっきりとしていたから、余計わかりやすかった。
たしかにNLPの心理ワークを私はすることはできる。
自分だけじゃなくて人にもできるし、それで相手も良くなることもわかる。
だけど決定的に違うのは、私はNLPに関してはテキストがないとやれない。
もし、私の資質の「相手の潜在意識をキャッチすること」と同じレベルの効果を出したかったら、NLPは本当に細かく予習して見ておかないとできない。
しかも、そこまで予習しても、多分自然にできてる資質の力には敵わない。
しかもイレギュラーなことが起きた場合、その時は完全に自分の感覚でやるから、テキストなんかその辺に放って、目の前の人を見てどう変更・修正をかけるか毎回相手と相談しながら決めていた。
自分でもわかるけど、NLPは使いこなせない。
自分の才能や資質に関して言うと、自分でやり方や使い方をなぜか知っているから、そうした他人の人が書いた説明書は要らない。
もっと言うと、そういう説明書がないとできないことは、【生まれ持った才能や資質ではない】。
【5】
才能や資質は外で学んで身につけるものではなく、すでにできていることを自分で発見していくもの
私はこの1年で気付いた自分の資質と、それ以前に学んだ色んなことたちとを見比べて、大きな勘違いをしていたことに気付いた。
何せ以前は「自分には特別にできることがある」なんて全く思わないどころか「生まれ持った特別な才能なんて1つもない」と思っていたから、何かを習って身につけないといけないと思っていた。
世の職人的な人たちも後天的にその人その人の専門の世界に入っていって力を磨いている人が多いと知っていたから、余計と自分も何かに特化したければ外からの学びを取り入れる必要があると思っていた。
だけど本当は逆で、外をいくら探しても答えは出てこない。
自分の資質に気付くきっかけとなる講座に出ることはあっても、資質そのものは外からもたらされるものじゃない。
自分の内側で気付けるようになる。
そうしたものに出会うと、自分でわかる。
いきなり「ビビビッ」とは来なくても、いつまでもずっと気になっていたり、自分から勝手に始めたりする。
そしてそのことに従事すればするほどわかる。
そのことがとても自然にできたり、無理せずに自然体でやれること。
やってもやっても興味が尽きないし、さらに手広く学んだり研鑽したりしようとする。
損得勘定抜きでどんどんやりだす。
ペンジュラムも他の人の潜在意識や魂から情報をキャッチするのも、どちらも習ったことじゃない。
元々生まれ持ってきたもので、あとは気付くタイミングだけの問題だった。
そういうものは、自分側のタイミングが整うと自動的にもたらされる。
いくら外を探しても見当たるわけがない。
ある意味、自分自身と出会う、そんな感じにも私には感じる。
生まれ持った資質に関してもう1つ付け足して言うと、すでにできている又はできつつある資質に対して【自力で伸ばせる】のも大きな特徴だとわかった。
例えば、Sさんから1ヶ月早い誕生日プレゼントとして贈ってもらったルノルマンカード。
私は完全な独学で使い始めた。
色々後から調べたら、実はすごい難しい使い方のルールがあるカードだと知った。
(↑こちらは相変わらず使えない)
そろそろ2ヶ月になろうとしているけれど、私はさらに別の視点に目をつけて、今ちょうどその調べ物を開始した。
そんなこと誰にも頼まれていないけれど、勝手にやってる。
自分が知りたいからやっている。
そもそもは、何日か前に本屋で立ち読みした本の中にヒントがあった。
ルノルマンカードの説明がある本を初めて見たけれども、私がヒントにしたのはそこではなく、同じ本の全く別のテーマについて紹介されているところを見て、それで気になったのが最初だった。
そして昨日ようやく初めてそのことをネットで調べ始めた。
どんどん情報と情報が繋がって面白かった。
『奇跡の果実』を書く時の息抜きに時々調べる予定でいる。
こういう興味関心の方向とか探究心なんてのはどこから湧くんだろうと思う。
こうした興味関心や探究心のスイッチも、本来備わった才能や資質の場合はセットになって一緒にもたらされることもわかった。
いつかこの『奇跡の果実』で書いた友達のMちゃんの素敵な感性についても、とても自然にそれが備わっているMちゃん独自の才能や資質になる。
Mちゃんの家に行くと、お茶やコーヒーの種類が変わる毎に新しいカップが用意されて、それはもうとっても素敵だった。
Mちゃんはそうした器を集めることも使うことも大好きで普段からさりげなくやっている。
そうした普段から勝手にしてしまうこと、自然にできてしまうことこそが、その人その人の才能や資質だと私は思う。
あともう1人。
占星術の講座を学んだ時、そのクラスメートの1人にガラス作家さんがいた。
人生で初めて「ガラス作家」という職業の方に出会った。
その方の個展に足を運んだ時、ガラスの器の使い方を教えてもらった。
その方は私に使い方を教えようとか商品を売ろうとかいう感じでは全くなくて、その方が日常でどんな風に使って楽しんでいるのか、それをおしゃべりの延長で話していただけだった。
でも、それを聞いた瞬間、私はそのガラスの器が欲しくなった。
工房に行けば色々あるみたいだから、自分の住処がある程度定まったら訪ねに行こうと鼻息荒く計画している。
そういう感性の活かし方を私は話を聞いたところだけ真似することはできるけれども、ガラス作家さんのクラスメートみたいにそれを自ら発想して色々イメージを膨らませて実用化する、なんていうセンスは私にはない。
それはやっぱり生まれ持った彼女の才能で資質だとはっきりとわかる。
【6】
変えるんじゃなくて受け入れる
才能や資質について言えば、その原形はもれなく全員生まれた時に一緒に持ってきている。
ただ、学校の勉強や習い事で開花する才能はごく一部の才能に限られる。
今の社会では、何か社会のニーズに合わせてそれに相応しい自分になるよう自分を変えようとするのがまだ流れとしては主流になっている。
本来生まれ持った才能や資質は、社会において特に必要とされる場面にならないと埋もれたまま…なんてことはよくあることだと思う。
だから、自分で気付かないとなかなか芽が出てこないのが現状かな…と思う。
そして、大人になるにつれ、とりあえず社会の中で何となく生きていく方にいけば、才能や資質なんてのはないことにされたりする。
反対に何かあるはずと思っても、今度は資本主義社会に合わせた視点で何かしようとするから、才能発掘なのかお金になる手段発掘なのかわからなくなったりもする。
才能や資質の方に目を向けられたらいいけれど、それがお金になるかの方に目がいくと、本来の才能や資質からはどこか遠ざかる感じがする。
でも、今私が自分の才能や資質に気付き出してわかったことは、自分は一切変える必要がないことだった。
その活かし方や磨き方とかは工夫が必要でも、その資質を持っている自分自身はそのままでいいし、むしろそのままにしないと力が歪んだりおかしな風になってしまう。
資質の部分に関しては変える必要はない。
代わりに、それを真っ直ぐに受け入れる、その覚悟は必要になる。
才能や資質は人それぞれだからどの程度受け入れることが必要かはもちろん人によって違う。
だけど、私みたいに人の人生に関わる部分での資質の場合、もしくは何か責任が伴うような資質の場合、生半可な気持ちではやれない。
最初は興味を持って人の潜在意識から情報をキャッチしていたけれども(←ということさえ知らなかったから抵抗なくできてた)、それがそんなレベルではなく、本当にシビアな部分に関わると知って、私は猛烈に逃げたくなった。
逃げたくて逃げたくてたまらなかった。
実際に何も起きてないことをいいことに、私は沈黙を貫いた。
逃げれるんじゃないかと思った。
ホロスコープの鑑定の先生は「私が自分の資質を使って仕事をしないことはない」と言っていたけれども、それも「半端ない強制力が働いてやらざるを得ない」とも言っていたけれども、黙っていたら逃げれる気がした。
そうしたら、山で行方不明になった人をペンジュラムで探して欲しいと依頼が来た。
自分の資質もそれで失敗するリスクも全部ひっくるめて受け入れることが問われた。
私は私でしかないから、それ以上でもそれ以下でもないから変わる必要はなかったけれど、代わりにその私が持っている資質を人のために使えますか?失敗の可能性もありますがあなたやりますか?と問われた。
実際に失敗したし、自分の資質以上というか自分の分野外に手を出したことにも気付かされたわけだけど、そういうことも含めて自分自身に備わったもの(才能や資質)を受け入れるキャパが必要になる。
その辺はこれからもかなり試行錯誤を繰り返すことにはなると思うけれど、やっとそこに向き合える・受け入れようとする気持ちが自分の中で芽生えた。
そして今は、自分を変える努力の方ではなく、自分を受け入れる努力が必要なんだとわかった。
最後に。
今日1日で3回は見たメッセージ(自分のノートに書いてあった)。
【自分のプロセスを信頼する】
これは何かと言うと。
非常に辛い時期とか、非常に苦しい時期とか、何も考えられないぐらいの負の感情になってしまう出来事があった時とか。
「何でこんなことになったのか」とすぐに出来事や人や自分を責める、私は。
もうそれは責めずにはいられないようだから、最近は落ち着くまで責めさせてる、自分に(苦笑)。
そんなことない方が良いって多分多くの人は思う。
よほどドM体質で、苦しいこと辛いことLOVE♡なんて人でない限り、普通は苦しくて辛くて当たり前。
でも、そういうスパルタ的出来事を山ほど体験してわかったことは、どれもこれも全部必要だったということ。
過去の苦しい体験がなかったり、理解者に恵まれていたら、今の私はこんな風に才能や資質について書いてなかったと思う。
過去の出来事たちは、起こって良かったとか体験できて良かったとは今も思わない。
起こらずに済んでくれたら良かったねと思うこともある。
だけど、そうしたことなくしては、私は多分今の道ではなかったし、今の道だからこそ出逢えた人や出逢えたものには出逢えなかったと思うから、そうした意味ですべて必要なプロセスだと感じる。
今も何かあれば心はザワザワするし、こんなこと起こって欲しいなんてお願いしてない(怒)!と思うこともある。
でもそのザワザワも怒りもすべて必要な体験なんだろうなぁ…と思う。
じゃなければ、【自分のプロセスを信頼する】なんてメッセージ、何度も何度も目に飛び込んでこないと思う( ̄∀ ̄;)。
この【自分のプロセスを信頼する】というのはとても大切で、色んなプロセスを経て才能や資質に行き着いて、そしてそこからまた自分だけの人生が始まっていく気がする。
ここまで書いたこと全部を通じて言えば、自分自身を知ること、自分を振り返ること、嫌なことや苦しいことも含めて自分を受け止めることはめちゃくちゃ大事だと思う。
それらをかっ飛ばして自分の才能や資質にだけ簡単に行き着く、ということはもしかしたらほとんどないのかもしれない。
私は才能や資質の発掘を目指したわけじゃないけれど、結果的にそうなった。
そしてそこに行き着くまでのプロセスが色々強烈だっただけあって、自分でも自分の才能や資質を本当に大事に扱っている。
やっとやっと行き着いたものだから、自然と大切にする自分がいる。
【番外編】
冒頭のノートの写真は、私の最近のノートコレクション。
コレクションというより趣味みたいなもので、とにかく細かくノートを使い分けている。
それぞれ使う目的が違うから、日々使途に合わせて使っている。
今朝もすでに6冊のノートに何かしら書いた。
才能や資質というよりも変態な趣味みたいな感じがするけれど、私にはとても大切な作業だから、逆に使い分けないと気持ち悪い。
それぞれの内訳はこんな感じ。
[上段左から]
・白黒水玉ノート…占星術の考え方で気に入った教えのメモ専用
・JALシールノート…JALの下はマレーシアの切手。これは毎日のカードと占星術サイコロで何が出たかやその時の予測を書くノート
あと天体の流れに基づいた情報も書いている
・ケーキのノート…日々の記録
・スヌーピーノート…ルノルマンカードの読み解き、私専用のガイドブック
・青い鳥の背景赤いノート…男性性と女性性についての学びのノート。表紙はお菓子の包装紙をノート本体の表紙に貼り付けた
・紳士なノート…占星術学び帖
[下段左から]
・花柄ノート…最初天体の動きと自分の日常を組み合わせて振り返るノートにしていたけれども、3月の途中からお気に入りの学び言葉を書くノートに変更した
・茶色いシンプルなノート…日記帳
・ピンクのノート…カードリーディングの方の動画を見る時のメモ帳
・キャンパスピンク…「心・思考・感情記録ノート」と題しているけれど、中身は愚痴やモヤモヤだけをひたすら吐き出す悪魔のようなノート
・艶やかな緑のノート…ブログ用のメモを中心に色んなことをメモする専用ノート
・キャンパス緑…↑の緑のノートの先代。『奇跡の果実』のメモは基本的にこのノートに全て集約している
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