忘れないうちに、今現在の備忘録。
何百枚ものルーズリーフに、本で気に入った又は心に響いた言葉を書きまくっていた頃。
派遣の仕事で色んなお客さんや法人担当者と電話で話していた頃。
朝活に励んで参加していた頃。
色んな人たちに自分の人生を語ってもらうことをお願いして、実際に30人ほどから話を聞いていた頃。
心理のワークを数百回、ノート6冊分はやっていた頃(これは現在進行形)。
どれもこれも「これが何になるんだろう?」と思っていた。
お金を生み出すわけでもないし(むしろお金を払ってた)、仕事に繋がっていくわけでもないし、無駄とは思わなくても「何でするのか?」を究極に突き詰めると「やって損もしなければ得もしない、やらなくても確実に困らない」ということだけははっきりとしていた。
派遣の仕事はたしかに給料は生み出したけれど、キャリアとしては社会的に評価されるものでもなく、自分でももっと自分のためになるような仕事に就いた方がいいのかも…、と思ったことも時々あった。
でも今ここに立ってみて、どれもこれも必要な体験をさせてもらったと思っている。
具体的に何がとは言葉で表現するのは難しいけれど、とにかく体験すべてが私に色んな景色や世界を見せてくれたし、そして一般社会の中で全く価値がないとされるところが逆に良かったと今だから感じる。
社会的に価値のあるものは、多くの人から評される。
でも私がしたことたちは、「それってやって何になるの?」というものが多かった。
派遣の仕事と朝活は、まだ社会的に貢献度があったり認知度があるから、何になるの?とまではならないかもしれない。
朝活のために、ビジネス書を読んで話をしてくるなんて、なかなか良いことをしてるみたいだし、意識の高い人みたい!と思う。
(読み終わらないまま参加したこともかなりあったと思う…)
ちなみに朝活はそんな意思で参加してなくて、単にテレビの朝のニュースで朝活の特集を見て(←テレビを持っていなかった頃の話だから、そのシーンを見たのは超奇跡だと思う)、なんとなく興味が湧いて、それで探して行ったのが最初だった。
1年ほど4つの違うジャンルの朝活に出た(ビジネス書のものが一番回数は多いものの、それ以外はビジネス書とは全く無関係の会だった)。
色々刺激を受けたのは本当だったけれど、私はいつしか行かなくなった。
私の中のブームが去り、行かなくていいかなとなった。
朝活で得たことで今も大いに活躍しているのが、
・付箋の使い方
・日付スタンプ
・共感覚の知識
・河合隼雄さんの本が縁となって繋がった人
あたりになる。
他に朝活で(やらかしたことで)得たことは、「デンソー」が職業名ではなく企業名だと知ったこと。(  ̄Д ̄;)
とにかく、30代の大半の時間は、社会的に見て「えっ?(-_-)」ってなることばかりを積み重ねた。
それと対比するなら、「日経新聞を取っていた」と言う方がよほど社会からの賞賛を得やすい。
私は一時期、会社から言われて、日本経済新聞なるものを毎朝配達してもらって取っていたことがあった。
必須ではなかったにしても、かなり言われるから、やむなしに取った。
あれを読んでいる人たちは本当にすごいと思うけれど、私はあの新聞の読み方をそもそも知らない。
そして面白くない。
スーパーのチラシが入ってこないのも不満だった。
結局私が読んだのは、今もあるのか知らないけれど、各界の著名人の伝記的なコーナーがあって、そこだけを読んでいた。
他は読まずにいて、全くもってお金をドブに捨てているようなものだった。
部屋の中に積み重なる新聞たちも嫌だったし、それを廃品回収に出すのも手間だった。
結局、数ヶ月後、解約をした。
だけど、日経新聞を取っていたは取っていた。
「読んでいる」とは言っていないから、語弊はない←へ理屈( ̄∇ ̄;)。
話が逸れたけれど、間違いなく「日経新聞を取っている」の方が価値あるように見える。
で、私がしていた他のことたちは、社会的価値を問われると「無い」に等しい。
だけど、ここに来て、その価値の無いような行動たちがとても役立つところに来た。
自分の血肉になって、そして私にはとても価値あるものたちに成り代わった。
数百枚どころか、ノートにして千ページほどになるだろう言葉の書き写しは、私に色んなことを教えてくれた。
色んな人生、人生訓、喜怒哀楽、自分だけの世界観、心のケアのやり方などなど、とにかく幅広いジャンルの知識を得た。
色んな人たちと話すことで、それも一般社会にいる人たちと話したことで、色んな話し方や言葉の使い方があることを知った。
人生を語ってもらった時間は私に色んな生き方、それも社会的に成功しているのにも関わらず、そこには決して現れない人生の別の部分を見せてもらえた。
数百回の心理ワークは、私に自分の声を聞く方法や自分を受け止めるやり方を伝授してくれた。
社会の中や自分の中にある価値観が見事に打ち砕かれ、私には普通が通用しなくなった。
おかげで、普通ではないことを今からやる。
色々普通とは言えないことを山ほど経験したことで、意味のわからない経験値だけは上がった。
実社会でそれが役立つことはほとんどない。
だけど、色んな摩訶不思議なことや到底理解のできないことを体験したことで、色んな視点を持てたと思う。
生き抜く知恵みたいなのも身につけた。
そして、ここに来て、そのおかしな体験とそこから得た知恵を持っている私を必要とする人たちが現れ始めた。
まだまだ片手で数えても指が余るぐらいにしか私を必要とする人はいないけれども、それでも私の何にも当てはまらない、それ何になるの?レベルの知恵や知識、経験を必要としてくれる人がいるというのは、すごく心強い。
そして、何よりも私が、私で良かったらそれやります、という気持ちになれたことがとても大きい。
もう少し前、少なくとも数ヶ月前なら絶対にやっていない。
1年前もしていない。
今、色んな過去の振り返りをして、ホロスコープやこの1年で知り合った方たちから私の人生の方向性を教えてもらい、そして自分で自分ができることに気付いて、その自分の人生を自分の持ってるものを出しながら亀のような歩みでも歩いていこう、逃げずに行ってみようという気持ちにようやくなれた。
昨日1/5で、自分のオルゴナイトを迎えてちょうど1年になった。
オルゴナイトの説明書きに「スピチュアルな力が引き出される」みたいな謳い文句があった。
あの時は「ふーん」と思ったぐらいで、すでにペンジュラムを愛用(濫用)しまくりだった私にとって、それはペンジュラムの力がさらに拡大するのかな…程度に思っていた。
この1年で飛躍的にスピリチャルな力が伸びたと言うよりも、やっと自分の体質的なものがわかって、それを今少しずつ受け入れ始めてる、そんな感じ。
で、その名脇役たち的なアイテムが、「これして何になるの?」と疑問にしかならなかった過去の経験たち。
体質的なものは、使いこなすには言葉の使い方や語彙力、表現力、色んな世界観、そうしたものたちがないとなかなか難しい。
だから、日経新聞を読めるようになっても逆にそれはあまり役立たず((-_-?)zzz)、反対にあの数百枚の書き写しや何百とした心理ワークの方がよほど役に立つ。
その時にその本当の価値はわからなくても、それでも自分が無意識に選んでいるものは本当に自分の未来のために必要なものを選んでやっているんだなと思った。
「未来の点」を私は無意識に紡いでいた。
社会的に価値が無いと思っても、自分のことを第一にすると、未来の点たちは必ず未来に役立つようになっている、そんな気がする。
0 件のコメント:
コメントを投稿