2018年12月1日土曜日

熱量の違い

熱量の違い。

この間、物理と化学の差が何か知らないと言ったけれど、熱量の違いはわかる。

化学的な熱量、又は物理的な熱量は知らないけれど、「熱量」単体は感覚的にわかる。

婚活ブログを時々読むようになって、わかるなぁと思ったことの1つに、女の人側はときめきや誰かを好きになる気持ちを求めている。

色んな人たち共通でほぼそれだと感じる。

対して男の人は、超現実的なものを求めている。

上手く言えないけれど、それぞれ読むとなんとなくわかる。

どちらでもいいと思うけれど、そこからまた得意の自分の身に起きたことを振り返ってみた。

私には超一大事、そんなこともう一生に一度と感じたぐらいにインパクトのあったことでも、相手には何てことないことだったのかもしれない。

熱量を私側を100として、相手側は0だったのかもしれない。

そう思うと、しっくりこないこともいくつかあっても、今現在の状況に納得できるところがある。

いくら私側は計測器の針が最高値を振り切ってしまうぐらいに反応したとしても、相手側は反応もなく針はそもそも微動だにしなかった、それの方が自然な感じもする。

2年目に突入した今の時期、時々すべてが幻とか、夢の中の出来事のように感じる時がある。

交わりそうにもない人生を前に、小さな希望を持つことさえしんどく感じる時がある。

色んなことが自分の勘違いだとは思わないけれど、自分の中でどう消化していいのかがわからない。

だから熱量の違いを感じると、もう少し消化しやすいように感じてる。

消し去りたいのとは違う。

けれど、このまま何もないのに気持ちだけずっとずっと残っていくのが、心的にしんどい。

しかも熱量の違いのあるものに、私だけがズルズルしていても仕方ない。

自分の気持ちに任せようという思いと、もうこのままだとしんどいからちょっとずつ消化しようという思いと、その2つの間で行ったり来たりしている。

書きまくって良かった。

今の自分では書けない。

熱量が違うと感じ始めた自分が出てきた以上、あの時みたいに純粋にはもう振り返られない。
11/25  6:49



色んなことが起こった1年だった。

色んなことが凄まじかった。

昨日、1年前に私を命の授業に招待してくれた人から連絡が来た。

今仕事で新潟に来たからぶっしーもどう?というようなもので、場所がうちから2時間〜2時間半も車でかかる所だったから今回はお礼だけ言って断った。

去年のあのタイミングでなければ、命の授業はなかった。

夏の暑い日に、電光石火のごとく色んなことが起こった。

全てのはじまりはそこにあった、と思う。
11/27  10:52



書く気満々でいたけれど、眠くなったから起きてからまたきちんと書こうと思う。

上の『熱量の違い』を書いといて良かった。

不思議な感じだけど、熱量の違いが今はどうでも良くなった。

朝起きたらまた自分の気持ちがどうなっているかわからないけれど、それでも熱量の違いが何だと言うんだろう?と本当にそう思うところに来た。

熱量はあくまで対比させた時の話。

でも、そんなの関係なく、私はその出逢いからものすごく沢山のものを手にしたわけで、そしてそこをすべて通過した私には、それが人生の中の贈り物の他の何物でもないと気付いた。

その人と出逢わせてもらえたこと、その人が私の人生に現れてくれたこと、それは本当に贈り物だった。

だから、熱量の違いとか何とか言わなくていいんだ、という思いに達した(ようやく)。

熱量が違おうが、全く相手にされなかっただろうが、それは相手の人生の物語だから私がどうこうはできないけれど、少なくとも私側はそれでものすごく大切なものを手にしたんだから、それがすべてだしそれでいいんだと本当に心の底から思えた。

そして、その域に行くと、今度は熱量の違いを数日前と同じ気持ちでは書けない。

覚えているから書けるけれど、ちょっと感覚が違う。

だから書き残しておいて良かった。

本当に良かった。

起きたら続きを書こう。

熱量の違いも書けるから、そこも含めて書く。

でも、今は思う。

熱量の違いに注目してしまうほどに本気で気になって仕方のない人だということ。

私は基本的に心の中は自分に忙しいから、他人のことに目を向けてる余裕がそんなにない。

だけど、その人は私の心の中の忙しさをストップさせて、代わりにその人がそこに入ってきた。

そして私に熱量の違いとかを考えさせるほどの影響力があった。
12/1  3:04



最初に書いた部分もずいぶんと中途半端で、大切なことが抜けている。

さらりと書いているけれど、11月に入ったあたりから熱量の違いが日に日に大きなものに感じられて、そのうち自分で自分のことをバカみたいだとか、実はすべて虚像の話だったんじゃないかとか、もしくは大幅に勘違いしているとか、そんな風に思うことが増えた。

色々と自分の中で信じられなくなって、疑いや否定が増えた。

当時の記憶も遠くに行ってしまう感じも相まって、余計とそうした気持ちが増えた。

だから、私は色んなことをひっくるめて「熱量の違い」として捉え、そして心の中では少しずつそこから離れようと試みる自分が出てきた。

すべては私が思っていることと違う、ひと夏の思い出でしかない、そうやってどんどんそのことに触れることを避けようとする自分がいた。

自分の気持ちや願いとは真逆のことばかりが展開していて、気持ちがどんどん沈んで、そしてないことにしたくなった。

だから、最初の部分で本当に書きたかったことはそういうことだった。

さらりと書いた程度になっているけれど、心の中は永遠に晴れそうにもない真っ黒な雲に覆われていた。

そして、いつかは忘れるんだろうなぁ…、そう思うようになった。
12/1  8:23



「シンクロニシティ」の概念がひっくり返ることが昨日(11/30)の夜あった。

昨日?おととい?ドコモから、残りの1GBを今月中に使い切って下さい的なメールが来た。

じゃあ!と思って、本当はホロスコープ講座の音声を聞く予定が、ぼーっとしながら観れるものがいい!となって、最近知ったカードリーディングをする人の動画を見た。

その動画は楽しみながら観れるだけじゃなく、メッセージももらえれば、さらにはカードの読み解き方まで超勉強になる優れもの。

1時間コースだから、これまで観たのは2本だけ。

たくさんある中で、ペンジュラムお薦めの1本を観ることにした。

それを観ていた時のこと。

その動画の中のカードリーディングをされる方(カード占い師みたいな感じ)の言葉を聞いて、ハッとなった。

これまで私はシンクロの意味を「偶然の一致」ぐらいに思っていた。

グーグル先生によると、「共時性、意味のある偶然の一致」とあった。

ちなみにもう少し言うと、これは有名な心理学者のユングという人が、「集合無意識」という概念と組み合わせて提唱したもので。

個人個人の意識はそれぞれ別でも、無意識の中で色々繋がっているものを「集合無意識」と呼んでいて、シンクロというのはその集合無意識の本来はどこでどう繋がっているのかわからない別々のものが一瞬で繋がる、虫の知らせみたいな感じでやって来たりするもの、というような感じで説明される。

シンクロの例として、やたらと同じ名前ばかりを目にしたり耳にしたりするとか、ある人のことを考えていたらその人からちょうど連絡が来たとか、本屋で探していた本が友達の家に置いてあったとか。

そんな風に関係のないことたちがやたらと重なり合うことを指す。

そんな風にしか解釈していなかったわけだけど、そのカードリーディングの女性はシンクロをこう言った。

「偶然じゃなく必然」

もう一度。

『偶然じゃなく必然』

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
(私の反応↑)

一見偶然のようだけど、必然的に起こっている、これはもう必然なんだよという意味でシンクロが起こる、というような感じで説明していた。

その「必然」という言葉で全てがすっと筋が通った。

元々シンクロに興味があったこともあるけれど、私の引き具合は相当強いと思う。

今回関わることになったペンジュラムを使っての山で行方不明になった人を探す手伝いに至るまでもものすごいシンクロだらけだったし、他にも何回目かのおつかいでオルゴナイトを買いに行ったら本来休みの日ではなかった友達と有休を取った私とで店でバッタリ遭遇するとかもそこに至るまで半端ない偶然だらけだった。

その友達とは25年の付き合いで、初めて偶然バッタリと約束もしていない場所で出くわした。

他にもたくさんそういうエピソードは雨あられのように人生の中でたくさんあるけれど。

なんなら、私20代の頃、山手線の電車の車両の中で高校時代の仲良かった友達とバッタリ出くわすなんてこともあったけれど。

でもはっきりとわかる。

私の人生の中で断トツでシンクロが起こりまくったのは、その人だった。

他の人や他の出来事の比じゃない。

つい最近も書いたけれど、まさか自分が7、8年前に東京移住計画で探していた物件の地域とその人の出身地とが重なっていたなんて、全く知る由もなかった。

1年前の当時は色んなことにいっぱいいっぱいでここまで冷静に分析できなかったけれど、1年ぐらい時間をかけてあれこれ見てみると、その人とのことに関しては出逢う前から色んな形でお知らせ的なものが来ていたし、出逢うまでのプロセスは異常だったし、出逢って近くにいられた時も毎度毎度イレギュラーなこと満載だったし、いなくなったらいなくなったで今度はさらに情報が勝手にどんどん来てその中で色々シンクロしてたことも知ったし、さらに今はまた不思議な形で色んなサインが毎度やってくる。

断トツ過ぎて「これは何?」って感じ続けているけれど、要は「偶然じゃなく必然」なんだと思う。

これもまた余談だけれど、つい最近のホロスコープ講座の時に、どういうシチュエーションで異性に出逢っていくかみたいなことを見るポイントを習った。

出会いの場が、友達や趣味仲間とか学びの仲間とか色々あるけれど、私の場合は「仕事」の場になる。

ホロスコープで見る「仕事」にはいくつかのカテゴリーがあって、労働的な仕事もあれば天職なんかを意味する仕事もある。

仕事の種類もいくつかある中で、私の「出会いの場」を指す職場は「労働的な仕事」の部分。

そう言えば、去年の今頃、東京の80過ぎのおばちゃん占い師にも同じこと言われたなぁと思い出した。

同士、仕事仲間ってことよ、そういうところであなた出逢ったでしょ、みたいな言い方をされた。

おばちゃんに、強いて言うならその人は上司になるけれど、仲間とは違うみたいなことを言ったら、「同じ職場で同じ方向を向いて一緒に仕事してるんでしょ?一緒に仕事するしないは別にしても、会社として果たそうとする目的は一緒でしょ?それを同士とか仲間って言うのよ」と説明された。

私の15年以上の社会人人生の中で唯一職場でそうした出逢いがあったのは、去年の夏だけだった。

もしかしたらそういう意味ではなく、これから先の未来で出逢う誰かなのかもしれないけれど、とりあえず今のところ唯一該当しているのはその人だけだった。

ちなみに、あまりにも立場が違い過ぎて「同士」だの「仕事仲間」だの相手に失礼過ぎてそんな風には言えないし思えない。

私からしたら、「出逢いの場所」が職場だっただけで、相手は私の何十倍何百倍と時間も知識も技術も懸けてそこに携わっているから、私から見て仲間や同士だなんて相手に悪すぎてそんな風には言えない。

私のようにちゃらんぽらんな感じで仕事に行ったのとは違うから、そう採ることはできない。

厳密に言うと上司でもなく、正式には仕事上「無関係」で、もう少し規模が大きかったりもっと明確な縦割りな組織なら関わり合いになることも絶対になかったと思う。

たまたま同じ職場という空間の中に居合わせただけ、というのがある意味一番的確な表現だと思う。

そもそも私は派遣で行っていたわけだから、立場はもちろんのこと、本当に外部の人間だから、そもそも関わることすらないのが普通だと思う。

本当に関われることすら奇跡的な状況で、その中で起こった色んなことだった。

色んなところに派遣で行ったけれど、その時のことは、社内での関わり方とか接触の機会とか、とてつもなくイレギュラーだった。

いつかこのブログでも書いたけれど、関わり方のイレギュラー具合も、それはあくまでその人がいた時だけの話で、その人が異動して次の人に替わったら、そのイレギュラー具合な関わり方も見事になくなった。

だから、まるでその人が他とは違うということをスーパー鈍すぎる私でも気付けるように起こっていた、としか思えないぐらいに起こっていた。

相手からはどう映っていたのかは知らないけれど、私は無駄にたくさん派遣に行ったおかげで、その人との接触が他の派遣と比べてもあり得なかったことがよくわかる。

そう、起こったことのすべては必然だった。

たまたまじゃない。

色々引き起こされて、そしてそれが特別だということ、その人が特別な存在なんだということを私に知らせてくれるために起こっていたと思っている。



シンクロニシティの動画と同じ動画を見ていた時に、「手紙」というカードが出てきた。

そのリーディングされる方はまた違う解釈を他の出てきたカードたちと合わせてしていたけれど、私の中で「手紙」というカードを見て真っ先に出てきたのはその人のことだった。

ちなみに、手紙と一緒に出てきたカードは「reach out」というカードで、「通信することを試みる、差し出す、伸ばす」というような意味がある。

まさに、手紙を差し出して、私は相手との通信を試みようとした。(そして玉砕(ToT))

本当に色んなものが砕けたけれども(爆)。

シンクロの話を聞いた後、色々あり得なかった出逢いだけではなく、実際の職場の中における立場や状況に目が向いた時、よくぞあの手紙を受け取ってもらえたなぁと思った。

相手にしたら、勝手に押し付けられたから突き返す隙すら与えられずみたいな感じではあったけれども、それでも突き返されはしなかった。

相手はきちんとした会社にお勤めの常識ある社会人で、なんなら肩書もあり責任もある立場で、そんな人を相手に私はいきなり手紙を押し付けるというすごい行動に出た。

(注:今は冷静に書いて説明できるけれど、当時は超アップアップしていて、そんなこと全く考えられなかった)

私に書く・書かない、渡す・渡さないの選択肢があったように、その人にも受け取る・受け取らないの選択肢があった。

そんな中、もちろん公の場ということも手伝って、とにかく突き返されなかったことが良かった。

なんとなくだけど、その人はきちんと持ち帰って読んでくれたと思う。

あのスーパーわからない、何が言いたいんだね?と目を吊り上げて言いたくなる、そして長くて「で、要点は何?」というようなものを、最後まで読んでくれたと思う。

今だから余計とわかる。

そんな風にできたことが本当に奇跡だったんだということ。

今仮にその手紙を書くことはできたとしても、もう渡すことはできない。

あの時あの場所でなければ、ポスト代わりの机の上にポンと置くことなんかできなかった。

私が立った場所からその人の座っていた席が遠くて良かった。

手渡しするにはものすごく近寄って手を伸ばさないとその人の手まで届かなかった。

だから、その人もかなり手を伸ばさなければ受け取れない感じだったから、本人の目の前でお願いしますとだけ言って2人の間のちょうど中間地点ぐらいのところに置くことができた、まるで仕事の資料を渡すかのように。

反対に、直接手渡しだったら「受け取れません」などと言われかねなかった。
(想像しただけで恐ろしい…)

1分にも満たないその瞬間は、もう二度と再現できない。

あそこでもしかしたら私側の物語は完了していたのかもしれない。

とりあえず伝えることは伝えたよ、と。

手紙はバトンのようなもので、あれだけが唯一形として私が残せたものだった。

押し付けられた側からしたら欲しくもないものだったかもしれないけれど、それでもあなたも私も同じ時同じ空間にいましたよ、と証明するようなものだった。

色々冷静に考えたら、その人が(多分)持ち帰ってくれただろうことは、本当にありがたいことだった。

今本人の手元に残っていなくても、それはそれでいいと割り切っている。

むしろ、邪魔になるものなら私の見えないところで捨ててもらうのは最初から構わなかった。

手紙の行方はいいとして、そうした有形のものが私のところからその人の元へ届いた、そのことが今となってはすごく貴重なことで、あの時しのごの考えず本能的に動いてみて良かったと今は思っている。

少なくとも、その人の社会人人生で社内で仕事中に個人的な手紙をもらうなんて多分最初で最後だと思う。

それはその人がモテないということではなく、そんな社会人としてどうなの?みたいなことをする女の人も早々いないと思うから。

しかも、今時、メールもスマホもあるこの時代に古風な手紙、周りの女友達から重いと大不評だった手書きの手紙、それを仕事中に進呈するとは私も今さらながらすごいことしたなぁと思う。

そんなレア体験、相手も望んでいなかったと思うけれど、私とてそんなぶっ飛んだことやりたかったわけではないけれど、そうなってしまった。

動物的に動いていたけれど、それが可能な状況にあったのはあの時だけだった。

今の私は、恥ずかしさややらかした感よりも、「やって良かった」と思っている。

もう二度とは訪れないその時を、そのチャンスを、私はとにかく捨て身の覚悟で勝負に出た。

いつかも書いた通り、その人の記憶には残ったと思うからそれで良い。



良い意味であきらめがついた。

その人との出逢いは、私の中で正真正銘、絶対的なもので魂やら人生の目的やらそうした大局的な意味も絡まって起こったことだと思う。

偶然ではなく必然だったからこそ、シンクロの起こり具合は異常過ぎたし、その人との出逢いを皮切りに色んなことも怒涛のように人生に流れ込んできた。

365日毎日顔を合わせたって何の印象にも残らずに忘れる人もたくさんいる中で、たかが4ヶ月弱、ほとんど言葉も交わさず何も知らずという人でも一生忘れられない人もいる。

その人と出逢った本当の意味はもしかしたら生きているうちはわからないままかもしれない。

この先、交わることなくそれぞれ知らないところで生きて知らないところで死んでいく可能性の方がはるかに高い。

それでも、そういう人に生きているうちに出逢えたことはとても大きい。

そういう存在の人だから、忘れることはないし、ずっと生涯を通じて大切でそして心にい続ける人なんだろうなぁと思っている。

何の関わりがなくてもサインが来るのは仕方ないだろうし、そこにいちいち意味を求めても仕方ないというか、むしろそれで大丈夫のサインだと自分の都合のいいように解釈したらいいと最近は特にそう思っている。

求めて何かが返ってくるとかいうようなものを欲しても仕方ないから、自分の中で自分の気持ちがちょうど良い塩梅になるところを見つけたいなぁと思う。



>>>以下、引用


愛は減らない。
愛は傷つけない。


引用元:『あなたがここにいることの意味』
本郷綜海(著)



昨日、上の本を立ち読みならぬ座り読みしてきた。

その中に出てきた言葉で、ハッとなった。

色々あっても、その人がどう受け取るとかどう感じるとかは関係なくして、私の中では減ることもないし、私自身を傷つけることもない。

それが1年以上経ってみての私の感想だった。

毎日バラ色みたいな日々の時はまだしも、私がごはんに誘い出してからは色々さんざんだった。

あまりの気まずさと冷たい感じと冷たい目と、あの漫画なんかでよく主人公の上半身目がけて矢が飛んできて刺さるみたいな、そういう気持ちをたっぷりと味わった。

最後の瞬間は今思い出しても切ないものがあるし、あれが今生最後なら何だかやらかした感満載だなぁと思う。

でも、その人に対して感じるものは、減らずにずっとある。

それが愛なのかと言われたらわからないけれど、ものすごく純粋な気持ちなのは本当。

40年近く生きていれば打算的にもなるし、ひねくれたところもあるし、否定したり卑下したり、まぁあまりきれいじゃない感情もたくさんあるけれども、それでもその人に対して持っている気持ちはすごく純粋だなぁと思う。

仮に他の人と出逢ってパートナーとなっても、なんとなくその人のことはどこか片隅にあるような気がする。

そんなことは未来の相手には黙っているけれども、どこかで気にかけてしまう人、無意識に自分の中にいる人、そんな感じなのかもしれない。

そんなのはその時に考えたらいいことだから、今はあまり気にもなっていないけれど。

そして、色々あったけれども、それでも私は傷つくことはなかった。

相手の態度にグサグサとくるものはあったけれど、それでも傷とは違っていた。

人生で二度とは巡り合えない、本当に大切なものを知る、そういう時間でそういう存在の人だった。



最初に書いた「熱量の違い」は気にならなくなった。

世間的には痛い人でも、もうそういうこともどうでも良くなった。

相手がどう思っていてどう感じていたかも、知りたいけれど、そこは禁断の園すぎて知らないし、そして相手がこれを「超絶気持ち悪ぃーー、オェー( ̄ཀ ̄;;)」ってなっていたとしても、そこも知らぬが仏でどうでも良くなってきた。

私の中で、本当に大切な人に出逢わせてもらえたことが、そんな人が私の人生に現れてくれたことが本当にすごいことだったと、そしてこんな風に自分以外の誰かを大切に思える自分にも出逢わせてもらえたから、もうそれでいいか!という感じが出てきた。

去年の夏の一コマは、本当に一瞬の出来事だった。

まさかそれが後に色んなことのきっかけとなっていくなんて、当時は思いもよらなかった。

その人だって、私に振り向いて欲しくてそうしたわけじゃ全くないと思う。

もしくは、俺いるよ!アピールをしたわけじゃないと思う。

でも、あの時にその人がしてくれたことが今の私に繋がっている。

想われることのない、一方通行な出逢いだったかもしれない。

一方通行ならまだしも、迷惑や負担になったものだったかもしれない。

それでも私の人生に現れてくれたその人は、私の人生を大きく変える1番のきっかけをもたらした人だったし、幸福感とか生きる喜びとかそうしたものをたくさん私に見せてくれた人だった。

本人は無意識でそんな気なくても、私にはそうだった。

そして、愛とか人を大切に想う気持ちとか、そうしたことを全部あきらめて、もう二度とそういうものに触れたくない、そうしたことから逃げたかった私に、そうしたものともう一度真剣に向き合わせてくれた人だった。

熱量の違いはどうにもならない。

まさか勝手にその人の気持ちを私に向けさせるわけにいかないし、その人の人生を私の希望に沿って動かすなんてのもできない。

もう何もかも私にはどうにもできないことばかりだから、私は私のテリトリーにだけ目を向けたらいいんだ、とふっと肩の力が抜けた。

相手が私のことを何とも思っていなくても、私が体験したことや私の気持ちは変わらない。

そして、それでいいんだとわかった。

その人が私の人生に現れてくれたのは、そしてその人と出逢わせてもらえたのは、人生の贈り物そのものだった。



【裏追記】
上に書いたことに嘘はない。
だけど、1つだけどうしても解せないことがある。
私に起こったことの影響力を見ると、やっぱりそれが私にだけ一方的に雨あられのようにやってきたとは考えにくい。
相手側のストーリーを何も知らないのが残念過ぎるけれど、個人的にとても気になって仕方ない。
これだけの影響力が私側にだけひたすら注がれていたとは、私にはどうしても素直にそう思えない。
それはそうと、本当に私が予想した通りなら…。
その人もその人で相当気持ち的に苦しかったりしんどかったり揺さぶられたりしたのかな…と思ってしまう。
私が心配しても仕方ないけれど、気にはなっている。
私はこの通り元気であること、大丈夫であることを伝えるのと、あとは〇〇さんが元気でありますようにと祈るぐらいしかできないから、ブログを発信することと祈ることは続けたいと思っている。
少なくとも、私は〇〇さんと出逢えたことに心底感謝している。
ありがとう。

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