久しぶりに、英語の勉強で超絶テンションが上がった。
高校受験を控えた女の子と英語の勉強。
学校の定期テストが近くで、とりあえずワークの見直しから。
わからなかったところを1つ1つ見て、ノートに書いて、解説して、解説文も付け足して、あれこれ質問も挟みながら(←本人が理解したかを見るため)…とやって、2問目か3問目の問題。
来たーーーーーーーー!!!!!!!!!!
その子とも「久しぶりに登場したね!」と言いながら、問題の解説を始めた。
問題文の中の登場人物の名前は色んなバリエーションがある。
どういういきさつか知らないけれど、去年2年生の時に最多で登場した日本男児の名前がある。
それが今年はレギュラーから外れたようで、教科書にもワークにもほとんど出てこなくなった。
その名前がとっても久し振りに登場して、そして今回は関係代名詞の勉強だったから、その名前を私も連呼することになった。
説明のたびに名前を言う。
他の文法と違って、人名や代名詞が大事になってくる。
昨日1日で何度その名前を連呼したか知らない。
名前を口にするたびにテンションを上げまくり、そうやって呼んでみたかったなぁとか思いながら、とても楽しく英語の解説をした。
わざとさん付けして呼んでみたり、基本は呼び捨てだけどその呼び捨ても特別だったり。
そして、大元の文章の文法があまりにも厄介な関係代名詞だったから、私はそれと似た文章をいくつも例文として作った。
わかりやすくするために、主語は同じ名前にした。
アルファベットで書く時もテンションが上がった。
普段も例文は書くけれど、今日ほどの数は書かない。
すごい厄介な関係代名詞のおかげで、どれだけその名前を書くことになったか!
通常の5倍は書いた。
もちろん書いたら今度は説明のために読む。
また名前を連呼する。
勉強に楽しい要素はなかったけれど、その名前のおかげでとても楽しい時間になった。
ちなみに問題文では、その日本男児は料理上手な設定になっている。
私の知っている現実の人物は料理しなさそうだなぁと思いながら読んだ。
勝手な持論だけど、普段から料理する男性は特保のお茶を飲まない気がする。
料理男子の特徴の1つに、お茶は自前で用意するというのがある。
ペットボトルのお茶も使わないわけじゃないけれど、お茶パックの方がより経済的なこともあって、そういう家に遊びに行くとお茶パックのお茶が出てくる。
ちなみにそれで思い出したことが1つあって、何よりも衝撃だったのは「ぶどう味の麦茶」だった。
私もどこかは忘れたけれど、フルーツフレーバーの麦茶パックが販売されてるのを見たことがある。
あんなの買う人いるの?と横目で流し見した記憶がある。
まさかのまさかで友達の家にぶどう味の麦茶があって、友達も「試しに買ってみてさ、良かったら飲んで!」と言う。
「これどんな?普通に飲める?」
「本当に文字通り、ぶどう味と麦茶味。ぶどうの匂いというか風味のする麦茶。ぶどう味でもあるし、麦茶味でもある。それぞれが独立した味になっている。まずそうだけど、意外に普通に飲める。使わないといつまでも減らないから使ってる」
という説明を受けながら、私は恐る恐るぶどう味の麦茶を飲んでみた。
友達の言葉通り、ぶどう味と麦茶味だった。
たしかにまずくはなく、飲めなくはない。
自分で買ってまで飲みたいものではないけれど、喉乾いたからお茶ちょうだいという時に飲む分には飲める味だった。
とかいう昔の記憶もよみがえりながら、多分特保のお茶男子は料理しないだろうなぁ、ましてやぶどう味の麦茶のパックなんて買わないだろうなぁ…なんて思った。
(私もぶどう味の麦茶パックは買わないけれど)
名前を連呼しまくったシーンに浸りながら、あぁこういうことを言ってもらっていたのかもしれない…ともう1つ思い出した。
私の名前を呼ぶ時の気分、呼び方別にどういう気持ちになるのかということを説明してくれた人がいた。
その人は私の名前を呼ぶのは特別だと言った。
その話は本当に嬉しくて、今でも覚えている。
そんなことを思い出しながら、たとえ英語の問題文の中とは言え、その名前を呼ぶのは特別なことだった。
普段TomだのJohnだのと文中に出てきても、それはisやwhoとか他の単語と同じでなんら特別感はない。
でもその名前だけは、全く別の何かを放っている。
文を説明するためにものすごい数で口にしたけれど、何回口にしても特別だったし、飽きることは一度もなかった。
もっとその名前を呼べないかと思ったぐらいに、いつ呼んでも何回呼んでも、ずっとずっと特別なままだった。
そうやって名前を呼んでみたかったなぁと思いつつ、最近の私はいつか誰かの名前を呼ぶ特別な楽しみを将来持てたらいいなぁと思っている。
名前の種類はこだわらないから(←こだわれる立場にもない)、とにかくその名前だけは特別だという名前の人と残りの人生の中で出逢えたらいいなぁ、そう願う自分が出てきた。
この間LINEした友達が「もう好きな人なんてできる気がしない」と言ったけれど、それを見た時に私は自分はまた誰かを好きになれる気がしている、と思っている自分に気付いた。
私もずっとずっとそう思っていた。
もう誰かを好きになるとか、その人と一緒にいたいとか、そういう気持ちになることはないと思っていた。
あきらめとかではなく、本当にそう思っていた。
実際に心が動くなんてことなかったから、もう無理というより、そういうことさえも自分の中から遮断していた。
だから、閉じ切っていた、殻に篭りきっていた自分の心が開く出逢いをした時に、大きく変わった自分を見て驚いた。
開こうと思ったんじゃなくて勝手に開いた。
自分の気持ちもどうにもできなかったし、気のせいにしようとしても止まることがなかった。
結果的にその人と一緒にいられなくて状況も望んだものにはならなかった。
だけど、その出逢いのおかげで、そういう出逢いもある、そういう風に自分の心が開くこともある、という体験をさせてもらえた。
体験には本当にすごい力があって、体験したことでそういうこともあるって信じられるようになった。
私は自分の中の傷が癒え始めた数年前から、次は老人ホームに入る頃が自分のトキメキ期かもしれない、と冗談抜きで思っていた。
口では結婚したいだの専業主婦になりたいだのと言っていたけれど、多分難しいだろうなぁと思っていた。
そもそも誰かをまた好きになるとか、誰かに惹かれる自分というのが全く想像できなかった。
傷が少しでも癒える以前は、もう何も考えられなかった。
色んなことをどうしていいかわからなさ過ぎて、そしてある意味うまい具合に人生もドタバタしていたから(今もそこは現在進行形)、そこまで気が回らなかったのもある。
操縦不能なドタバタ人生に、どこに向かっているのかもわからない流れに、そして年齢が上がることの社会的プレッシャーに、もう色恋などとほざいてる場合ではないと思った時期も相当あった。
婚活用語的な「カップル成立」とか「成婚」なんてならなくても、もちろんなってもらいたかったけれど、現状がどうであっても自分の気持ちがどこまでも果てしなく動いて人を大切に想う気持ちが芽生えたのは、本当に私の人生を変えるぐらいの力があった。
今は、そういうこともあるとわかったから、少なくともその出逢いの前みたいな「もう誰のことも好きにはなれない」という思い込みは消えた。
38歳という年齢も良かった。
何にもない自分というのも良かった。
社会的に全く歓迎されないものしか残っていなかった私の時に、そういう人に出逢わせてもらえたから、自分がどうだなんて関係ないんだとわかった。
38歳で人生迷いまくりで人には言えないこともたくさんあるみたいな自分の状態で、そんな状態で何の期待もないところに突然現れた出逢いだった。
私の一方的なもので、決してハッピーエンドとはいかなくても、それでも私は本当にしあわせをたくさん感じた。
昨日だって、名前を見つけて名前をたくさん言いまくるという思ってもみないチャンスに恵まれて、それで1人ですごく幸福感たっぷりな気持ちを味わった。
自分のおめでたい性格のおかげで、実質0円で多分他の人にはなかなかわかってもらえなくても私的には超ツボなハッピーセットを手にするという、そういう体験さえも手にできている。
私は得だなって自分で思う。
なぜなら、その名前がたとえ英語の問題文にあっても普通は素通りするところ、私はそこに違う意味を見つけてそれで喜べる。
それもとーっても喜べる。
TomやJohnを私が素通りするように、そこには本当なら何の意味もない。
だけど、私には意味のある名前で意味のある風景でそしてその文字を声に出して発音することはすごい特別なことだった。
それは私だけが唯一持てる感覚で、それを持てる自分が得だと感じる。
そういう世界の存在に気付かせてもらえて、そしてそういう世界を知ったことで、私は「そういうことも起こる」とわかった。
残念すぎる今の状況だけど、それはそもそも想像できていたことでもあったけれど、それでも私はその出逢いを通じて「人生には奇跡が起こる」ということを知った。
自分に自信もないところに、高嶺の花みたいな人相手で、私は最初から自分が相手にされるとは思っていなかった。
これは当時も思ったし今でも思っているけれど、その人だったら何も私みたいな色々欠陥ありの女よりも、もっともっと良い人相応しい人がいる。
だから、今の状況は教科書通りの結果で、そんなのは努力して何とかなるものじゃないから仕方ないと思っている。
でも、そんなことではなくて、もう本当にものすごく後ろ向きで前なんか見れなくてこれからも1人寂しいなぁと思ってるくせしてそんなの口にも出せなくて、全然思い通りじゃない人生と思い通りじゃない自分自身と、ネガティブなことを挙げたらキリがない中で、自分の気持ちが自然に誰かに向いて動いてそしてさらに私には日々生きてることが喜びになる、その体験こそが私に希望とか闇に浮かぶ一筋の光を見せてくれた。
そういうことも起こるんだ、とわかったから、だから私は文の途中に書いた「名前の種類はこだわらないから(←こだわれる立場にもない)、とにかくその名前だけは特別だという名前の人と残りの人生の中で出逢えたらいいなぁ」と本気で思えるようになった。
その名前はごんざぶろうや吉右衛門みたいな古風な名前かもだし、キラキラネームと呼ばれる名前かもだし、ありふれた名前かもしれない。
どんな名前でもいいから、その名前を呼ぶのが特別となる、そういう出逢いがこれから先に起こってもいいんだ、って今は思える。
何にも起こらず、気付いたら高齢者で気付いたら老人ホームに入居してそこの爺さんと仲良しこよしになる、なんてこともなく寿命を迎えるなんてことになっても、そういう結果になったらそれはそれで仕方ないと思っている。
それよりも、自分が人と出逢うということに対して前向きな気持ちになれたことの方が大きいから、それはこれからも大切にしたいなぁと思う。
数年前の私に言ってあげたい、大丈夫だよ、って。
あの長い長い絶望期間を通ってきたから、だからこそ出逢いというものに対して私は並々ならぬありがとうの気持ちが湧いた。
相手には重たいものだったかもしれないけれど、私には史上最高のものだった。
これは色んな人に公言しているし自分でも常々思っているけれど、私と一緒にいたいなんて思ってくれる人は本当に神様みたいな超人的な人だと思う。
私を相手にするレベルというのは、相当人としてできた人だと思う。
奇特というか、好みはかなり変人級みたいな。
名前の話がずいぶんとおかしな方向に進んでしまったけれど←いつものこと、これからもどんなに年や経験を重ねても、夢見る夢子みたいなところもあるけれど、それでも誰かの名前に特別感を感じられる感性は持ち続けたいなぁと思っている。
いつ読んだものか忘れたけれど、特別な人の名前を呼ぶ時、それは言葉を変えた「好き」や「愛してる」と同じだと言っている人がいた。
それ超素敵♡と思った感覚、今もそれは同じなのがうれしい。
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