10月3日(水)
少しずつ振り返りノートを再開しよう、そうしよう。
今日は30分にも満たない用事だけをあれこれ足すための外出をした。
その小さなお出かけで名前を見た。
コンビニでレジ待ちしてた一瞬の話。
レジ待ちしている時に名前が目の前1メートルぐらいのところにあった。
その家を出る前に少しだけテレビをつけた。
支度をしながら流し見してただけだった。
またそこでも出てきた。
あるフード系のイベントの告知で、今日は当日ではないから、その出店する食べ物は当然食べられない。
そうしたら17軒中3軒のブースだけ先行で宣伝兼ねて試食させてもらえて、その中の一つにまた名前が出てきた。
9月あたりから?お盆明けから?よく覚えていないけれど、とにかく名前や何か繋がりのあるものを日々いくつも見ることが増えた。
それは数が増えたけれど、距離はますます遠のいてる感じしかなくて、その矛盾に時々目をつむりたくなる。
心の中で感じることは日々色々ある中で、振り返りノートは今書かないとあとからはもっと書かないと予想した。
だから書ける今、少しずつ書いていこう、そう決めた。
10月5日(金)
昨日からの断捨離で過去のものたちが続々と現れる。
仕事中に書いたと思しきメモが目に入った。
88888キロを車の走行メーターで打ち出した日の陶芸家たちの言葉のメモも出てきた。
その人がいたことで意味のない風景が意味のある風景に変わって、そして奇跡をその場所で見た。
6月のことで、まだ3ヶ月ほどしか経ってないことに驚いた。
もっと昔のことみたいだった。
その後、ツタヤに映画を借りに行った。
一瞬、中学生の娘と母親の2人組とレジ近くですれ違った。
2人はちょうど入ってきたばかり、私はレンタルコーナーからDVDを持ってレジに向かうところだった。
女の子は体操着を着ていた。
「○○」と苗字が刺繍されていた。
今回が初めてではなかった。
別の時も、それは会社の制服だったけれど、同じように名前が刺繍されていた。
佐藤でも鈴木でもいいのに、どうしてその苗字なんだろう?っていつも見かける度に思う。
10月7日(日)
朝洗濯物を干した。
干しながらたかが数日前のことがとても昔のことのように見えた。
ここ数日、全く関係のないことばかりが頭をかすめるから、そちらを先に書いた。
振り返りはさらに後手に回る。
後手に回るうちに、もうそんなの書かなくてもいいんじゃないかと思ったり、こんなに当時のことが色々頭の中を駆け巡ってもそれは私だけで、もうこの先交わらないなら書くことに何の意味があるんだろう?、なんなら振り返りもしなくても困らないんじゃないか?なんて考えてみたり。
iPhoneの床下ダイブが起こるまで、私は振り返りノートをいつ書くか、そしてそのためにいつ1年前の日記を読むか、けっこう真面目に計画を立てようとしてた。
東京にいるとスケジュールがタイト過ぎて、どこかで意図的に時間を作らないとぽっとそのための時間が生まれることはなくて、それは30分もあれば良かった、そのための時間を作りたかった。
1年前の時間を、分刻みのごとく体に一瞬一瞬の記憶を残そうとしていた当時を、ゆっくりと振り返りたかった。
ところが、iPhoneダイブ事件で色々ぶっ飛んだ。
そして数日は現実的な対処に、他のことが頭を巡るからそちらに力を注ぎ、気付けばもう1週間以上経過して、あの時みたいには振り返れなくなっていた。
そして思った。
私の意識の向けどころが変わって(変わらざるを得なくなって)、これまでの意識とは一線を画すところがちょびっとだけ出てきた。
当時が薄れていくようなことがその人の日常だとするなら…。
薄れるならまだしも忘れ去られるのが日常なら…。
と思う方が普通なんだと感じた。
その人からは何も言われない、何も伝えられない、それがその人の答え…、それは言う必要も伝える必要もないというその人の判断と捉える…、そういうことも頭の中を駆け巡っている。
もちろん私側には色んな想いがあった。
本当にそんな気持ち、自分のどこに隠していたんだろう?と思ったほど。
色んな気持ちが引き出された。
そして38歳になっても初めて感じる気持ちってあるんだとビックリした。
私は自分の中で、もうこれ以上上はないという気持ちを過去に持ったから、それ以降というもの私はそれ以上を求めること自体無理だと思っていたし、もうその上なんか、上じゃなくても他の新しい気持ちを自分が持つことなんかは全く想像できなかった。
初めて人を好きになったわけでもないのに、初恋は何十年前ですか?状態なのに、私は38歳で「初めて」を体験した。
いい年した大人でいわゆる中年でいわゆる世間では責任とかを持つ年齢域なのに、全部ぶっ飛んだ。
結婚したいなら本気でやめた方がいい人だった(相手も独身だから不倫とかいう意味じゃない)。
結婚するには自分の意思だけじゃなくて相手の意思も要る。
その相手の意思なんて自分の方に向くとはとても思えなかったから、そんな不毛な領域に足を踏み込んだところで結婚はできないから、そういう意味で結婚したいならやめた方がいい人だった。
不釣り合い具合も気になれば、絶対に頭では選ばない人だったから。
積極的に近寄りたい人でもなかったし、自ら色々と話しかけたりするなんて全く考えていなかった。
条件とか社会的なものとか年齢とか、そうした諸々のものたちを前にしたら、私からしたらまず関わり合いになる人じゃない。
そういうものを考慮するなら、私は自分自身が圏外というか事故物件と呼んでもいいぐらいだから、そんな自分が相手にされるともはなから思っていなかったし、あまりに違い過ぎるから、たまたま仕事する場所だけが一緒の人でそれ以上の何かを見出す関係になるとは一ミリも思っていなかった。
そんなこと私がどうこう言える立場にはないけれど、その人なら私の何十倍と外見も中身も社会的なものも良い女の人と巡り会える人だから、そんな手が届きそうにもない人にわざわざ近寄るなんて狂気の沙汰だと思っていた。
だから、頭では最初から弾いていたし、わざわざ近寄って自分が痛い思いをするなんてことは考えたことさえなかった。
だけど、頭で計算してどうこうできる心や感情の動きではなかった。
頭で考えたらレッドカードどころか完全にアウトなのに、気持ちは止まらない。
自分ではどうにもできなかった。
だから、その人に対して感じていたものは、恋愛の好きとか、人が自分以外の誰かに感じる「愛」とか、そういうものを全部超越したような不思議な感覚だった。
そんなのこれまで感じたことないから「初めて」だった。
私にとっては初めてだった。
だから自分の気持ちも大切にしたいし、それを本当に本人もいるところで感じていた1年前の振り返りも大切にしたかった。
だけど色々すったもんだがあったから、頭はやたらと現実的になったし、そうなればなるほど実はあんなのは一時の迷いで、特に相手からしたら何だかよくわからないことに巻き込まれたけれどもう会わないからいいかと忘却の彼方に消えて無くなっている、と考える方が自然な気がした。
再会を考えるそのこと自体に無理があるのに、もしかしてそこは得意の想像でそっちに自分の気持ちを向けただけなんじゃないかと。
ごく稀に色んなことが鮮明になったり全く気にならなくなったりする時もあるけれど、ほとんどの時間は「これは何だったんだろう?」という疑問や疑念の方がとめどなく出てくる。
名前とかをたくさん見るのも、そんなのは私が意識してるからたまたま見るだけなのかもしれない。
流石に武士俣のようなレアさはないけれど、多分たまたま多く目にしてるだけなんだと思う。
意味なんか何もない…。
そう思う方が自然なことだとも思う。
そうやって考えて悲しくなって、でも心の中にはずっといて。
大きなため息が出てきそうだった。
何日か前に見つけたメモは、A4の紙を4分の1に切って糊づけしてメモ用紙にしたものだった。
メモを読むと、いつかの日に書いたブログの備忘録だったのかな…と思う。
・手紙を書かずにはいられない衝動→とても奇妙だった
・私の人生に現れてくれてありがとう
・人生のごほうび
・第一印象
・その近くに行きまくってたこと
・死ぬわけでもないのに、今伝えないといけないと思ったこと
・お互いに元気で毎日会えること
・オーラじゃないけど、その周りだけとてもキラキラしていたこと
・生きているうちに会えるってすごい
・目のキラキラ具合
・具体的な話は避けるけれど、運命のいたずらのように接触する機会がやってきた
・手紙を書くことも、手紙を渡すタイミングも、すべてペンジュラムが導いてくれたこと
私は普段ブログの文章を起こすために手書きでメモなんてまず書かない。
もし何か書き漏れても困らないし、それで自分も気になって仕方ないなんてことも絶対にない。
メモに日付がないからいつ書いたものなのかはわからないけれど、少なくともブログに書くことのメモとして書いたのは間違いない。
自分でわかっている。
その人のことを書く時、もしくはその人がいた人生のある場面を書く時、私はそれはその時にしか書けないといつも思って書いている。
時間も有限であれば、自分がその中で語る言葉も有限であれば、さらに自分の口から出てくる表現も有限になる。
何でもかんでも無限にあるわけじゃない。
だから今しかないと思って、そこにすべて書き漏らすことのないよう書きたいと思ってしまう。
特にメッセージ性の強いものは、今回出てきたメモのようなものは、絶対に落としたくない。
大げさに聞こえるかもしれないけれど、書いた後ぽっくり死んだとしても、書きたいことは書けた!と満足して後悔のない状態だけは作りたいと思っている。
無計画な私が唯一計画的に、そして1つの漏れもなくやり切ろう!というすごい稀な行動を自らしている。
もう過ぎてしまった9月。
振り返りをしたいという気持ちと、もしかしたらもう振り返りはしないかもしれないという気持ちとが行き来している。
日記も読んでいない。
振り返るなら振り返るで、きちんと振り返りたい。
中途半端にダラダラっと振り返るのはしたくない。
その振り返りは、ツタヤで体操着の名前の刺繍を見るような、そういうタイミングで成されることに近いと感じる。
その親子も歩いていたし、私も歩いていた。
だから広い店内でその親子とすれ違う可能性なんかものすごい低いわけで、しかもその子どもが体操着を着ていることも、さらには体操着に苗字が刺繍されることも、そしてその苗字がその人と同じ苗字なんて、ものすごい偶然だらけの中で成り立っている。
1秒の違いが、小さな選択が、先の未来を大きく変える。
だから、私がその人と出逢えたこともその中で色んな偶然が重なったことも、その体操着の刺繍みたいな可能性の話で、限りなくゼロみたいなギリギリのラインを縫って起こっていた。
ツタヤもこうだった。
たまたまツタヤの無料レンタルクーポンを手にした。
そして今日、1年前に亡くなったおじさんの一周忌で両親は法事に出かけた。
私は映画見ながら昼飲みしようと決めた。
そうしたことが重ならないと行くことのないツタヤだった。
しかも私は最初家から近い方のツタヤに行った。
クーポンをよく見たら、取扱店舗が決まっていてそこは対象外だったから、またさらに移動してその2軒目のツタヤでの話だった。
少し前に『君の名は』を見た。
シーンの中で一番やたらと脳裏に残ったのは…。
入れ替わった2人が互いのその入れ替わった時の様子を携帯のメモに入れて、元の自分に戻った時にそれを見て何が起こったかをわかるようにしていた。
それが未来が変わることで、今手元にある携帯メモがどんどん勝手に消えて行くシーンがある。
あそこのシーンが強烈に残った。
私がメモを残したり名刺を手元に置いておいたり仕事で使っていたノートを持ち帰って今も捨てずに保管しているのは、怖いんだと思う。
時々すごい変な感覚になる時がある。
本当に自分が通過した過去があったんだよね?あれは嘘じゃないよね?と起こったことさえも信じられなくなる感覚がやってくる時がある。
それが本当にあった、きちんと出逢えて同じ時間・同じ空間に存在していた、それを証明する手立てとして、私は3次元的な物質を手元に残しているのかもしれない。
自分が生きてそこにいたこと、その人も生きてそこにいたこと、生きて出逢えたこと、そして私はその人に特別な気持ちを抱いたこと、どれももう物体として存在していないから、だから私は名刺やノート、メモを置いて「確かにあった」と自分に証明しようとしてるのかもしれない。
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