2018年9月2日日曜日

ツバメノート

8時間後、ガストモーニングが控えてるにも関わらず、日中寝すぎたせいで目がギラギラしてる。

7時間後に控えた今も眠れない。

眠くなるまで楽しむことにした。

本を読んでいるうちに、夏の夕暮れについて書きたくなった。

日にちは8月30日と31日。

夕方6時前後には外が暗くなっていてビックリした。

天気が悪かったせいももちろんあるけれど、あまりの暗さにまさかまだ6時だなんて思いもよらなかった。

せいぜい6時半頃かな…なんて思ったら全く違っていた。

これも家にずっといたから気付いたことだけれど、ミンミン蝉は8月の終わりになってからの方が最盛期らしい。

すごい大音量でミンミン、ミンミン言ってた。

そして午後のどこかの時間からは、ミンミン蝉の声に混じって鈴虫の声がする。

夕暮れ時間の早さに去年は気付かなかった。

日々勝負みたいな去年の夏は、季節の移り変わりなんかちっとも目に入っていなかった。

私が見ていたのは、目の前の風景と自分の心の風景ばかりで、外の風景には全く気付かなかった。

しかも残暑だったのか、それが通年のことなのか定かではなかったけれど、去年は9月の終わりも普通に半袖を着てた。

それが季節感を狂わせて、さらに自分がどこにいるのかわからなくなった。

「次の季節まで行けなかった、見れなかった」そこだけが私の中で強く残った。

そんな風だったから、まさか8月の終わりからこんなにも外は秋色にチェンジしてるなんて、全く知らなかった。

記憶がかなり曖昧だけれど、去年の秋のいつかの日、私はノートを1冊買った。

一万年以上永久保存ができると謳っているツバメノートを購入した。

最初は2017.10.01のスタンプ印になってた。

それを久しぶりに開いて、読んだ。

その中に8月31日、夕焼けがきれいと騒いだ日の記録があった。

その時の私はまだ頭の中が相当おめでたくて、その夕焼けの日に関してはおめでたい記録に仕上がっている。

そのノートは12ページ書いて終わってる。

書こうと思ったことをリストアップしたメモがあって、まだかなりネタがある。

リストの中にある単語を見て、それが何か思い出せる。

私の記憶力凄すぎ!と自画自賛。

忘れないうちに、リストの中のストーリーを書いてしまおう。

今日さっきノートを広げてちょっと読んだ時、読むと元気になれることがわかった。

風景とかの描写なのに、細胞が多分きちんと記憶してるんだと思う、読むとそこからパワーがもらえる。

当時の記憶が鮮明に蘇る。

今だって、一言リストを見て、例えば「昼休み戻りくつそのまま」とか「メモ」とか「メガネ」とか「テプラいつも緊張」とか、何を指してるのかよくわかる。

それぞれのストーリーを描写するのは、絶対に楽しい。

もう何もなくても、そこに私は色んな気持ちや景色を見ていて、その当時の何かを文字を使って残すのは粋だなと感じる。

何年か前に、私が書く字に関して、ものすごく嬉しい褒められ方をしたことがあった。

まさか小学生の男の子を持つお母さんだとは知らずにいた私よりも年上の女の子で(勝手に独身の年下の女の子かと思ってた)、ある本の勉強会で一緒のグループになった時のこと。

その子は私の字を見てこう言った。

「字も喜ぶ!
ぶっしーにきれいに書かれて」

そう言われてものすごく嬉しかった。

ついでの余談だけれど、当時のメモの中に一緒に書かれていた私の好きなもの・好きな時間。

「月を見ながらお酒のんで沈黙を共有する」

多分これ友達と友達の家のベランダでやった気がする。

その友達のベランダで、焼肉も鍋もしたし、朝日鑑賞会もした。

月見酒をしててもおかしくない。

今から6年前の勉強会の時のメモだけれど、月見酒は今も変わらずに憧れる。

お酒を交わしつつ、「沈黙」という空気を共有するなんて、最上級の贅沢だと今でも思っている。

沈黙こそ難しい。

沈黙を共にした時、本当に心地よい人たちとは一生関係が続くと私は思っている。

なぜなら、それこそ一番肌が合う合わないを判断できるものだと思うから。

話を戻して、字のこと。

私は自分の字は、嫌いではないけれど好きでもなく、そしてよく見ると色々アンバランスだけれど、それでも人は褒めてくれる。

「ありがとう」と言うし、ありがたく受け取るけれど、正直そんな言うほどのもんじゃないと思っている。

ただその子が言ってくれた言葉は本当に嬉しかった。

まさか私が書く字が喜んでるなんて発想、その時までしたこともなかった。

そんな発想ができるその子の方が何十倍も素敵だった。

その字で、メモしといたリストの話の続きをツバメノートに書こう。

パッと数えただけでも26個のリストがあった。

書いた当時、なんとなく未来に読む時はそこから元気や温かいものをもらえるかも…とは思ったけれど、実際にその未来に立ってみて想像以上だったとわかった。

文字から癒しの空気は出てないけれども、内容から癒しの空気が出ている。

心がチクッとしたり、グサッとしたことも書いてあるけれど、それでさえも今読むと元気とは違うけれど、「魂にやる食べ物」的な力がある。

気持ちが満たされる、心が満たされる感じがある。

なぜなら、それはその時に本当に存在したもので、その存在こそが色んなものを満たしてくれるすごいパワーの持ち主だったから。

よくよく考えたら、そのツバメノートの中身や、これからいつか文字になって登場するストーリーたちは、本物の豊かさだと気付いた。

少なくとも、去年の夏を迎えるまでは存在さえしていなかった。

本当に「ない」ものだった。

それがある時から「有る」「在る」ものになった。

見ている風景が変わった。

生きている毎日が変わった。

「世界が変わる」というのは、こういうことを言うんだと思った。

すごい突然変異だった。

どこかのお店で「メモ 100円」とか「メガネ 10000円」とか値札がついて売られてるわけじゃない。

そんなの世界中どこを探したって売っていない。

カードのCMだったと思うけれど、「○○の思い出 プライスレス」みたいな謳い文句のものが昔あった。

まさに私はプライスレスの思い出を手に入れた。

どこにも売られていないし、作られてもいない。

もう一度再生してください!とお願いしても、もう二度と同じものは世の中に出回らない。

そして二度と同じ時は巡ってこない。

豊かだなぁと思う。

そんな豊かなものを私は持っていたんだなと今さらだけれど気付く。

ツバメノートの中で、私はある時のある瞬間をそのまま綴った後、最後にこう結んでる。

「たとえ無視や無言でも同じ空間にいられただけで特別だったと今は思う」

最後に、そのツバメノートを買った日に出逢った言葉を紹介したい。

『人生は引き算で豊かになる』という本を書いた有馬頼底さんの言葉。


【あなたが今、まさに出会っている人、見ている風景、目の前で起こっている出来事は、一生のうちでたった一度だけ出会えるかけがえのないものです。
ぜひとも、貴重な瞬間をしっかりと味わい、大切にする生き方をして欲しいと思います。
そして、その時の余韻を噛みしめ、胸にとどめるくらいの、静かで、穏やかな心の余裕を常に持ち合わせていたいものです。
それが「一期一会」「独座観念」の思想なのです。】


私はこの言葉を、ツバメノートの最初のページに書いた。

気に入って書いたと言うよりも、未来そうなって欲しいという願いを込めて書いた。

その後に続くストーリーを、心穏やかに読めるぐらいの自分にいつかはなりたいと思ったから。

それこそ私は引き算を始めないといけなくなった。

色んな現実を前に、期待や希望や願いを引き算する、それは常に悲しさと絶望とセットだった。

だから、せめてもの未来に託した願いだった。

すぐにとは言わない、いつかの未来にそのページを開く時に、そういう心を手にしたいと思った。

引き算がどの程度うまくいってるかはわからないけれど、少なくとも有馬さんが唱えた穏やかな心の余裕は多少生まれたと思う。

見れば見るほど、言葉の意味に魅せられる。

そして当時を言葉で追う時、それを色んな情感と共に味わう今の自分がいる。

「言葉で追う」というのは、相当考えて出した言葉。

「思い出す」「振り返る」「思いを巡らせる」、どれも違っていた。

当たり前だけれど、言葉の中身は完全に「過去のもの」になっている。

普通、過去のことを思う時は、「思い出す」とか「振り返る」って言う。

でも、まだ私はその域には達していない。

思い出すというのは、それを「過去」として自分が認められて初めて使える言葉だと思う。

私の中の今の時制がなんなのかいまいちわからないけれど、少なくとも「過去」は違う。

だから言葉を探した。

「言葉で追う」なら過去ではない。

今現在をそのまま指せると思った。

これを書きながら私はとても穏やかな気持ちになれた。

そして穏やかさと一緒に眠気もやってきた。

5時間後のガストモーニングに向けて寝よう。

プライスレスの思い出を体中に巡らせながら、しあわせな気分で眠れる。

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