2018年8月26日日曜日

一日寝太郎な日

1日中とにかく寝てばかりいる日というのがある。

昨日・今日がまさにそうで、ごはんを作って食べる時間、シャワーを浴びる時間、このブログを書く時間、本やブログを読む時間、トータルすると多分3〜4時間以外はとにかくずっと眠っていた。

本やブログを読んでる途中で寝落ちして、気付くと1時間近く眠ってる。

起きてまた再開してもまたいつの間にか眠りこけてる。

ずっとその繰り返しだった。

少し前(数ヶ月前)までの私は、こういう日の自分がすごく嫌だった。

何もしていないみたいで、1日時間を損したみたいな気持ちになっていた。

変わったのはこの春から。

私が「癒しのレシピ」と呼んでいる、他の人に向けたメッセージのようなもの、それを作った後、もしくはそれについて何かに気付くと、一時的な体調不良か極度の眠気に襲われる。

どちらも悪いものではなくて、自分の中の要らないエネルギーを落としてるような感じ。

昨日はそういうものではなかったけれど、今少しずつ自分の中で点だったものたちが「これとこれが繋がるんだ!」みたいな感じで繋がりだしてるから、それで睡眠が必要なのかなと勝手に思っている。

寝ている時というのは、起きてる時以上に膨大な量の情報を消化・整理しているとのこと。

だから、新しい情報を自分の中に入れるに際し、今は寝ることが必要で、体が勝手にそうなるのかなと思っている。

そうした時は、昼間活動ほぼゼロで眠り続けていても、夜は夜でまた眠くなるしよく寝れる。

昨日なんかは夜の8時前には寝支度も整っていて、その後早々と寝落ちした。



全てはこれで良かったのかもしれない…、そんな風に思い始めてる。

過去の色んなことを書いて吐き出した時、まだまだ心が強く反応してしまうものもあった。

一番感謝したくない人に手紙を書く(書くだけで出さない)というやり方を、中年の危機の対応策として吉元由美さんが本の中で紹介していた。

複数名出てきたけれど、とりあえず確実に書ける1人に向けて、昔の余ったルーズリーフを出してきて書いた。

複数名は、感謝してることもたくさんあるから、逆に書けなかった。

確実に感謝する部分よりもしたくない部分が大幅に上回る人が1人しかいなくて、それで消去法でその人になった。

書いてビックリした。

もう全ては終わったことでも、私の中では出来事は完了、心は未完了になっていた。

本人にぶつけられなかった毒をとにかく書いて書いて書きまくった。

書きながら自分はずっと泣いてた。

本当は発狂しそうなぐらいの気持ちになっていたのに、数々の通過点で私は沈黙を決めた。

沈黙を選んだ理由は、その時々の私はそれが自分を守る方法だと思ったから。

言いたいことも感じていたこともたくさんあった。

だけど、言うと全く想像もしていなかった方向から刃のようなものが返ってくるから、それで私は言うことを止めた。

ある時までは言っていた。

だけど言っても伝わらないだけじゃなく、確実に自分がもっと嫌な思いをする言葉が来るとわかって、私は沈黙を選んだ。

そうして私は最後まで言わなかった。

別れる時、私が言った理由は、最後まで相手を思いやったと思う。

上から目線みたいで言い方が卑しいけれど、本当にそう思う。

ルーズリーフに書いたようなことは言わなかった。

自分が当時飲み込んだ言葉のすべてを今吐き出した。

そこで初めて未完了の自分の声を拾った。

どういうのが正しい形なのかは知らないけれど、私は感謝しなかった。

代わりに、そこから自分がどんなものを大切に余生を過ごしたいのか、それを短い文章で箇条書きにした。

それに気付いていくためのプロセスだと考えたら、その人も必要な人になる。

だからこれで良かったのかもしれない…という気持ちは、出てきた。

起こったことは「良かった」とは思わない。

だけど起きてしまったことはもう今さら仕方ないのと、起きたことでわかったことがあったのは確かだから、そこを大事にしたらいい気がした。

それに気付かせてくれた人…としてなら、そのうち感謝の気持ちも出てくるかもしれない。

究極の毒出しみたいなことばかりをしていたから、体はリセットするかのごとく休もうとしたのかなと思う。

たしかにあれだけの負のエネルギーを出せば、その出した分だけエネルギーを使う。

あの異常な眠気にも納得できる。



自分のこの異常な眠気とある種の無力感(眠る以外何もしたくなくなる)を人生で繰り返して、自分なりに見つけた法則。

100回以上1000回未満の間の回数は確実に繰り返した中で見えてきたこと。


・眠たい時は、状況が許すならとにかく眠る。

・できる限り何も気にしない。

夜眠れなくなったらどうしようとか、今日やってしまいたかったことが終わらなかったら起きた時に後悔するとか、そういうのはとりあえず重たく捉えない。
そういう気持ちは出てきたら出てきたで仕方ないけれど、とりあえず寝てみる。

・起きた後、自分が何でもいいから動けたことに注目する。


上に書いた3つのことができるようになってから、かなり良くなった。

私の中の変な凝り固まった価値観で自分が苦しくなることがわかったのは30歳過ぎてから。

いきなり変われ!と言っても無理だから、とりあえず小さなことから始めた。

それが上の3つ。

ちなみに私がこんなにも眠り過ぎることに恐れおののく理由の1つに、私は体は丈夫だし体力や持久力もあるけれど、唯一眠りだけは心の影響が出やすくて乱れやすい。

ひどい時は、何時間も眠れないとか、夜中に目覚めると朝までそのまま起きてしまうとか、それが平気で1ヶ月とか続く。

そういう体質だから余計と「眠り」に関してだけはちょっと自分でも気をつけてあげないと…と思ってる。

これだけの症状を呈しても、私は睡眠薬を使うことは考えたことないし使ったことない。

大人になってから、意外にも睡眠薬を使う人が多いことに驚いた。

だから私も一度ぐらい医者にかかってもいいと思ったことはあったけれど、それ以上に薬がないと眠れない体質になる方が怖すぎて行ったことがない。

私がわかったのは、眠り過ぎても死なないから大丈夫ということ。

反対に眠れなくても、体はしんどいけれど、死なないということはわかった。

そして私の場合、異常な眠気の時は、本気の体からのSOSだから、寝た方がいい。

眠り過ぎることに対する罪悪感には色々理由があるけれど、私なりに「結局大丈夫だった!」というところを起きた時にきちんと認識することがその罪悪感を減らしてくれるお助けマンになった。

だから、そういう気持ちが眠る前に出てきたら「大丈夫だから」と自分に言い聞かせたりもする。

思い切って何もかも忘れて眠った方が、心にとってもいいし気持ちよく眠れるとわかってからは余計と気にせずに眠ることを心掛けるようになった。

そして最後、起き上がって動けた時、それも大切にする。

歯磨きとか顔を洗うレベルでいい。

無気力に近い状態で眠ってしまうから、起きた時にできたことを自分の中で「できた!」と認める。

「認める」は「見止める」とどこかで習ってきた。

「認める」というのはなかなか難しい。

自己否定強めな人ほど認めない(←私)。

だから、認めるだとハードル高いから「(その状況を)見て止める」、そこから始めようというものだった。

それは、自分のしたことを切り取って見るだけだから、そんなに難しくない。

具体的には、「(少し前まで)寝ていた自分」から「(今は)顔を洗っている自分」という風に、自分のしていることを客観的に見る。

そこにはどんなに否定したくても既に変わっている自分がいるから否定できない。

だから、起きた後の自分が何をしているかを見るのは、私の場合すごく大事になる。

もう1つ付け加えるなら「そんなことしかできないのか、自分は!」という考えも捨てる。

それするとますますキツくなるから、とにかく淡々とやったことを見ていく。

その見止める行為をすると、また動けるようになった自分がわかるし、自分にやさしくなれる。

そして、「このままだったらどうしよう…」と心配になる私も、何かしらの変化を見て「ずっと同じということはないな」と客観的にわかるようになる。

私的にはとても使える方法だと思ってる。

自分の心を緩めたり、自分に優しくする方法として、私は色んな場面で上のようなことをよくやる。



話があちこちに飛びまくったけれど、書きたいこと書いたからおしまい。

そう言えば。

今朝まどろんでいる中、一言言われた。

言われたと言っても夢の中なのか、私の寝起き前のぼーっとした頭が見せるたわ言なのか、それとも本当に誰かからのメッセージなのか、それはわからない。

言われたのはこうだった。

「武士俣さん、もう少し時間をください」

声は男性だった。

そして私の中で私を「武士俣さん」と呼ぶ男性は1人しかいない。

「武士俣さん」とは当然どこででも呼ばれるけれど、そう呼ぶ人として私が認識しているのは1人ということ。

昨日のブログに書いた予知夢のカンナちゃんみたいに、これが何かの予知夢的なものならいいのになぁなんて思いながら徐々に目が覚めていった。

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