『人を好きでいる目的は彼女になることだけじゃないよね。って思う。』
細く細く不定期開催している手紙の整理をしていた時に見つけた言葉だった。
私は時々「この子と友達になりたい‼︎‼︎」という気持ちにさせられる子に出逢う。
この手紙の女の子もそうだった。
こんな素敵な言葉を発する手紙はもちろん永久保存版となる。
今日は朝から会いたくて会いたくてでも会えないのはわかっていて、そうしたら猛烈に寂しくなって…みたいな始まりだった。
最近考えることの1つに、この行き場のない気持ちは最後どんな風に終わりを迎えるんだろうということ。
私としてもこんなに長くダラダラとくるつもりはなかったから、この想定外のことに自分の身の置き所のなさにたじろいでる。
おとといだったのか忘れたけれど、私はもう繋がりなんかなければその人に関するようなものは何も見ないし、もし繋がりの可能性があるなら何かを見るだろうと思って車を走らせてた。
家に着くまで何を見ることもなく、あぁやっぱり何もないよね、と結論づけて家に入った。
もう全ては終わりに向かっていて、「何もない」ことがこの出逢いの全てなんだろう、ただ私がそれを受け入れられないだけだと考えたりもした。
その1時間後ぐらいにご飯を食べてた時のこと。
テレビでは旅番組的なものをしていて、芸能人が地元の人に観光スポットを聞いているシーンが映った。
シーンはすぐに変わる。
本当に一瞬だった。
背景の画面に床屋のあの白と赤と青のクルクルみたいな看板が映った。
縦型のポールの方じゃなくて、店の壁に取り付けるタイプの正方形の看板のようなものの方。
そこにその人の名字が、要は店名が出ていた。
画面全体の20分の1ぐらいの大きさで、よくあんな一瞬の間に目でキャッチできたなと感心した。
どうしてこうもあまのじゃくみたいなサインを見せられるかな…と思いながら、半分は嬉しい気持ち、半分はやるせない気持ちでその画面を見た。
こういったサインもそうだし、体感覚もさらに混乱の元になっている。
体の方は感覚としてやってくるから、それを私が勘違いして意味付けを誤ってる可能性ももちろんある。
だけど、自分の方で湧き上がらせてる感覚としては、ずい分と普段の感覚とは違う。
この感覚に関しては、もしもし本人に会えることがあれば直接聞いてみたいと思っている。
今日も今日で、新聞に月1ぐらいのペースで入ってくる小冊子を見た。
新聞さえ読まない日々になって早半年、そういうものを手にすることさえ珍しかった。
何の気なしに見てたら、突然その人の名前がドンと出てきた。
今度は下の名前。
毎日何のアピールかは知らないけれど、忘れる努力なんてする方がアホらしくなりそうな事態になっている。
今思えば、毎日会えてた時の方がイレギュラーだったんだなぁと思う。
生きてることそのものが喜びだった。
大げさに言ってるのではなく、本気で喜びを感じてた。
会えることが嬉しかった。
自分も生きてその人も生きて同じ場所にいられる、ただそれだけで私は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
その人がいるだけで嬉しいとか、喜びを感じるとか、そんな人にあと生涯何人に会えるだろうと思う。
その人に会えるだけで全身の細胞という細胞が喜びで満たされるなんていう体験、そうそうない。
去年の夏、生きることや命がとてもリアルだった。
何かが1つでも違っていたら絶対に存在しなかった瞬間瞬間を味わってた。
数日前、東京でホロスコープ鑑定を受けた後に思った。
その人は、私の人生においてなかなかシビアな時に登場してきた人だった。
ホロスコープによれば、本来痛みとか困難をかなり伴う期間だったと思う。
命万歳!みたいなところからは程遠い変容の時期に入っていった頃だった。
だけど、私はその時を喜びでいっぱいにしていた。
その人がいてくれたおかげで、私の痛みのような時期は痛みではなくなった。
後から痛みも生まれたけれど、それは私が自らそのスイッチを入れたものだから仕方ない。
スイッチを入れなかったとするなら、喜びだけで全てを満たすことができたと思う。
寂しさがぐっとせり上がってくる時、体の末端から中心にかけて痛みや緊張が走る。
私はすぐに誤魔化してしまうけれど、あの体で感じる寂しさは尋常じゃない。
細胞中で喜びを感じた分、寂しさも細胞中で感じるらしい。
寂しくて体が痛くなるなんて聞いたことない。
でも不思議と痛くなる。
寂しさと体の痛みのメカニズムなんて知らないけれど、本当にそうなってる。
今日も寂しさが体の奥の方から出てきた時、体の末端の方から痛みが一瞬にして姿を現した。
条件反射で私は寂しさを消そうと体の違うところに瞬時に力を入れた。
そこに意識が向くと、寂しさの痛みはとりあえず消える。
寂しさは消えなくても、ちょっとだけ濃度が薄まる。
ちなみに先に書いた体感覚はもっと別物で、寂しくて体が痛いのは自分の感覚だってわかる。
引きこもってた時だったのか、いつだったのかは忘れたけれど、「寂しい」ってすごい感情だなと感動したことがある。
そもそも誰かがいなくて寂しいとなるには、そのそもそもの誰かと出逢っていないといけなくて、そしてその人が寂しさを連れてくるぐらいに自分の中で特別でないといけない。
だから、これは誰かがいないと成立しない感情なんだなと思った。
もちろん1人でも理由なく寂しくはなるけれど、それとこれとは違う。
人を伴う寂しさは、まず「出逢う」ところからスタートしないといけない。
そしてそんな気持ちになれるほどの相手と知り合えたそのことが凄いんだと知った。
その人と初めて顔を合わせた日、まさかあの笑顔が後に寂しさというすごい爆弾を仕掛けてくる人物だなんて想像さえできなかった。
最初の日の他の人たちのことは綺麗さっぱり忘れたけれど、その人のことだけは鮮明に記憶に残ってる。
忘れっぽい私がなぜか覚えた人だった。
初対面で記憶に残ってる人なんて、私の場合数人しかいない。
しかもその数人は、独特だったり、後に仲良くなっても苦手だと思って残った人たちだった。
だけど、その人だけは最初から色んな意味で違ってた。
そのことに気付いたのはずっと後でも、それでもその人みたいに印象に残った人は人生で今のところ他にいない。
ヒーリングのことを教えてもらってる中で覚えたこと。
人間の体の中で3つの部分から一番エネルギーが出ていて、その3つの状態を見るとその人のエネルギーがわかるとのこと。
私は他の2つの部位のエネルギーは見てもわからないから判断できないけれど、唯一その中の1つだけは私でもわかる。
目を見たらわかると言われた。
目を覚えてる。
あの日のその人の目はとてもきれいで優しい目をしてた。
その人がまとってる空気も心地よさそうなものを発してたし、全身から出ているものがとにかく良かった。
私は「イケメンだから」というとんでもない理由で一括りにしてしまったけれど、あれはイケメンだからじゃないと今は思う。
あの人が発してるものすべてに私は一瞬で引き込まれていたんだと思う。
本人は無自覚かもしれないけれど、本当にすごく良いものを持ってる人だというのはわかる。
だから強烈に印象に残ったし、それは最後まで変わらなかった。
私に対してはどんどん重苦しいものへと変化したけれども、それでもその人の元々持っているものは本当に良いものでそれはみんなが持ちたくても持てるものではないものだった。
本人は全力で否定してきそうだけれど、本当に自然に身についてるものがすごく良いものだったことは間違いない。
初対面の日なんていうのは、私の中では全く何の気持ちも動いてなかったから、純粋にその人の人となりを見ていたと思う。
初対面という枠組みの中でなら、1000人どころかもっとたくさんの人に人生で出会ったと思う。
だけど、その人を見た時に感じたあの独特の良さは、これまで1人としていなかった。
私の余計な色メガネなくして見ていたから、私のあの日の感覚は合ってると思う。
そして初めての日、その目を見てその人を見て私は言いようのない安心感を覚えた。
社会人になってから勤めた仕事で、初めてのことだった。
指折り数えたらそこは11個目の職場(中には1つの仕事で3つの事務所を行き来してた時もある)で、当然どこに行くにしても毎回最初の挨拶はあるわけで、まず安心感なんてのは皆無だった。
だけど、唯一その人を見て、安心した。
こんな人がいてくれる職場なら大丈夫だろうと。
緊張しまくりだったけれど、なぜか安心できたという前代未聞の体験をした。
こういう出逢いは狙って手にできるものじゃない。
これから人生しばらくきつくなるから、まぁその緩和剤としてこの人間をおまえに出逢わせてあげよう、そんな風に決定されてその人は私の人生に送り込まれてきたのかもしれない。
だから本当ならその人の役目はもうすでに終わってるのかもしれない。
もしかしたら私が手出しすることがアウトだったのかもしれない。
まぁいずれにしても、いないととてつもなく寂しさを与えてくる人物には間違いない。
こんな予定じゃなかったのに…と思う。
ちなみに怖いから、相手側からの視点はシャットアウトして見ないようにしている。
相手にしたら、単なる迷惑材料が誤配送されてしまった、そんな風になっていそうだから。
7/29 18:43
細胞マジックとでも呼べばいいんだろうか。
上の文章を書いてる途中から、私は当時を思い出してやたらとしあわせな気分に気付くとなっていた。
瞬間瞬間を思い出して、心は当時の感じを再現していた。
私はその人のことを思う時も、それに気付いて打ち消そうとしてた時も、違う違うと否定しまくっていた時も、要はどんな風にしてもその人がいた。
それは朝起きてから夜寝るまで続いて、さらには夢の中もその状態で夢を見てたと思う。
だから、ある意味すっごく忙しかった。
忙しかったおかげで、水面下で起きてるようなことには何も気付かず、いずれ気付く時は来るにしても、少なくともその人が1日中を占めてた当時は、私には毎日生きる意味と楽しみがあった。
それは細胞が覚えてるんだと気付いた。
時間も随分とたくさん経過したし、視覚でその人の姿を捉えることもなくなったし、聴覚でその人の声を自分の中に響かせることもなくなった。
だけど、3ヶ月ほど細胞中でその人を捉えていたから、今思い出していると当時の感じのまま思い返される。
寂しさよりも当時の明るい感じに包まれていた感覚を思い出した。
すごいことだなと我ながら感心した。
体で覚えたことは忘れない。
同じ空間で1メートルくらいの距離感にいて、そして相手の目を見てまとってる空気を感じて、何気ない1日のはずだった。
それが1年先にも影響を及ぼすほどの出来事だなんて、当然想像さえしていなかった。
名刺の名前を見て私は驚いた。
その名前は入口にある貼り紙を見て、顔を合わせる前から知っていた。
勝手に自分よりも年上の人だと決めつけていた。
だから名刺を見てその名前の人だと知り、そして見た目には私より年下というかうんと若く見えて、名前とのギャップに驚いた。
今振り返れば、名前もすぐに覚えた。
私は、初対面どころか、その後も名前や顔を覚えるのが基本苦手で、当時も名前を覚えるためにいの一番にメモ帳に名前と席を書いた。
なんなら私は一番お世話になる人の名前すら最初の2日ほど覚えられなかったほどだった。
名前を覚えられなくて、周りの人がその人を呼ぶ時に耳をダンボにしてた。
だけど私はよく考えてみれば、その人の名前だけは一番覚えなくても差し支えなかったのに一番に覚えていた。
今手元にある名刺は、唯一私がその人に出逢えたという証拠品になっている。
時々、全てが幻とか夢の中で起きたことのように思う時があって、そうした時に名刺を見てリアルに起こったことだと確認する。
仕事のことはほぼほぼ忘れたけれど、その人と最初に顔を合わせた瞬間のことははっきりと覚えている。
そこだけ切り取ったかのように覚えている。
そしてその人が放ってた空気も記憶にしっかりとある。
『人を好きでいる目的は彼女になることだけじゃないよね。って思う。』
昼間手紙の整理をしてた時に、手が止まった。
高校生の私が受け取った手紙だった。
私は何にもなれなかったけれど、私はその人の何かになるために出逢ったわけじゃないと思う。
私からしてみたら、生きる喜びを教えてくれた人だった。
生きてるって素晴らしい、今日も生きてあなたに会えるって素晴らしい、そういう感覚を私の人生に吹き込んでくれた人だった。
7/29 22:48
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