6月13日(水)
おとといアップした時点で、しばらくブログのアップをストップ、小休止しようと考える。
色んな話が途中のままではあったけれど、あの時プツっとスイッチが切れた。
自分の中で、それまで支えとなってたものに力が入らなくなった。
だから良くも悪くもあきらめるために最後の賭けに出た。
気持ちがいきなり変わったわけじゃない。
だけど、先の見えないもの、何1つ知らないまま今があってその今がこれからも続くことを思った時に、心はその場にペタンと座り込んだ。
立ち上がれなかった。
そしてもういいんじゃないかな、もうがんばって自分の信じたいものを信じてここまで来たんだからこれでいいんじゃないかな、という気持ちだった。
これでいいんじゃないかというのは、もう一旦全てを手放すという意味で。
ここまで信じきってでも何も起こらなかった、だから次は信じるんじゃなくて、別の選択をしてもいいんじゃないかなと。
翌朝火曜日になって、ふと書いたことはいいけれど、しばらくブログを休止した場合、あの記事がトップになるのは嫌だった。
人の目に触れさせたいものではない。
そこでもう1つだけ何かを書いて、少なくともブログのトップに来るものは別のものに改めようと思った。
書きながら頭をひねった。
わざとわからないようにして書いた。
私にしたらこの世でたった1人にだけきちんと伝わればそれでいいから、そこだけを意識して書いた。
文脈が大きくズレないように、暗号を書いた。
本人を示すものを書いた。
そして、その人に向けたメッセージを書いた。
名探偵コナンか金田一少年の気分だった。
6月14日(木) 新月
自分の心の動きを観察している。
アップをしばらく控えると決めて以降自分の心はどう変化するのかを見ている。
初日は大きな荷物を降ろしたような、スペースが空いたみたいで気持ち良かった。
そしてその空いたスペースには、自分を癒すメッセージが来た。
癒すメッセージが本に書いてあったことなのか、自分で本を読み違えて解釈して出てきたことなのかわからない。
今日はそれを確認してくる。
2日目の昨日からは、あの空いたスペースはどこに行った⁇と思うほど、色んなことが頭から離れなくなった。
過去の幾つかのシーンまで思い出した。
過去のシーンたちは思い出すと切なくなるから避けていた。
避けてばかりいたら記憶が薄れてしまった件(汗)。
薄れたけれど、何とか思い出したくて1つの瞬間を何回か反芻する。
徐々に当時の記憶がよみがえってきた。
「伝えて送ることを撤去する」
そうなる前に最後私が見て感じたものは、相手からの「伝えて送ること」だった。
伝えて送ることを撤去する資料をその人は探してた。
何を探していたのかは見ただけではわからなかったから、私は後ろから声をかけて何を探してるのかを聞いた。
私は最初自分が何か変なことを聞いたのかと思った。
それぐらいに普段のその人からは考えられないようなリアクションだった。
その人がどの程度自分の心の機微に気付いたかは知らない。
だけど明らかに何かが違っていた。
今となれば本人以外答えを持ってないし、もしかしたら本人さえも答えを知らないのかもしれない。
いずれにしても私はそこでとても都合のいいように解釈をした。
それが小さなメモに始まって、次なる手紙に繋がった。
小さなメモは面白いシンクロが後にわかった。
断捨離をしてた頃だから、年明け前辺りだと思う。
小さなメモは、百均で買ってきた。
ただ気に入ったデザインがなくて、私はメモはメモ、それを入れる小さな封筒は封筒で買った。
小さな封筒は、本来他のメモとのセット販売になってた。
武士のようなちょんまげの人がメモの形になってて、それに茶色の模造紙風の封筒が付いてた。
私は封筒だけ使って、武士メモはそのままにしてある。
で、その残りものたちを断捨離の時に見つけて、私は当初もう使わないから捨てようとしてた。
捨てようとしたその時、武士メモが入っている透明の袋のバーコード部分と商品名が目に入った。
商品を作った会社の名前がアルファベットであった。
それはそのメモが渡った人が勤めてる会社の名前の前半部分と全く一緒だった。
買った時はそんなこと当然知らない。
その武士メモとアルファベットの会社名とが重なって、私はそれを捨てるのをやめた。
こんなところでもパワーが注入されるかのごとく、ちょっとした重なりがあったんだなと思った。
伝えて送ることは私のどこまでもおめでたすぎる勘違いだったようで、その後は撤去なんて可愛いものではなく、もっとグサリと一突きされるものが返ってきた。
目には見えないけれど、絶対的なNOを示された。
『原点に戻ろう』
こんな言葉が出てきた。
今日は快晴、風もあって外は気持ち良かった。
今日歩いて通った場所に学校のグラウンド並みに広い芝生の広場がある。
私はその上を裸足で歩くのが好きで、今日もスニーカーと靴下脱いで裸足で歩いた。
歩きながら色んなことを思い出してた。
私がそもそもこのブログに色んなことを書き始めた最初の理由は、もしその人の目に触れるのであれば、あったことや自分の感じたことをありのまま書いて伝えようと思ったから。
直接伝える機会がないまま今に至ってるから、せめてこういう形であっても伝わるのであれば伝えたい、知ってて欲しい、生きてるうちに知ってて欲しい、そう思って書き始めた。
書き始めた当初から無茶苦茶な確率に賭けて書いたのは知ってた。
1%どころか、その1の前にいくつゼロが付きますか?0.000000…みたいなすごい確率のところに私は賭けをした。
その時は、何も書かなければ本当のゼロだけど、書けばゼロではなくなる、何かしらの可能性が生まれると考えた。
限りなくゼロでも、100%のゼロじゃないよね?のレベル。
普通に考えて無謀としか思えない可能性を打ち出して、それに賭けた私。
だいぶ狂ってる発想だったけれど、どうしても私はあきらめきれず、とりあえず書きたいから書く、書かなきゃ伝わらないの精神だけでブログを綴った。
これはどちらが先だったのか忘れた。
多分こっちが先。
私はある時、その人が読んでる気がする、と何を根拠に思ったのか、本当にそんな風に思った。
根拠なんてなくて、そう思ったからそう思ったに近い。
で、多分こっちが後。
それは本当によく覚えてる。
ブログをいくつかまとめてアップしたある日のこと。
私はアップしてスッキリしたのと、色々満たされてほわーんと車の中でなっていたのと、そんな風だった。
ところが、それから15分くらいした頃、私は強烈に左胸からみぞおちにかけて痛くなった。
昔から度々あることで、年に数回片手で数える程度、その痛みには襲われてた。
でもそれまでは必ずその前に私は色んなものを抱え込みすぎて心が疲弊してるというのがあったから、いつも出る時はその前の何かと連動してた。
それがその時は私は自分でも記憶に残るくらい気持ちは良い方に上がっていたから、その痛みが発生するような理由や状況がなかった。
自分にしてはおかしいと思った。
これが本当に私個人のものなら、その痛くなる理由がなかった。
だけどこれがもし、もし私ではなく、他の誰かのものなら理由はわかった。
その時アップした記事の一つがその人の痛みを引き出すと仮定するなら納得できた。
その時を皮切りに、ある特定の内容がアップされるとその痛みも時間差でもれなくやってくることが数回続いた。
ちなみに痛みは毎回勤務時間外にやってくる。
仕事中は仕事に集中するタイプの人だから、日中はまず起こらない。
夜の遅い時間か朝の早い時間にしか痛みはやってこない。
私はそのおかしな現象に対してはちょっとだけ予備知識を持ってた。
調べたものたちによるとこうだった。
魂レベルでものすごく深い繋がりのある関係の場合、片方の心の痛みがもう片方の体にも現れるというもの。
地理的な距離は関係ないらしく、言うなれば虫の知らせみたいな感覚に近いものというような説明がどこかにあった記憶がある。
そして関係と言っても、普通に恋人同士とか夫婦とかではなく、はっきり言って目に見える形の関係はなくても痛みの伝達、テレパシーみたいなのは起こるとあった。
最初読んだ時はそんなバカな⁉︎と思ったけれど、何ならその人たちみんなそんな変なこと言ってて大丈夫⁉︎と大真面目に思ったけれど、その後色々情報を探し回った時、何人もの経験者の方たちがリアルな体験をブログなんかに書いていて、どうもそういうこともあるらしいということは知った。
でも私は半信半疑だった、本当に自分も体験するまでは。
そんな非科学的どころか妄想みたいな話ではあったけれど、現に痛いは痛かったし、それがブログと連動してるのがわかったから、それで私は読んでいるのかなと思った。
そんなことが秋から冬に変わるぐらいの辺りであって、それで私は徐々に伝えようと自分の中で決めていった。
もう一生会うことがないかもしれなくても、せめて何があったのか、私の側から見た風景や出来事はどんなだったのかその人に伝えようと思った。
もしその人が本当に読んでるのであれば、少なくとも書いたらその人も知れる。
そして知ってもらえる。
だから、超個人的なことをこのブログではぶっちゃっけていたし、それを私の気が済むまでやろう、伝えたい限りは伝え続けようと思った。
『本当のことを伝えよう』
夕方、遅い昼寝から目覚めた時、まずは感覚として出てきた。
今回ブログを小休止した最初の理由は、もうこのままその人とのことで何も変わらないのが嫌だ、そんなのをこれから先また1年とかもっと長く続けるのが嫌だということがあった。
でも時間が経つにつれて、本当に嫌なことが何かわかった。
私は自分の中で色々感じてることを隠し続けながら発信するのが嫌だった。
先に書いたような感覚とか、他にも色んなことを感じてきたのに、それを隠しながら、本音をベールに包んだままこのブログを発信することに疲れてた。
実は読んでるんじゃないかともう何ヶ月も前から思っているのに、それを隠して書くのも嫌だった。
これまでは適当に書けたしアップできたけれど、数日前、突然全てが嫌になった。
この1年ほどで本当にびっくりするぐらいに色々あったから、私の中でもしその人から連絡が来ても、そして実はブログを読んでたと言われても不思議じゃない。
他のことの方がもっと訳のわからないことだらけだったから、何と何が繋がっていようと、そして普通には起こらないとかおかしいと思うことでも、もはや私の人生がそんな形で日々色々あるから、そういう意味では驚かない。
普通に、世間一般的な価値観で考えた場合、一度自分から断っといてその相手に自らまた連絡するなんていうのは相当な勇気が必要だと思う。
葛藤もあると思うし、普通には変とかおかしいと思われてもおかしくないだろうと思う。
でも、私にはそんな風にには映らない。
私は自分の数々の発言の方がよほど常軌を逸してると思っているから、私以外の人の意味不明な行動や言動なんかはお互い様だよねならまだ良い方で、私の方がよほどヤバイ…と思うことの方が多い。
で、話を戻すと。
これまでは私は、私自身が「その人が私のブログを読んでる気がしてる」というのは自分の中だけに留めておくつもりだった。
まずそんなこと言ったら本気のおかしな人だというのは自分でもわかってたし、本当に読んでくれてるならそんな風に思われたくなかった。
多分その人もそんなこと知られたくないだろうとも思った。
実は今回公表に至るまで、私の中では相当な葛藤があった。
これはその人がまだ近くにいた時のこと、私は「もしその人と一緒になれるとしたら…」という本当におめでたい想像を何回かした。
ちなみにおめでたい想像をしたくてしたと言うよりも、私は自分の中の絶対に普通の付き合いでは人に言わない・言えない部分について、その人に伝える勇気があるかどうかを見極めるために、そのおめでたい想像をした。
その中の1つがスピリチュアルなことだった。
それにとても興味があるだけではなく、石(ペンジュラム)も普段使いすればその他諸々一般的にドン引きされたり精神病ですか?と言われかねない世界に自分の日々がかなり密接な関係であることをその人に伝えられるかな?というのは何度も考えた。
私は自分が元々すごく抵抗があってスピ系には絶対に近寄らなかったから、その人が受け入れられなくても当然仕方ないと思った。
だけどそれを本当に伝えたり、もしくは伝えることで関係がダメになっても私は大丈夫なんだろうかとか、まぁありもしない現実をあれこれ想像した。
だけど、そこはもう避けて通れない道でもあったから、本当に個人的に話せるようになった場合、それも含めて私は相手に自分を見せれるのかどうかは相当考えた。
まさかこの1年でその部分がさらにパワーアップするだなんて想定外過ぎたけれど、そんなこともずっと頭にあった。
忘れもしない去年の12月2日の友達開催の「命の授業」のイベントの後、ありのままの自分で色んなことを表現したいと思った。
その時に1つ思った。
どうせ連絡がついてない今だから、このブログ上でスピの話も少しずつしてみたらどうかと。
嫌なら読むことも止めるだろうと予想した。
しかも日々近くにいない分、好き放題に書ける。
好き放題というのは、相手の顔色を伺う必要がなく、自分の思うがままに書けるということ。
私はそういう自分を知って欲しいというのもあった。
今、この数ヶ月を振り返って少しずつ表現を積み重ねてきて良かったと思ってる。
半年前の12月の私と比べても、今の私は違う風になっている。
6月15日(金)
ようやく自分の中の気持ちが固まってきた。
やっぱりこのブログ上でこれまで隠し通したことを公表しようと。
これまでは隠してた方が都合良く感じていたけれど、今は隠す方ではない方法を採りたいと思ってる。
その人が読んでる気がすると思ってから今に至るまで、他にも色んなサインがあった。
私は知らないフリしてずっと発信し続けるのはもはや無理だと思った。
無理というのは私の方がもたないという意味で。
心がペタンと座り込んだ時というのは、こんなことを、すっとぼけて何もわからないフリをしてまた色んなことをこれからも発信し続けるのが無理だと感じたんだと思う。
それをまた1年とか続けて、1年後に「2年後」なんて振り返るのは本気で嫌だった。
なんなら、秋さえも迎えられる気がしなかった。
相手の反応は私にはわからないことでも、せめて自分側の隠すスタンスは変えたいと思った。
今回公表する時に、この話だけだとおかしな内容になるから、私は自分の体質的な感覚についても、公表しようと決めた。
その人に関係のない部分でも元々普通とは違う体質もあること、それを伝えようと思った。
その人に関してのものはかなり特殊だけれど、元々の体質にも似通ったようなものがあるから、それと一緒に説明すればもう少し読む側もわかりやすいかな…と。
例えば私は金属アレルギー持ちだけれど、それに近い。
寒がりな人がそうなように、私の持ってるものも周りから見て同じ風にわからないものなんだろうと思う。
要は、本人は体感できるレベルでも、周りの人から見てその人が金属アレルギーとか冷え性なんてのはわからない。
それと同様、私のちょっと変わった体質も見ただけではさっぱりわからない。
さらには健康被害の出るものではないから、余計と周りからは気付かれない。
ただ、冷え性みたく身近に普通にたくさんある体質ではないから、そしてこれは一歩間違えたら精神病と勘違いされてもおかしくないことだから、だから黙ってる。
私の体質的なものは、黙っていたら誰も知ることがない。
金属アレルギーが症状を起こさない限り見えないのと一緒で、私の体質的なものは外には一切見えない。
そして私本人にしかわからないことだから、私しか説明ができないし、聞いた瞬間受け付けられない人は受け付けられないと思う。
自ら人間関係を悪くしたくないから、必要に迫られない限り黙っている。
多分そのスタンスはこれからも変わらない。
私のものが説明しにくい理由の一つに「あまりない」ことが挙げられる。
私のものは霊媒体質とは違う。
霊感と言われる感覚は私の場合全くない。
何も視えないし聞こえない。
そういうのであればもう少し一般的にもわかりやすかったかもしれない。
私のはあまりにも普段からごく当たり前の感覚で、しかもごく最近までそれを特別だとは思っていなかったから、余計とわからなかった。
そういう体質ゆえ、その人に関することも体の方に起こっても不思議ではない、という風に私は見ている。
当たり前だけれど、どこにも立証する手立てもなければ、そんなのは私の空想や妄想だと言われたらそうなのかもしれない。
私は無理に証明しようとも思ってなければ、周りの人たちにわかって欲しいなんていうのもない。
私としてもハチャメチャなことを言ってるなと思う。
理解して欲しいなんていうとんでもないハードルを掲げるつもりも期待もない。
でもせめてその人には知ってて欲しい、そういう気持ちで今回は書いてる。
こんなことぶちまけた日にはますます距離を置かれて生涯連絡しませんとなるかもしれない。
でも、もうこの隠し通すためにエネルギーは注げない。
無理なことを自分に強いてるから、それはやっぱり続けられない。
次の1年、2年…とか考え出すと「無理」という文字しか浮かばない。
たかが2ヶ月でこんなにも自分の中にあるものに気付いたということは、これから先ますます開いてくる可能性がある。
これは勝手な予想だけれど、私の場合、他の人たちに使えば使うほど多分そうした見えない力も開いてくる。
私のためだけなら開かない。
だけど私が何かしらキャッチしてそれが私以外の誰かのためになるものなら、それは必要に応じての流れだから、必要な人たちに少しでも届くようになってる気がする。
現に、周りの人たちに伝えられる情報量がこの2ヶ月半ほどで一気に上がった。
トレーニングも何もしてないのに上がったから、しかも自分のためにはそういうことにならないから、だからあくまでも誰かがいて初めて力を発揮するものなんだと思って見ている。
そして今週から私は自分の中のごちゃごちゃとした思考を整理するための体を使ったエクササイズやちょっとしたことを取り入れ始めた。
周りからみたら怪しさ満載なことをしている。
とりあえず、古代文字の音読(1分)とパワーストーンを入れた水を飲む(コップ1杯)のとタッピングと呼ばれる自分の体を軽く叩いて潜在意識に働きかけること(1、2分)を始めた。
どれが良いのか、それともそんなの関係ないのか、意識が時々やたらとクリアになることがある。
その時には必要なメッセージを読むなりキャッチするなりしてるから、しばらく続けて様子を見ようと思ってる。
だから、それが本当に効果があるのかは知らないけれど、飽きるまで試そうと思ってる。
『自分を出して嫌われたらもう仕方ない』
今回の自分自身についての告白はかなり勇気が必要だった。
古代文字の音読なんて、1人で部屋の中でするからいいけれど、はたから見たら滑稽に見える。
まだ現段階では「こんな効果がありました!」というところまではわからないから、とりあえず継続して1日1回ないし2回してる。
他にも色々ぶっ飛んでるのは承知してる。
他人様に積極的に見せたい自分ではない。
どちらかと言えば隠したい。
だけど、こういう私ももちろん私なわけで隠せない。
社会の中では隠せるけれど、個人的な関係の場合、ある程度の自己開示は必要だし、関係が近くなればなるほど隠し通せない。
これからの私はこの方向に行こうとしてるから、もしその私が無理で嫌われたら仕方ない。
相手に好かれるために自分を変えるのは多分もうできない。
相手を不快にさせるものはもちろん改善も必要だと思うけれど、こうした私の日常の一部、しかも全部足しても1日の中の5分程度、それが平気じゃない人だと、その人に限らず誰でもダメだと思ってる。
だから、今回こうして告白することは、すなわち私の中で嫌われても仕方ない、それでも自分で生きていく覚悟も同時に発生している。
そんな風に思っている。
と同時に、自分のままでいることが相手から受け入れ難いものであるとするなら、もうそれは仕方ないと割り切れる。
こればかりは私の一方的な気持ちを押し付けるわけにはいかない。
『伝えなくても一生後悔しない?』
今回公表を決意した時に自分に聞いた質問。
相手の人が読んでるかもしれないと思いながら書いていたこのブログ。
そう思ってたことやそれにまつわる他の色んなことも含めて、「伝えない」という選択をした場合、私は後悔しないのかな…?と問いかけた。
この手の質問をする時、まずは今の瞬間後悔しないかどうかを自分に問いかける。
今だけを見る時、私は逃げようとすることも多々ある。
今回の場合で言えば、そこまで公表しなくていいんじゃない⁉︎って。
その時はさらに質問を重ねる。
視点を今だけに絞らず、自分が死ぬ間際の辺りにいると想定して、死ぬまでにこれをしなくても私は後悔しない?と自分に問いかける。
当たり前だけど、いつかは死ぬ。
その時に伝えなかったことを私は後悔しないかどうか。
相手が目にするしないは一旦脇に置いて、私自身が伝えなくても平気なのかどうか、後悔しないのかどうか、そこだけに注目する。
もし伝えなかったら後悔するだろうことは目に見えた。
本当のところ、その人が目にしてるかどうかなんてわからない。
これで相手は一切見てないとなればちゃんちゃらおかしな滑稽な笑い話になる。
それでもいいから、私自身が後悔しないのかだけを見ると、口を閉じてる方が後悔するってわかった。
こんなことするの、一生に一度きりと思えば、何てことないと思った。
この全てが私の過大な妄想だったと判明しても、それさえもどうでもいいと思った。
私は伝わってる可能性があるなら、真実を伝えたいだけ。
それを相手に知って欲しいだけ。
だから伝えるという選択をしないと、私は残りの人生で後悔しそうだと思った。
その後悔は嫌で、だからこそ伝えることを選んだんだ、と自分で自分に納得した。
6月16日(土)
『知ってて欲しい』
今同時進行で自分の性質や体質についても書いている。
自分の持ち札を見せようと思った理由。
その人に「知って欲しい」から。
その人がこのブログを読んでるんじゃないかと思った理由は、いくつかある。
どれも本人が「読んでた」と言ってくれない限りは、私は本当のところを知らない。
知らないけれど、そう思うに至る理由はもちろんあった。
理由は全部は今回書かないけれど、一部書いたことで、わたしはせめてそのことに関する信憑性を増すために自分のことを書こうと思った。
単なる願望とか当てずっぽうとかではなく、もちろんその要素も否定はできないけれど、この自分の体質的なものも関係している。
そう思うことの裏側では、私の体質も手伝ってそう思うに至ることも含まれている。
その性質や体質は、はっきり言って、証明できる手段が何もない。
全部私の感覚だけで成り立っていて、そんなのどうやっても数値にしたりとか見える化にはできない。
だからせめて自分の持ち札だけはオープンにして見せようと思った。
(書いた時間:午前9時頃)
『88888』
今日2018年6月16日特大奇跡がやって来た。
もうブログの休止は早々と切り上げることを決めた。
その特大奇跡を目の当たりにしたら、より一層ブログを綴る勇気が湧いた。
綴るよりも公表することへの勇気かな。
今日見た全てのこと、ここ2週間ほどの体調不良や、2年前に行きたかったけれど行けなかったイベントや、住所や、友達が紹介してくれた本や、明日前の前の仕事で一緒だった人たちと会うことや、何ならペンジュラムまで、その全てが渾然一体となって1つの物語を紡いだ。
そして奇跡の中心に1人の人が深く関与していて、それ見たらもうごちゃごちゃ言うのは止めて、自分が目にした奇跡を信じようと改心した。
奇跡の物語は後日。
今日はこれからとりあえず溜まりに溜まった記事たちを仕上げてしまう。
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