2018年5月18日金曜日

命にリスペクト

【注意喚起ーAttention please! 】
今日の記事は一部かなり過激な内容が含まれます。

「包丁振りかざす」とか出てきます←私はしてません。

読んで下さる方の心のケアなど不可能なので、気分を害しそうなら読まないことをものすごく強く勧めます。

過激なことを書きたいのではなく、みんなそれぞれ色々あるけれど、それでも生きてるってすごい!という結論に至ります、最後は。

だけど渦中は内容がハードで気分害するかもしれないので、各自ご自身で判断して読み進めて下さい。

どうぞよろしくお願いします。
武士俣 史子


【自分のルーツ】

自分のルーツを知らない…。

これってどんな感じなんだろう…と想像してもわからない。

昨日数ヶ月ぶりにピーくん(仮名)と思しき男性を見た。

ピーくんで多分間違いない。

ちなみに数ヶ月前に見かけた時も、多分ピーくんだろうと予想した。

私はその時室内にいて、ガラス張りのガラスの外側を見たら、ピーくんと思われる人がいた。

10年ぶりぐらいに見たから絶対とは言い切れなかったけれど、骨格や体の線、顔の感じがピーくんだった。

ピーくんは私が人生で出会った、一番喋らない人だった。

話す機能があるのに、それを使わないってこういう感じなんだとピーくんから学んだ。

普段声を出すとか、天気の話でもいいから言葉のキャッチボールをするとか、頭の中にあるものを口から音と言葉を使って出すとか、そんなこと考えない。

だけど、人生で出会った一番静かで寡黙だったピーくんと話す時は、それらを本当に意識させられた。

声を発するってすごいことだと感じた。

思ったことじゃなくても、心にも思ってないことでもいい、口にして相手に伝えるのって、そうするために意思が伴って初めてそうできるんだ、なんてピーくんに会うまで考えたこともなかった。

私はピーくんと10年以上前、数年ぶりに町でバッタリと出くわした日に交わした会話を覚えてる。

あれは会話とは呼ばない。

私が一方的に「声」を使って話しかけた。

ピーくんは声を使わず、言葉も使わず、私に返事をした。

ただただ私が聞いたことに「うん」と頭を縦に振って答える、それがピーくんと交わした最後の言葉だった。

ピーくんが私が引き止めても逃げなかった、というのが少なくとも嫌がられてはいないというサインだった(嫌ならすごい勢いで身を翻してその場からいなくなる)。

ピーくんは、障害者とか体の機能に問題があるとかじゃない。

そういう言葉以外でのコミュニケーションを得意とする人、と私は思ってる。

ピーくんは自分のルーツを知らない。

自分がどこから生まれてどこからやってきたのか、何も知らない。

だから、ピーくんが内にこもってあまり外に向かって言葉を発さないその気持ちも、わからないけれど想像はできる。

自分のルーツを知らないのに、今自分が生きてるってどんな気持ちなんだろう。

決して憐れむわけでも同情するわけでもない。

だけど、そういう人生ならピーくんのような感じになっても、そうなるだけの理由はあったと思う。

ピーくんとは一切話ができなかったわけじゃない。

もう覚えてないけれど、ピーくんの気分が乗ってる時は話をした。

きちんと声と言葉を使って、会話、対話をした。

ピーくんを見ていて、そんなことをあれこれ思い出してた。

思い出してるうちに、私は自分の20代と30代とで出会うタイプの人が大きく異なってることに初めて気付いた。

20代の頃は、会う人会う人ヘビーな背景を持つ人がものすごく多かった。

自分のルーツを知らないピーくんだけじゃない。

精神病(各種)
薬物中毒
アルコール依存症
本人が自殺未遂
親族が自殺
虐待
性同一性障害
エイズ
殺人事件

…と、本当にそんなのあれこれ見聞きしてどうするの?と言わんばかりのことを体験・経験してる人に、実にたくさん会った。

何の自慢にもならないけれど、大学の頃友達から電話がかかってきて、危ないから助けて、今すぐ来て!と言われて、徒歩2、3分の友達のアパートに別の友達と駆け付けたことがあった。

後にも先にも、目の前で包丁を振りかざしてる人を見たのは初めてだった。

もちろん、そんな人を止めに入ったのも初めてだった。

150㎝ぐらいしかない女の子の友達が、助けて!と電話をかけてきた元交際相手の男の子に包丁を突きつけようとしてた。

私もあの場で体験したからわかったけれど、ああいう理性が飛んでる時、人間の火事場の馬鹿力というのはとんでもなくて、私たち3人で止めても敵わないぐらいの凄い強い力だった。

誰が怪我してもおかしくない状況だった。

何とか止めた後、その女の子は精神病院の隔離病棟に入院した。

噂には聞いていたけれど、隔離病棟には何1つ本人は持ち込めないようになっていて、ボールペンやタオルですらアウトだった。

ボールペンが自分で首を刺す自殺の道具になるなんて、タオルが自分の首を絞める凶器に変わるだなんてその時初めて知った。

そんな過激な体験はそれ一度きりだったけれど、まぁとにかく20代の頃は本当に色んな人たちに会うようになっていたし、私も毎回よくぞ平然としてたなと今さらながらに感心する。

私の中には、相手のことと自分のことを分ける境界線みたいなのがあって、何を聞いても自分の気持ちはヤラれない不思議なメンタル力がある。

そしてそんなヘビーな話を聞いても、私はその直後に普通にご飯も食べられれば、ストンと眠りに就くこともできる、ある意味強靭な心を持っている。

30代は30代で、今度はまた違った意味で色んな人たちの話や生き様を聞くようになった。

30代で出会った人たちの特徴は、一見すると普通の人たちだということ。

その人たちと私とで何か大きな違いはない。

反対にあるとしたら私よりも何十倍もきちんと社会に適応して社会に貢献しているということ。

中には社会的立場が上というかしっかりしてる人もいた。

なんだけど、ひとたびその人たちが口を開くとそれはまたそれでヘビーな話が多かった。

20代の頃の通常にはあまり出会えないような背景を持ってる人たちにはあまり出会わなくなった代わりに、みんな大なり小なり、いや正しくは大なり大なりの色んなことを抱えているんだなとわかった。

その人たちが通過した過去や通過中の今には、ものすごく辛いものが含まれてたりする。

それは年齢や立場は関係ない。

みんな誰でも1つや2つ、墓場まで持って行くような苦い体験があるんだなとわかった。

そんなの本人が口を開かなきゃわからない。

その人たちが持つ強さやしなやかさ、優しさの裏にはそれとは真逆の体験があって、生きてるって本当にすごいなと何人もの人たちを見て思った。


冒頭のピーくんとの会話だったと思う。

かなりうろ覚えで、本当にあった会話なのかどうかは記憶の方は怪しい。

でもそんな気がするから、多分本当に交わしたんだと思う。

いつだったか、ピーくんは「自分の名前、けっこう好きなんだ」って私に話してくれたことがある。

この年になって、その言葉の深さをようやく知った。

昨日ピーくんを見て、初めてその言葉と他のことたちが1つの線として繋がった。

ピーくんは自分のルーツを知らない。

多分今も知らないままじゃないかと思う。

そのピーくんにとって、自分の名前というのは唯一自分のルーツを知る誰かが生まれた時にピーくんにプレゼントしたものなんだ、と思ったら、あの時にピーくんが「自分の名前、けっこう好きなんだ」と言った言葉にはどれだけの想いが込められていたのか計り知れない。

ピーくんから見えてる景色は、自分の前には誰もいなくて突然自分の命だけがある、突如出現する、そんな風なんだと思う。

何の繋がりも見えない、天涯孤独のような部分を一生抱えていく。

その中で名前というのが唯一ピーくんにしたら自分と自分のルーツを繋ぐ手がかりで証拠なんだと思う。

私はたまたまなのか、色んな人の色んな話を聞くことになった。

私はそんなにも話しやすい雰囲気を醸し出してるとは自分では思わない。

だけど話す人話す人、こちらから話して下さいなんてお願いしたことは一度としてないけれど、結構な確率で聞くことになる。

気付いたら超ヘビーな話を相手が何の前触れもなく始めてるのが大体いつものパターンで、心の準備や聞く準備はしたことがない。

だけど、多分唯一してることがあるとしたら、どの人のどんな話を聞いても、私はその人の命そのものはリスペクトしてる。

尊敬じゃなくてリスペクト。

何が違うのかはうまく言葉では言えないけれど、感覚的に違う。

みんな生きてるって、過去のもしくは今現在の色んな痛みや悲しみを抱えたままでも今生きているって本気ですごいと思う。

生きることに対して何だかんだとあきらめない、何であっても生き続けるという日々の無意識の選択によって支えられてる命、みんな尊いと思う。


包丁を振りかざしてた女の子を止めた時。

コピー機の前でピコピコと画面をタッチしてコピーしてた時。

目の前でその人の人生模様を聞いてた時。

その全ての時に私はいて、どの自分も自分かと思うと不思議な感じがする。

日々コピー機の前でピコピコしてた時、出てきた大量のコピー用紙をファイルに収めていた時、正直な気持ちは「自分はここで一体何をしているんだろう?」だった。

でもそんなこと本当は思わなくても良かったんじゃないかと思う。

確かに色んなことがぼやけていた時期ではあったけれど、それだからと言って自分を責める必要はなかった。

30代で私は傷付いた子どもよりも傷付いた大人とたくさん出会った。

今指折り数えたら、私は30代で7社計8の組織に勤めた。
(自分の名誉のために言うと、色んな理由で最初から期間の定まってる派遣6にバイト1だったから、気付いたらそんな数に上ってた。決して勝手に辞めたとかじゃない。)

30代最初の学習塾の仕事以外では子どもと関わることはなかったから、あとはみんな大人。

そして会社という組織だから、みんな普通に社会人をしている。

さすがに全員の人生模様なんて知らないけれど、縁あってお話できる関係の人たちからは本当に色んな話を聞いた。

逆に聞かなくても、見てるだけで「この人何かにものすごく傷付いてる」とわかる人もいた。

みんな色んなことがあっても生きている、それが一番すごいこと。

迷っても悩んでも苦しんでも生きている。

傷付いてることに本人が気付いてなくても、普通に1日を送る。

その全てが尊い。

昨日自分のルーツを知らずに生きてるピーくんを見て、余計とそう思った。

非常に誤解を生みそうな話だけれど、これは私の考えとして書いておきたい。

傷付いた大人たちを見てこれは感じたこと。

傷や苦しみや辛さについて、深さや程度は関係ないと思ってる。

「ちょっとからかわれた」のと「人格を否定するようなことを言われたこと」は違う。

どう考えても前者より後者の方がヘビーだと思う。

だけど、受け止め方は人それぞれで、前者の場合でも深く傷付く人は傷付くし、後者の場合でもそれをバネに強く生きてる人もいる。

そんな時、ついつい自分のものさしで相手を測ってしまいがちだけど、私はそれはしちゃいけないと思ってる。

ちなみに私が人生の中で一番傷付いて自分1人だけでは傷を抱えきれないと感じた人は、自分の親が自殺した人でも、アルコール依存症とか統合失調症とかの精神病の人でもなく、異性関係での破綻を迎えた男性だった。

社会的にはとても地位の高い方で、人柄もとても素晴らしい人だった。

ピーくんのような自分のルーツがわからないということもなかった。

変な風だけど、ピーくんにはない影が見え隠れしてた。

ピーくんはかなり変わった人に見えても、そして色々根が深いのも感じるけど、翳りみたいなのとは少し違う。

超特徴的なコミュニケーションでも、本人がそれをそのまま表現してるから、内側と外側にギャップがない。

反対にその方は、もう見てられないぐらいの傷付き方をしていたけれど、とても紳士にスマートに振る舞おうという普段のクセが抜けないまま、だけど心の内側では膝を抱えて小さな男の子みたいになってる姿が見えるようで、だから私はその人がとても傷付いてると感じたんだった。

今書いててわかった。

私が30代で出会った大人たちは、みんな大なり小なりそんな風で、だからこそ傷や苦しみの深さや程度は関係ないって思ったんだった。

外側で起きた出来事だけでは傷や苦しみの深さは計れない。

要は、自分の内側と外側でどれだけギャップがないかで、伝わってくる感じが全然違うということ。

本当は無理して大人にならなくてもいいのに一生懸命目の前の私には人として誠意を尽くそうとして、でもその内側では傷を無理矢理塞ごうとして余計と傷が生々しく見えた。

そんなこんなが見え隠れするから、私は誰を見ても一生懸命生きてるなと感じる。

ルーツを知らないピーくんも、もう少しライトな出来事を体験した大人たちも、みんなみんな一生懸命だと思う。

そしてみんなみんな、生きているっていうただその一点においてとても尊い。

そしてその命をリスペクトしている。

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