仕事帰りに100均に寄った。
ペンジュラムが先週どうして子供用の童謡CDを置いてるだろう店舗ではなく、別の店舗に行くように言ったのか、その意図を知りたかった。
行く前の私は、行った方には買った小さなメッセージカードがあって、行かなかった方にはそのカードが売られてなかったのかも…とずっとそうだと信じ込んでた。
実際に足を運んでみてわかったことは、そのメッセージカードはそのもう一つの100均にも売っていたこと。
すぐには見つけられなかったけれど、文房具売り場をくまなく点検したらあった。
途中で2歳の姪っ子に買ったお医者さんごっこのおもちゃも置いてあって、あれ?この店でも良かったのに、何でペンジュラムはあえて別の店を指したのかな?…と不思議に思ってた。
ペンジュラムは嘘を教えたんじゃない。
必ず何かしらの意図を持ってその場所を指す。
何だろう…としばらく車を運転しながら考えてた。
そうしたら思い出したことがあった。
そもそもメッセージカードは予定外の買い物だった。
私はあくまでも姪っ子を連れての長めのドライブに備えて、童謡のCDを探しに行った。
私が行った方の100均は、最近店内を大幅改装して、何がどこに置いてあるのかさっぱりわからない状態になっている。
しかもこの100均、どうしたらそんな配置にするの⁉︎と言いたくなるぐらいに統一性がない。
この間もお弁当なんかを入れる保冷バックを探しに行ったら、キッチン用品のところにはなくて、店員さんに聞いて随分と離れた別コーナーを案内された。
しかもお目当てのものは、さらにそのコーナーとは全く違う、キャラクターグッズ系の文房具売り場にあった。
とにかく一事が万事その調子だから、その子供用の童謡CDについてもなかなか探し出せなかった。
結局CDはなかったにしても、その広い店内を私は最低でも3周した。
しかも、その統一性のない商品の置き方をする店だと知ってたから、くまなくチェックした。
その途中でメッセージカードは出てきた。
そう、探してもなかったメッセージカードが、くまなく棚を見て回ったことで出てきた。
全然買う予定もメッセージカードを書く予定もなかったけれど、一目で気に入り、さらにカードに最初から印字されている英語の一言のメッセージも良かった。
本当に私の願いそのままが文章になっていた。
そして、未来のプレゼントに添える一言メッセージなら、本当にちょうど良い大きさだった。
それに使おう、そうしよう!と即決した。
今日の仕事帰りに寄った店舗にも確かに同じカードが置かれていた。
だけどそこは店内改装もしてなければ、どこに何が置いてあるのか大体は見知ってる。
CD売り場も知ってる。
ということは、その店では私はメッセージカードに行き当たることは絶対になかった。
最初の目的のCDがなければ(実際に売ってなかった)、他に用事はないし、見たいものもないし、何なら翌日からの怒涛の2歳児という名の怪獣対策で少しでも早く体を休めたいから、無駄に店内をうろつくこともしなかった。
そう、その店では私は文房具売り場に行かなかったし、ましてやくまなく何かを探し回るなんてこともしない。
だからペンジュラムはわざとあのごちゃごちゃしている100均の方を指したんだと思う。
私の行動パターンを加味して、あえてあの店舗だったんだろうなと思う。
そしてあの店舗だった理由は、あの小さなメッセージカードを手にすること、それに尽きると思う。
未来のプレゼントと同じ形をしたものを、それぞれ頼まれていた人たちに送るために夜手紙を書いた。
今回3人分送ることになっていて、3人目の便箋と封筒を見て気付いた。
3人目は男性ということもあって、ベージュの罫線だけが入っている無地でシンプルな便箋と封筒だった。
未来のプレゼントに付けたメッセージカードは、100均で商品を見て付けることを思いついたけれど、実は選んでる最中も実際に書いてた時もとても楽しいものだった。
未来のプレゼントの相手にこれまで用意したものたちは、茶封筒だったり、白い紙だったり、無地の小さなカードだったりした。
茶封筒なんかは買ってる時、全くテンションが上がらなかった。
諸事情で茶封筒になったけれど、何でよりにもよって茶封筒…とどこかやるせない気持ちもあった。
とにかく一番デザイン性のないものが無難だろうという考えの元で選んでいたから、そういう意味で楽しい買い物からは程遠かった。
でも今回は、自由に選べた。
未来のプレゼントを渡せるというのは、それ相応の関係がなければ渡せないから、そうであれば自分の趣味でメッセージカードを選んでも大丈夫だろうと思ったから。
そして初めて自分の気持ちに素直に従ったものを選べた。
渡るかどうかもわからないメッセージカード(と未来のプレゼント)。
だけど、ペンジュラムが教えてくれた場所にはきちんと自分の気持ちが表れたメッセージカードが売られていて、そして私はそこからまたさらに新しい体験を追加した。
届かなくてもこういう体験のひとつひとつが自分がしたいことなんだろうなぁ、人生を賭けてやりたいことなんだろうなぁと思う。
誰かのことを思って何かを用意するという行為は、とても特別なものだと私は思っている。
そもそもはそういう人と人生で出逢わないといけない。
出逢ったからと言っても、その後何かを用意するのは関係がなければできないこと。
だから誰かに何かを用意するって、色んなことが成り立って初めてそれが可能になる。
さらに用意したものが相手に手渡されて(または届いて)、そしてそれを相手も喜んでくれたら、そんなの本当に奇跡だと思う。
ちなみに死ぬ間際にもまだ手元にあったら、もうその時はその時で一番良い方法で何とかしようと思ってる。
そして自分はその思い出を持ってあの世へ旅立ったらいい、それでもいいなと本気で思ってる。
そもそも限りなくゼロに近い可能性にかけて用意したものだから、それは届かなくても本当に仕方ないと思ってる。
だけど、奇跡が起きるならその奇跡が起きてもいいように用意だけしておこう、そんな風にして私の人生に現れたものだった。
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