無表情
無関心
無反応
おとといパッと浮かんだ言葉を携帯のメモに入れておいた。
最初それはあるシーンを思い浮かべて、その時に私が感じたものを言葉にするとこうかな!?というものだった。
でも今日再度その言葉を読んでみると、どうも違う。
無表情ではなかったし、無関心というかもっとそれとは違う何かだったし、無反応のように見せかけたある種のすごい反応の表現だったんじゃないかなと思う。
いつか私の心理の学びの時の師匠的存在のMちゃんが教えてくれたこと。
「ある時僕のクライアントさんが『私の今の気持ちを表すとこんな風です』って言ってその場で見せてくれたのが、真っ白い紙に突然黒いボールペンでグルグルと白いすきまを埋めるようにぬりつぶしていく様子でね。
その方いわく自分の気持ちを言葉で表すのは難しい、だけど何かで表現するとしたらそんな風なんだ、って説明してくれた。
僕はそれを見てはっとしてね。
僕たち人間は色んな感情を持っている。
そしてそれに何とか名前を付けたがる。
だけどそもそも感情に名前なんて付いてないし、それこそ湧き上がってくるものだから言葉で表現することの方が難しい。
自分のぐちゃぐちゃになった気持ちとかは、そうやって言葉ではない感じで表現された方がすごくわかりやすかった。
たしかにただひたすら黒くぐちゃぐちゃにしながら塗りつぶす感じは、その方が今感じている感情をもろに表していたと思う」
私は今日その話を思い出していた。
私が感じたのも、そんな気持ちだった。
私が思い返したシーンというのは、今年一番のショックなシーンだった。
英語で言う「I'm shocked」というのがかなり近い。
受け身なところが、自分で引き起こしたというより、外部から何かがやってきて(与えられて)それに対してショックを受けてる自分という感じだった。
最初に種をまいたのは自分だから、因果応報で自分のところに返ってきたのは仕方ない。
私とは絶対に目を合わさないように、私が何かを伝えても聞こえてるのか聞こえてないのか(どう考えても聞こえてるけど)反応しない、そういう相手の行動を見て私はさっき書いたような白い紙に黒いペンでぐちゃぐちゃにぬりつぶすような感情が瞬時に自分の中に広がっていくのを感じていた。
途中で言い止めるわけにもいかないものだったから、私は口だけは動かした。
言わなければいいという類いのものではないから、とにかく最低限しなければいけない用事はやりきった。
口を動かしている途中から平常心では全くなかったけれど、私は自分の動揺を隠すようにしながらとりあえずのことだけは言い終えた。
言い終えてその場を離れてからも、黒い気持ちは大きな感覚としてますます自分の中に広がるばかりだった。
体の全身に広がる黒い感情は、どこまでもどこまでも消えることがなく、私はその後もしばらくずっとその感情から離れられなかった。
「悲しい」「苦しい」「ショック」そういう風にいくつの名前を連ねても、その時の感情を言い表せる言葉はこの世に存在しない。
言葉にできなくても、その衝撃はすごかった。
気持ちが落ち着いてから考えたことがあった。
気持ちが落ち着いたというのは、その時の衝撃がなくなってくれたということではなく、とりあえずの衝撃が自分の奥底にしまわれたということ。
大けがをした直後は痛いけれど、直後の痛みはとりあえず治まって、でも傷は傷としてまだそのまま残っている、そんな状態と似ていた。
ようやくその時のことを回顧するような余裕が少しは出てきた。
こうして言葉にするとまるですぐに考えられたみたいな感じだけれど、私がそんなことを思い付いて考えたのはその時から2週間以上経過してからのことだった。
それまでは自分の中でああでもないこうでもないと色々な感情が湧きつつも、そこに冷静に向き合えるだけの余力は一切なかった。
全力でずたずたになった心の回復を自らの手で何とかしなければいけなくて、そして他のことも色々あったから、その時のことを取り出して冷静に見つめるなんて余裕はなかった。
ほんの少しだけそれを見つめるだけの余裕が生まれた私は、当時のことを人を変えて考えてみた。
同じことを例えばTさんがしたら、Nさんがしたら…と考えてみたのだった。
ちなみにTさんがしたとしたら、そこに衝撃はなくてむしろTさんに怒りを覚えただろう。
「何でそんな態度をとるの!?いい加減にしろ!」ぐらいに思っている自分が容易に想像できた。
普段から人によって態度がコロコロ変わるTさんだからこそ、あぁまた始まったなぐらいで終わったかと思う。
今度はNさんで考えてみた。
万が一Nさんがそんな風だったら、私はNさんにその場ですぐに謝っただろう。
Nさんは絶対にそういうことをしない人だし、目を合わさないとか聞こえないふりとかしないから、もしNさんがそんな態度を見せたとしたら私は自分のタイミングの悪さを謝り、またタイミングを改めます的なことを言って終わったと思う。
まぁだからNさんがそうしたとしても、やっぱりあの時全身に広がったような感覚が生まれなかったことだけは確かだった。
その時の衝撃は、その相手だからこそ生じたもので、これは他の人ではそうはならなかったということがまずはっきりとわかった。
これはけっこう直後に思ったことだったと思うけれど、「嫌いになれたらいいのに」というのがあった。
そんな態度を見て、「私この人のこと嫌い」ってなったらいいなぁと大真面目に思った。
「嫌いになりたい」なんておかしな願望だけれど、当時の私は本当にそうなれるものならそうしたかった。
どんなに大きな衝撃が当時あっても、だからと言ってそれが嫌いになる理由にはならず、どうしたものかなと思った。
無表情
無関心
無反応
なんかどこか違う気がしている。
表情を消そうとしたり無関心や無反応を装うというのは、けっこうなエネルギーが必要だと思う。
相手が相手の全力で表現したものが本当はどういうものなのかなんて私にはわからない。
私から見てそう見えるだけで、でもそう見えること=相手の意図・意思とは限らない。
本当にそうかもだし、もしかしたら違うのかもしれない。
それは本人以外誰も知らない。
当時のことをそれこそ何回か振り返った。
決して二度三度と経験したいことではないけれど、振り返る回数を重ねるごとに私の中ではそのことに対して別の感情が生まれるようになった。
私は当時のことを日記にこんな風に書いていた。
「あれさえも嫌は嫌だったけど愛おしい時間だったなと思う。あの超ド級の不器用さ加減も○○○○○の一部だと思うと、そしてそれを知り得たと思うだけで、嫌だったことさえ何か別の新しい意味が今は加わってる。」
その時どんなことを思ってその日記を書いたのか覚えている。
その相手特有の表現を私は垣間見ることになったわけだけれど、それは誰でも見れるものではなかったと今でも思っている。
人生の中で色んな瞬間瞬間が存在している。
もちろんバラ色人生だけがあるわけじゃなくて、そうではない心が苦しくってたまらないような瞬間もある。
見たくないようなものを見ることもある。
なかったことにできるのならなかったことにしたいと思うような過去もある。
そんな中である種の超ネガティブな瞬間は、たしかにその直後はズドンと心に大きな影を落とすけれど、それさえも人生で見れるか見れないかと言ったら見れる確率の方が低いわけで、その瞬間に立ち会えたというのはある意味特別なことだと思う。
感情をほとんど表に出さない人だからこそ、そういうその人の一部を見ることができたというのは、私にとって特別な瞬間という意味が新たに加わった。
そしてもう二度とはやってこないその時間を、やっぱり今も「愛おしい」時間だと思う。
今年一番のショックなシーンは、ショックであると同時に愛おしいものでもあり、今となってはさらに特別さが増している。
人生の時間は限られていて、そして必ずいつかは終わりがやってくる。
5~6年前、マッサージの施術師さんから言われた言葉を思い出す。
「(人生の中の)ポジティブもネガティブも両方楽しんでください」
瞬間瞬間のことはたとえショックでも、それさえも人生で一度きりのこと。
もう二度と戻ることのないその過去は、できることなら愛おしい部分をこれから先も残して私の中に残っていったらいいなと思っている。
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