引っ越しでバタバタしている最中、引っ越しを手伝ってくれる人たちにふるまう明日のごはんの材料を買いに出た。
そこで私はあるものを目にした。
それは私にしかわからないもの。
引っ越しはある種の転機のようなものだと思う。
転機というと良い風な感じがするけれど、実際の渦中は慌ただしかったり落ち着かなかったりする。
そういう時、私がわかるように私の目の前にふと現れるサインがある。
それを見ると、そのサインに関わっている人から「大丈夫だよ!見守ってるからね」と言われている気分になる。
本当に本人から見守ってるからねと言われるわけではないけれど、実に絶妙なタイミングでそのものを目にする。
めったに目にしないから、そしてそれを見る時は大体転機とか自分が最高に滅入っている時とかだったりするから、そのサインを見てふと気持ちが楽になる。
それを見て「今回も大丈夫」と思った。
そして「今回もありがとう」って。
追記。
上の文章を書いた後寝て、そして朝になって起きた。
「荷物」
20代の私も30代の途中までの私も、自分の荷物の取り扱い方がいまいちよくわかっていなかった。
私は今、自分の心の荷物を自分で整理できるようになった。
それは人に頼らなくなったんじゃなくて、頼ってもいいんだよということが本当の意味でわかり始めたから、だから自分で持つことも整理することもできるようになった。
でもここまでくるのに、私がそうできるように、やっぱり最初は「一緒に持つよ」と言ってもらえることが大切だったと思う。
意地っ張りで強がりで自分で何でもしなきゃという変な責任感持っていて、でもそんな私を一発で見抜いて一緒に持つと言ってくれたことは、それがどれだけすごいことだったのか今になってようやくわかる。
隣りで見てるよを撤回して、やっぱり重そうだから一緒に持つよと。
自分の荷物の存在もその時ははっきり言って氷山の一角で、どれだけの荷物を持っているのか自分のことなのに私は全くわかっていなかった。
しかも頼れない私も、頼ろうとしない私も、両方わかっての言葉だったと思う。
受け取り下手な私が素直にその気持ちを受け入れられたのだから、当時はどんなマジックかと思った。
あれから今回が何回目の人生の中の引っ越しかはわからない。
だけど、何回も引っ越しをして、そして色んな自分を自分で見ていく度に、ちょっとずつ私は自分の荷物を紐解いていった。
そして紐解きながら、どんな荷物を持っている自分でも大丈夫なんだと少しずつわかってきた。
引っ越しは物理的な荷物の整理をすることになる。
その時に「見守ってるから」というサインは、たとえそれが私の勘違いでも心強くなったのは本当。
そして今はもう1人で持てるようになったから大丈夫、って私は思った。
もう無理してないし、平気なフリもしていない。
持ちたくない時は休んだり見ないことにしたりしてる。
それでいいんだというペースが出来つつある。
そのベースは、「一緒に持つよ」と言ってもらえた安心感がスタートだったと思う。
たとえ別々の道でも、その時もらった安心感は私の根幹の部分で生き続けていく、そんな気がする。
ありがとう。
大したことはしていないと言われそうだけど、ありがとう。
0 件のコメント:
コメントを投稿