最近は、泣ける時に泣いている。
数年前から私はある種の泣き力を手に入れた。
それは、過去に流せなかった涙を今の時に流すという力。
泣けなかった当時は、色んな理由で泣かない。
我慢して泣かないこともあれば、感情が凍結して泣かないこともある。
もちろん他の理由で泣かないこともある。
そうした涙たちを、今になってきちんと流せるようになることがある。
最近は特にそういうことが増えてきたから、だから当時の記憶がよみがえってきた時はかなり積極的に泣いている。
そうすると気持ちもすっきりするし、過去も癒されるし、また次に進める、そんな風に感じる。
最近色んな涙を流してみて、「涙にも色んな種類があるんだな」と泣きながらぼんやり思う時があった。
人を想って勝手に流れてくる涙もあれば、過去の辛かったことを思い出してその時の気持ちを再現して流れてくる涙もある。
行き場のない気持ちを涙が代弁してくれることもある。
涙を流せば流すほど、無限大に種類のある涙を前に、色んな涙を流せるようになったことにただただ感動する。
そんな折、ふと「男の人ってどうしてるんだろう?」って思った。
これは私の個人的な持論だけれど、基本的に男の人の方が涙もろいと思う。
私が子どもと関わる仕事をしていた時のこと。
ある年齢までは圧倒的に男の子の方がよく泣くしすぐ泣く。
それは子どもを産む力を持つ女特有の強さなのか単なる女の遺伝子の強さなのかはわからないけれど、女の子たちは男の子ほどには泣かない。
むしろ女の子たちは小さな頃から泣いてごまかす術をなぜか本能的に持っていることが多くて、私は女の子たちによく「泣いてもだめ、だめなものはだめ。泣いても許されないんだからね」とよく言っていた。
私がそういう駆け引きが通じない相手とわかると、女の子たちは泣かなくなる。
その点男の子たちは、とにかく少しでも痛みや苦しみや不都合が生じるとすぐ泣いていた。
別にごまかそうとしているんじゃなくて、「あ~ん、どうしよう?わかんない!どうしていいかわかんない!」という感じの泣き方だった。
男の子の方が、とても純粋に自分の痛みや苦しみ悲しみに純粋に反応しているように私には見えた。
だけど、これもある程度の年齢までで、何年と同じ子どもを見ているとある時から男の子たちは泣く回数が減るのがはっきりとわかる。
そして年齢がある程度に達すると泣かなくなる。
それは精神的にタフになったんじゃないと思う。
「泣くことは恥ずかしいこと」「男は泣いちゃだめ」みたいなそういう社会的風潮を学んでいく、その過程で泣く回数が激減するんだと思う。
だからまだギリギリ泣ける男の子たちとは、私はよく一緒に泣いた。
気持ちを少しでも共有することが大切な気がしていたから。
そして私は一度として男の子たちに「泣くことは恥ずかしいこと」とか「男は泣いちゃだめ」なんていうことを言ったことも思ったこともなかった。
同じ人間なんだから、泣ける時は泣かないと…と思っていた。
話は戻して、成人男性。
本当にどうやって泣きたいような気持ちを自分の中で解消しているんだろうと思う。
泣かなくても日常生活には支障がないと思う。
私が過去の涙を流さずに何年も何十年も生き長らえるところを見ても、別に泣かなくても生活はできる。
でも、「泣かなかった=解決できた」ということではないことをよく知ってる。
単に感情を押し殺しただけのことも多々ある。
そういうものって、一体どうやって自分の中で折り合いをつけていくんだろうと思う。
そんなことを思って運転していたら、突然過去に学んだことがヒントとして出てきた。
世の中に存在する音の種類は全部で13種類ある、とのこと。
ドレミファソラシの7個と、黒鍵にあたる5個(シャープやフラットの部分)、足すと12個。
じゃあ13種類目の音は何でしょう?と講師の方は楽しそうになぞなぞを出した。
まさかと思い「無音ですか?」と聞いたら「ご名答!その通り!」と言われた。
「音がない状態」それが13種類目の音だと言う。
これ、涙にも言えるんじゃないかと思った。
固体として流される涙と、そして流さない涙、その両方を涙とすること。
流さない涙も涙としてきちんと存在していること。
それは目には見えない涙だけれど、きちんとひとりひとりの中に持っている「涙」だと思う。
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