1年前の8月の終わり。
わたしは人生のお休みの切符を手に入れた。
すぐに失業保険がもらえるとは思っておらず、そのまさかの失業保険がすぐに下りるというのを
仕事の期間が終了する前日に聞いた。
あれから1年1ヶ月、結局ずっと半引きこもりのような生活を送った。
ちょっとは人に会っていたし、週の半分以上は1時間コースの散歩に出ていたし、スーパーの巡回
は楽しく行っていたし、全くの引きこもりというわけではなかったと思う。
ただこんなにも長く人とほとんど会わない生活を送ったのは人生で初めてだった。
そして、社会の中で自分を紹介する時に使う肩書はゼロになった。
何の役割も持たない自分というのを最初は楽しみ、途中からは焦ったり開き直ったりしながらの
日々を過ごしていた。
自分の次の一歩がずっと見えなくて困っていた。
1年1ヶ月の半引きこもりになって見えなくなったのではなく、もうやおらそろそろ10年コースでの
迷走を続けていた。
この1年1ヶ月の間も、何度真っ白い天井を眺めたかわからない。
天井を眺めたって答えなんて降ってこない。
もちろん閃いたりもしない。
ただぼんやりと時が過ぎて、ぼんやりと自分を眺めて、飽きたら他のことを始めて。
ずっとそんな繰り返しだった。
このまま80歳のおばあちゃんになるとは思わなかったけれど(現実の生活が回る保証があれば
そうも考えたかもしれない)、かと言っていつどのタイミングで何かをしたくなって動き始めるのか
皆目見当もつかなかった。
今日も天井は何も答えてくれない、などとあほみたいなことを大真面目に思った日は1日2日じゃ
ない。
もっともっとたくさんある。
嫌なことに向き合いたくない時も床に寝転がって天井を見た。
寝転がっても何にも変わらないってわかっていても、すべて投げ出したい以外の気持ちが湧かず
1人悶々としたことも数え切れない位あった。
今一気に動き出して、天井を見上げる時間はゼロに近くなった。
単純に暇があまりなくなった。
今のやりたいこととやりたくないことの両方+生活を織り成すだけで、1日が目一杯になる。
それ故に天井を見上げなくなっただけで、また見上げるチャンスが生まれたら見上げるだろう。
もちろん今も天井を見上げたって何にも答えなんかないし、閃きも生まれない。
だけど、天井を今こうして書きながら見上げると泣きたくなってしまう。
天井を見上げてばかりいた当時の自分を思い出し、色々彷徨いまくって訳分からなくて、いっぱい
色んなものを見失っていたように感じていた当時の自分がふと出てくる。
自分で「よくがんばったなぁ」と思う。
世間的には何もせず、理解ない人たちからはたくさんの批難も浴び、それでも自分の中で色々と
納得できずにじっとしていて、苦しい気持ちも理解して欲しい気持ちも、たくさんたくさんあった。
なんだかえらい孤独だなぁと思ったことも一度や二度じゃない。
それでもある時、それはものすごく意外な形で天井を見上げる生活にピリオドが打たれた。
天井を見上げていた時には思いもつかなかったものが人生に流れ込んできた。
その流れ込んできたものを動かすためにも、今再び働きだした。
働きたいから働くではない理由だけれど、それでも今のようにやりたいことを支えるために働く、
っていうのも有りだなと思う。
いつか今の場所を去る日がくる。
もちろん真っ白い天井ともお別れする。
それでもそのいつかは、この天井にものすごく愛着が湧き、感謝の念さえ覚えるのではないかと
思っている。
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