3日前に友達から、友達の友達の死の報告がきた。
友達を介して一度だけお会いしたことのある方だった。
そのたった一度の機会だったのに、その時に彼女の作る彼女の祖国の料理をいただいた。
サバを煮たものとチキン、あととうもろこしか何かの粉を焚いてもちのように丸めたものを食べた。
それらを彼女は一生懸命周りの人に手伝ってもらいながら作っていた。
まさかそれから1年ほどして、こんな風に悲報を聞くことになるとは想像すらしていなかった。
昨日気分転換も兼ねて、市街地へ出た。
秋晴れの昨日は暑くて、額に何度も汗が滲んではつたった。
「生きる」ってこういうことなんだと思った。
今日は暑いなぁとか、足を右左交互に動かして歩くとか、そろそろ葉っぱが枯れてきたなぁとか、
そういうことを感じる日々の生活なんだと思った。
あまりに当たり前すぎるけれども、それが死んだらどれ一つもできなくなることなんだと、
自分の汗をタオルで拭きながら考えた。
歩いている途中、大きな公園の脇を通ったら、遠くから太鼓を演奏する音楽が聞こえた。
太鼓と金属を叩く音のミックスで、それが彼女を弔う音楽のようだった。
アフリカの音楽を友達から聞かせてもらったことがあって、それに雰囲気が似ていた。
これまで100回以上は通った公園なのに、そこで音楽の演奏を聞くのは初めてだった。
何で昨日のあのタイミングであの太鼓演奏を耳にすることになったのだろう。
太鼓の音が胸に響いて、何度も涙がこぼれた。
友達がメールの中で、
「生きてるうちに出会うってのもすごいね」
と書いていた。
本当にその通りなのに、何でそんな大事なことを自分は忘れちゃうんだろうと思いながら、
そんな大切なことを思い出させてくれた友達と友達の友達に感謝した。
誰かの死が訪れても、誰かが病気と闘っていても、わたしの今の人生はわたしのペースで
続いていく。
続いていくことに何の疑問も普段は抱かず、満足も後悔もすべてが薄っぺらい感じで過ぎてく。
そうそんな風だったのに、この数日で真面目に自分の命だとか生き方を考えさせられる場面が
いくつも続いた。
答えを出さなければいけないことも、一歩を踏み出していくことも、気持ちがついていかなくても
そういうものが出てきた。
誰かの死とかお別れは絶対に喜べるものじゃない。
だけどそれらが伝えてくるメッセージというのは、どれほどの影響力があるのだろう。
友達が友達の友達の死と対峙して伝えてくれたこと、昨日は何度も何度もそのメッセージを
読み返した。
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