年に何回か、食べ物の神様が君臨する。
食べ物の神様とは今勝手に自分で命名した言葉で、
ふと思い付いた言葉にしてはとても的を射た表現だと感じている。
先日、鍋焼きうどんを作って食べた。
なんてことはない。
1袋わたしは28円で購入してきたけど、あのどこのスーパーでもうどんやそばなんかが単体で
安く売られている、あの類いのうどんだ。
半額になっていたかきあげも購入。
後は、家にあったネギや卵、わかめなんかを入れて、鍋焼きうどんの名前の通り、
土鍋でそれらをしょうゆと砂糖、みりん、だしなんかで適当に甘辛く煮て終わり。
だしもきちんと昆布や煮干しから採っただしじゃなくて、顆粒だし。
ぐつぐつと音を立てた鍋焼きうどん。
鍋と蓋の間からもうもうと湯気が出ている。
一口口に運ぶ。
ほっとする。
知ってる、この味。
ごちそうとは決して呼べないようなものでも、一口食べただけでほっとする。
甘辛い汁のところにかきあげの油の味が混ざる。
かきあげのふにゃっとなったところは特に好きだ。
パリパリの部分も好きだけど、ふにゃも独特のうまさを秘めている。
このほっとする味、これって子どもの頃から慣れ親しんだものだ。
味とほっとする感覚がセットになっている。
ほっとする味ってそんなにたくさんはない。
おいしいと感じる味は無数にある。
でも、おいしいよりも先にほっとするがくる味って無数ではないし、そしてこれこそ人と違うはず。
多分同じ鍋焼きうどんを誰かと一緒に食べても、その人はおいしいと思ってくれても、
ほっとはしないような気がする。
子どもの頃の舌の記憶と今の舌の感覚が瞬時に繋がる。
そして舌からあの独特の「ほっとする」感じを脳に送りこむ。
脳は子どもの頃の食卓を写し出す、長期記憶の引きだしの1つから。
こういう瞬間、「食べ物の神様」が君臨した、と思ってしまう。
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