2014年4月24日木曜日

無気力の時間

これは、無気力の時間を通り抜けた後に書いている。

自分の「望んだ方向」での決断を先延ばしにし、とりあえずの仕事を始めて2週目に突入。

自分の決断がとことん甘かったと何度も何度も後悔した。

仕事が決まったと連絡が来た時、わたしは泣いた。

断るなら今だ、とわかっていても、「はい」と返事している自分。

心の中は、葛藤だらけで、「NO」ときっぱりと言っているのに、

体の方の口は、「はい、よろしくお願いします」と言う。

猛烈に自分を責めながら返事をしていたあの瞬間。

情けなさやふがいなさ、色んな感情でごった返しになっているのに、

平静を装っている自分。

しばらくどんよりしていたけれど、

とりあえず、仕事に行きながら考えたらいいと、気持ちを切り替えた。

仕事に行き始めて考えるのかと少しは期待してみたけれど、これが真逆で、

葛藤は葛藤のままわたしの未来の時間に引き継がれ、

そのうち考えるのも疲れてきたのに思考は24時間体制で働き、

毎日色々とやばいやばいと頭で繰り返し、

そして気付いたら、何をする気にもならず、何とか日常を過ごすのに目一杯になっていた。

何も手に付かない時間というのが、一人になった途端に押し寄せてくる。

家に帰っても休まらない。

このまま日々が過ぎ、それが1週間、1ヶ月、1年、一生・・・と続いたら・・・、

と悪い進行方向をあれこれ想像して余計に萎えたり、

思考は止まらなくても、「これをしたい」が何もなくなってびっくりした。

読みたかった本も読めず、

書きものも嫌になり、

ゆっくりと飲むコーヒーにも見向きもせず、

散歩も人と会うこともゆったりすることも、

何もかもいやになっていた。

何もしたくなくなってしまう無気力の状態、わたしはこれがとても苦手だ。

何かを変えたかったら、ほんとに小さなことでいい、

小さな風を毎日の生活の中にひとつ送りこまないと、何も変わらない。

だけど、その肝心の風を送りこむだけの「何かしたい」気持ちが湧かない。

これはいつなっても苦しいし、そういう自分からはいつも目を背けたくなる。

ちなみに、今だからすごくよくわかるけど、

そういう時のわたしは、まじめに「休めない」タイプだ。

リラックスしたらいいとか、少し休んだらいいとか、

わたしの場合は、そういうものが余計と自分を圧迫する材料になってしまう。



今回、どのようにその「無気力の時間」を通り過ぎたのか・・・

単純にこの無気力の状態に疲れて、逆に「あぁもう、ちょっと他のことをしたい」

となったのもある。

落ちるだけ落ちていたら、ふっと浮上した感じになぜかなったのもある。

もうひたすら過ぎ去ってくれるのを待つしかなかった感じもある。

そういう小さなことたちが重なってくれて、「よっし!」とちょっと回復できたのが今。



その無気力時間の最中の昨日かおとといの夜中、

眠りから途中で覚めると頭が冴えて眠れなくなり、携帯の心理テストをやった。

誤解を生まないように言うと、

わたしの中で「心理テスト」は、やりたいことじゃない。

どうしても何か気を紛らわせたくてやること。

この心理テストが実に今の状態のわたしをうまく言い当てていて、

これには言葉は強いけど、逆に救われた。


「心は決まっているのに、それを否定したら、混乱するのは当然です。

妥協したら、夢は二度と戻ってはきません。

逃げることを考えずに進みましょう。」


言い訳もできないくらいにその通り過ぎて、どこかすっきりとした。

わたしが自分自身に言えなかったことを代弁してもらったような感じだった。

人に言われたら、そのまま受け取れなかったかもしれない。

自分で質問に答えて出てきた回答が上の言葉だったから、

あぁもうそう言われても仕方ないや、とあきらめられた。



今日、仕事が終わって、バス停までの数百メートルの道のり。

すごい人混みの中にも関わらず、

「あぁ、抜けた、やっと少し抜けれた気がする」

という感覚がやってきた。

そのときに、この1週間くらいの「無気力の時間」を記録に残そうと思った。

とにかく、その時々の気持ちをわたしはノートにひたすら書く習慣がある。

特に、がっつりと落ち込んだりもやもやしている時のことほど、貴重だと思ってる。

今でないと、書けない。

もうちょっと元気になって欲しいけど、元気度がアップすると、この無気力の感覚は忘れる。

どういう風に作用するのか科学的な根拠はさっぱりわからないけど、

この「元気のない自分の記録」は、どういうわけか後々の自分をものすごい元気にしてくれる。

とっても情けない(と思っている)自分の姿が文字となって残るけれど、

他の誰も書けない自分だけの記録は、そのままいつかの自分を救うことになる。

3 件のコメント:

  1. ぶっしー、もう新しい仕事を開始していたのね!
    「無気力の時間」を通り抜けた」というのを読んで、
    「おお、少し同時だね」 と思わず独り言しちゃいました。
    私はどっちかというと「無感動の時間」だったかも。
    同じく、やっと抜けてきたところです。

    今も何も解決されてないし前向きな要素も出てきて
    ないのだけれど、とりあえず「今日、明日」のことに
    集中している今の感覚を、自分では良しとしてます。

    昨日観た映画の中に、
    若者(25歳): 「将来のこととか考えないんですか?」
    主人公(48歳): 「怖くて考えらんねーよ」
              : 「てゆーか、来ちゃってるよね、オレの『将来』」
              : 「絶賛 『将来中』 じゃん、オレ」

    っていう会話があって、なんか唸ってしまったわ!
    私もけっこう「将来中」な年齢だよなぁ、って。
    悲観的になっているわけでは全然なく、
    かつて「将来」だった「いま現在」を、こつこつ大事に
    やっていこうってゆうか。

    いつの間にか、もうすぐ4月も終わりですな。

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  2. さんごさん
    コメントありがとう!!もうひとつのコメントの方も!
    バナップルは、わたしも今回初めてお目にかかったから、長岡でお目にかかることは・・・
    難しそうというよりなさそう(苦笑)。

    「無感動」もわかるな~。無気力の時も、「無感動」の感覚が一緒に含まれてる気がする。
    何かに感動することすら忘れてるみたいな。
    だけど、無気力を脱した時は、超感動した(笑)。
    こんなことで感動できるなんて、すごすぎる!と自画自賛したくらい。

    映画の会話、とくに、「絶賛『将来中』」という表現がすごい!
    もうひとつのコメントとこのコメントと両方読んだ時、
    勝手にわたしは「さんごさんなんか抜けたなぁ」というのが感覚として伝わってきた。
    実際はどうなのかなんてわからないけど、あの豆を送ってきてくれた時と比べたら、
    全然感じが違っていて、あぁ時間が過ぎたんだなぁと、
    そしてその時間で何かを積み重ねたんだなぁと率直に感じた。

    いいもの見た感じで、読んだ瞬間はほくほくしてた☆
    ありがとう。

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    1. やっぱり長岡にバナップルはないよね~(^^;)
      ぶっしーの家の近所のあの八百屋さん、何ゆえ
      「バナップル仕入れてみよう!」と思い立ったんだろうね(笑)!
      でも、おかげで思い出の味に再会できて良かったね♪

      映画は、ストーリー自体はけっこうバカバカしいのだけれど、
      あの会話だけは忘れられない! ちなみに、確認したら
      若者の年齢は正しくは(26歳)、主人公の年齢は(42歳)
      でした・・・誤情報で書いてしまってごめんなさい!

      4月の上旬、毎日福島江の桜を見ながら帰ってたんだけど、
      風景を見て、「きれいだな」という言葉は浮かぶんだけど、
      心がまったく動いてないというか、反応してないとゆうか。
      その時に「あれ、無感動になってる、これはイカン・・・」 と
      気がつきまして。 
      豆てんの時は人生ワースト3に入るくらいに本当に状態が
      悪かったけれど、でも今はほんの少~しずつだけれど、
      やっと浮上してきた気がします。 
      ぶっしーが「無気力の今しか書けないものがある」って
      言ってたのとたぶん同じようなものが、私の中にも何かしら
      感じられるし、ぶっしーに「抜けた感じが伝わってきた」 と
      言ってもらえてちょっと安心できたよ。 ありがとう。

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