2025年1月6日月曜日

凪2024から2025にバトンタッチ

「凪」の意味
静かで波立たないというところが
自分の心と重なる
漢字を見た時に囲まれている枠の中で
止まっている、留まっているみたいな
そういう雰囲気も自分の中では感じたこと


金沢駅
2025/01/05

金沢で見た夕陽
バスの車窓より
2025/01/05

2歳の姪っ子と母が作った雪だるま
2024/12/30


2025/01/05

今さらだけど2024年の今年の1文字を。


「凪」


これは12月に入ってすぐくらいにパッと出てきて、まさにそんな1年!、と具体的な漢字の意味も知らずにすごくピッタリと感覚的に思った。


可も不可もない、ここ数年単位では一番穏やかでその時その時に流れてきたものに何となく乗っかってみて、ゆらりゆらりと過ごしたように思う。


落ち着いていたというか、天気の良い日に波がゆらゆらしているあの波の感じに自分が乗っているイメージ。


と書くととても良い風に聞こえるかもしれないけれど、たしかに悪くはないし不平不満的なものもだいぶ薄いというか、ある程度容量の決まった範囲内での対処療法で何とかなるみたいな、という感じでその何に私は不満なのかと第三者から聞かれたのならちょっと困るなというもの。


だけれど、穏やかである程度落ち着いていて、なのに私は何度かふと「このままの生き方でいいのかな?」と自分に質問していた。


真っ先に出てくるのは「これじゃない」という感触。


大きなところとしては、生き方全般。


仕事はけっこう楽なところまでやって来れた。


楽という言い方が合っているのかわからないけれど、要は1の指示に対して10動けるくらいに仕事は覚えたし知識も技術も増えたのと、他者をフォローできるくらいの余力というかそれをできるくらいの状態になりつつあるのと、そこそこ自分を自分で何とか回せるくらいのある程度安定した人間関係も作れたと思う。


だけど自分の中でもう先が見えなくなってきた。


一番は「今の仕事を極めたい」というのが全く無いから、もうそこはこれからどれだけやっても出てこない。


お金と割り切って働けるほどの心持ちも無いからいつかは決断して次へと何かしら向かうことが無意識にわかっている。


もちろん極めようとしたらいくらでも極められるしやることはてんこ盛りにある。


だけどそれは私の中で人生を懸けてやることじゃないから遅かれ早かれ立ち退きはすることになる。


そういう意味で色々終わりに近付きつつあるのだろうと思う。


仕事に対してこんな風に考えてしまうところが傲慢というか、本気でやる気がないのがわかる。


28歳で協力隊の枠が決まっていてもう数ヶ月で児童養護施設を辞めると決まっていた時、私は自分で決めたのに「本当に今のタイミングで良いのかな」と最後は辞めることを迷った時期がしばらく続いた。


協力隊はやってみたいことだったけれど、そして施設は何だかんだと5年半やってそこそこな何かしらを自分の中に積み重ねることができつつあったけれど、もっと仕事に深みが出て面白くなってもっとできることがあるんじゃないかと感じて子どもたちとの関係性も色々変わってまだまだこれからなのかもしれない、と未知の可能性を感じていた。


だから辞めることが今なのかわからない、もっとやりたい気持ちもある、という境地に私は至っていた。


それがあるからこそ、今の仕事というのが色々違うことがわかる。


無駄なことは1つとしてないし、色々最低だと思う場面は多々あれどたくさんの意志ある人たちに助けられてるのも本当で、もちろん続ければまた次の何かが見える可能性もゼロではないけれど、とにかくそれじゃないというのがはっきりとわかる。


一番わかりやすい答えとして、児童養護施設の仕事は私の中ですごい興味があって入った仕事で、今の仕事はいくら能力的に適性や知識があっても興味が1ミリもないことだということ。


この差はお金とかで埋まるものじゃない。


私はまさか人生でこんなにも適性があってでも自分のやる気は地の底まで無いという仕事をするなんて思ってもいなかった。


児童養護施設の仕事は適性があったかどうかは知らない。


だけれどやる気だけはすごくあった。


塾の仕事がそういう意味では比較対象としてわかりやすいかもしれない。


今の仕事の方が適性はあるように感じる。


塾は適性もなければ色々会社の在り方や働き方が嫌すぎたしストレスもすごかったけれども、あの仕事の方が自分の中の何かやっている感覚やあの中にしかない面白さも味わっていた。


そういう諸々の根幹的なところが欠落している今のライスワークは今後も欠落したままだし、これは自分の生き方をこのまま続けると大変大きな後悔が出てくるとわかる。


だから落ち着いてはいても色々よろしくない。







45歳という年齢なのかもう色々自分の中で自分の限界を積み重ねたからなのか、私はこのまま1人で生きていくのは本当に自分の中ではそうしたいのじゃない、というのが出てきた。


嫌でもなく避けたいでもなく、何か違う。


1人でも嫌じゃないし、こんなの避けようと思って避けられるものでもないから、そのようになるのは仕方ないとどこかあきらめみたいな気持ちがある。


そして元々1人に慣れ過ぎているところがあるから、1人でも楽しく生きる力が自分にはあると自負している。


1つだけ嫌だなと思ったことがある。


これまであまりにも日常に溶け込み過ぎてて習慣化していたけれども、いつからか少なくともこの冬の寒さを肌で感じる頃から、私はまた次の1年を「イケメン上司から連絡がくるかもしれない」とか「連絡が欲しい」とだけ思い続ける時間を過ごすのは嫌だなと思った。


多分自分の中で馬鹿馬鹿しく感じたりそれを許すことを自分が許したくないみたいな、全然悪くないし困ってないし平穏は保たれるけれども、人生を全体で捉えて俯瞰して見た時に「それは自分が望んでいることじゃない」というのが出てきた。


自分の中の正解じゃないというか、この先もこれまでの7年と同じ時間を過ごすのは単純に嫌だなと思った。


新しい生き方を模索してもいいのかなと思う。


誰かと出会いたいとか(そんな素敵なことはオールウェイズウェルカムだけど)、婚活しようとか、そういうのじゃないけれど、ただただ同じように次の7年も過ごすのは嫌だなと。


勝手な自分への願いだけど、何でもいいから何かに夢中になっている自分でありたいと思う。


365日毎日傾倒してなくても何かこれは夢中になったよ的なものを今の自分は欲してるように思う。

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