>2024/01/10
2024年初ブログ。
>2024/01/11
上の文を書いて、それ以上書こうとしても何も書けなくなって、そのうちウトウトして眠りに落ちた昨日。
全く要らぬ情報だけど、本当は9日から初出勤の予定が胃腸風邪なのか何なのか、過去に体験したことのない体調不良に見舞われて9日10日と仕事を休んで、それは自分の中で記憶違いでなければコロナになった時以外では今の職場では初の体調不良での欠勤だったし、子どもの頃からとにかく体調不良で休んだことが片手で数えても指が余るくらいにないから、そんなこんなですっかり社会人な自分はなりを潜めて(普段から社会人的な顔はあるのかという話はおいといて)、12日間休んで普段のイライラや喧騒から離れて、ずいぶんと自分の中に平穏さとかおだやかな空気が流れて、この清浄な感じの空気感の今こそが「やるなら今でしょ」的な後押しになってくれて、そしてたったさっき、2022年の秋の暮れからずっとずっとやろうと思っていたことを決行して今がある。
仕事も珍しく変なものが来てなくて(!)、とりあえず面倒なゴタゴタのない1人で淡々と進められる仕事をして、定時で速攻帰って。
何せコロナ以外の体調不良で休んだことがない私だから、周りはとても優しくて、具合悪かったらいつでも早退してと数人に言ってもらい♪( ´θ`)ノ、何とか8時間過ごして気持ちも穏やかなまま帰宅、ごはん、風呂と終わって、早朝寝起き一番に準備したものをさっき完成させて任務完了した。
途中から可笑しなことも思った。
「今日って11日!そうだ、誕生日まであと2ヶ月だからその2ヶ月前の自分にプレゼントしたことにしたらいいんだ!」に始まり。
ずっと使い道を考えていた今年の手帳、1ヶ月近く毎日数回メルカリチェックしてゲットしたリバティ生地のスケジュール帳のフリーメモ欄の使い方が決まったのも決行1時間ほど前。
「そうだ!手帳には『今年自分にプレゼントしたもの』リストを書こう!」とこれまたテンションが上がり。
プレゼントしたとか、自分の願いを叶えてあげたよリスト。
響きだけで素敵!
ちなみに手帳には
・こんなもの作ったよ記録(手芸関係)
・お出かけ記録
・記憶に残るシーンたち
・おいしかった食べ物
・体調諸々の備忘録
とか色々名目を決めて今年は手帳を使う予定でいる。
スケジュールなんか管理するものが私の場合ほぼほぼないから(休みは引きこもり万歳な自分ゆえに予定など書くことがとんとないし、頭で記憶できるほどしか予定さえもそもそもない)、正直に言うとスケジュール帳は不要。
なんだけど、今年はリバティのスケジュール帳があまりにも可愛くて、ちなみにそれは特定のリバティショップで1万円以上の購入がないともらえないノベルティで、だからメルカリで譲ってくれる人をひたすら待つしかなく。
私は1冊目をゲットした後、中身を見て最初の月々のスケジュール以外の95%はノートとして使えると知って、柄違いのものをこれまた2冊目ゲットして、こちらはまた何か違う用途のノートとして使おうと目論んでいる。
話があちこちに逸れまくったけれど、先ほどの1年以上温め続けてきたことをようやく決行できて自分的にはとても満足している。
終わりの瞬間はボタン1つポチッと軽くタッチするだけで、拍子抜けするくらいにあっけなくて、何度も何度も本当に無事に完了できたのか確認しまくって、どうやら本当に完了というか無事に実行されたようでホッとしている。(1時間弱、数回チェックした。)
1年以上温め続けたと言うのは、内実はずいぶんと違う気がする( ̄∀ ̄;)。
毎日毎日頭の中にはずっとあった。
「こうしよう!」と頭の中にポンと浮かんだ2022年の秋の暮れの時のことは、本当に何度も頭の中を去来したし、その後にイケメン上司を4年生くらいの子どもにしたようなイケメン上司そっくりな男の子にバスで席を譲ってもらった瞬間なんかは何度も思い出して時々「うぅっ」と涙が出るくらいの気持ちにもなりまくりだったし、それから何回季節が巡って色んなことがあってもその時に思ったことや見えていた風景は数えきれないくらいに自分の中を行き来していた。
関係ないけれど、占星術の先生から受けた鑑定で2023年は出会い運というか恋愛運というのかとにかくその類いの運気がとても高まることを教えてもらっていてそこ言葉も何回も頭をよぎったけれど、なんだろう、自分側のGOサインみたいなのが上手いこと出なかった。(誰かからアタックされたなんてことはもちろんない、あくまでも私個人のGOサイン)
仕事は異常なほど忙しい時が周期であって、そうなるとヘロヘロになって自分の内側にいまいち向かいにくい。
言い訳みたいだけど、そういうことが続くと自分の気持ちだけを見つめるなんてことはとっても難しい。
特に、11月と12月は毎日のように頭の中がというか体中が大噴火するくらいの火に油を注ぐような、私からすると理不尽すぎる発言や注意が仕事の中で相次いで、そちらにたくさんのエネルギーが持って行かれてしまった。
自分が悪いことや不利益なことをしてのものならわかるけれど、全精力で対応してスーパー貢献をしていてもそれでも無理解が続いてしんどすぎたし神経が擦り減って仕方なかった。
私生活はある程度落ち着いていたけれど、この1年近くはわりとけっこうな頻度で遠出や姉妹友達なんかとの往来があって、それらがあるとまた「次の◯◯の予定まで余計な懸念事を持ち込むのは嫌だから、くだんの件はもう少し先送りにしよう」とか思い始めるや否や先送り確定させて、そうこうしているうちに仕事の波が押し寄せたりして、とにかく落ち着く間もなかった。
そういうわさわさした時に動くのも1つの手だとは思ったけれど、決心がつかないところが根幹にデーンとあるところに、さらに色んな自分言い訳を始めて先送りし、本当は2023年中にやりきろう!と思ったけれどなんだかんだでできず。
それで年末年始は妹たちが帰ってきて、もちろんちびっ子たちも、そして能登沖地震の後に高速が金沢まで開通した日に私も妹家族と共に金沢に行って(ちなみに金沢は被災地と同じ県とは思えないくらいに通常運転だった)しばらくそちらで過ごした後に新潟に戻って、ようやく1人の時間を持てて「やっぱり今のタイミングで行こう」と自分の中で決意じみた、もしくは覚悟じみたものが生まれて、なのにうだうだとして動かないというより休息的な意味で休みたいと思っていたらそれは本気の体調不良の予告でさらに2日間休みが延長して、また先送りするかな…と自分のことなのに他人事のように眺めていたらいきなりスイッチが入って動いて形にしてそしてさっき決行できた次第。
何せ「年」カウントをすると2年も越してしまったわけで(スタートは2022だから)、このままズルズルは本気のズルズルになるなと、謎の焦りと危機感を持った。
これは昨日かその前、具合が悪い中だったかに気付いたこととして、これまでは「叶う」「叶わない」の2択で言えば「叶わない」現実ばかりを山ほど想像していて、というよりも叶わないことしか上手く想像できなかったから、「もし叶ったら…」とそちらを初めて冷静に想像してみた。
気付いたのは、叶ったとして私の中ではその現実のこともめちゃくちゃ怖れているんだと知った。
矛盾しているように聞こえる話だけれど、叶わない現実に向き合い続けることも怖いというかしんどいのは想像しなくても十二分に味わっていて、そちらの覚悟はなくても免疫力というか積み重ねで鍛えられた分があるからそれを持って臨むことができる。
でも、叶う方は嬉しいももちろんあるけれど、これまでとは違う力みたいなのがいるわけで、私は色々怖いんだなと初めて気付いた。
結局のところ、どちらも覚悟がない自分なんだとわかったのと、そんな覚悟はいつまで経ってもできるわけもないから、どちらに転んでもその転んだ段階で初めて考えたり自分の怖さなんかと向き合えばいいんだと最後は開き直った。
去年か一昨年に見た大谷翔平の軌跡的なドキュメンタリーで、日本の球団の監督が大谷翔平が入団してくれるとわかった時の心境として、「本当に純粋に嬉しかったのは入団を決めてくれたその瞬間だけですよ。次の瞬間から自分が大谷翔平を育てる立場にあってどう育てていくのが良いのかと考えたら怖くてたまりませんでした。その後からずっとずっと怖い気持ちでしたよ。自分の手に(彼の未来やさらなる成長とかそうしたものをひっくるめて)懸かってると思ったら、もう怖さしかなかったですね」みたいなことを話してた。
言葉は違うと思うけれど、その気持ちが今の自分なら少しわかるなと思う。
土俵にも立ててないから全くのお門違いも甚だしいけれど、手に入れて終わりじゃなくてその先もずっと色んなものがあると考えた時にその場で立ちすくむような怖さを自分の中にも初めて感じたのがつい最近だった。←取らぬ狸の皮算用状態。
ちなみに今は、全てはなるようにしかならない、と思っている。
>2024/01/12 真夜中
私が発進したボタンの未来を想像した。
「おののく」
ポンとそんな言葉が出てきた。
本当に朝から度肝を抜かれて、1日の活力の全てを奪い、ありとあらゆる集中を切らす爆弾みたいなものだろうな…といとも簡単に想像できてしまう。
もちろんそんな意図は微塵もないけれど、意図してなくても受け取り手はそのように受け取っても全くもっておかしくない。
>2024/01/12 早朝
改めて、実感が湧かないけれどもすごいことを実行してしまったんだなと思う。
私は荒波を立てたいわけでも嫌がらせをしたいわけでもない。
今の瞬間を点で見るとインパクト大だけど、私が見たのはそこじゃなかった。
過去〜今〜未来と続く時間の中で、自分が本当に叶えたいこと、何とかしたいと思ったこと、それのために今の自分がやれることを自分のためにやった。
もうこれで何にもなければ本当にダメなこともわかって、だったら自分が最後「やるだけやったよね」とそこに自分を持っていくこと、それが自分のためにできることだと思ったから。
相手の迷惑など考えたら動きも取れないし、それを第一にしたら私は昨日の夜行動に移すことはなかった。
一生のうちでこれが最後だから、と自分側の都合というか心の決め事だけを軸にして、それで動いた結果が今になる。
何も変わらなくてもそれはそれで受け止めていくし、だけど天変地異的なことがもし起こってくれるとするなら私はそちらに賭けたい、ただただその気持ちだけで動いた。
この後普通に1週間の終わりを迎えるだろう時に、その普通が大なり小なり壊されてしまうだろうこの後を想像すると(私側ではない方の話)申し訳ない気持ちももちろんあるけれど、どうか温情を…などと願う私はちと求めすぎかと思う( ̄∀ ̄;)。
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