2023年9月26日火曜日

9月が終わりそう

姪っ子にあげた巾着袋
左はバレエの道具入れに
右は体操服入れにするらしい

この布は姪っ子と夏休み布団を並べて寝た時に
どの布がいいかネットで検索して
姪っ子が選んだもの



2023/09/24

どれもこれも中途半端な下書きが溜まっているけれど、そのどれも続きを書かず、今書きたいことを書いてみようと思う。


縫い物をするようになってから気付いたけれど、針と糸を手に持つとどうしても手がふさがってしまうからそれでブログを書く時間が大幅に減ったんだなと思った。


あと、メルカリ内でのリバティパトロールも同様に、携帯と手と両方がふさがるからブログを書く時間が大幅減。


手芸熱がおさまらないことには、しばらくブログは超ノロノロスピードになるだろうし、そもそも最近の日々のルーティンの中にブログの時間がないからさらにアップが遅々となる。


ブログを書いていないからと言って何も考えていないわけじゃなくて、むしろ色々頭の中を駆け巡るけれども言葉におこしていない、ただそれだけのこと。


だけど、今日は何が何でも今の心の内を書いてしまいたい強い衝動があるから書いてしまいたい。


多分今日じゃないと書けない。


空腹になるとおなかの空き具合ばかり気になるだろうと思って、先に念願のインスタントのサッポロ塩ラーメンと残っていたエビサラダをこれまたそのためだけに残しておいたバゲット一切れの上にのせて食べてきた。


サッポロ塩ラーメンはいくつかの食べ物エッセイ系に載っていて、その描写がどれもおいしそうでいつかその味を確かめたいと思っていた。


先月くらいにうちから遠く離れたスーパーで単品で売っているのを見つけて、それで1袋だけ買って帰ってきてストックしてあった。


食べたことある味だとわかったけれど、自分は好きじゃないからもう二度は買わないと思う。


ちなみにインスタントはマルちゃん製麺の味噌が断トツで好き。







どこから書くのが正解なのかわからず、とりあえず思い浮かんだ順に書こうと思う。


去年の11月だったと思う。


ノムとミッチーのお宅におじゃまして、ノムの友人・知人・同志みたいな、とある手相家の方から手相を見てもらった。


それは去年のブログのどこかに書いた気がするから割愛するけれど、その時に思ったこと、自分の中で決めたことがあって、それをいつするのかずっと気にかけながら気付けば1年近い時が経過した。


帰りの八王子市内の八王子駅行きのバスに乗り込むと、イケメン上司にそっくりな小学校4年生か5年生くらいの男の子が座っていた席を立って私に席を譲ってくれた。


あのシーンはこの1年近い時間の中で何回も思い返したシーンだった。


自分が泣きそうになったことも含めてとても強く印象に残る、そんなシーンだった。


あの時、自分の中にあった決意のようなもの、それを後押しされたかのような男の子とのやりとりで、多分私は生涯を通じて忘れないだろうと思う。







6年前の2017年の秋。


今日の日曜日なんかは気が気じゃなかったと思う。


記憶がその辺りはほとんど残っていないけれど、さすがの私ももうあと3日もするとイケメン上司が転勤でいなくなることは知っていた。


誰かに聞いたのか盗み聞きしたのかは覚えてないけれど、ある時に最後の週の水曜日が勤務最終日だと知った。


夏場でも常備していたダウンがなくなったことから始まり、机の上もどんどん荷物が片付いていって、日に日に本当にいなくなると言わんばかりの状態は目で見て知っていた。


けれど、私の心の方は全くそれに追いつかず、本当にいなくなるというのが全然信じられなかった。


居続けてくれるとは思わなかったけれど、いなくなるというのもどこか別の世界の対岸の火事状態で、頭で理解してても心は断じて拒否みたいな、私が抵抗したところでどうにもならなくても自分の中はいなくなるというのが受け付けられなかった。


その日曜日はどうやって過ごしたのかどんな気持ちでいたのか全くもって記憶が飛んでいるけれど、気が気じゃなかっただろうし、この世の終わりくらいな暗くて重たい気持ちはあったと思う。


そこの記憶がすっぽり抜けているのは、これは私が今思うに、印象に残らなかったんじゃなくてあまりにもショックで記憶が飛んでるんじゃないかと思う。







当時の私からして、イケメン上司のいなくなる世界は全くもって想像できなかった。


いない世界で生きていく自分のことも、いない日常がどんな風なのかもとにかく想像できないことだらけだった。


あれから6年が過ぎて、心境としては6年()と6年の後ろにビックリマークが付く感じではあるけれど、とにかく6年が過ぎて、イケメン上司が現実にいない風景もなんとなく慣れて時々イケメン上司がいた時間が幻のようにも思えて、色んな感情が去来しまくりな時間がたくさん過ぎた。


日曜日の午後、金沢の妹宅に向けて諸々両親から頼まれた荷物を送った後(土日のほとんどの時間を荷物の準備に費やした。母の農作物の収穫や姪っ子たち向けのおやつの買い物や姪っ子1号と約束した巾着袋作りとか)、ノムと電話した。


その時に、ノムと色んな話をした中で、3つほど強く印象に残ることがあった。


「いつの時も最高のことが起きていると自分の中で決めてしまう」ということ、モヤモヤの効能というかモヤモヤの大切さ。


もうひとつはもう少し後で書こうと思う。


色々矛盾している風ではあるけれど、いつの時もそれが今の自分にとってベストであるというのはなんとなくわかる。


これは説明するのにすごい時間がかかるからここでは書かないけれど、その意味を説明するのに私にとっての一例をいくつか挙げたいと思う。


イケメン上司がいない時間がベストだなんて思えない自分も当然いるけれども、いない時間に私は私で色々あって、例えばそのいない時に体験したことの1つにこうしてブログが繋がり続けるための手段になってくれるというのはこれは体験してみなきゃわからない境地だった。


まず私が書いて発信しないことには始まらないにしても、そこは私が自分でできる範疇のことだからそんなに驚きの事実じゃない。


けれども発信したものをイケメン上司が見つけてくれるというのは無限大にある可能性、数では到底表せない数多の可能性の中の1つで、それが起こるのは天文学的数字分の1、ありえない分母に対して起こる1つになる。


さらには自分の力で何とか叶えることができるものじゃなくて、必ず自分以外の人、この場合はイケメン上司の意志、私のブログを思いつきでも何でもいいから探してみようという意思や行動が伴わないと起こらない現実になる。


もはや私1人の力でどうにかなることじゃなくて、イケメン上司側の働きかけもないと絶対的に起こりえない現象、化学反応的なものになっている。


色んな理由から私はこのブログに関しては開始当初、たしか2013年とかそのくらいから本名を出してやっているけれども、決して当時はイケメン上司に見つけて欲しいからそうしたわけじゃないし、このブログを再開した2017年の秋も見つけてもらえると思って書き始めたんじゃなかった。


でも結果としてこれが見つけてもらえることになぜかなってくれて、今に至っていて。


先週9月18から19日にかけて東京に行ってきたけれども、久しぶりに山手線にわりと長い時間乗っていた時にあまりにも多くの情報が飛び交っていることにどっと疲れると共に情報の多さに圧倒された。


それを見て普段いかに自分が情報を遮断しているのかにも気付いたし、そしてこれだけ情報が溢れかえっている中で私の書くこのブログが目に止まってくれるなんていうのは超絶ありえない現実だなと思った。


その超絶ありえない現実が可能性の1つではなくて現実になってくれたことが、私からすると「人生どんなことも可能性として存在している」というよく偉人や著名人が口にするような金言を本当に体現してさらには自分で体感して信じられるレベルにまで引き上げてもらったわけで、これはこの6年の中で一番と言っても良いくらいの得た大きな人生観に数えられる。


私は窮地に陥れば陥るほど「大丈夫」というサインを探すクセがあるけれど、それは鳥の羽を地面に落ちているのを見つけるとかゾロ目の数字を見るとかそういう小さなでも普通に起こりうるものではない偶然たちだったりするけれども、それよりも何もイケメン上司がずっとこのブログを見続けてくれたことこそ本当に自分の中で何かありえないものも起こりうるという可能性を信じられる、その根源的な人生への信頼感をもらい続けている、その爆発的で継続的な力になってくれている。


これは一朝一夕で成り立つものじゃなくてずっとずっと毎日のこと、掛けることの数年分の時間の中で培われた大きな産物で、勝手にそうなったのじゃなくて積み重ねの中でしか手に入れることのできないすごい絶対的信頼感に近い何かになってくれた。


こういうのは、イケメン上司がいない世界や日常でしか手に入らない境地で、それを思うと本当にベストなことがいつの時も起こっているというのはなんとなく私の感覚でわかる。


モヤモヤの効能は、私の方から振った話で、これも詳細は割愛するけれども、ちなみに国営放送のNHKでモヤモヤの偉大な力を特集組んでやっていた時がつい最近あってモヤモヤ力の素晴らしさを目の当たりにして、私なんかはますます一層「モヤモヤを大事にしよう!」なんて思ったわけだけど、そのモヤモヤの話をしていた時にノムが言った。


「モヤモヤってさ、自分の本心と一致していない、ズレてるってことを本人がわかってるから起こるんだよね。そしてモヤモヤするからこそ、自分でそのズレてる、自分の本心と違うよということに気付けるというかさ」


まさに!なノムの分析だった。


この6年、私の中には必ずモヤモヤがあった。


特にこの1年近くはそれがさらに強く出た感じだった。


イケメン上司のことで、イケメン上司本人ということじゃなくて、イケメン上司のことと自分とを並べて考えた時に必ずと言っていいほどモヤモヤがかかって、自分の中でしっくりこないものがあって、どこか踏ん切りがつかなくてさてはてどうしような心境。


さかのぼること去年の秋の終わり、例の手相家の方から言われたことで何よりも印象に残っているのは「女としてのしあわせを求めないんですか?それを切り捨てて生きて行こうとしていいんですか?」みたいな言葉だった。


言葉はもう少し違っていたけれど大体そんな風で、そしてそれを言われた時に真っ先に思い浮かんだのはイケメン上司だった。


そしてそれを言われた翌日、ノムたちの家の最寄りのバス停から八王子駅行きのバスに乗るんだけれど、その中で初めの方に書いたイケメン上司にそっくりな男の子から席を譲ってもらうという場面に出くわして、大真面目に神の遣いか何かそういう存在が自分の前に分かりやすく降り立ったのかと思った。


本当にそれくらいすごい出来事で、だから私には忘れられない瞬間だった。


これも説明しだすととんでもなく長くなるから簡単に言うと、その男の子が単にイケメン上司に似ていたから印象に残ったというのじゃなくて、その子がしてくれたことは私がイケメン上司の存在をはっきりと認識することができた、6年前の夏の暑い日の炎天下の中でした外の掃除の時にイケメン上司が私にしてくれた行為に通じるものがあったから。


こういうことを書くと恥ずかしくなるけれど、私は普段から自分の性をあまり意識しないようにしている。


女であることがコンプレックスというのもおかしいけれども、いかにも女性らしい人たちと違って、外見は無頓着すぎるし、美人さんや可愛い子たちみたいに男性が優しくしたくなるようなそういう空気感は皆無と思われるし、外国ならまだしも日本で女だからという理由で良くしてもらうという体験が私の場合著しく少ない。


ちなみにアメリカのようなレディーファーストなお国柄だと普通に私みたいな感じでも丁寧に扱われるから非常にありがたいけれども、日本にいるとそういうことはまずなくて、しかも今は完全なるおばさん年齢になっているからより一層女だから優遇されることなど普段の生活で皆無で、普段はそれがデフォルトだから全く気にならない。


でもそういうデフォルトな私だからこそ、イケメン上司がしてくれたことは本当に私にとってすごい意味のあることで、本人はそんな気はさらさらなかったかもしれないけれど、スーパー不器用なイケメン上司がサラッとイケメン行為を私に差し出してくれたことは私の人生の中で歴史が変わるくらいの大きな出来事だった。


そして、女としてのしあわせはどうなのかと問われてグサッと心にでっかい包丁が刺さったかのような痛々しい中で、その後に乗ったバスで男の子が席を譲ってくれたのは、あれは荷物を持っていたこともあるけれど、それと同じくらいかそれ以上に私が女の人だから譲ったという感じがあの時はすごくした。


私が同世代の男の人ならああはならなかったんじゃないのかなと思う。


しかも顔が本気でイケメン上司にそっくりで、イケメン上司の甥っ子かと思うくらいのそっくり具合だった。


何の話をしてたんだっけ?と今書いたものをさかのぼって少し読んだら、「モヤモヤ」についてと気付いて、あれっ?(꒪ꇴ꒪)ってなった。


話が脱線しすぎ。


とにかく、女のしあわせ云々から始まって、私のモヤモヤはそれ以降さらにパワーアップして、イケメン上司のことがパッと出てきたのに、なんなら婚活したらどうですか?と言われてさらにモヤモヤアップして、そんな折に出会った少年と、そしてモヤモヤの根っこにはいつもイケメン上司のことが絡んでいて、そんなこんなに気付かされたモヤモヤの正体と自分の心の内。


そう、ノムが言ったように、私のモヤモヤは自分の思っていることや感じていることと現実が不一致で、その色んな不一致感からくるモヤモヤなんだと改めて思った。


ちなみに文中に「スーパー不器用な」とイケメン上司のことを言ったけれど、仕事とか社会的な人間関係とかはそつなくスマートにこなして誠実な対応をしているけれど、自分の内面に踏み込んだものになればなるほどすごい慎重なのか不器用なのかその辺りはわからないけれど、スマートにさらりとやれるタイプの人ではないんだろうなと、そんなのは多くの人が苦手にしてもその中でもさらに苦手意識が強そうな人だなとこれは時間の経過と共にそんな風に思うようになった。(失礼な言い方をしていたら、ごめんなさい)







ノムが電話の中で「手相家さんからぶっしー向けにメッセージをそういえば預かっていてさ」と切り出されて、今度はどんなすごいメッセージが来るのかと身構えた。


前後の言葉はこの後書くけれど、一番印象に残っているのは

「しあわせになっていいんですよ。」

だった。


ノムの伝えてくれたことはこんな風だった。


「いつだったか手相家さんと話していた時に、『これ誰か宛てのメッセージです。』って始まって『あ、これ武士俣さん向けです』って言って伝えてくれたことなんだけどね。

『武士俣さんはカルマが終わっている人です。本人は真面目にあれしなきゃとかやらなきゃいけないと色々思っているかもしれないけれど、カルマが終わっているから大丈夫です。本人は自分のことを重たいとか真面目にやらないととか思ってるかもしれませんが、武士俣さんの本質は子どものようなエネルギーでとても軽いんです。そのエネルギーで生きていいんです。そしてしあわせになっていいんですよ。

同性の私が言うとまた伝わらないかもわからないので、野村さん折を見て武士俣さんに伝えてください』

っていつだったか言われて、ということを今思い出して伝えたんだけどね」


ノムに聞いたら8月くらいに言われた気がすると言っていた。


そして今のタイミングなんだと思った。


「しあわせになっていい」


実はこの言葉、人生で言われたのが二度目だった。


名古屋の時にお世話になったSさんからが最初。


そして今回が二度目。


最初に言われた時もイケメン上司に出逢った後だったと思う。


そして今回。


言われた直後に、何も考えずにパッと出てきたのがイケメン上司だった。


私が余計なことを考えたり臆したりせずに自分のしあわせって何だろう?とかそんな類いのことを思ってスッと自然に出てくるのは、イケメン上司で、現実とか色んなことの99%は脇におくと、私が本当に望んでいるのはイケメン上司の隣りにいることなんだと思う。


人生には色んな側面があって、色んな楽しみ方やしあわせの感じ方があるのは今のこの年齢に至るまで色んなものを経験したおかげでそれは知るようになれた。


1人でも楽しむ方法は本当にたくさん開拓したおかげで、そこは残りの人生も何とかなるだろうと思えるほどに自分はなれた。


けれども、誰かと共にいること、誰かと共に生きること、いやそういうことを先に思い描いているんじゃなくて、自分の中で欠けているというか大きく不在になっているというか、とにかくしあわせというワードからパッと出てくるのはイケメン上司の存在なのは間違いない。


誰かといたらしあわせだとかいうことを言いたいんじゃない。


それは誰でもいいわけじゃないし、そして最近気付いたことだけれど、私という人は基本的に「人間関係面倒くさい」と思っていて、だから人と関わらずに済むのならそれで済ませたいとか、自分から働きかけなければ面倒なことに自分を巻き込まずに済むと思えば家でじっとして1人で好きなことをしている方が楽だと本気で思っている。


そんな中、唯一たとえ面倒と感じる場面があったり傷が生じそうな一番避けたいことがあったりしたとしても、それでも関係を築いてみたいと唯一思うのがイケメン上司で、だから誰かといるしあわせなんじゃなくてイケメン上司と関係ができていくことでしか手に入らないしあわせがあるならそれは自分でもそこに入っていきたいんだなと思った。


わかる、わかる、このイケメン上司の意向や意志を完全に無視した自分の勝手な言い分なのは。


だけど自分はそういう気持ちなんだということを今回改めて知った。


しあわせになっていい。


その言葉の先に考えたり思案したりせずにパッと思い浮かぶのはイケメン上司なんだということ。


現実が全く交わらなくて、全然接点もなくて、生きていても繋がれなくて、本当にその現実を見ていたら私の頭の中のおかしさは最高潮に達しているけれども、本当にパッと思い浮かぶのはイケメン上司でそれ以外に思い付いたり思い描いたりするものが何もない。


モヤモヤはしてないとは言わないけれど、それよりも本当に叶ってくれないかなと願っている。







2023/09/26


とりあえずここまでで一度アップしようと決めてる。


まだまだ書こうと思えば書けるけれども、そんなことやり出したらまたアップせずにズルズルいきそうだからアップしてしまう。


タイトルは「これ!」っていうのがなくて、しかも今回は色々書いているから余計と決め手となるタイトルがなくて、そうだ!と思い出したのが「9月が終わりそう」と思ったことそのままタイトルにしたらいいんじゃん!となって、多分この後本当に「9月が終わりそう」と書いてアップするんだと思う。


6年後の私は、イケメン上司の勤務最終日の前日の夜に、ブログのタイトルに心を悩ませる余裕が生まれたんだと知る。

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