週末、糸と戯れた。
↑これ先週末に書いた。(2/12)
今週末も糸と小さな布シールと戯れてる。(2/18〜19)
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20代の頃、職場の大先生的な方の家におじゃまさせてもらったら、その方が以前はプロとして東京の百貨店に作品を卸していたという手作りのパッチワークをされる方で、退職後いつかの時に故・蜷川幸雄さんの妻、写真家の蜷川実花さんの母である蜷川宏子さん主宰のパッチワーク教室?的なところの展示会で東京で作品を出品します、なんていうハガキももらった時があった。
大先生のお家は本当に素敵で、手作りのものたちがどれもこれも素敵すぎて、それでふと自分にもできるんじゃないかと思って、お宅に伺った後すぐくらいに家にある適当なハンカチや布を四角に切って縫い合わせてみたら普通にパッチワーク風なものができて、そこで「何かしら作れるかも!」となったのが布と戯れる最初だった。
本当にどハマりして、色々道具や布を買い込んだ。
途中で頓挫することが多くて片手で数えても最後までできたものは指が余るくらいにしかできなかったけれど、とっても楽しかった。
ドミニカにいた頃、現地で暮らす日本人ママと仲良くなって、その方が無類の裁縫好きで尚且つ私も暇があると布を見たりボタンを見たりしに行って楽しんで、2回目のデング熱になって退院した後しばらく自宅療養をしていて(真面目に少し動くだけでも肩で息をするレベルだからなんだかんだ1ヶ月くらい療養したと思う)、その時にとうとう限界に達した大学時代に友達とお揃いで買ったパジャマ用のズボンを捨てるに捨てられなくてそれでゴミ袋ストッカーみたいなのを作った。
それが超楽しくてドミニカでも針と糸を持って、なんならこれを職業にしたらどうかと真剣に考えてドミニカから日本にいる手芸作家さんのアシスタント募集をされてる方やらそれで独立されてる別の方に連絡を取ったりしたくらいに大ハマりした。
ドミニカ時代に作ったものは今も手元に置いている。
で、その後からはずっと手芸熱は冷めて、引きこもりして時間があっても手芸には目もくれず、そのうちに占星術やオラクルカード、タロットカードにハマってもう手芸は一生しないものだと思っていた。
ところがここに来てまた突然に手芸熱が上がって、そうだ、思い出した、タロットカードをするのにカードを敷くための布製のマットが欲しくて、普通に市販もされているけれど、占い雑誌に自分でタロットカードのマットを作るとさらにカードの力というか自分のカードを読み解く力とかいうのがアップするとかなんとか読んですぐにその気になって(笑)、それでまた布とかとご縁を再会する運びになったんだった。
その関係で今度は布とかを見るようになって、ただ20代の頃に好きだった柄にはもうそんなに惹かれなくて、今の趣味で好きなのを選んだりする関係で時々手芸屋をのぞいたりするけれどいまいち好みのものを見つけられず、そのうちにネットで買う、それもかの有名な楽天マラソンと呼ばれる楽天のポイントアップのセールの時に買うことが増えて、貯まったポイントはまた何かまとめての買物に繋がって、そんなこんなをしているうちに今度はメルカリに目をつけてそこで「リバティ」と呼ばれるイギリス発祥の布に突然魅せられて、今どハマりして本やら小さな布やらを買い始めてる。
リバティは20代の頃から知ってはいたけれど、いかんせんお値段が高額で(10センチあたり360円台が今の相場で、今回初めて知ったけれど、リバティはそもそも値段を勝手に下げたりとかできない仕組みになっていて、正規取扱店はどこも同じ統一価格で出している)そこで興味すら湧かなかったけれど、最近は小さな買物ならいけるとなったのと、そしてメルカリで個人で出品されてる方のものだとお得になっていたりして、そこからまたじわじわと布への熱が上がってきている。
21歳の時だったと思う。
私は1年だけ、全米対象の登録校同士なら基本的な条件をクリアしてさらには学校での面接にパスできたら違う大学に通えるとかいう交換留学的なプログラムに応募して、それで南部アラバマ州に行っていた。
単位はまた出身校側にそのまま持ち帰ることができて、さらにはアラバマの時は部内の奨学生制度みたいなのがあって、教授のリサーチアシスタントをして小銭を稼ぐこともできた。
それもかなり面白い体験をさせてもらえていたなと思う。
それはそうと、アラバマで唯一自分の興味関心(+楽ができると思って)で中国語を取ったけれど、これが想像と恐ろしく違って難しすぎて、前期はなんとか取ったけれど後期は取らずにいた。
で、そこで教科書が不要になって、先生に許可を得て後期のクラスの最初の時におじゃまして、教科書を売りたいと宣伝した。
普通に教科書類は高くて、中古で十分なのは私もアメリカ人や他の留学生も皆同じで、だからもし誰か買い取ってくれたらラッキーだなと思ってそれでクラスに行った。
そこで出会ったのがたしか2つ年下のリカだった。
リカとはそれを機にとても仲良くなって、日本に帰ってからも何回か再会したし、さらには私に視える友達を紹介してくれたのもリカで、まさかその時に会ったIくんが後に自分もそういう世界に入っていくようになる世界を見せてくれた人だなんて当時の自分は想像さえしていなかった。
で、リカがその当時教えてくれたことが私には今でもはっきりと残っている。
リカは年上の40過ぎている日本人女性の方、旦那さんに付き添ってきたのか学生だったのかはたまた現地で働く人だったのかはわからないけれど、その女性から「20代の若い時に趣味を1つでも2つでも何でもいいから持っておくといいわよ!それが年をとって何かを始めるのが億劫になる年齢の時でもまた若い頃の趣味が再燃してまたハマったりできるから」と言われたと教えてくれた。
だからうちも何か趣味を持とうと思ったしフミコも持つとええでとおしゃべりしたことは覚えている。
20歳そこそこの私からしたら40代とかそれ以降なんて全く想像もつかない年齢域だったけれど、いざその年齢域に達した今、たしかにまた手芸熱が再燃して「あ、なんかわかる気がする」と思っている。
基本的に興味を持ち出したらしばらくはフィーバーになりがちだから色々と興味関心があるのは私の場合年齢関係なく火がつくけれど、20代の頃の趣味が今また再燃するのはちょっと粋というか感慨深いものがある。
そして20代の頃に始めたことは新しく何かを習得するのを1から始めるよりもある程度ベースがあるから取っ掛かりやすいというのも何だかわかる。
始めるハードルが低いというか。
ちなみに個人的には何かを始めるのに年齢は基本的に関係ないと思っていて、80歳を超えてからYouTubeデビューしたおばあちゃんとか、そういう年齢になってから英会話で何かする必要があってとても綺麗な英語を話すマダムとかをテレビで見たことがあるから、やろうと思えば本人さえその気があればいけると基本的には考えている。
そんなことも思い出しながらの今の手芸熱、それがまさか新しいタイプの癒しを生み出すだなんて想像さえしていなかった。
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きっかけはメルカリで見つけたリバティの布シールだった。
リバティとハローキティがコラボして、キティ柄のリバティ布があるのはそれとなく知っていた。
だけど全く興味もわかずしばらくはスルーしていた。
そんな折にリバティの色んな布を使ってシールを手作りしている人たちがいると知って、そしてメルカリというのが「それ元とれてる⁇」と聞きたくなるくらいに安く出してくれている出品者さんが多くて、そこで私はとある方の作品を見つけることになった。
シールになっているリバティ布は、本当に1つ1つ表情が違っていて、私は見ているだけでとても楽しかった。
その中の1つにキティ柄のシールがあって、さらには小さな女の子のデザインみたいなのがあって、そこで初めてキティ柄に目を向けた。
すごく可愛いものだと知って、連日キティ柄のリバティ布をメルカリを中心に見ていた。
そうしたらその1つに自分の子どもの頃の感覚を思い出す布を写真越しにだけれど見つけた。
それは買ってないのだけれど、その布はいつか買ってカード類のマットなり何かそうしたものに使うのもいいなと思い始めた。
ただ、リバティ布はとにかく高いから、メルカリと言えどもすぐに手を出せるものでもなく、少し様子を見ること1週間ほど。
そうだと思って、今度はキティ柄の布、それはリバティに限らず単純にキティ柄の布をネットで探した。
そうこうしているうちに、自分が子どもの頃の感覚を思い出せる、そういう布のデザインに行き着いて、そちらのキティ柄はメルカリで個人の人から譲り受けた。
廃番のデザインらしく、普通にはもう出回っていなくて、それでメルカリで見つけた時にはものすごく嬉しかった。
今回、最近覚えた画像検索を超駆使して色々な布に行き着いているけれど、このキティ柄の布だけはちょっと別格の立ち位置にいる。
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心理関係のセラピーやワークショップなんかに出ると、よく「子どもの頃の楽しかった記憶を思い出してみましょう」なんてのがある。
大人の今忘れている子どもの感覚を思い起こして、今にそれを復活させて生きやすさや自分の中の純粋さを取り戻すみたいなことを意図してそういう風な手法を使っているのはよーく原理としてはわかっている。
でも私はその手の質問もセラピーもとても苦手で、基本的に何かを思い出すこともできなければ、子どもの頃にさかのぼればさかのぼるほど生きづらさの方が勝って楽しいこととかほぼほぼ思い出せなくて毎回息苦しさみたいなのや虚無感的なものを覚えて終わりだった。
だからあのセラピーに超懐疑的なのと、その頃の感覚を思い出してプラスに作用する人というのは基本的に子ども時代が充実していたり楽しいことがあれこれあった人たちなんだろうと思う。
私みたいにオール1みたいな色々できなさすぎて環境も人間関係も順応性がとてつもなく乏しく、さらには集団からある意味いつもはみ出してしまうから(周りのペースについていけなくて。わざとじゃなくて能力が無いとそういう悲しいことや困ることが盛りだくさんになる)、そこに輪をかけて場面緘黙みたいで人ともほとんどしゃべらず、なんなら保育園で母親と担任の先生とが躍起になって私に「はい」と返事をする練習なるものまでさせられたことも覚えているし、とにかく本当に子どもの時は人よりも色々できなくて大変だったことや努力や練習的なものをすごい量でやらされたこととか(それでも人並み以下にしかできない)、周りの人たちに馴染めず1人ぽつねんなんて年がら年中だったしで、とにかく「これ楽しかったー!」なんてのがほとんど記憶としてない。
そんな風なのに、「子どもの頃の楽しい記憶を思い出しましょう」的なセラピーは誰もそれに異を唱える人など見たことがなく、まぁ効く人たちにはものすごく効果があるのだろうと冷めた目で思っていた。
その辺りは今もそんなには変わらないけれど、キティ柄の布を手にしたことで私の中でずっと閉じていた色んなことが思い出され始めた。
まずは子どもの頃に買ってもらった人形の家みたいなもの。
今でもどんな風だったかはっきりと思い出せるくらいに覚えている。
それがいちごの形をした家で、今回買ったキティ柄の布はそれを思い出させてくれるものでもあって、それが気に入って買ったのもある。
さらに思い出したのが、保育園時代のお遊戯会でやったおむすびころりんの劇。
その時、私は最後何の役をしたのかはもう記憶がない。
けれども、当時配役を決めるにあたって、最後まで残った意地悪ばあさんの役に当たって大泣きして、それはなんとなく免れて、やさしいばあさん役か他のエキストラ的な役かどちらかになったと思う。
ちなみにその当時の感覚は、いつからかそれこそ10年20年単位で時々ふわっとよみがえる記憶で、何も今回思い出したのが初めてではないものだった。
どうしてそんなにも強く記憶に残っているのかよくわからないけれど、とにかくかなり鮮明に残っていてこれはなんだろう?と最近になって思うようにはなった。
そうしたら布や糸と戯れてるいるうちに色々と思い出してきた。
配役云々の前に、私はそもそも何をしたかったのだろう?と思った。
それはもう子どもの頃からのやり方というか自分なりに何かを守るためにやった方法には違いないと思うけれど、こんな風な思考回路なんだとはたと気付かされた。
そもそも私はまずは周りを見て、そして自分というのをそこに置いて見て、自分がやってもおかしくなさそうなことをまずは選んでいる。
やりたいとか興味があるとかじゃない。
周りを見ること、それは人の目を気にしているというのとも自分の中では違っていて、周りからからかわれたり揶揄されたりしないように、または場の空気を乱さないように、そういうことを一番にして、その後に自分にとって極力安全となる選択をする、そんな風になっている。
(これ書いてて思ったけれど、色々できないことがあって余裕なんかなかったはずなのに、こういう状況観察や人間観察なんかは子どもの頃からかなり自然にしていたんだなと思った(笑))
お姫様役なんてなかったけれども、仮にお姫様役があったとしても自分には合わないと決めて、そこはそもそも選択肢にさえ入らない、そういうことを瞬時にする。(わかりやすく「お姫様役」としたけれど、それはやりたいものじゃない。)
そして残った中でまだやれそうで周りからもやっかまれたりせずに行けそうなものを探す。
純粋にこれがしたいとかそういうのではなく、色んな計算が働いた後に何かを選ぶのが自分のこれまでのやり方だったんだと知って愕然とした。
だから好きとか気になるとか惹かれるという感覚がいまいちわからなくて、感じる前に自ら遮断するクセがあるから、だから自分の感情がなかなかわからずにいた。
キティの布を前にした時、そういうことは何にもしなくて良くて、純粋に好きだとかかわいいという感覚だけが出てきて、その素直に真っ直ぐ何かを出せることにとにかく感動した。
話がすごく飛ぶけれど、今の私の星回りは史上最強の星回りで嫌でも自分が変わらないといけない、そんな感じになっている。
アセンダント (ASC)に天王星が、MCに冥王星が乗っている。
アセンダントというのは、その人の自然体の状態や性質を表すとされていて、そこに改革の星の天王星が乗っている。
MCというのは、その人の社会的な頂点、社会的に目指すもので、そこに破壊と再生の星の冥王星が乗っている。
私のMCは「お茶の葉を読む女」というサビアンシンボルと呼ばれるものがついていて、名前の通り、お茶の葉占いをすることがそのテーマの象徴になっている(詳細は割愛)。
とにかく私的な自分も公の自分もガンガンと星からの影響が強く出て、殻を破って自分の自然体に還る他ないと言わんばかりの状態になっている。
占星術を知っている人なら絶句するような強烈な星回りを今の私は数年かけて体験している。
そしてここから先は何かを始めたのならそれが生涯育んでいくような何かになるとされている。
先が迷子みたいになって焦りもあるし怖さはいつの時もある。
何がどうなっているのか仕事は展示会とかの外向けのイベントもないのに多忙を極めている。
残業の時間が半端ないし色々考えたり振り返ったりする時間も元気もない、そんな日々が数週間単位で続いている。
そんな中で謎の手芸熱が再燃して、暇さえあればネット検索をしたり今後何を作るかの計画をしたり、楽しいからいいけれどこれ何のためにするんだろう?とかなり不思議というか何でするのかがよくわからずにずっといた。
そんな折に迎えたキティ布で、小さなハギレが私の小さな頃からの習慣、それは続けることでこれまでは自分を守れてきたものの実際には苦しいやり方、自分に無理を強いるやり方でもあったんだと今になって気付かせてもらって、もうそのやり方を自分にさせなくてもいいんだなともっと生きやすいやり方を自分が選んでもいいんだなと今ようやく思えるようになってきた。
心理的な癒しを求めて手芸熱が入って布と糸と戯れたり探したりしてるわけじゃなかったけれど、結果的にそのようになった。
手芸も生き方も何もかもどこに着地点があるのか全く手探り状態でかなり落ち着かないけれど、引き続き布や糸たちから癒しをもらおうと思っている٩(ˊᗜˋ*)و
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