2022年11月22日火曜日

心のもごもご

昨日(11/21)の夜、
やっぱり作りたい!となって作った
カードを置くための布製のマット。
真ん中の棒は「妖精のワンド(棒)」
と名付けられた手作りの品で(これは買った)
今回東京に持って行って
カードリーディングの時に指差しのように
使おうと思っている。

リバーシブルスタイルにした。
どちらの柄も気に入っている。
こちらの布は先月横浜某所にある
大きなショッピングセンター内の手芸屋さんで
買ってきた布。
今回はペンジュラム用のボードも持っていく。




色々ブログの記事が渋滞している。

今回は2つほど下書きを進めている。


1つは前回の東京での話、もう1つは長野に1人で日帰りで行ってきた話の続き。


そして明日(11/23)からまた東京に行く。


さらに下書きが渋滞しそうな予感( ̄∀ ̄;)


しばらく書くことが色々あるから、ちょっとここでリアルな現実の小話をしようかと思う。


(追記:『心のもごもご』は昨日11/22の仕事中に思い浮かんだ言葉。言いたいことがあるのにはっきり言えなくて、言葉がもごもごしている感じが「あ!ピッタリ!」と思って選定した。

全てひらがなにしようかと思って実際にひらがなにもしてみたけれど、なんか変だったからやめた。(こころのもごもご)

ちなみに仕事は、まだコロナ罹患後からあまり調子が出ないという最もらしい理由にして、超のんびりマイペースに仕事しているふりをしていた。←えっΣ(꒪◊꒪ )))) ?

なんならうっかり朝の4時に目覚めてしまって、日中は何度も白目を剥きそうになっていた( ̄∀ ̄;)。ちなみにコロナから完全復活しても、仕事への集中力は戻らないと思う。

@特急京王八王子行きの電車の中←東京に着いて、これからオカルト合宿(笑))







東京に3泊4日で行って、長野に1人で日帰りで行ってきて、しばらくするとコロナにかかってと、1年の中でもビッグイベントたちが幾つも重なって体も心も忙しかった。


東京から戻ってきたのが10月17日、長野に行ったのが10月30日、その間くらいの時だったと思う。


ちなみにその辺りは仕事もスーパー激務で何回か11時間12時間勤務になってしまったくらいめちゃくちゃ忙しかった。


余韻やら大きな変化やらによる心の中に去来するものと仕事の激務による日常の余裕の無さとで心の中は忙しいはずだった。


たしかに忙しかった。


けれど、気付いたら私の中にあるものは全く別の存在で、観念したりちょっと呆れたりこれこそブログに書きたいなと思ったり。


東京に出発した行きのバスの中や長野に向かう1人車内の中、過去の色んな場面やそこにいたその時々の自分を思い起こして、自分の気持ちに浸った。


それは今だけじゃない、子どもの頃の自分や学生時代の自分、社会人になってドミニカに行って名古屋に仕事で引っ越してと本当に色んな自分が出まくりだった。


東京での3泊4日は本当に色んなことがてんこ盛りで、今でも書きたいことがまだまだあるくらいに刺激的だった。


そんな中、ずっとずっと変わらずにいて変わらずに気になって仕方なかったのはイケメン上司だった。


何せ色々書くことがあって、ブログにもここ最近は登場していないし(そもそものブログの頻度も落ちてる)、私が東京だ長野だコロナだとなっている時も時間はいつも通り規則正しく過ぎ去っているわけで、それはすなわちイケメン上司がいた世界の時間からさらに時間が過ぎたことを意味するわけで、6年目に突入してしまった今、突然というか徐々にだけれどインパクトとしてはかなり突然のようにイケメン上司がいた世界が「すごい遠い過去」のような立ち位置に変わりつつあることを感じている。


ちょうど丸5年が過ぎて6年目に突入したあたりで東京3泊4日の旅が入ったことも大きい。


何か大きく変わったものが自分の中に出てきて、それはイケメン上司のことではなく、自分側のオカルト的なことや自分の好きなものに気付いたりして、そうした諸々が確実に何か自分の中の変化みたいな、変化というよりもさらに自分自身の輪郭がはっきりしてきたみたいな、そういう感じが強くなった。


それと5年と6年の境い目が重なったこともあって、なんだか突然ものすごく遠い過去みたいに感じる瞬間が最近現れてきた。


なんだけれど、いつの時もどこにいても誰といても何か違うことに忙しくても、やっぱりイケメン上司は私の世界の中心に静かにでもはっきりといて、変わらない存在感を放っている。


そちらは変わらない。


けれども、ブログに書かない時間が増えたのと単純に時間軸の上でのイケメン上司がいない方の時間が増えたのと、そして当然イケメン上司にはイケメン上司の日常があって私など物理的にはどこにもいない土俵外なわけで、私側は不在者なんだろうと思っている。


生きていても存在することができない、そういう位置に自分がいるように感じてならない。


イケメン上司側の世界を想像するとややこしくなるから一旦は脇に置こう。


私側の世界の話だけに集中しよう。


そうした不安とか、不安って言っても別にどうこうなる予定に対しての不安じゃなくて何にもならないことへのさらなるもどかしさへの不安とでも言えばいいんだろうか、とにかくそういう意味不明な不安や怖さは常にあるものの、それらも全部ひっくるめて自分の中にはどこを切り取っても絶対にいるのがイケメン上司で、私はこれは俗に言う執着とかなんだろうか?と思ったりもするけれども何か違うもののようにも感じている。


例えば直近で書いたブログの中に、イケメンエンジニアの硬派さんからコロナ明けの私に向かって私の声の変化をキャッチしてもらって気にかけてもらえて嬉しかったなどと書いたけれど、硬派さんとやりとりした時もそれを文字に起こしてブログに書いた時も思った、そういう現実はイケメン上司との間には起こらないんだなって。


私は自分の声が全然好きじゃないから(嫌いというのとも違ってとにかく好きじゃない)自分の声に注目など全くしていないけれども、硬派さんに気にかけてもらって小さな変化に気付いてもらった時、イケメン上司が今後私の声の変化に目の前で気付くとかその変化を言葉にして私に伝えてくれるとか、そんなおいしすぎる現実は起こらないんだなぁと思っていた。


わりと淡々とそんなことを思いながら、それ寂しいなと思わなかったと言えばそれは違うけれども、そんなこと起こるわけもないと思う自分の方が色濃くて、こうして色々あきらめて自分の中にそのあきらめを定着させてそれが日常と化すんだなと思った。


ちなみに声について言うと、多分この1年くらい特にだけれど、どんな美声やイケ声(イケメンならぬイケ声)でも私にはどれもピンとこない。


「この声じゃない」


いつの時もそれを感じる。


イケメン上司の声を聞くまで他人の声なんてあまり気にしたこともなくて、声に好き嫌いとか心にフィットするとかも考えたことがほぼほぼなかった。


けれど、イケメン上司の声を知ってから変わった。


イケメン上司の声の感じは悲しいくらいに記憶が薄れまくりで自分の脳内での再生は日に日に難しくなってしまっているけれども、声を聞いた時のフィット感や安心感は他に類を見なかったその感覚だけは今でも圧倒的に強く烈しく残っている。


そう、イケメン上司にまつわる記憶は、そういう残り方をしている。


細部はどうしても時間と共に薄れたりする。


けれども、細胞の1つ1つに色濃く刻まれたものはもう一生モノだろうと思っている。


だって、「この声じゃない」と思っている時の私の比較対象は、なぜか勝手にイケメン上司の声が自動設定されている。


あの感覚と同じことには絶対にならない。


イケメン上司の声を一生懸命に聞き取って、それで安心していたあの感覚はイケメン上司以外には感じたことがない。


そうならなくていつも「違う」と思ってしまう。


声の話が盛り上がり過ぎた。


続きを書こう。


東京での様々なことたちは、やさしい色彩を放っている。


やわらかくてやさしくて心の隙間に光を届けてくれる、そんな時間やエピソードが盛り盛りだった。


一方で、イケメン上司がいた最後の1ヶ月はギスギス、とげとげ、劇薬級に激烈、やさしいとかほっこりとかいうことの対極にあるものだったけれど、それさえもAll OKみたいな、その瞬間があったことが今となっては幻のようで、その幻のような時間を思い出した最近、そのことが自分の人生にあって良かったと本気で思った。


もう会えない会わないという現実を前にした時、どんな毛色のものでも「有る」に勝るものはない、常々そう思っている。


やさしくされたいけれども、イケメン上司に求めているものはやさしさじゃないんだと知る。


やさしさじゃなくて、存在してくれること、それこそが本当に欲しいものだというのはこの5年ずっとずっと思っていた。


会えない現実は、冷たくされる心配もないしそれで心がザワザワしたり折れたりする心配もない。


ある意味平和は平和なんだろうけれども、今でも冷たかろうがぞんざいに接されようが、もはや何でもいいから居てくれるのと居てくれないのとでは雲泥の差だと感じている。


東京はオールMENSだったこともあって、そしてついこの間の硬派さんと後輩くんとの飲み会もあって、何でこの人(男性)たちと同じような時間をイケメン上司とは持てなかったんだろうと思った。


同じ目的を持ってどこかに集まるとか飲み交わすとかそういうことで十分だったのに、どれも叶わなかったなと思った。


いきなりごはんとか手紙とかそういう感じが怖すぎて距離をこれ以上ないくらいに置きたかったのは仕方ないかとも思うし、そもそも私と仲良くなりたいなどという願望さえも沸き起こらなかったんだろうなとも思うし、なんだか色々仕方ない、そんな風に思いつつも、形は何でもいいから繋がれたら良かったのにというのもいつもながら思った。


話がいきなり変わるけれども、イケメン上司に押し付けた手紙の瞬間をつい昨日か一昨日くらいにとても鮮明に思い出してそしてあることに気付いた。


あれは、魂が意図した時間だったんだろうと。


霊視ができるヒーラーさんに初めて会った時、説明されたことがあった。


本当に必要なことが起こる時というのは、とにかく時間がギリギリで余裕がなくて、それは別の言い方をすると余裕がないくらいに他のことを考えたりしたりする時間を与えないことで本当に必要なことだけが寸分の狂いもなく起こるようになっている、そのことだけに集中できるようになっている。


そんなことを説明された。


あの日イケメン上司にはどんな風に職場の風景が映っていたのかは知らない。


けれど、私は当日の様子を事細かにノートに書いただけじゃなく、仮にノートに残さなかったとしてもあの日のことはとてもはっきりと覚えている。


あの日は2人の事務員さん以外は、朝フルキャスティングでみんないた。


玄関口から事務所に上がるまでに私はイケメン上司の後輩くんともう1人事務方の男性以外全員とバッティングした。


それはもう月曜日の朝としてはかなり珍しくて、こんなに人がいたらイケメン上司と私しか事務所にいない時間なんて絶対にないと思った。


事務所に入ってからも人が出たり入ったりでバタバタしている。


とりあえずセロハンテープで封筒の口を締めて(本当に外観は事務的で無機質な手紙だった)、一瞬でもイケメン上司だけになったらいいなと全く期待せずに思っていたら、セロハンテープを貼り終わる一瞬の頃、周りを見たら本当にイケメン上司以外誰もいなくて、私は「今だ!」と本能的な感じで感知して、セロハンテープの貼り具合とかもチェックできないまま、今封を閉じたばかりの手紙を持ってイケメン上司の席に一目散に向かって、そしてお願いしますとだけ一言言ってイケメン上司の机の角に置いたら、ちょうどWさんが自分の席に向かおうと私とかち合うような感じでいてギリギリセーフと思った。


時間にして5秒くらいの話だと思う。


秒針を10秒眺めてみて、そんなに長くはなかったなと思った。


そんな風に、超一瞬のことを思い出して、そしてあれは私にプレゼントされた時間だったのと同時に、どうしても必要があって起こるべくして起こったことだったんだなとしみじみと感じた。


最近読んだ吉本ばななさんのエッセイ『人生の旅をゆく 3』の中にあった言葉を1つ紹介したい。


「本や雑誌は呼吸していて、なにかを放っている。訴えたいことをその背中や顔にいっぱいたくして、読まれるべき人のところに行きたがっているのだ。

創った人たちのスピリットのようなものをたたえて本は独自の生命を持ち、だれかの中に入っていって生き続けたいと願っているように思えた。」


ばななさんは本や雑誌の話をしているけれども、私はこの文章を読んだ時に真っ先にその手紙のことが思い浮かんだ。


訴えたいことを背中や顔に貼り付けて、読んで欲しい人の元に行きたがっていて、そして行ったら最後その人の中で生き続けてくれるといい、そんなことを願いながら想いを託しながら私はあの手紙を運んだんだなと思った。


もうあんな風に誰かに手紙を書くことはないだろうし、届けることもないと思う。


いつかどこかにも書いたように思うけれど、あの手紙は今もイケメン上司は持ち続けてくれているように思う。


しかもけっこう大事にしてくれてるんじゃないかと。


もし本当にそうなら嬉しいし、それなら手紙も私の魂も救われる気持ちでいっぱいになる。


捨てられちゃうかもと思いながら書いた手紙だったし、届く方が奇跡で届かない可能性だけが存分にありすぎる手紙でもあった。


だけどもう手段がそんなにはない私にとってあれは全身全霊で無のものを有形化できる唯一の手段だった。


そして、今思うと、私は自分の何かをイケメン上司の方に残したかったんだと思う。


形を持った何かを少なくともイケメン上司が捨てない限りは残り続けてくれる、イケメン上司のそばで生き続けてくれる、そういったものを残したかった気持ちが私にはあったんじゃないかと何年も経った今頃になって初めてそんな風に考えた。


本当にどうしたことか、その手紙を渡した月曜の朝の光景が突然鮮明に出てきて、もうどうにもならなかった現実は仕方ないけれども、あの瞬間が自分の人生にあってくれたことに心から感謝したくなった。


手紙の行方もわからないしイケメン上司のリアル今などもっとわからないけれども、それでも5年前の9月のある月曜日の朝、そこだけ時間が止まったかのように数秒間だけイケメン上司と私しかいない時間と空間が生まれて、そこを逃さずに形としてこの世に自分の手で誕生させた手紙を渡せたことは本当の本当に良かった。


手紙は活躍することもなければ何か新しい繋がりを生んでくれるボンド的な役割も果たすことがなかったけれども、それでもあの瞬間がたしかに私の人生にあって、それと同時にイケメン上司の人生にもあることになった、そうした奇跡の瞬間があったこと、ただそれだけで自分が救われる。


何が書きたいのかよくわからないブログになってきたけれども、色々外側は忙しくてもいつの時もどこで何をしていても、ブログに何も書かない時も、全部ひっくるめてイケメン上司は特別枠で普通にいる。


本当に「特別枠」としか言いようがない。


半日後には東京に着いてまた色々と起こるだろうけれども、それはそれ、でもイケメン上司は変わらずに常に存在感を放ち続けるだろうと予想している。


このペースだと東京や長野の話をして今年はブログ納めになるかもわからないけれど(十二分にありうる)、言葉にしなくてもいるということ。


それだけは東京に行く前に言葉にしておきたいなと思った。


そして今日11/22朝の4時に目覚めてから2時間ほど、そして夜の22時過ぎに支度が終わってからのらりくらりと今まで書いて、そしてこうしてアップするに至っている。


とりあえず書きたいものを書けてわたし的には大満足٩(ˊˋ*)و

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