2022/08/17…お盆休み最後の日
埋まらない寂しさがある。
言葉にすると、そんな感じ。
誰かといたいとか、1人だと孤独だとか、そういうことじゃなくて、何か根本的に寂しい気持ちを感じまくって胸の辺りがキューと絞められるような息苦しさを覚えて、後悔はしてないけれどもどこかで生き方を間違えてここまできちゃったんじゃないかと思ったり。
人と人とがお互いにぶつかったり言いたいことを言ったりして、時には感情を剥き出しにしたり見せたくないような自分も出すつもりなんかなくても出てしまったり、そういうことの積み重ねの先には言葉では表せないようなすごい強力な関係が生まれたりする。
もちろんみんながみんなそうなるわけじゃないけれども、絶対的な信頼とか安心感とか、そういうものが生まれる可能性がある。
この先自分がどれくらい生きるのかはわからないけれども、平均寿命まで生きられたとして40年ある。
この埋まらないタイプの寂しさをこれからずっと抱えて生きていくのかと思うと、けっこうどころかかなり強烈だとわかる。
良くも悪くも日常のごちゃごちゃした用事を足していると、それは仕事をするとか家事をするとか寝るとか、そういうことの時には紛れてその寂しさは顔を出してこない。
多分このブログも書いているうちに感情は薄れてくると思う。
そういうものが無くなって、ある種の「無」の中に外側から何か新しい刺激が入ると、突然その寂しさの形が浮き上がってくる。
自分の努力ではどうにもならない寂しさがわかる。
普段は見過ごしているどころかあることにさえ気付いていない。
ところがちょっとした拍子に、その寂しさが浮上して、自分でも自分にビックリする。
*
2022/08/18…お盆休み明け仕事始め
上の文を書いてからちょうど24時間くらい経った気がする。
浦島太郎並みに大昔のことみたいに感じる。
なのにまだ丸1日しか経ってないとはビックリする。
1週間ぶりくらいに仕事に戻って、日常にも戻った。
昨日の早朝、真ん中の妹が東京に戻って、朝9時頃妹夫婦と姪っ子がそれぞれ帰っていった。
今回妹夫婦を見て、2人の絶対的な信頼と安心感を目の当たりにして(これまでも見ていて、多分彼らはかれこれ20年近い付き合い)、そして小学校1年生の姪っ子が寂しくなったり気持ちを上手く整理できないと「おかあさん」と妹のところにすり寄って行って自分が絶対に安心できるところを自ら求めて手にするその様子を見て、どうにもならない気持ちがムクムクと湧いた。
妹たちについて言えば、本当に密なコミュニケーションを長年取っていて、今なんか2人でパン屋さんをやっているからとにかく24時間365日一緒みたいな生活で、良くも悪くも常に一緒だから、一般的な夫婦よりも相当長い時間を共にしている。
姪っ子は待ちに待った待望の第一子で、だから本当に2人ともとてもかわいがっているし、親族一同初孫の初姪っ子だからみんなから愛されまくって、とにかく愛に飢えることのない、私が知る人の中でも1番愛されて育っている超特殊な愛情環境にあると思う。
妹たちの努力もずっと長いこと見ているから、本当に運が良いとは全く思わなくて、自分たちの日々のコツコツがこうして実を結んで今に至っているということはよくよくわかる。
だからそれに対してどうだとかいうようなものは一切ない。
けれども、それこそが私が本当に欲しい現実で、何をどう間違えたら私は今みたいな人生になっているんだろう?と大真面目に思ったし、どうやっても埋まらない寂しさを前にとにかくメンタルはダダ落ちだった。
昨日思ったことを思いつくままに書くと。
例えば姪っ子が妹にベタベタ甘えて自分の心のすきまをふさごうと、ゲームで思うような結果にならずテンションが落ちた姪っ子はそうやって自分の心を満たしていた。
自分の好きな人と一緒になって、好きな人の子どもを産んで、2人でその子どもを大切に育てて。
その色んなことがうらやましいとかいうことさえ通り過ぎて、私には自分が手にしたかった未来がなくて、もちろん何かしら他の人たちが手にしていないものを私だって手にしているんだろうけれど、どうやってももう手にできない色んなものへの気持ちの整理ができなくて、そんなのは整理する必要もないのかもしれないけれど、昨日の沼の底に沈んでいるような寂しさを自分が感じた時に私は本当に落ちに落ちた。
みんなで楽しい時間やくだらないけれど面白い時間、色んな時間を共有することはできる。
けれども、目には見えなくても強烈に感じる色んなものを、そしてそれらは私が本当に欲しくて欲しくて仕方ない、けれどももう手にすることはできない、そういうものがわかって、その気持ちの持って行き場がなくて、表面はニコニコできていても心の中では重たくてどうしていいのかよくわからないものがずっと横たわっていた。
妹たちが帰って1人の時間を持てた時に、そうした感覚はもう誰にも何にも遠慮することがないから、もっとくっきりはっきりと現れて、そして普段なら日常にかまけて、何なら妹たちがいる時もなんだかんだと家事はあるわけで姪っ子と遊んだり家事をしていたり妹たちとしゃべっていれば紛れるわけで、とにかく普段ならなりを潜めているものが全て剥き出しの状態で、まるで古傷と新しい傷とがさらに大きな傷となってあるみたいな、そのくらい心はか細くて痛くて泣きたいのかわめきたいのか逃げたいのか、なんだかよくわからない感情と感覚がドバドバと果てしなく出てきて、なのに何をしても読んでも見ても心は渇ききっていて、あの雨が降らなくて水が干からびて地面が割れるみたいなあんな感じで、とにかく本気で強烈だった。
心の傷を癒すためのセラピーなんかもけっこうな数を受けて、自分自らもやったりして、そういう感覚にはある程度慣れているし、それらと安全に付き合える感じや術も知っている。
でももうそんなレベルよりもさらに強烈な感覚に昨日はなっていて、自分でも自分をどうしたらいいのかわからないくらいに強烈過ぎた。
大人になってからしゃっくりを上げるほどに号泣の中でも号泣したことが何回かあるけれど、昨日は泣きはしなくてもなんなら涙の1つも出なかったけれども、心の強烈度合いはそうした号泣の時と同等、もしくは泣いていなくて変に冷静だった分さらに強烈な感じさえあった。
ふと職場で必要とされていることを頭がよぎった時、はっきりと「私が欲しいのはそういうことじゃない」と思った。
職場で必要とされているのは、私個人じゃない。
私ができることで会社に貢献できることを求められてそして必要とされている。
そんなのは私の場合、全くと言っていいほど心を満たされたり潤されたりしないし、欲してもいない。
私が最強だと思うのは、何でもない自分、なんならやらかしてる自分を必要とされたり受け止めてもらえたりすること。
姪っ子が妹に近寄って何かを欲するのは本能的なもので、妹の人格や性格は何一つ関係ない。
身内が言うのも変だけれど、妹はとても良い母親だと思う。
そして姪っ子をとてつもなく愛してるのがひしひしと伝わってくる。
だから姪っ子も安心しきって妹にベタベタと甘える。
心の不安定さを妹に埋めてもらおうと自ら主体的にそして本能的に動いている。
妹夫婦は赤の他人同士だけれど、本当に仲良し夫婦だし、ケンカする時もしょっちゅうであればお互いにお互いの不満をぶつけ合っているところも見ているけれども、そういうことも全部ひっくるめてお互いに絶対の信頼感と安心感を持っていることがわかる。
不仲だったり上手くいっていない夫婦の話もたくさん聞いたり実際に見たりもしているから、妹たちがかなり特殊な稀有なケースなんだと思うけれど、でも私が目指したいのはそれであって今どきの夫婦事情にありそうな夫婦じゃない。
お互いに言いたいことが言えないだとか、隠し事があるだとか、大事に思えないとか、なんなら他に気になったり好きな人はたまた付き合っている人がいるとか、そんなのは悲しいと思う。(悲しいと思うけれど、現実としてそういう夫婦やカップルはたくさんいる。)
イケメン上司のことも浮かんだけれど、こちらもさらに気持ちがただでさえマイナスなのにさらにもう1周グルリと回ってその先のもっと低いマイナスをぶった斬るみたいな、そんな気持ちに陥った。
もし残りの人生のどこかでイケメン上司から連絡が来るというすごい幸運なことが起こってくれたとして、だけどイケメン上司と私とがとても密なコミュニケーション、別にそれは言葉をたくさん重ねることに限らず、表情とか声の感じとか仕草とか、そういうノンバーバル(non-verbal…言葉以外 )コミュニケーションでも十分成り立つ、とにかくそうした色んな積み重ねを重ねて濃密な関係になる、そういう現実が生まれるかというとこちらはさらに絶望的な感じで、どこを紐解いても明るい未来や望む未来の形は想像できなかった。
そんなに誰かといたいなら婚活なりそういうことをすれば…と言われそうだけれど、私は自分の性格を見た時に、人間関係の根本的な努力ができないって知っている。
誰かを好きになる努力とか絶対に無理だし(勝手に好きになることはあっても、「好きになろう」というタイプの努力はできない)、相手のことを想えないのに一緒にいると私は相手のことを大切にするフリはしても基本的には大切にできないことが自分ではっきりとわかる。
ぶっちゃけ失っていい前提が無意識の深いところにあるから、そういう時の私は本当に最低だと思う。
自分がそうだから、相手のことを何とも本当は思っていないのに1人は嫌だから一緒にいるなんてしてしまったのなら、私はさらに変な悩みを自ら増やすことになる。
そんなの普通に面倒くさいから、だから私はそうまでして誰かといたいとは思っていない。
で、イケメン上司と私とは別の人間だしイケメン上司がどういう考えを持っているのか全然知らないけれども、少なくとも仮にイケメン上司と私とが一緒になるとなっても、私は自分がイケメン上司を夢中にさせられるような何かを持ってるとはちっとも思っていないし、私自身が何とも思ってない人を大切にできないのと一緒で、イケメン上司だって相手が大切でないなら大切にはできないと思う。
関係として、それが魂の繋がりが超強くてそれだけを切り取れば最強であっても、私に気持ちが向くのかどうかや私を大切にしたいと思うかどうかは、そういう魂繋がりの強度とは関係ない。
その辺はどこまでも人間的な感覚が優先されると思うし、そもそも私ってイケメン上司からして何なんだろう?と常々思っているから、そういう現実を思うと、私が欲している人間関係をイケメン上司と築くなんていうのは死後のあの世の世界でしか実現できなさそうと思っている。
そんな風に考えると、ますます自分の望む人生と現状及び未来の人生との乖離具合に、ひたすら絶望、やる前から諦めてるみたいな風だけれど、何か努力してどうこうできることではないこの現実に本当に打ちひしがれた。
オカルト的なことも思った。
このオカルト体質はいずれ使うことに自分で決めるだろうし、やらざるを得ないというのも大なり小なり思っている。
でも、魂はそれをしたくてこの人生を私という人間を選んできたかもわからないけれど、ぶっちゃけ私は全くと言っていいほど興味がない。
言うなれば消去法的なところもあるし、これまでの人生を棚卸しすると、人生の路線はそちら方面だし、たしかにこんなにも家庭やら夫婦やらという人間関係に憧れて仕方ないみたいなタイプの人間、しかも日常のくだらないことをこよなく愛するみたいな人間が、もし本当にそうした家庭生活を手にしたのなら、私は多分オカルト的なことは何もしないと思う。
話がだいぶ逸れるけれど、例えば今の会社で正社員のオファーが来ていて、そこに養う家族とか子ども、例えば旦那も何かしらの事情で働けないとなれば、私は何も迷うことなくその正社員のオファーをありがたく受け取った。
自分が大切だと、それも自分の命を差し出しても大切だと思える相手がいれば、私は自分の何かなどあっという間に順位が下がって、とりあえず目の前の誰かを守ることに全力を尽くす。
とにかく私は何にしても自分の今の人生、悪くないと普段は思っているし後悔もしていないけれども、それでも本当に手にしたかったたった1人の大切な誰かとその人と家族になることと、そんなことを諦める人生な今、どうやっても埋まらないものがある。
普段は気付かない。
あんな強烈な感覚を毎日100%の強さで感じ続けていたのなら、自分が倒れてしまう。
でも、本当に欲しかったものを目の前で見て感じた時に、その自分の中の「欲」みたいなものが渦巻いて、さらには普段は気付かないようにしているどうやっても埋まらない寂しさも自分で嫌というほどに出てきてしまってどうにもならなかった。
日常に戻ることも嫌だったし、こういうことをずっと抱えて生きていくだろう未来には絶望しか見出せなかったし、こんな根源的なものが満たされないまま表の別のもの、それが仕事だったりお金だったり娯楽だったり、そんな風に誤魔化して生きていくことにも自分は納得できなかった。
そんな強烈な感じを抱え続けること、こういうものは私からすると人間の三大欲求の食欲や睡眠欲、性欲なんかと同等で、無いことにすることの方が不自然だし無理があると思っている。
普段は隠せるし、っていうかその辺は上手くできていて、取り出そうと思っても取り出せないし、昨日ほどに強く感じることも意図的に感じさせるのは無理で、だから上手く日常は回せる。
上手く日常を回しながら何となく今日、明日、1年、何年先、…人生の終わりまで繋げることは不可能じゃないと思ってる。
でも、そうやって誤魔化し続けて生きていくのは考えただけでしんどいなと思う。
*
一度途中から上のところまで読み返して(すごい散文だった)、1つだけ補足したいことがあってそれは書いておきたい。
「たった1人の大切な誰か」
これは私は特定の誰かを指していない。
特定の誰かは指していないけれど、そういう誰かを人生で持ちたいという話。
イケメン上司はどうなのかと言うと、そうであって欲しい気持ちはたんまりとあっても、あまりの叶わなさ具合にそれも自分なりに折り合いを付ける必要があることの1つになっていて、明るい気持ちにはなれない。
ちょっと話が逸れるけれど、今回色々な考えや過去が去来していた時に、私が苦手なもの、それもとっても苦手なものも思い出した。
私がそれならまだ1人でいて孤独の方が良いと思えるくらいに耐えられない孤独がある。
それは誰かといて、身体的には2人でいるのに心がバラバラで、1人でいるよりも2人でいることの方が寂しい、そういう関係。
それは本気で耐えられない。
目の前に人がいるのに、まるで自分が存在していないみたいな、いるのかいないのかわからなくなるような、そういうのは耐えられない。
物理的には一緒にいるのに何にも繋がれていない、そういう感じは本当に私が最も苦手とする孤独になる。
私はイケメン上司を大切にすることはできても、イケメン上司が私を大切にするかはわからない。
そして、関係が今とは違う風になって確実に今よりも繋がりが強くなれたとして、そんな関係の中でもし私がいるのにいないみたいな接し方をされたのなら、私はそれこそ立ち直れない。
私は時間を作れないと断られたことよりも、私が仕事の用件を伝言しているのに無視みたいな感じだったり、最後の日に冷たい感じの目と声を目の当たりにしたことの方が苦しくて発狂しそうだった。
私にやさしくして欲しいなどと寝言は寝て言えみたいなことは言わないけれど、そんな風だったから自分が大切に扱われる想像ができないし、2人でいると最強だね!ではなくて2人でいる方がなんだか寂しいねしんどいねってなりそうだし、そういう悪い想像がムクムクと出てきてしまう。
だから、イケメン上司とそういう密な関係がもし未来にあるとするなら、私の方は良くてもイケメン上司はそうじゃないだろうなと思う。
だからそこに変な期待なんかをうっかりしてしまうと、さらに現実との乖離が激しくなるだけだから、そして激しくなった先には今回のような巨大な寂しさがあるだけだから、そこは自分の心を守るためにもイケメン上司とは同じ土俵では生きていけない人生設定なんだと自分で自分に日々言い聞かせている。
*
2022/08/19…金曜日の朝
私が絶望したのは、今だけじゃなく未来にも誰とも密な関係になれないだろう現実だった。
もちろん未来のことは誰にもわからないし、ある程度は自分で変えられることだってある。
でも私には誰かと密になっていく自分の姿をどうやっても想像できなかった。
私には、オカルト体質なものを使っていることの方が現実としてありそうだなと思う。
でも、何をどこでしていたとしても、私は自分が常に満たされないものを抱えて生きていくだろう先々の時間を本当に悲嘆している。
誰かと家族になるとか、ならなくても深く付き合う関係になるとか、そういうものがこの先ない人生は、私が欲したものとは全く違う。
英語でもオカルト的なものでも誰かから自分が必要とされる体験はするかもしれない。
けれど、それはどこかにも書いたように、役立つ何かを提供できるそのものが必要とされてるだけで、私が必要とされてるのとは違う。
誰からも必要とされないのはある意味解放されてて楽なことではあるけれども、それこそが私の欲するところなんだと、そしてそこは他の何かをしたところではたまた持ったところで埋めることなどできない部分になっている。
誰かといないとしあわせになれないなんて思っていない。
自分のことは自分で決められる自由も知っていれば、しあわせを感じられる状態や感覚も知っている。
無い中でもしあわせを感じる自分のことも知っている。
でもそういうことじゃない。
誰かがいてくれるおかげで感じられるしあわせや満たされる感じ、そういうものを私はこの先ずっとずっと「手に欲しいものが入らない自分」を抱え続けるんだなと想像するだけで、本気で絶望しか残らない。
もしイケメン上司に出逢わなかったのならもう少し違ったかもしれないし、今よりももう少し柔軟に考えたり受け止められたりしたかもしれない。
イケメン上司が私の人生に現れたことで、誰かに興味を持つ感覚を、そしてその人が本当にいてくれるだけでいいと自然に思えてしまう状態を私は知ってしまった。
それを知らなければ、私にはまだ誰かと出逢ってお互いに知り合っていく、そういう未来も想像できたかもしれない。
これは誰かに出逢えばいい、出逢えて一緒にいられたら解決するという類いのものじゃない。
私と同じ熱量でイケメン上司も私のことを見ていてくれるならまだ先も明るいけれども、そんなことは地球が爆発して無くなっても起こる気配さえ無い。
ましてや多くの人たちが言う、死ぬ間際になってしてこなかったことへの後悔が自分の中から溢れてくるとするなら、イケメン上司にとっての後悔の中に私と過ごさなかったことなんて出るわけもなく、自分はそういう立ち位置になれないというのはわかっている。(言い切っているけれど、そうじゃないのなら是非とも否定されたい。)
それに関しては別に絶望感はなくて、残念だなと思うけれども、そんなのは宝くじを当てるよりもさらに難しいことだと思っているから、その辺りは妙に物分かりの良い自分がいる。
イケメン上司のことについて言えば、望みたいのは山々でも、それは叶わないことだという現実は自分なりに理解して受け止めているから、もう仕方ないと思っている。
一度知ってしまった感覚と自分が他の誰かを一番に据える、それもそうしようとしてそうしているのではなく、なんだか勝手にそんな風になっているわけで、そういうことを知ってしまった以上、それと同じものを求めるのは違うし、そんなことを自分の中の1番になんかしてしまうと最早他の何かや誰かでは到底埋めることなどできない。
自分がこんな年になるまで全く気付かなかったけれども、イケメン上司がこれまで出逢った他の人たちとは全く違うところが1つはっきりとある。
私が自ら相手を「知りたい」という気持ちが湧くかどうかということ。
よくよく考えたら、私は誰かのことを「知りたい」、それも考えや価値観とかいうようなことだけじゃなく、そんなことよりも日々何を見ているとか食べているとかどんなくだらないことを考えているとか心のぼやきとかふとしてしまう仕草とか癖とか、これ以上言葉にすると怖さを与えてしまうかもだから止めるけれど、そういうことをとにかく知りたいってなったのはイケメン上司が初めてだった。
子どもの頃がどんな風だったとか、どんなことにハマっていたとか、どんなことが許せないとか、そういう個人の生きてきた歴史や世界観なんかも超興味津々だし、それはどんな答えでもいいし、何だっていい。
そういう色んなことが自分で何もしていなくても次から次へと出てきて、だからそんな状態を知ってしまった以上、例えばこれから先また誰かに出逢えて一緒にいられることになれたとしても、自分が今みたいな熱量や感覚を相手に持つことは相当難しいだろうと思うし、そして相手の人が私にそんな風に興味を持つなんてそれはさらに難しいと思う。
そういう変な高望みをしなければ誰かといる現実も未来にはあるかもしれない。
でも今の自分を見ていると、寂しいからという理由で興味を持てない人と一緒にいることは想像できないし、そんなの相手に失礼すぎるわけでそれをもししたら自分で自分のことが許せなくなりそうだし、単純に難しいなと思う。
こういう様々な特殊な感覚が魂繋がりなんだろうなと思っているし、そんなにも強固な魂繋がりを他の人たちに求めること自体無理がある。
魂的な繋がりが欲しいのじゃない。
この究極な感覚、他に類を見ない感覚を相手に持つことが不可能に近いと思う。
それぞれの人に感じるものを大切にすれば良いという風にも捉えることは可能でも、実際の心の感じ方はイケメン上司相手の時はあまりにも独特で、でもその感覚こそ私はとても崇高で至高だと感じている。
生きているただそれだけでしあわせだとか喜びだとかいう感覚を誰でも彼でも相手に持てるものじゃない。
一度でもこの感覚を知ってしまったのなら、自分がそんなのを求めるような人間の器になくても、そういうものを無意識に自然に欲している求めている自分がいる。
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すっごく当たり前のことだけれど、どうして私はこれまで疑わずにいられたのかなと思ったことが1つ。
イケメン上司はまだ独身なんだろうか?ということ。
仕事中、多分2年ぶりくらいに話した担当者がいて、そもそも苦手だし、関わらなくて良い人だったから、全然知らずにいたけれど、今日間近でプチ打ち合わせ的に上司と共に話した時に、その担当者はいつの間にか結婚していたことに気付いた(指輪をしていた)。
振り返ると、この3年近い時間の中で少なくとも同じフロアの中の3人が結婚した。
よくよく考えて、一部上場企業で安定していて基本賢いし性格もすごく良いまでいかなくても適度にいいねとなれば、普通に結婚しても何ら不思議じゃない。(言い方がひどいけれど、本当に今回の担当者は私個人として人としてどうなんだろう?と思うところがあって、もし私が彼の彼女や嫁の立場なら恥ずかしいやらくだらないやらで、内容も笑えないしもし他者に内容を話したら多くの人はドン引きするようなことだしそんな人を選んだ自分も嫌になりそうなレベル)
イケメン上司も実は結婚したかもしれない。
って初めて冷静に思ったりした。
ちなみに独身だと思い込んでいる理由もあって、イケメン上司がわりと夜の遅い時間や真夜中にブログをチェックする傾向があって、そんなのはフリーじゃないとそんなにも好き放題にブログを眺めるなんてできないかな…という単純な理由。
でも今どきは、夫婦寝室別とか別居婚も普通にある。
イケメン上司が結婚していると思う方が気持ちが楽になれるところもある。
イケメン上司は、企業も安定していて、背が高くスタイルも良く、イケメンで、性格も良ろしとなれば、少なくとも件(くだん)の担当者よりも普通に考えたらモテるだろうと思う。
理系全体における特徴なのか、言葉数が少なくて物静かなところは共通点であるものの、口を開くと担当者側はけっこう私だけじゃなく周りも本気でドン引きしたり女性陣から毎回かなりな不平不満と仕事のやり方のまずさで愚痴が噴出するタイプでも、彼を良いと思う女性もいて結婚したという事実。←本当に酷い言い方。
イケメン上司だって結婚していても何ら不思議でも疑問でもなく、とにかくその視点を持つのも大切だなと今回突然そのように思い始めた。
*
2022/08/21…日曜日の夜
数日に渡って書くと、どうしても最初のテンションのまま最後まで書き切ることが難しくなる。
しかも今回は私の中でものすごく暴走且つ勢いに任せてバンバン吐き出すみたいな回で、アップしようかどうしようか今も書きながら迷っている。
妹たちが帰った後はしばらくもぬけの殻みたくなっていたし、本当にどうにもならない寂しさとそれの元となる普段は深く考えないように蓋をしているものが一気に噴出した。
けれど、日常に戻れば戻るほど、とりあえず目の前の何かにかまけてしまうし、あの時のような寂しさは今も自分の中にきちんとあるとは思っているけれど、それでももうひょっこりとなりを潜めてあの時みたいな激情は湧かない。
冷静になるとなんだか恥ずかしくなったり言い過ぎなところもあったり、一部はイケメン上司に向けてるようなものでそれもどうかと思っているしで、アップするしないをここ2日、3日考えていた。
アップされたのなら、腹を括ったということ。
アップしてもいいと思ったというのではなく(アップするイコールそういう気持ちがなきゃできないでしょ?と思うけれども、それは今回に限っては違う)、何かしら腹を括れてどちらかと言えば「アップしてしまえ」みたいな勢いでアップするんだと思う。
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