自分で頭の中で反芻してみて、あまりにも差があったから可笑しくなったことの超絶くだらない話など。
「顔に塗る油」
「スキンケア用のオーガニックオイル」
どちらも同じものを指していて、なんなら私の頭に最初に浮かんだのは「顔に塗る油」だったけれど、それをカッコよく言うと「スキンケア用」だし「オーガニックオイル」になる。
おんなじものなのにこんなにも印象が違うとわかってハッとした。
言い方はダサめだけれど、「顔に塗る油」といつでもどこでも誰の前でも堂々と言える自分の方が自分が生きやすいなと思った。
いや、ボーッとしている時に思い浮かんだのが「顔に塗る油」だったわけだから、堂々も何も素で普通にそう言ってしまう自分しか思い浮かばない…( ̄∀ ̄;)。
気をつけるとか努力しないと「スキンケア用のオーガニックオイル」なんてスラスラととっさの時に言えないだろうなと思う。
これは通算6軒目のドラッグストアでようやく普段使っているオイルを見つけた時に浮かんだこと。(超絶くだらない)
普段買っている家から徒歩3分なところの店になくて、それでうっかりここ数日で6軒目まで行く羽目になった。
そのドラッグストアでレジに並んでいて「やっと私の番!」という時に店員さんが来て「こちらにどうぞ」と入口から遠くなるレジに案内されて、真面目に断ろうかと思ったけれど(この間、動く方が面倒で断っている人をどこかの店で見つけて、私も今度そうしてもいいんだなと思った)、おじさん責任者的な人が特売トイレットペーパーを持って行ってしまったから渋々私も動いた。
入口から遠いレジに着いておじさんの方に向いたら、まさかのイケメン上司と同じ苗字の人で、もうこれは動くことが正解だったんだなと思った。
全く関係ない話みたいだけれど、少なくとも顔に塗る油の話は超どうでもいいけれど、このイケメン上司と同じ苗字のおじさんというのはその前と連なっての話になる。
*
チッチッチッチッチ…
時計の針をドラッグストアおじさんの苗字を知る1時間ほど前に戻す。
今日は残業がなくて、給料日で、お金をおろすことも含めて残業ではない今日に諸々して、帰りにスーパーやら何やらに色々立ち寄ることに決めた。
残業が続くとお金すらおろしに行けなくなるし、なんなら郵便局窓口にも行けない。
金沢にいる父・母にコロナワクチン4回目接種の案内を送るために郵便局に行く必要があって、今日を逃すと次いつ行けるか怪しいと思ってチャイムが鳴ると同時に席を立って日常の諸々の用事を足すことを始めた。
日用品関係も色々底をついていて、そうした諸々を足すなら道の駅+ドラッグストア+複合型ショッピングセンターだなと思った。
トイレットペーパーとか仏壇に供える果物とかとにかく色々用事を足すならあの店とあの店とあの店、そうだ、価格高騰中の玉ねぎも欲しいから安く出してるかもしれない道の駅に行こうと思った。
唐辛子も切らしていたことを思い出して、道の駅に売っている農家の人か農家組合的なところが作っていそうな本格的な粉末の唐辛子も買おうと思った。
買うだけ買って、その後もまだまだ長いからトイレに寄ろうと思って、荷物を一旦車に置いてきてそれからトイレに行った。
そこのトイレは日本一きれいなトイレだったか何か配慮されたトイレだったかで表彰されたところで、いつ行っても本当にきれいでいい。
トイレから戻って車に戻った時、通路挟んですぐ向かい側に記憶にある、とある大きな車が止まっていた。
さっきまではなかったかと思う。
男の人が2人乗っていて、反射の具合で中までよく見えなかったけれど、既視感みたいなのを覚えた。
2人ともが出てきた。
助手席側の人はワイシャツにスーツのズボンみたいな、大柄な人だった。
運転席側から出てきた人を見て、一瞬茫然とした。
相手が見えてないだろうことをいいことに私は凝視した。
あの制服でそして背の高さからしてイケメン上司の後輩くんだった。
制服はもしかしたら微妙にマイナーチェンジをしたかもしれない。
後ろ姿を見た時に、あんなところにロゴなんて入っていたっけ?と思ったから、よくはわからなかった。
でも、色や全体のデザインはそれだったし、正面のロゴは前と同じだった。
車も私がいた頃に同じ車種で買い替えるとかいう話が出ていたから、年式が変わって多少の変化はあるのかもしれないけれど、当時の社用車と同じ車・同じ色だと思う。
あと数十秒違っていたらバッタリ駐車場で会っていただろうと思うと、本当にすごいタッチの差だなと思った。
今なら普通に呼びかけられるし話しかけられるから、本当にすれ違ったのなら声をかけたと思う。
っていうか事務所まだあるの!?と思いながら、私は何か幻でも見てるんじゃないかと思った。
そもそも道の駅なんか寄ること自体ありなのかもわからなくて、今冷静になると例えば東京から上司が来たとかなれば特産品もある道の駅に寄らないこともないかな?と相当ひねって想像すれば無くもないのかもしれない。
っていうか、そもそも残業残業残業のオンパレードで買出し含めた用事を足せるのが次いつかわからないし(私の残業は基本的に突発的に決まるから今の激務期だと全く予定が見通せない)、土曜日は車の1年点検で台車が来るものの自分の車がないから買出しに行く気にならないし、なら今日行こう、それも隣りの市まで足を伸ばそうと決めて、それで出かけた。
今日行った道の駅はそもそもどんなに足繁く通っても月に一度行けばいい方で、年に片手で数えるほどしか行かない。
とかいう私と、そもそも仕事中に道の駅に寄るなんていうのは後輩くんの普段の業務にはないわけで、しかも不自然さを私は覚えたくらいに多分本当にかなりありえない確率で後輩くんはそこにいて、本気でありえない確率で私が後輩くんを見つけるということが起こっていた。
私は超半信半疑で、当時の職場で今でも唯一連絡が取れるSさんに事の顛末を伝えた上でまだ事務所があるのかどうかを聞いた。
そうしたらまだ延びていて後輩くんがいることを知った。
だからあれは幻でも何でもなくて、本当の本当に後輩くん本人だったことがわかった。
*
その後、冒頭の顔に塗る油のドラッグストアでイケメン上司と同じ苗字のおじさんにレジをしてもらったわけだけど、そのあたりで色んなことを考えた。
もし今日本当に後輩くんに会っていたのなら5年ぶりになる。
「5年」と聞いて、なつかしい気持ちと本当の本当に時間が経ったんだなと思った。
5年って本当にすごいし、ものすごく長い年月だと思った。
後輩くんは当時32歳とかそのくらいだといつか言っていた気がするから、今は当時のイケメン上司くらいの年齢になったということ。
本気で時間がうんと経ったと感じたのと、私がしていた仕事がうんと昔のことみたいに思えた。
視点を後輩くんからイケメン上司に移した。
時間の経過は同じなのにも関わらず、「なつかしい」とか後輩くんの時に感じた「5年も経つんだ」ということが全く当てはまらないことに気付いた。
イケメン上司のことで「なつかしい」とはこの5年の中で一度も感じたことがなければ、後輩くんを見て感じた「5年」という時間の重みも感じたことがない。
確実に5年は過ぎたし、同じ分量の時間が対後輩くんにも対イケメン上司にも流れた。
でも後輩くんみたいにはならない。
後輩くんの場合は、2017年から2022年にいきなりワープしているけれど、だからなつかしくもなれば5年分の重みがある。
イケメン上司の場合は、言葉にしたらたしかに同じ風にワープしているけれど、2017年から今に至るまで年単位どころか日常の日単位でずっと心の中がどうだのオカルト体質がイケメン上司の何かとリンクしてるだの、そんなことを体験してさらには言葉(ブログ)に綴り続けて…、とそんなことをしていたから「なつかしさ」は皆無で、とにかく日常と共にあって今に至っているから久しぶりでもなければなつかしくもなく、ずっとイケメン上司の存在を感じたまま2017年から2022年まで時間を重ねての今になる。
会ってないのは後輩くんもイケメン上司も同じだし、今回みたいに超バッタリ見かけるとか会うなんてことは後輩くんはあってもイケメン上司はそもそも新潟にいないから起こることさえもない。
だけど5年のギャップは、イケメン上司のことに関しては起こらない。
そんなの想像するだけでゾッとするけれど、仮に同じ状態を次の5年も継続したとして、そうすると次は10年後とかいう話になるけれど、さすがに時間は重みが相当増しそうではあるけれど(重みと言うよりも心の負荷になりかねない…)同じようになつかしくはなれなさそう。
虚構と現実の区別がつかなくなったり(꒪ꇴ꒪〣)、何してたんだろう?と思ったり( ̄∀ ̄;)、まぁ自分から自分へのあたりはキツくなるかもわからないけれど、なんだか10年後とかいう時も色々怪しい。
別に今だって、「イケメン上司のことを考えよう」と計画してそのようになったわけじゃなく、最初の頃は気のせいだと自分に言い聞かせたり何かの間違いじゃないかと思ったりしていたけれど、途中からはイケメン上司の存在があることがデフォルトなんだと受け入れて(あきらめて( ̄∀ ̄;))今に至っている。
私のこの5年という時間の中にイケメン上司の片鱗がどこにもなかった瞬間は一瞬もなかった。
寝ても覚めても、健やかなる時も病める時もじゃないけれど、いつの時も常にある存在で、だから多少の変化は何かしらあっても基本的なところは何ら変わりないから、久しぶりでもなつかしいでもそういう気持ちが一切湧かない。
言葉の使い方が間違っているのは重々承知で言うと、「ずっといた」。
イケメン上司は私の中にずっと存在していたから、だから5年分のワープもなければ、なつかしさも覚えるような土壌がなかった。
私がこの5年、気付いたら重なっていたのは、イケメン上司の存在がずっとある感覚掛けることの5年分になる。
努力して重ねたのではなく、淡々と日常の中に溶け込んでいて、結果としてそのイケメン上司の存在が自分の中にある、その自然な流れが5年分積み重なった。
*
後輩くんとすれ違ったのなら声をかけただろうというくだりを書いていた時に、もしイケメン上司が今も新潟にいたとしてすれ違ったのなら…という想像もしてみた。
相手がイケメン上司だと私は声をかけたくてもかけなかったんじゃないかと思った。
友人ノムに言われてそうかも…と気付いたけれど、私というのはとにかく空気を読みまくる。
それは相手に配慮しようとかいう感じで読んでるわけじゃなくて、自然の状態でとにかく自分が目にするもの感じるものの情報をそのままキャッチしてしまうから、それでいわゆる「空気を読む」みたいなことをしてしまう。
いつだったか、例えば飲食店に行ったら…の話をノムがして大笑いしたことがあるけれど、それはノムも体質的に近しいからとてもよくわかるけれども、例えば入って店員さんが来て案内してくれてる時からその店員さんの心の余裕度みたいなのが伝わってきてしまうし、自分の席の周りに人がいればその人たちの声や態度なんかで楽しいのか怒っているのかというような情報ももれなく入ってくるし、要は言葉にならない空気感を瞬時に嗅ぎとってしまうから、全く関係ない人たちの情報まで欲しくないし要らないけれども自動的に来てしまう。
ちなみにそんなのはみんながみんなそうなるわけじゃないと何年か前に私は初めて知って心底驚いた。
私は子どもの頃からというかそれが常に当たり前の状態だから、とにかく空気を読まなくてもわかってしまうようなところがある。
で、もしイケメン上司とすれ違ったのなら、気まずそうにしているかまたは気付かないフリをしているかのイケメン上司を見たのなら、私は声をかける勇気もメンタルも持ち合わせていない。
「無視されてる」とわかった瞬間に自分も縮こまるだろうし、「迷惑になってるかも」と得意のネガティブモードになって、とてもじゃないけれど声をかけるなんて選択肢としてさえ思い浮かばない気がする。
仕事の用件でさえも私が伝えるというだけで耐えられなかったイケメン上司が、職場以外のどこかで私にバッタリと会ったのならもっと耐えられないだろうし、仮に気付いても気付かないフリをされるのが関の山だと思う。
物理的距離は単なる物理的距離なだけではなく、心理的距離に比例してるんだなと思った。
むしろ物理的に距離があれば会えないのが当たり前だから気にならないけれど、反対に物理的な距離は近いのに会わない、仮にすれ違っても声をかけられないことの方が私としてははうんと堪えるし受け入れにくいんじゃないかと思う。
距離のせいにできなくなるし、ばったり会えたとしてもそれこそ気まずそうにしているイケメン上司の様子が伝わってくるとするなら、私の方はやるせなくなって静かにする他ないと思う。
もう一度会えたらいいなとこれまでは思っていたけれど、後輩くんをたまたま見かけたことでこうした想像にまで及んで、冷や水を背中から浴びたように急に「この会えない方が都合が良いことの方が多いのかもしれない」と思った。
*
協力隊の時の友達と来月7月と10月の秋に東京近郊に集まろうという話が出ている。
1年前に亡くなったMちゃんに手を合わせるために集まろうと有志の何人かが声を上げて今そんな流れになっている。
私は7月はパスすると思うけれど、10月は日にちも決まっているから行こうかなと思っている。
4ヶ月後の10月15日という話が出ていて、その日にちを見据えた時にため息というか寂しい大きな影が自分の中に広がった。
今回のメンバーに会うのはイケメン上司がいた時の年に会ったのが最後だから、同じく5年越しの再会になる。
こちらも今も繋がってる友達は年に1回2回は何だかんだとやりとりがあるから、久しぶりでも久しぶり感がない。
気になるのは自分の体重と白髪増加に伴うことくらいなもので、会えばまたお互いに今の自分のままで色々話せるんだろうなと思う。
仮に4ヶ月と設定してみる。
4ヶ月あっても、5年越しに会えるのは友達たちの方でイケメン上司じゃない。
その4ヶ月でイケメン上司が私に連絡をくれて、イケメン上司がいる土地でも新潟でも真ん中?を取って東京でも(っていうか今どこに在住なのかもわからない)、どこかの地で会うような流れにはならないことを想像すると、やるせなさとやるせなさとやるせなさ、捌け口の無さとこの無謀過ぎる自分自身と、折り合いのつかないことたちはてんこ盛りでも自分の欲しい現実はどうやったって想像できなかった。
まるで「宝くじで1億円が当たったら」級の非現実的な想像にしかならなくて、さらに寂しい感じになった。
「もし自分のオカルト能力をこの後の人生で使わない場合の5年後、10年後、20年後は…」という想像を最近はよくしている。
何となく自分が後悔する感覚が湧いてくる。
でもその後悔みたいなものを感じとる時に、ちょっとだけ想像を広げる。
イケメン上司にとって私とこの先も会わない
10年後20年後って……ということ。
後悔する気持ちが少しでもあれば連絡が来たり会おうという話になったりするだろうけれど、そうはならないところがこれから先の5年10年20年と変わらないだろうことがスルリと出てくる。
私の中でもう会えないだろうと思うから、この先会えなくても後悔する気持ちはないけれど、私とは全く別の意味でイケメン上司側も後悔しなくて、これまでも後悔などムクムクと出てくることもなかったんだと思う。
もし後悔していたりそれに似た気持ちがあるのなら、今頃連絡のひとつでもやってきただろうと思う。
万が一イケメン上司が後悔していたとして、なのに連絡しないと仮定して考えても、後悔を上回って連絡したくなるほどの気持ちがないんだと思う。
相当強い気持ちでもない限り、私に連絡するなど頭痛の種でしかないだろうから、色んなわずらわしさや面倒さを振り切ってまで連絡する価値が私になければそりゃ連絡しないよね…と思う。
私の中でもう会えないだろうと思う、思うことにしている。
もう会えないと思いたいわけじゃない。
会えないだろうと思っている方が自分の心の負担が少なくて済む。
寂しいけれど、それが現実なんだと受け入れていこうという自分がいる。
*
前半の後輩くんとすれ違うシーンよりさらにさかのぼること30分ほど前、道の駅に向かう道すがら311ナンバーの車とすれ違った。
何かラッキーなことか珍しいことでもあるのかな…と思いながら311を眺めた。
その直後とは言わないけれど、時間差で後輩くんを見かけてこの全体の話になる。
もう戻れないし未来への希望も日に日に消えるように元気がなくなっていく。
ブログでこんなことばっかり書いていて、そのうち飽きたり呆れられたりするのも時間の問題じゃないかと思う。
イケメン上司との時間は、全然別の次元にいつの時もある。
時系列で言えば過去のものになるけれど、私の中で過去のものにはなっていない。
5年とはすごい長さのかたまりなのに、5年前と今とで何が変わったかというと、外側の仕事だとか普段の生活の中身だとかは何かしら変化しているけれども、内側の自分の心の風景は5年前とそうそう変わらない。
なんならオカルト体質さえも5年前と今とではかなり違うけれども、5年前はペンジュラムだけだったのが今はペンジュラム用のボードやタロットカード、占星術となかなかなラインナップが増えている。
でも心の中は全くと言っていいほど変わっていない。
引きこもっていた時も、仕事が忙しい時も、オカルト的なことをしている時でさえも、私の中にはイケメン上司の存在がいつの時も色濃くあって、色んな気持ちたちが詰まっている。
そこだけがこの5年の中で唯一変わらずにずっとあり続けたもの。
そういう存在であることはもしかするとこの先も変わらないかもしれないなと思う。
*
Sさんと連絡を取った時の返信にマスクの話が書かれていた。
今はマスク生活が当たり前で、でも5年前はマスクもなければ飲み会もあったしみたいな感じのことが書いてあった。
ふと気付いた。
イケメン上司と毎日のように職場で顔を合わせていた時というのはマスクなしで、とりあえずマスクなしの顔を見れたというのは今となってはとても貴重だったんだなとわかった。
もしあの頃マスク生活が日常にあったのなら、イケメン上司の顔は目のすぐ下あたりの鼻から上しか見れなかったことになる。
今となるとよくそんな瞬間見れたなと思うけれど、いつだったかヒゲが伸びているイケメン上司を見ることができたのもあれはマスクなしのおかげだったんだと気付く。
マスクしててもイケメン上司はイケメンだと思うけれど、あの時でなければ顔の全体像は見れなかった。
マスクしているとたしかに顔の表情全体が見えないけれども、たとえマスク越しでも目の表情はわかるし、あのイケメン上司の周りにあった透明のキラキラした空気もわかっただろうなと思う。
やさしそうな穏やかな目元もこの上なく冷たさを宿した目も私は両方ともよく覚えているし、イケメン上司の目ならマスク越しだろうが真剣に見て何かを感じ取れる気がする。
超関係ないけれど、この間メルカリでオーラを解説したオールカラー本が出品されていて、本の価格ドットコムみたいなサイト(『書籍横断検索システム』)で調べたらブックオフでうんと安く出ていると知って(ちなみにAmazonは30円台で出ていて(」°ロ°)」!!、でも送料を足せばブックオフの方が安いだろうと判断)、ブックオフで注文して受取り店舗に届いたとメールが半日前に入っていた。
メルカリの人が後ろの検索一覧みたいなページを載せていてそれがすっごく詳しくて色々あって良くて、その中にイケメン上司のあの透明のキラキラしたものも何かしら載っているかもと思って注文した(たしか、透明オーラみたいな項目もあったと思う)。
Amazonのレビューによると、その本を読むだけじゃオーラは見えないと数人の人たちが文句を言っていたことも私にとっては良かった。
視えるようになりたい人からすると役不足なんだろうけれど、私はオーラが視えるようになりたいとは思わないし、むしろ今あるオカルト体質からくる情報源だけで手一杯だからこれ以上オカルト的な力は増してもらいたくないし、実際に視えて色々苦労しているヒーラーさんの話も聞いていたからこそ、私には情報だけ与えてもらえるくらいで丁度いい。
ペンジュラムにも買う買わないを聞いて即YESが出たから、その本に透明キラキラの正体が書いてあると良いなと思う。
例えば10年後20年後もイケメン上司のことが今と同じくらい自分の中にあったとするなら、その頃に思い浮かべるトップスリーにはあの透明キラキラオーラが含まれるだろうと予想している。
あれこそ当時はイケメン上司がイケメンだから放っていると思い込んでいたけれど(それも別に解釈として間違えてはないと思う)、あれこそ私が自分の感覚だからこそキャッチできたことだったと今は思うし、感覚的にキャッチしたものは私の場合未来永劫永久保存が効くから、これから先も忘れる心配をしなくていい。
むしろここから先はさらに色濃く記憶として残ってくれると思うから、あの感触は自分の中にずっと取って置けるんだなと思うととても嬉しい。
話がだいぶそれてしまったけれど、マスクなしの顔を知れたのは超価値があったんだと今さら気付いた。
マスク無しでもガン見できなかったけれども、マスク有りならさらに顔を知ることなんかできなかった。
もうこの先イケメン上司に会えなくても、私の記憶の中だけでもいいからずっとその感じを自分の中に残せるなら、私はそれを愛でて大切にしようと思う。
*
途中からは6/18土曜日の朝から何回かに分けて書いている。
無性に「書きたい欲」に駆られている。
本当は今日はのんびりダラダラと過ごすつもりでいた。
実際にダラダラと過ごしていたけれども、テレビより昼寝よりこの文章を書きたい!って何度もなった。
よそ行きの顔は普段も今はあんまりしていないけれど、やっぱり仕事は社会の顔だし一歩外に出たら私なんかは普段ダラダラしているから少しだけモードを外向けのモードに切り替えないといけない。
で、家で1人でのんびりできて自由に何でも選べる中で、この文章を書くのは私にとって自分の癒しタイムみたいなところもあって、私からするとかなり楽しみな時間になる。
書くことでまた色んなことを思い出したり好きな感覚に浸れたりするのもいい。
色んなことを好き放題にブログに書いているけれど、イケメン上司以外のテーマで書く時は今みたいな高揚感は基本的に一切ない。
イケメン上司話題の時だけ別の空気が流れて癒しになる。
自分で言うのもなんだけど、iPhoneでブログを書くことを覚えて良かった(笑)。
iPhoneなら寝ながらでもダラダラと書けるし、時間さえ許せば即書き始められる。
パソコンだとカバンから出して線繋いで立ち上げて、なんならテーブルもセットして…、とやるまでに色々あるし、寝転んで書くなんて絶対にできない。
もしイケメン上司がいなかったらこの寝技的なブログの書き方も知らずにいたと思うし、ブログは数年単位で無期休止した可能性が高い。
そうなると、この癒しやらしあわせ感はこの5年全く知らずにいたことになる。
なんと恵まれた5年間だったんだろう。
書きたいとか伝えたいっていう衝動は自分じゃ引き起こせないから、そういうのも含めてイケメン上司は本人は何もしていない気でいるだろうけれど、私の方からすると何かしらスイッチを押してくれる存在になっている。
「やらなきゃいけないからやること」っていうのは、大人になると本当に日々際限なくたくさんある。
やりたくないけれどやらないと何かしら支障が出るからする。
でもそれはやりたいからしてるのとは全く違う。
でも、例えばこのブログは、書きたいから書くし、もっと言えばイケメン上司の命の確認ツールだからそのために書いているのもある。
そういう気持ちって欲しくて手に入るものじゃないし、お金では絶対に買えない。
私の頭の中お花畑みたいな発想も、ここまでくるとあっぱれになる(笑)。
何ヶ月か前に読んだ記事で、脳というのはしあわせを感じる源となるものが現実か回想なのかその区別がつかないらしい。
だから回想してそれが今の現実になくても、脳はある意味勘違いしたまましあわせを感じる回路が生まれてそれでしあわせを感じられるとのこと。
イケメン上司のことはまさにそれで、脳の作用も手伝ってしあわせ回路が即座に作られる。
思い通りではない現実はどうにもできないけれども、私にはこの謎の勘違いポジティブとそれによって作られるしあわせ回路とがあるから、ここに書いたことを総じるとなんだかんだ言ってもしあわせを感じる自分がいるということ。
そしてその発信元・電源元はイケメン上司にあるということ。
5年前も今もそれは変わらない。
冷たい空気が流れまくっていた時もイケメン上司が新潟を離れていなくなってから今に至るまでも、イケメン上司の存在そのものは私の中で何にも変わらなくて、その存在によって私は自分がどれだけ救われているかわからない。
バカボンのパパみたいに「これでいいのだ!」と言いたくなるくらいに、ある意味私はとても恵まれていて幸運の持ち主だと思う。
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