2021年8月7日土曜日

夏の空

2021/08/03の朝焼け


2021/08/06の夕日

2021/08/07の朝焼け



2021/08/03()

今日の残業中に思ったこと。


「連絡が取れたら超いいのに!!!」


最近、仕事も私生活も色々とやることがある。


仕事は相変わらず連日の残業、10時間就労当たり前なペース。もちろん、やりたくない。


私生活は「書くこと」や「家事」や「観戦(オリンピック)」に色々時間が割かれている。


ブログは今カレンダーを見たら、2週間ほどアップしていない。


それとなく気にはなっているけれども、まとまった書く時間が取れないまま、今に至っている。


「書く」という行為に限定すると、2年前の某手帳にメッセージを書いたように今年も誘ってもらって書いている。


仕事中も考えてみると、英訳というのは基本的に訳したものを「書く」。


ずっと長い間お世話になった人につい最近の週末連絡を取って、非礼を詫びると共にメールをまたあれこれ書き始めている。


そんな風にして、書いてないわけではないけれども、いや、ブログも最近のあれこれを途中まで下書きしたりもしたけれど、とにかく全部中途半端な上に最後まで書き切らないからアップもできず、そうこうしているうちに今くらい間が空いてしまった。


で、残業中に「連絡が取れたら、最近はこうだよー」とオンタイムに伝えられるのになと思った。


その1時間〜2時間後、家の台所で洗い物をしている時、「連絡取れたらいいけれど、もし本当に連絡をするとするなら、もはや家事もオリンピックも他の書くことや日常の用事も、なんなら仕事も手がつかないくらいに『何書こう』とか『何て書こう』とか思い悩まなきゃいけないから、書くことに慣れてる私でもそうなら相手なんかはさらに不慣れな感じがするから、そりゃ連絡なんか来るわけないか」と思った。


ブログは書かなかったけれども、ブログの訪問履歴なるものは毎日、1日の中で何回もチェックしていた。


ブログもままならないから、だからこそこういう時に連絡が取れてたのならお互いにいいんじゃないかとさえ思った。


思ったけれども、現実的なステップたちを考えたら、エベレスト登頂よりもさらに難易度が高いステップ目白押しすぎて、願うのは自由だけど「現実化を図る」となると心の不自由度が一気に増した。





2021/08/04()


・アイロンがけ3枚

・野菜の収穫

・花の水やり

・新聞紙まとめ(回収日)

・燃えるゴミまとめ

・オムライス弁当作り

・少量の洗い物


そこにプラスして、歯磨き洗顔、着替え、身支度、果物で朝ごはん、新聞受け取り、仏壇に水のお供えなんかを1時間でやりのける私って天才じゃないか!!!と朝から自画自賛した。


こういう慌ただしさに追われて、毎日過ぎていく。


本当は夏をもっと丁寧に振り返りたいと思っているのに、こうした日常をこなすのに精一杯になっている。





2021/08/05()


気温は毎日猛暑日的な暑さを打ち出しているのに、日が暮れる時間は早くなって秋が近いんだなと感じる。


当時の私は今くらいが一番絶好調だったと思う。


毎日楽しくて、毎日心がウキウキして、毎日生きてることや元気でいられることに感謝して、そんな風だった。


あと1ヶ月くらいすると地の底、真っ暗闇な暗黒の世界に落ちるくらいの状況になるわけだけど、そこに行くまではただただ純粋に目の前の日常にしあわせをたっぷりと感じていた。





2021/08/07()


ブログを書かない間、日常がバタバタワタワタとしていたおかげで、あまり余計なことを考えずに済んだ。


だけど時々ふとした瞬間に思いつくことは、ネガティブなことが多かった。


例えばこんな風。


「もしこのままずっとブログを書かないようになったら、今度こそ何も繋がりが無くなる」


「ブログはチェックしてくれても、こんなに(私が)沈黙を貫いても連絡が来ないわけだから、前も今も私は『何でもない人』なんだな


「街中でバッタリ会うことは今までもこれからもない、永遠に会えない人……


「私も日常に忙殺されて、このままブログを書かなくなって、いつかは全てが無くなって何事も無かったかのようになっていくのかな


自分で言うのもおかしいけれど、木曜日に1つ大きな仕事をやり終えて、自分がどれだけ気を張り詰めていたのかに初めて気付いた。


春、たしか3月くらいから抱えていた仕事で、なんだかんだと夏くらいに完成になったりして、とか笑って話していたことがあったけれど、本当にそうなった。


その後からいくつもの大型案件が重なって、超短納期且つ超重大事で、それらを一つ一つこなしながら、今回の別件の春先から抱えていた案件も常にやる時間が無さすぎて、本気で間に合うんだろうかとずっと引っかかっていた。


ずっと緊張感にさらされていて、ちなみに次もまた同様の大型案件を抱えてはいるけれども、とにかくここに来て初めて数ヶ月ぶりに気が抜けた瞬間がふとやってきた。


どんな日も気を抜けられるところがあるようで無くて、何があっても根底には締切と時間に対しての内容量の膨大さが意識の中にあって、とにかくすごい重圧感だった。


ということさえ気付かないくらいの状態にあった、と気付いたのが2日前の木曜日にようやく「終わり」と報告できた後のことだった。


(冗談抜きで「あれ?残ってるの、武士俣さんだけ?」と何人かに言われたくらい、そんなこと普段言ってこない男性社員含めて言われて、周りの正社員たちが残業してないのに私が残るというおかしなことになってる。)


とにかく普通ではない精神状態の中、どうにもならないイケメン上司のことがここそこと心の中に現れるわけだから、相変わらずな状態だった。


私から見たイケメン上司がそうであるように、イケメン上司から見た私もそうであったらいいのになぁなんて、まぁ希望や想像を持つのは自由だからね!、なんて思ったりもした。


年をとるのは怖くないけれども、何もない時間をこれからさらに重ねて、その先にはもう何も残らない、そのことはとても怖いと感じる。


先の心配なんかしたって仕方ないのは頭ではよくわかっている。


だけれども、何も繋がらない、そのうち記憶にすらのぼらない、何もかも「無」になることは本当に怖い。


ブログを例えばやめて、もうブログはアップしないんだなと思われて、そうなるともう何も今の私というのはどこにもなくて、そのうち「無いこと」が当たり前になって、その先には「無」の強化はあってももう何事も無かったかのように人生が流れていく、というのを私ではなくイケメン上司側の人生で起こることを想像した時に、それは私の中で今ある人生の地点で1番2番に怖いことなんだとわかった。


今だってどんな風なのかは正直わからない。


だけど、このブログを書かなかった間もイケメン上司がブログを見てくれていただろうことはブログの管理画面でわかって、それは私にとってとても嬉しいことだった。


と同時に、その仕事でのありえない重圧の中で、それを知れた時のふんわりとした気持ちはいつの時も格別だった。


苦しい時こそ、イケメン上司の存在もそうしたブログの足あと的なことも、癒しとなって私の中に運ばれてきた。


もちろん永遠なんてないけれども、そういうのがずっとずっと続いたらいいのにと思った。


家の日めくりカレンダーで今日が立秋と知った。


日に日に日が短くなっているのは残業していたおかげで気付いていた。


ちょうど昼と夜が切り替わるくらいにいつも外に出ていた。


それを見て私の脳裏を駆け巡るのは、イケメン上司がいた夏と秋の初めの風景だった。


当時もよく空を見ていたけれども、今特有の空の感じは当時の夏の感覚と重なる。


これが春とか冬はそうならない。


5回目の夏の今年、気付けば「夏」を感じて思い出す最初のシーンは、イケメン上司がいたものがスッと出てくる。


「夏」の代名詞的な思い出はいつの間にかイケメン上司のいた風景が定着している。


時々自分の今いる場所がわからなくなる。


日常は大きな変化もなく淡々としている。


けれども、夏の空や夏の暑さを前にしたり、はたまた何もしていなくても、時々ふっと自分の今いるところがわからなくなって、もう会えないと頭ではどんなにわかっていても、当時の日常が今この瞬間に立ち現れるんじゃないかと変な感覚になる時がある。


これからますます哀愁漂う時季に入って行くけれども、5回目の夏も自分がとことん満足するくらいに思いっきり当時の回想に浸ろう。

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