職場の前のわりかし大きな通りに出る手前の交差点で信号待ちをしていた時のこと。
月曜日、週初め、もちろんテンションはとっても低い、やる気なし子。
(ちなみに曜日関係なく、やる気なし子。)
目の前の車が
「3ー11」
だった。
あら!
誕生日ナンバー!
ものすごく珍しいなぁなんて思って、何せ止まっているからナンバープレートも隅々までよく見える。
「ふ 3-11」
そうか、「ふ」なんだね〜。
「ふ 3」で「ふ み」になるから、あとは「こ」があれば「ふみこ」になるのになぁ〜。
残念ながら「こ」に当たる番号なんてなくて、「こ」なら何の数字かなぁ?なんて思ったら、「ここのつ」で「9」がいいかなぁなんて思った。
ふみこー239
うん???
239……。
(」°ロ°)」!!(」°ロ°)」!!(」°ロ°)」!!
えっ!?え、えーーーっ!?
うそ!?まじめに!?
あれ?なんで?
何の話なのか他の人には全くわからない話だと思うけれど、私としては今この瞬間ひっくり返りそうなくらいビックリした。
色々共通点がある、という情報を頼りに、私は一時期名前を分解してみたり、アルファベットで書いて見てみたり、まぁとにかく色々と調べて、自分ととある人とに共通点がないかを必死で探した。
何もなくて、「ないから、特にご縁もないんだろう」と結論づけた、正しくはそんな結論嫌だったけれど、現実にそうなんだからそれを受け入れるしかないと思った当時の自分のことを思い出した。
当時唯一見つけられたのは、その人の最後の漢字一文字が、武士俣の家の父方祖母の嫁入り前の旧姓の苗字と同じ漢字が使われていることだった。
本当のことではあったけれど、こじつけ感が多少なりとも滲み出ていて、そこがちょっと無理してるみたいでさみしいなぁなんて思ったりもした。
もっとわかりやすい何かがあったらいいのに、とあるから何ということはなくても、そんな小さな希望すら叶わなくてガッカリだった。
「ないよ、ない」ということをどうやっても受け入れられなくて、ないにも関わらず悶々としていた。
時間の経過と共に、そういうことは気にならなくなった。
もしそういう共時性があったとしてもそれはそれだし、ないからと言って全てがないわけじゃなく、自分が信じたいように感じたいように思っていたらいいんだと開き直ったら、なんてことなくなった。
だから、本当に今日の朝の誕生日ナンバープレートを見るまで、全く気付かずにいた。
239もそのままじゃなくてひねりが要る。
でも、それでも、過去最高の共通点みたいなものだった。
しかも名前。
自分側は名前というのがまた嬉しかった。
ちょっと遅れてやってきたバレンタインみたいだった。
そんなことを勝手に言われて相手側からすると気持ち悪いかもしれないけれど、私側の満足度はとっても高い。
しかも、自分の名前とひねりの要る239は、どちらも自らは選べない。
私が自分の名前を決めたわけじゃないし、相手も239を自ら志願してその数字なわけじゃない。
お互いに自分の力の及ばないところに共通点がある、時空が重なる、そのことがとても特別に感じる。
かなり余談だけど、週末静かにひっかかることが出てきた。
催眠療法的なワークショップを受けた時のこと。(これも今下書きを書いていて、いつかアップする予定)
催眠療法みたいなプロセスで、それはおそらく前世療法などと呼ばれているものにも通じるところがあるかと思うけれど、そこで私は決定的なことを1つ知ることとなった。
断定はできないけれども、多分これまでの数々の催眠療法を使った個人セッションなんかを思い出してもそうだから、多分そう。
私という人は、催眠療法的なものを受けても、基本何も見えない人だということ。
YouTubeなんかを見ると、前世療法のシーンなんかもアップされているから見るとわかるけれど、通常は何かが見えたりする模様。
自分がいる場所とか服とか人とか、そういうのが見えるようで、そのようなことを受ける側の人はセラピストに向かって「〇〇が見えます」とか言ったりする。
私はそれがない。
じゃあ何があるかというと、体の感覚のみがある。
体の感覚一本で、その時の状況や感覚を自分で知っていく。
この辺りの話はマニアックすぎるから、今はこれくらいにして、でもそのことで「あぁ……」となったことがある。
私は本気で人生のどこかのタイミングで前世療法を受けたいと思っていたし、今もその望みを継続して持ってはいる。
何で受けたいかって、私は前世療法の中でもいいから、その239の人物に会ってみたかった。
間違いなく相当強固な縁が過去の人生にはあったと思う。
現世ではもう頭のねじが1000本くらい入れ替わらないと、また再会するとかまたどこかでバッタリ会えるとかはないだろうと思う。
現世にはそんなに期待できないから、せめて前世療法ではその人と私とが何なのか見てみたい、本気でそう思っていた。
しかも、前世療法というのは自分が見たいものが見れると聞いて、ますます私はそれを受けてみたくなった。
一生に一度と思えば、それにたくさんのお金(諭吉数枚分)を出すことも全くいとわないくらいに、自分の中のタイミングを見て受けよう…とこれはもうかれこれ2年くらいはそんな風に思っていた。
その中では私はその人を見れる、その人に会えるんじゃないかと思っていた。
で、聞いた話では「目を見たらわかる」ということらしい。
催眠誘導のようなことをしてもらって、その先には本人がとあるシーンに行って、そこに行くと自分自身も登場人物も今とは違っているらしいけれど、少なくとも目を見たらそれが今生では自分の家族だったり縁の強い人たちが登場するらしい。
とにかく、キーポイントは「目」だった。
でもそれはすなわち「見る」「見える」ことが必要で、私にはそれができない。
そうだ!、過去に1人で前世療法もどきのことをしたことがあって、その時のブログを少し読んでみた。
見えないわけじゃないというのはわかって少しホッとしたけれど、やっぱり断トツで私の場合は「体の感覚」で何かを認知する傾向が強い。
週末に受けたワークショップの時に、主催者の方から私のその体感覚の傾向を伝えられた時に、「それはとても独特なものだから大事にした方がいい」みたいなことも言ってもらえた。
たしかに、他の受講者の方たちが何が見えたとか見えたものによる状況説明をしていた中で、私だけは体が熱いだの裸足だの寝そべっているのはおそらく砂浜の上だの、とにかく体の感覚だけを頼りにその時の状況を判断していた。
もちろん、その感覚を大事にしようと思った。
でも同時に、見れないんだなぁ…、見たいなぁ……、見たい、見たい、見たい…となった。
言われてみれば、私は普段の夢の中でも誰が出てきても相手の表情や目はほとんど見えてない。
いつか姪っ子が夢に出てきた時、姪っ子の目をしっかりと見ている自分を見て、「今、すっごい目が合った」と思った。
そのシーンはもう忘れたけれど、その目が合ったということはすごく強く印象に残った。
印象に強く残ったのは、夢の中で誰かの目をじっと見るとか、目がガッツリ合うということが、私の場合は極端に少ないから、だからその姪っ子との瞬間が感覚として強く残った。
とかいうことなんかも思うと、前世療法でその人に会ってくるのは難しいかもしれないなぁ…と思った。
何をしたいとかもないし、前世療法を受けたからと言って何かが良くなるとかいう風にも思ってはいない。
もしくは受けたら現実も変わるなんて、1ミリも期待していない。
だから何?と聞かれたら本当に答えられない。
なんだけど、私はせめて前世療法などというイメージのような、見えない世界でその人に再会できるのなら再会したい、本当にそれだけだった。
今の日常の中でその人と私とが近くに住むとか、ごはん食べに行くとか、飲むとか、そんなのは一切ないし、個人の連絡先だって知らないから連絡の取りようもない。
現世的には何も繋がりはないし、今後もその人に何かしら地球が反対回りになるくらいの気持ちの変化とそれに伴う決断と行動力でも湧き上がらない限り、その人と私とが繋がることなんか絶対にないわけで、だからこそ私は自分が少しでも満足できるように前世療法などという何の根拠もないけれど、もしかしたら…というものに賭けていた。
その前世療法も自分の体質的な傾向を知って、あまり期待できないんだなぁ…なんてなってガックシきてた。
というタイミングでの「ふみこ239」発見だった。
そんな風にして、シンクロする2人の間にあるものに気付いた。
現実の2人は何ひとつシンクロしていなくても、この共通項は私をとっても喜ばせた。
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